河越夜戦

頼山陽が日本外史の中で、河越、厳島、桶狭間の戦いを日本三大なんちゃらと呼んだ、といろんなところ、
たとえば wikipedia などで書かれているのだが、
もちろんこれらの三つの戦いについて記述はあるが、三つ比較してどうこうという記述はなさそうなんだな。
ないよなあ。

漢詩か日本政記の方の記述にでもあるのか。

どうも、誰かが勝手に、頼山陽が日本外史の中で、とか言っちゃったのが広まっただけのような気がする。
まったく確証はないが、そんな気がすごくする。

上記の三つの戦いは時間的に比較的狭い時期に起きていて、しかもどれもかなり奇妙な戦いであるのは間違いなく、
まあ、この三つを比較して論じることには意味があるだろう。

温泉の歌

万葉集に出てくる唯一の温泉の歌として、湯河原温泉を歌ったという和歌があるのだが、

> 足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに子らが言はなくに (よみ人しらず)

> 阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓

ほかにも山部赤人が伊予の温泉(道後温泉)を歌った長歌がある。

> 山部宿禰赤人、伊予温泉(いよのゆ)に至りて作る歌一首 并せて短歌

> 皇神祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 敷きいます 国のことごと 湯はしも 多(さは)にあれども 島山の 宣(よろ)しき国と 凝々(こご)しかも 伊予の高嶺の 射狭庭(いざには)の 岡に立たして 歌思ひ 辞(こと)思ほしし み湯の上(うへ)の 木群(こむら)を見れば 臣(おみ)の木も 生(お)ひ継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず 遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)

> 反歌 ももしきの大宮人の熟田津(にぎたつ)に船(ふな)乗りしけむ年の知らなく

だから、温泉の歌は万葉集に、唯一ではない。

川中島

鞭声粛々夜渡河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年麿一剣
流星光底逸長蛇

を見るに、「河(ガ)」「牙(ガ)」「蛇(ダ)」が韻を踏んでいるようにも思える。
しかし漢和辞典を見ると、河は he二声、牙は ya二声、蛇は she二声と、見事に全然違う。

はは、細けえことは良いんだよ、てことだよな。

伯父の娘

岩波文庫版『完訳千一夜物語』には「妻」のことを「伯父の娘」と書いていて、アラビア語における婉曲表現だというのだが、
ちと困惑している。もし書くなら「義父の娘」ではなかろうか。
「義父」を「伯父」とも書くというのだが。はて。

クレタ島

クレタはギリシャ語音ではクリーティコとなるので、wordでクレタをクリーティコに置換したら、
「良く来てくれた」まで置換されて「良く来てクリーティコ」になってしまい、思わずワロタ。

アルダ

アルダの父ソロスは[Baldwin I of Jerusalem](http://en.wikipedia.org/wiki/Baldwin_I_of_Jerusalem#Count_of_Edessa)によれば、

> When Thoros was assassinated in March of 1098

とあって、1098年に死んでおり、アルダとボードワンが結婚した1100年にはすでに死んでいることになる。
しかし、[Thoros of Marash](http://en.wikipedia.org/wiki/Thoros_of_Marash)や
[Arda of Armenia](http://en.wikipedia.org/wiki/Arda_of_Armenia)などを読むと、
ボードワンがアルダと離婚した1105年より後も生きていて、マラシュがエデッサに滅ぼされた後はコンスタンティノープルに居て、
アルダは修道院からコンスタンティノープルの父のもとへと逃げたことになっている。
なんじゃそりゃ。

[ボードゥアン1世 (エルサレム王)](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%B31%E4%B8%96_%28%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%AC%E3%83%A0%E7%8E%8B%29)や
[エデッサ伯国](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E4%BC%AF%E5%9B%BD)
を読むと、これではボードワンがエデッサ伯ソロスの娘と結婚してソロスの養子になってエデッサ伯を継いだように思える。
いやそのようにしか読めない。
しかし実際にはソロスの領地はマラシュであり、マラシュはエデッサに滅ぼされて、ソロスはそのとき死んだか、
コンスタンティノープルに逃げたことになる。
つまり英語版に従えば、ボードワンは、養子となったからエデッサ伯になったわけではない、ということではないか。

マシュハド

現在、テヘランに次いでイランで人口が多い町はマシュハドといって、NHK のシルクロードものにはメシャドという名前で出てくる。
或いはマシャドとも。
英語表記では Mashhad。
マシュハドから西へ行けばニーシャープールを経てテヘラン。
東へ行くとアフガニスタンの首都カブール。さらに東へいくとハイバル峠を越えて、
インダス川上流のパンジャーブ地方のイスラマバード。
マシュハド北東にはマル、つまりシルクロードに古来から知られるメルヴがあり、ここから先はブハラやサマルカンドなどを経て天山北路または天山南路に入る。
要するにマシュハドは交通の要衝なのだが、
九世紀末までは単なる小村であって、すぐ近くのトゥースの方が栄えていたはずだ。
というか、近代になって呼び名がトゥースからマシュハドに変わったと考えた方があたっている。
トゥースにはアレクサンドロス大王も訪れていて、ギリシャ人にはススィアと呼ばれている。
またアッパース朝カリフのハールーン・アル・ラシッドはこの地で死んでいる。

マシュハドがビーナルード山脈の北麓にあるのに対して、ニーシャープールは南麓に位置する。
要するに、ニーシャープールと同様にかなり古くから栄えた町だということだろう。

エウドキア

[エウドキア](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%89%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B5)
は1021年生まれで、
[ロマノス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%82%B94%E4%B8%96%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%8D%E3%82%B9)
と再婚して、1070年に息子
[ニケフォロス](http://en.wikipedia.org/wiki/Nikephoros_Diogenes)を生んだというのだが、
すべてが事実だとすれば、49才の高齢出産ということになる。
しかももう一人、レオと言う息子も生んでいるという。
ちと信じがたい。
ロマノスの連れ子、もしくは愛人の子だったと考えるのが自然ではなかろうか。
ロマノスが1072年に死んだ後、
二人の子供は修道院に入れられたが、のちの皇帝
[アレクシオス](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%8E%E3%82%B9)
に引き取られて、
将軍となってクレタ島を守備したという。
ふーむ。
へえええ。
実在したのかなあ。

あと、他にもあまりにも子供の多すぎる騎士の妻というのが居て、
おそらく他の女性に生ませた私生児も混ざっているのではないかと思う。
十年間で八人はちと多すぎるだろう。

wikipedia を読んでいるとそんな記事がごろごろあるのだが、誰も不思議に思わないのか。

アジア史概説 2

宮崎市定の『アジア史概説』を読み直したのだが、
「パルチアはペルシャと同語の異音で」などという記述があって、私はまんまとそれを信じていたのだが、
パルティアの語源は Parthava であり、現在のトゥルクメニスタンの首都アシュガバード辺りである。
ペルシャの語源は Parsi であって、現在のイランの Fars 州のことである。

思うに、ペルシャとイランを同一視するのはまずい。ペルシャとは歴史的には現在のファールス州を故地とする国家を言うべきであり、
アケメネス朝やサーサーン朝などをさす(近世のサファヴィー朝やガージャール朝、パフラヴィー朝などについての解釈はひとまずおく)。
パルティアはホラサーン州で興ったイラン人の国。もう少し絞り込めば、おそらくはソグド人ないしバクトリア人の国であろう。
イラン人とはパシュトゥーン人やソグド人、パンジャーブに進入したアーリア人、
さらにはクシャーナやバクトリア、大月氏を含めて言うべき言葉だと思う。
ペルシャとイランとパルティアはそれぞれ意味が違う。
違うんだってば。

かのアジア学の創始者にして権威である宮崎市定ですらこの三者を混同していたのであるから、現代日本人に区別が付かないのはまあ仕方ない。

イラン人とラクダ

イラン人ないしアーリア人が出現した時代、その伝播に要した時間、地理的分布、及びその習俗を考えるに、彼らは、これは大胆な仮説であるが、
中央アジア原産のフタコブラクダを家畜化することによって、子孫を繁栄させ、広く伝播した種族ではなかろうか。
フタコブラクダは、シリアで家畜化されたヒトコブラクダとは違い、特に寒冷で乾燥した高山地帯に強い。
その原産地はおそらく、天山山脈からパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈にかけてだろう。

ある種族が膨張伝播する要因には、青銅器、鉄器などの技術革新と、馬や羊などの有用動物の家畜化、
麦や米などの有用植物の栽培、などがある。
必ず何かの要因があるはずだ。
イラン人にとってそれはラクダだったのではないか。

トルコ人やモンゴル人のような騎馬民族は、戦争と統治によって、ある時期に急速に膨張するという傾向がある。
しかしイラン人はラクダを移動・運搬手段として、隊商を組んで、交易によって、徐々に中央アジアから四方へと、広がって行ったのではないか。
ただし、暑熱湿潤なパンジャーブ地方に入ったアーリア人たちだけは、その地に適さないラクダを放棄したのだ。
この仮説が正しいとすれば、そのステレオタイプな戦闘的イメージとは違い、イラン人は本来、どちらかと言えば友好的で、穏和な種族なのに違いない。