懿子2

角田文衛『待賢門院璋子の生涯』を読んでいて思ったのだが、
白河天皇の最初の后も天皇より11歳も年上で、后が28歳、天皇が17歳。
立太子した年に結婚したそうだ。
これまたかなり無茶な結婚である。

『源氏物語』の桐壺など読むとわかるが、皇子は御曹司といって、元服するまでは母親と一緒に住む。
元服したら一家を構えて別居することになるが、
普通皇子には財産がなく家もないから、金持ちの貴族の娘と結婚して、その貴族に家や所領をもらうことになる。
光源氏の最初の妻もそうだったし、
白河天皇も妻の方が年上。
後白河法皇も同様だった可能性が高い。

待賢門院璋子の父は藤原公実で、璋子の腹違いの姉にあたる女子、公子(きみこ)が、藤原経実に嫁いで生んだ子が懿子である。だから、懿子は璋子の姪にあたる。

また、源有仁は白河天皇の甥にあたるが、
やはり公実の娘をめとり、子供ができなかったのか、懿子を養子にしている。
懿子が皇子時代の後白河天皇と結婚したとき、懿子は24歳。後白河天皇は13歳だった。
実のいとこどうし(祖父がいずれも公実)の結婚ということになる。
とすると、やはり、後白河天皇はしっかりした後見人(この場合は藤原経実)を持つために、
つまり主に財政的な理由で懿子と結婚した、と考えた方がよかろう。

孝明天皇御製

孝明天皇の号は「此花」と言うので、その私家集には「此花集」「此花新集」などという名前がついている。
平安神宮編『孝明天皇御製集』だが、その前半部分は若い頃に詠んだ詠草であり、それほどみるべきものはない。
36才で亡くなっており、しかも、元治とか慶応(1863-67)の最晩年の頃の歌は載ってない。
と、言うことは、あったかもしれないが、残ってない、誰にも知られてないということだろう。

面白いなと思える歌は一時期に集中している。つまり、黒船が来た安政元(1853)年から、長州の都落ち、薩会同盟が成立した頃(1863)だ。およそ、二十代前半から終わりまで。

「市」とか「蚊遣火」とか「遊女」とかそういう通俗的ないろんな題で詠んだものもある。これも一種の題詠で、明治天皇もやっているので、
おそらく当時一般的だった一種の習作のようなものなのだと思うが、それに割と面白いものが多い。
まあさすがに明治天皇は「遊女」の歌は詠まなかった(残されてないor公開されてない)。
明治天皇の場合恋歌もたしか公開されてない。
もともと存在しないはずはないと思うのだが。
ものすごく、見てみたい気はする。

歴史的仮名遣いはかなりでたらめで和歌特有の漢字の当て字も非常に多い。
明治天皇の時代にはきちんとした仮名遣いが確立しており、直してくれる学者も大勢いたから、仮名遣いの間違いは皆無だが、
孝明天皇の場合にはそれも期待できなかっただろう。
そもそも和歌の師たちもきちんとはわかってなかっただろう。
そのへんは差し引いて考えてあげないとかわいそうだ。
字余りも(特に初期の詠草には)多い。
当時ある程度字余りが許容されていたということだろうと思う。

> 茂るをば 憂しとも刈るな 夏の花 秋来る時ぞ 花も咲くものを

「ぞ」があるのに連体形が続かない。「花も咲くものを」は字余り。
上の句がなんとなく俳句的。上の句だけで俳句になってしまう。
夏草を刈るとか刈らないという歌は後醍醐天皇にもあり、明治天皇にもたしかあったと思うが、
面白いが、こういうのはあまりよろしくない。

> 暑き日の 影もとほさぬ 山陰の 岩井の水ぞ わきて涼しき

「かげもとほさぬやまかげ」というのがなんとなくくどい気がする。これも、悪くはないが。

七夕草花

> おのづから 手向け顔にも 咲きいづる 花の八千草 星の逢瀬に

これは、少し面白い。

女郎花

> 靡くとも ひとかたならぬ 女郎花 こころ多かる のべの秋風

晩夏蝉

> 夏の日も しばしになりぬ 鳴く蝉の 声もあはれに 聞こえつるかな

> あきびとの 売るや重荷を 三輪の市 何をしるしに 求めけるかも

閑居

> 春来ぬと 柳の糸は 靡けども 来る人もなき 宿の静けさ

> おのづから 来る人もなく なりにけり 宿はよもぎや おひしげりつつ

> 夏来れば 茂る木立の 中にしも 緑をそふる ならの葉柏

> よろづ木の 枝はさまざま ある中に ひとり檜原の なほき陰かな

述懐

> 位山 高きに登る 身なれども ただ名ばかりぞ 歎き尽きせじ

遊女

> 漕ぎいでて ゆききの人の うかれ妻 身は浮舟の ちぎりなるらむ

往時

> 今はただ 世に有りとしも いつしかは 我が身も人の 昔とや言はむ

祈恋

> わが命 あらむ限りは 祈らめや つゐには神の しるしをも見む

寄風述懐

> 異国も なづめる人も 残りなく 払ひ尽くさむ 神風もがな

「異国(ことくに)もなづめる人も」というのは外国人も日本人で頑なな人も、という意味。

夏月涼

> 蚊も寄らず 扇も取らで 月涼し 夜は長かれよ 短きは惜し

雪中望

> 富士の峯の 姿をここに 写し見む みやこも今は 雪の山の端

夕立

> ゆふだちの 過ぎても高き 川波を うれしがほにも 登る真鯉や

田邊柳

> 堰き入るる 水のかはづも 釣るばかり 門田の柳 糸垂れてける

「たれてける」は口語的。本来は「たれてけり」だろう。

竹雪深

> 国のこと 深く思へと いましめの 雪の積もるか 園の呉竹

> この国の けがれぬからは 春ごとに かく咲く梅の 香りつるかな

淵亀

> 我が思ひ 比べばいづれ 深き淵 住みも浮かべる 亀に聞かばや

緑池紅蓮

> 夏涼し 池の緑の 水の上に くれなゐ深く 蓮咲ける見ゆ

田家槿

> 賤の女の 門田に咲ける 朝がほは けふのつとめを いそぐ心か

霜隠落葉

> 冬枯れて 散りゆく木の葉 見苦しと おほひも隠す 霜の白妙

わりと斬新で個性的な歌もたまにある、まあまあのできではなかろうか。

長尾景晴の乱と川越夜戦

[川越素描](http://p.booklog.jp/book/32888)の試し読みを増やした。
ほとんど無料で読めるが、完全版を読みたい人だけ有料にしてあるという状態。

今回無料化したのは、長尾景晴の乱のはじめのところと川越夜戦の部分だ。

川越夜戦は、太田道灌の江古田原の戦いを北条早雲が目撃して、孫の氏康が道灌の戦法を参考にした、
というややこしい仕組みになっている。
これは、『ナポレオン 獅子の時代』で、ナポレオン・ボナパルトが、
若い頃のカスティリオーネの戦いを、アウステルリッツでより完璧な形で再現してみせた、という話を参考にしている。

いや、というよりは、ナポレオンのアウステルリッツの戦いを目撃したプロイセンのクラウゼヴィッツが後にその戦法を参考にした、
という逸話の方に近いな。

むろん、江古田原の戦いも川越夜戦も、実際はどんな戦いだったかほとんどまったくわかってない。
完全な作り話、創作といって良い。
カスティリオーネやアウステルリッツの戦いに似ているわけでもない。

一言で言えば「籠城する味方を囮にして、敵を一箇所に集めて一網打尽にする戦法」なのだが、
もはや自分がどうやってその話を思いついたか、思い出せない。
敢えていえば木曾義仲の倶利伽羅峠の戦いに似て無くもない。
ハンニバルや楠木正成の戦法にも似たようなのがあったかもしれん。
もしかすると厳島の戦いとか長篠の戦いに似てるかもしれん。

いや、アウステルリッツの戦いというのも、敵に丘の上の良い場所を先に布陣させておき、
退却するふりをして、敵が陣地を出てくると、今度は自分らがその丘を取り、
中央突破によって敵戦力を分断、
総崩れになった敵を追って各個殲滅する、という手法だから、似て無くもないわな。いや、やっぱり全然似てないな。
なんかだんだん自分でもわからなくなってきた。

研究者の転職

[異国の地より気になった読み物2件ほか](http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/02/2-ae94.html)

> 日本のこういうメーカーあがりの技術者なんですけど、30代前後から35歳ぐらいまでの転職市場ではとっても価値のある値段で流通しており、しかも大量に雇うのは外資系ソフトウェアとか韓国系企業で、さらに雇った人たちの75%ぐらいが40代ちょっと手前でさらに労働市場に出てくる(クビなのか自発的退職なのかは別として)のが興味深いところでもあります。明らかに国際市場で通用するんだけど、コミュ障なのか安定志向なのか、高給を捨ててでも働きやすくてクビにならない会社に入ろうとするのはもはや国民性なのかもしれず。

うーん。
研究者として旬なのは20代後半から30代半ばまでだと思うのよね。
その旬を過ぎて、そのまま会社にいるよりは転職した方が良いかなと言う人が、
高級高待遇に惹かれて外資系に転職してみたりする。
しかし40過ぎると研究者として生きていくには年を取りすぎていて、
給料少なくていいから管理職か営業職みたいな「文系就職」したくなる。
ただそれだけではなかろうか。

> 博士課程の墓場のような会社のR&Dリソースの最適化というのは難題だなあと改めて思ったり。

博士はつぶしきかないですよ。そりゃ世界的にそうなんじゃないの。
それこそスポーツ選手みたいに20代くらいに一生分稼ぐか、会社起こすか、
でなきゃ普通のサラリーマンになるしかないんじゃないのかなあ。

「まし」と「なまし」と「てまし」

「まし」と「なまし」と「てまし」だが、よく似ている。

「まし」は推量または反実仮想の助動詞。未然形接続。

「なまし」は完了の助動詞「ぬ」の未然形+「まし」。連用形接続。

「てまし」も完了の助動詞「つ」の未然形+「まし」。連用形接続。

「ぬ」と「つ」では、「つ」の方が主観的意志が強い。「ぬ」は自然現象が完了した、という意味が強いが、
次第に混同されるようになった。なので、伊勢物語の

今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや

が、「なまし」のもともとの使い方で、「降ってしまったに違いない」の意味。

鴬に身をあひかへはちるまてもわか物にして花は見てまし

これも反実仮想の意味が強い。「見る」とか「奉る」などの人間の動作に「てまし」が付くのが本来のようだ。

ただ「てまし」も「なまし」もただ「まし」でも代用可能だから、
歌の長さ合わせには便利と言えるかも知れん。

たとえば、「なり」に続けて「ならまし」「なりなまし」「なりてまし」などとなるが、
「なりてまし」の用例はない。「なる」のは意志ではなくて自発だからだろうか。

思ひいでてとふ事のはをたれみまし身の白雲と成りなましかば

梅がかをそでにうつしてとどめては春はすぐともかたみならまし

どんどん変わっていくプロット

歴史を学べば学ぶほどに筋書きは変わっていく(笑)。
歴史小説を書く人はみなそうなのではないか。
それともしっかり調べた後で書き始めるものなのだろうか
(最初から結果ありきで書き始め、調査で証拠固めするだけだから、筋書きは微動だにしない人もいるかもしれんな)。

アルプスの少女デーテのマジェンタの戦い、ソルフェリーノの戦い、
ナポリ攻防戦までをまた書き変えた。
ここらは最初、ソルフェリーノの戦いという、ごく短い分量のセクションに過ぎなかった。

ナポレオン三世とフランツヨーゼフ一世は世間知らずで酔狂な皇帝として描いていた。
ギュライはのろまでぐずで無能な将軍だと思っていた。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世は野心的で好戦的な君主だと思っていた。
しかし、いろいろ調べていくうちにこれらの人たちはすべてある種の常識人であり、普通の感覚の持ち主であり、時代に翻弄された人たちであると思えるようになった。
カヴールやフランチェスコ二世やガリバルディでさえもだ。
まあ、すべてはデーテに書いてある通りなので、読めばわかると思う。
たぶん私以外が書けばもっと面白おかしく劇画的な人物として書くだろうと思う。

ピエモンテは先の対オーストリア戦以来、実に周到に策を練って富国強兵に努めた。
三国干渉から日露戦争に突き進む日本にだぶって見える。
第一次イタリア統一戦争が1849年、第二次統一戦争が1859年。
かたや日清戦争が1894年で日露戦争が1904年だから、
イタリアで起きたことが45年後に日本にも起きた、
と見ることができる。
いや、日本人ならどうしてもそう考えてしまうに違いない。
少なくとも私はそんなふうに考えざるを得なかった。

そのピエモンテに対して私は「遺恨十年、一剣を磨く」という形容を使ったのだが、これは頼山陽「川中島」の一句である。そうとしか、言いようがないのである。

源懿子

後白河が16歳、懿子が27歳で二条天皇を産んで、懿子はそのまま死んでしまう。この年齢差が事実だとすれば、
おそらく婚姻によって懐妊したのではなかろう。
懿子は親王時代の後白河の女御か何か、つまり身の回りの世話をする女官の一人だったのだ。
いやというよりおそらく誰かの妻だったかもしれない。年が年だけに。
それを後白河が若気の至りで手をつけてしまい、妊娠して男子を産んでしまった。
正式な后を立てる前に。
皇子の男子が生まれたのであるからただではすまない。
その男子が天皇に即位すればなおさらだ。
懿子は死後皇太后となる。国母となる。
だが、皇后だったわけではない。

おそらく結婚はしてなかった。でも、その子が天皇になったので、後白河の最初の后が懿子だったことになった。
過去にさかのぼって作られた話だろう。
懿子のもともとの夫の存在も歴史から消されてしまっただろう。
後白河の后(というか後白河の皇子・皇女を産んだ女御)たちを見るとそれもまったくあり得る話だ。

後白河はその後も正式な后を選ぶことなく、いとこにあたる藤原成子に何人も子供を産ませている。
そもそも、みずから天皇になる気もなければ、周囲も彼を天皇にするつもりがまったくなかったのだろう。
まったく期待されてない天下御免の貴公子。
キム・ジョンナムに似ている、などというのは失礼すぎるだろうか。

いよいよ後白河が即位することになって、
后がいないとかっこうつかないから、藤原忻子を后にする。
しかし、忻子とはほとんどまったく夫婦関係がない。
ひどい話だ。

magenta、solferino戦の真相

[Battle of Magenta](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Magenta)では、ピエモンテ・フランス連合軍が59100人、
一方オーストリア軍は125000人とある。
次の
[Battle of Solferino](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solferino)では、138000人対129000人となっている。
ほんとだろうか。
どちらも数字がかなりおおざっぱだ。

ソルフェリーノではオーストリア軍は皇帝フランツ・ヨーゼフが本国から増援部隊を連れてきたはずだ。
また、マジェンタではミラノに駐屯した軍隊しかいなかっただろう。
一方連合軍はナポレオン三世みずから緒戦からピエモンテに居たのだから、
最初から13万人くらいいたのではなかろうか。

つまり、マジェンタでは 13万対8万くらい、
ソルフェリーノではだいたい13万対13万くらい。
劣勢の方は数を多く見せたがる。優勢の方はわざと数を小さく見せたがる。
それがそのまま戦史になっただけではなかろうか。
憶測だがギュライの味方はごくわずかの、母国ハンガリーから連れてきた手勢しかなく、あとは適当にミラノ・ロンバルディアあたりで、
地元の領主から兵を借りたのではなかろうか。
しかしここらはもともとピエモンテにシンパシーを感じており、十年前にはピエモンテとともに叛乱を起こしたのだ。
そんな連中が協力的なわけがない。たとえ数合わせにはなったとしても。

[Battle of Novara](http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Novara_%281849%29)が
85636対72380の規模だったというから、両軍ほぼ8万人程度で対等。
ピエモンテ軍はロンバルディアの反乱軍も入れた数字だろう。
単独ではもっと少なかったはず。
ミラノ軍単独でもおそらくこの程度の規模なのだろう。

そう考えるのが自然ではなかろうか。

Citadel

Half-Life2に[Citadel](http://half-life.wikia.com/wiki/Citadel)というのが出てくるのだが、
漠然と語感から都市という意味かと思ってた。
しかし、wikipediaなど読むと[Citadel](http://en.wikipedia.org/wiki/Citadel)は、
要塞という意味であり、特に18世紀から19世紀くらいにかけて作られた、
セメントやコンクリートで固めた、
[堡塁](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%A1%E5%A1%81)を備えた近代的な要塞のことを言うらしい。
日本で言えば五稜郭がその典型で、幾何学的な構造を持つ。

citadelの語源はやはりラテン語のcitizenであって、
オーストリア・ハプスブルク家がハンガリー叛乱の鎮圧のためにブダペストに建てた
[Citadella](http://en.wikipedia.org/wiki/Citadella)
が有名だそうだ。
イタリア語では cittadella (チッタデッラ)
と綴るようだ。
[Cittadella](http://en.wikipedia.org/wiki/Cittadella)という名の町はヴェネト州(つまり、ロンバルディアの東、ヴェネツィアの近く)
にもある。普通の中世の都市のようだ。

[Casale Monferrato](http://en.wikipedia.org/wiki/Casale_Monferrato#Via_Garibaldi_and_Sant.E2.80.99Ilario)
では、

> It successfully resisted the Austrians in 1849, and was strengthened in 1852. Towards the end of the 19th century it became known as “Cement Capital” (capitale del cemento), thanks to the quantity of Portland cement in the hills nearby

とあるので、ラデツキー将軍もカザーレの要塞を陥とすことはできなかった、ということになる。
第一次と第二次イタリア統一戦争の間にピエモンテの鉄道網とともに強化された。
capitale del cemento は「セメントの都」とでも訳せばよいか。
カザーレ・モンフェラートは近くにモンフェラートという丘があるのでそう呼ばれる。
モンフェラートではセメント(の原料)がたくさんとれた。
[ポルトランドセメント](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%BB%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88)という、18世紀の終わりにイギリスで実用化された、
近代の普通のセメントがばんばん使われたということのようだ。

> 硬化した後の風合いがイギリスのポートランド島で採れるポルトランド石 (Portland limestone) に似ているから

google maps で見ると、カザーレの要塞はほとんど痕跡を留めてない。
が、南の駅の近くに少しだけ残っているのがわかる。
目を細めてみるとなんとなく星形の全体像が見えてくる。


アレッサンドリアにも見事な cittadella がある。ほとんど完全に残されているようだ。

> In 1348 Alessandria fell into the hands of the Visconti and passed with their possessions to the Sforza, following the career of Milan, until 1707, when it was ceded to the House of Savoy and henceforth formed part of Piedmont. The new domination was evidenced by the construction of a new big Cittadella on the left side of the river Tanaro, across from the city.

とあるので、サヴォア家、つまりヴィットーリオ・エマヌエーレに続く家系がピエモンテの領主になった
1707年以降に作られたもののようだ。
五稜郭と比べるとその巨大さがよくわかる。

同じ縮尺で比べてみるとこんなに違う。
当時のピエモンテと日本の国力の差もこんなだっただろう。
また、市街地に巨大な鉄道駅があり、ピエモンテ交通の要衝であることもわかる。

玉葉集風雅集攷

次田香澄『玉葉集風雅集攷』というものを読んでいるのだが、
この著書の編者でもある岩佐美代子によれば、
岩佐が恩師次田の遺稿をまとめてこの一書がなったことがわかる。
岩佐は今日、京極為兼についての本を書くほぼ唯一人の作家であるが、
なぜ彼女が為兼に関心を持ったかはよくわかった。
では次田はなぜ為兼に関心を持ったかだが、名前から察するに彼女もまた女性であろう。
本を読んだ感じで大胆に想像すれば、彼女は、最初芭蕉の俳句に興味をもった。
それから、俳句のわびさびの世界を室町和歌まで遡り、そこに永福門院を見いだした。
永福門院の師が為兼であった。ということではないか。
岩佐にも『内親王ものがたり』などがあるところを見ると、
式子内親王など女流歌人に関心が高いのではないか。
両者とも京極派の創始者として為兼をある一定の程度評価しているに過ぎず、特に次田は、彼女の好みは京極派の中にある、自然観察とかわびさびのようなものにあるように思われる。
為兼の歌に

萩の葉をよくよく見れば今ぞ知るただ大きなるすすきなりけり

というのがある。
普通こういう歌は江戸時代には狂歌と呼ばれる。
また、古今集では俳諧歌という部立てでこのような滑稽な、
不真面目な歌が採られている。
古今集にはあったこのような遊び心は、おそらく、
和歌から俳句や連歌の方に専門が分かれたのだろう。
そういう意味では俳句の源流が京極派、特に風雅集時代にあって、
その先駆的歌人が永福門院であった、のはまあ当たりなのかもしれんが、しかし、為兼その人は別に俳諧歌を詠もうと思って詠んでいたのではないと思う。
また、自然観察が主たる目的でもなかったと思う。

為兼は漢文が書けなかったという。
当時の高官たちの必須教養である漢文が書けないということは、
つまり日記も書けなかった。
歌論などの和文は多少は書けたらしい。
漢文の序を書けない、
紀貫之以来の口伝を受けてない、
歌が奇矯であり、俳諧的であるというのが、
勅撰集編纂者として不適任だと指摘されたのは、
当然だったようにも思われる。

為兼その人はたぶん、西行のような、心に浮かんだことをそのまま歌に詠みたかっただけで、それが巧まずできた人だった。芸術家肌、天才肌の人であっただろう。自然主義や俳句の先駆者になろうと思ったわけではあるまい。
枯れとか寂びなどは定家に、女流歌人では永福門院に任せておけばよかろう。

為兼は勅撰集の題名に新とか続とか後とかを付けるのに反対したそうだ。笑える。
室町時代の勅撰集はそんなのばかりだ。

万葉集や古今集の頃までは文字というものが庶民の間になかったから、歌という口伝えの文学しかなく、ましてや教科書や類題集などというものはなかった。歌をたしなむかなり濃密なコミュニティが存在していたのだろうが、時代が下るとそういう自然発生的なコミュニティは廃れて、自然に詠歌の習慣を維持することが困難になり、それでも古典を継承していくために学問とか道としての歌道・歌論が生まれ、これによって初めて安定して存続することが可能になり、ますます知識階級によるサポートなくしては残れなくなり、彼らの発言力がますます強くなる。庶民の趣向は逆に圧殺され、ますます和歌の世界は萎縮していく。貴族や学者などという生命維持装置を外すと死んでしまう。それをなんとか救おうとしたのが為兼だっただろう。民間人がもっと和歌に参加すべきだと考え、そのための方便として天皇家や勅撰集という権威を借りようとしたのではなかろうか。