近世和歌撰集集成

上野洋三編「近世和歌撰集集成」明治書院全三巻。新明題集、新後明題集、新題林集、部類現葉集などの堂上の類題集など。他には若むらさき、鳥の跡、麓のちりなどの撰集。これらは地下の巻に入っているのだが、通常は、堂上に分類されないだろうか。私家集はない。国歌大観にもれた珍しい近世の撰集というだけあって、かなりマイナー感がある。しかもこれまた電話帳。なぜか貸し出し扱いになっていたが、家に持ち帰ってももてあますだけなので、とりあえずそのまま借りずに返却した。借りたくなったらまた行けば良い。「近世和歌研究」加藤中道館。論文集みたいなもの。それなりに面白い。

霊元天皇

車をも止めて見るべくかげしげる楓の林いろぞ涼しき

契沖

我こそは花にも実にも名をなさでたてる深山木朽ちぬともよし

数ならぬ身に生まれても思ふことなど人なみにある世なるらむ

高畠式部。
江戸後期の人だが、90才以上生きて明治14年に死んでいる。
景樹に学ぶ。少し面白い。

春雨に濡るるもよしや吉野山花のしづくのかかる下道

さよる夜の嵐のすゑにきこゆなり深山にさけぶむささびの声

なかなかに人とあらずは荒熊の手中をなめて冬ごもりせむ

最後のはやや面白いが、

なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

などの本歌がある。「桑子(くはこ)」とは蚕のこと。「なかなかに人とあらずは」は「なまじ人間であるよりは」の意味であるから、「なまじ人間であるよりは荒熊になって、てのひらでもなめて冬ごもりしようか」の意味か。

なかなかに人とあらずはこころなき馬か鹿にもならましものを

これは狂歌(笑)。

なかなかに人とあらずは花の咲く里にのみ住む鳥にならまし

加納諸平

万葉調の雄大な自然を歌う叙景歌が多いようだが、あまり感心しない。
たぶん私はもともとこのジャンルが好きではないのだと思う。
佐佐木信綱辺りを連想してしまうからだろう。
「柿園」というのは景樹の「桂園」に対抗するつもりか。
幕末における真淵派の正統という位置づけか。

> 世の中はかなしかりけり世の中の何かかなしきしづのをにして

この「かなし」は「悲し」ではなく「愛し」と解すべきだと思うが、
まあ両方なのかもしれない。ただ悲しいと言いたいのではあるまい。
実朝の

> 世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐあまのをぶねの綱手かなし

の本歌取りと考えるべきだろう。
何しろ百人一首の歌だからまずこれが思い浮かぶのではないかと思うのだが。
「世の中ってとてもいとしいものだよなあ。しかし、取るに足らぬ卑しい身分の男のくせに、
世の中がたまらなくいとしいなどと詩人のようなことを考えている、のはいかがなものか」、
という近現代の文学青年にありがちな心情ではなかろうか。
しかし小野篁

> かずならばかからましやは世の中にいとかなしきしづのをだまき

のようなもっと似た歌もあり、なんともいえんね。
たださらっと読んで見るに、「しづのをだからかなしい」と言っているのではなく、
「よのなかはかなしい」という自分の世界認識に対して、
しかし「この私は取るに足らない者のくせになぜかなしいとおもうのか」と反問、自問自答しているのであるし、
実朝の本歌取りとすれば
「この私は実朝のようなりっぱな貴人・歌人でもないのになぜ世の中はかなしいなどと偉そうなことをいうのか」
というふうに解釈できる。
世では自分のことをわざへりくだって、
つまり権門や堂上家に対抗意識をもって自らを「しづのを」という例が多いのであり、
本当の貧乏人が自らを「しづのを」と言って歎くケースは極めてまれだと思う。

> ますらをが打ちもかへさぬ山陰のはたとせ何に過ぐし来つらん

面白い序詞。
念のため説明すると、「ますらをが打ちもかへさぬ山陰の」までは「はた(畑)」を導くための序詞で、
しかも「はた(畑)」は「はたとせ(二十年)」をかけている。
21才のときにこれを詠んだとすれば正岡子規よりははるかに歌の才能はあったというべきだろう。
ますらを(農夫)が畑を打ち返す、というのは新古今的な叙景といえる。

はりあうつもりはないが、私が同じ年頃に同じ心境を詠んだ歌

> とりがなくあづまの国にくれたけの世に出でむとてふたとせ経たり

「とりがなく」「くれたけの」はいずれも枕詞、「あづまの国」とは東京のこと、
出世しようと上京して二年が経った、という意味。
東京に出て二年というのだから、21才か22才頃、学部三年生の時に詠んだと思う。

江戸時代の歌集

江戸時代の私歌集にはたとえば後水尾院歌集、契沖の「漫吟集」、宣長の「鈴屋集」、蘆庵の「六帖詠草」、秋成の「藤簍冊子」、景樹の「桂園一枝」、良寛の「布留散東」、加納諸平の「柿園詠草」、橘曙覧の「志濃夫廼舎」などの私家集(個人歌集)がある。また、真淵などは自選集はないが弟子や後世の人による個人歌集「あがた居の歌集」などがあり、田安宗武にも同様に「悠然院様御詠草」が、荷田春満には「春葉集」があるが、比較的最近平安神宮から出版された「孝明天皇御製集」も江戸時代の歌人の後世の人による個人歌集の一種といえる。

歌合の記録も残るが、あとは私撰集がかなりたくさんある。幕末だと、蜂屋光世という幕臣が出版した「大江戸倭歌集」「江戸名所和歌集」なるものが出ている。国歌大観に「大江戸倭歌集」は収録されている。どういう基準で集めたかわからんが、商業目的に良さそうなものを適当にむやみと集めたのか。また、真淵や契沖などの国学者やその門人の歌を集めた「八十浦之玉」というものもある。これも国歌大観に収録されている。また、江戸の堂上派武家歌集である「霞関集」「若むらさき」などもある。他にも「麓のちり」「林葉累塵集」「鳥の迹」などというものも国歌大観に収録されている。

これら江戸時代の私家集や私撰集の歌を全部合わせるとものすごい膨大な数になる。また入手しにくいものが多い。なんか気が遠くなるな。

類題和歌集

よくわからないことだらけで、しかも原典に直接当たるにも、蔵書がないので、明治書院「和歌大辞典」などの力を借りる。
そうすると類題和歌集とは、勅撰集にもれた歌を題別に分類して1310年頃に成立した「夫木和歌抄」を典型とする、
資料として編纂された和歌集の総称。
もひとつは後水尾天皇が勅撰した類題和歌集。
この二通りの意味に使われる。

総称としての類題和歌集は、次第に重複を気にせず単に歌を蒐集する目的で編集されるようになり、
今で言えば「国歌大観」みたいなものだが、
先に出たものに新たに歌を継ぎ足したり、
場合によっては丸ごと再利用したりしたものが多く、
ただ単に集めるだけでなく題によって分類し、題詠の教科書としても利用されていたらしい。
つまり word excel の使い方とかそういう実用書のような形で使われた。

後水尾天皇の類題和歌集は、もともと和歌題林愚抄というものをベースとして、
それ以降に出た歌集などからも採録してできたものだという。
この題林愚抄は室町時代に題詠の参考書として使われていたもので、
江戸に入ってやや古くなったので、室町末期までの歌を追加して便宜を図ったという程度のものなのだろう。
ただ、題林愚抄以降の差分の部分には、今日伝わらない歌集から取った新出歌が含まれており、
貴重だというが、その新出歌だけでもどこかに掲載されていれば良いのだが。

霊元天皇の新類題和歌集は、後水尾天皇の類題和歌集にない題の歌を補ったものだという。1733年成立。
つまり、後水尾天皇、霊元天皇の勅撰集ではあるが、
単なる和歌データベース的なものに近く、「21代集のようなオリジナリティ」には乏しいということだな。

才女の話

眠れないので、帚木。
文章博士のもとに勉強に行った男が博士の娘に手を出し、
娘の親にも気に入られ嫁にするよう勧められ、
娘は手紙も漢文で書き、仕事の作文なども手伝ってくれるのだが、
そういう才女に気後れして、しばらく立ち寄らなかった。
たまたま近くに立ちよってその女性を訪ねると、病気のためにニンニクを飲んでいて臭いのでという理由で、
居間には通さずものごしで話をする。
ニンニクのにおいがなくなったころにまた来いというので、逃げだそうとして

>ささがにの振舞ひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなき

と言うと返歌

> 逢ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か眩ゆからまし

ささがにというのは蜘蛛のことで、蜘蛛が盛んに活動するのは男がおとづれる前兆だという。
ひる(ニンニク)と昼間がかけてある。
そういう夕暮れなのにニンニク(昼間)を避けよというのは意味が通らないなと。
返しが、
夜でさえ隔てなく逢う仲なのだから昼間でもまぶしいことはないでしょう、と。
なんだかまあ変な話だ。
伊勢物語を読んでいるようだな。
ていうか、伊勢物語のような断片的なエピソードをたくさん集めてきて一つにつなげたのが源氏物語なんじゃあるまいか。
で、あとから桐壺のような前置きができたと。

ええと。
源氏の家来の一人に紀伊守というのがいて、
その父が伊予介で、伊予介の後妻が空蝉で、
紀伊守は伊予介の前妻の子で、
空蝉の弟が小君で、
空蝉と小君の親が衛門督、と。わかりにくいな。
wikipedia 読んだだけじゃわからん、たぶんどこかに攻略本かまとめサイトみたいなのがあるんじゃないのか。

方違えで源氏が紀伊守の家に行こうとしたが、紀伊守の家は親の伊予介の家が工事中かなにかで、
家族(つまり伊予介の妻の空蝉ら)がみな越してきていて手狭であると、
しかも急ぎだったので、家族らを別の部屋に動かすのが間に合わなかったので、
空蝉と源氏の接近遭遇が起きた、というシチュエーションなのだな。
いきなり中将というのが出てくるがこれはそれまで出てきた頭中将(男。左大臣の息子で右大臣の婿)ではなく、
空蝉に使えている女房の中将(女)なんだよな。
しかもこの当時、源氏自身も中将だった。
なんかもう、設定がややこしすぎる。

挫折しそう

源氏物語めんどい。
長い長いRPGみたいな。
まあ自分に合わないものを無理して読む必要もないわけで。
この帚木の長い長い男たちの問答も、そのあとの空蝉のぐだぐだも、もうどうでも良い感じ。
ていうかまたこの調子であとどのくらい続くのかっていう。
でまあ、源氏も空蝉も一応既婚者なわけで、
だが空蝉は年寄りの後妻でしかも別居中であり、
当時の習慣としては一夫多妻みたいなもので、
今の感覚でこれを不倫とは一概には言えないし、
かつ源氏は親王ではないが天皇の子だから
(有力な女御の子は親王になれたが、それ以外は源氏姓など賜って臣籍降下する)、
このくらいのことはあるんだろうけど、
帚木・空蝉の辺りなどは源氏物語の一番初期からあった原型のようなものじゃないかと思うのだが、
こういう女性週刊誌のゴシップ記事みたいなものを後世の武士たちが嫌悪したのはよくわかる。
ていうかこういう女性文学があったから今の日本のオタク文化があるんだろうと思う。
同じぐだぐたにしても竹取物語や和泉式部日記などの方がずっと上品だよな。
それにすっと読める程度の分量だし。

帚木原文

> なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。

渋谷訳

> 艶っぽくて女性的だと見えると、度を越して情趣にこだわって、調子を合わせると、浮わつきます。これを、第一の難点と言うべきでしょう。

与謝野訳

> なよなよとしていて優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。

わかんねえよ。
難しすぎる。
女性選び、妻選びの話なんで、どちらかと言えば、与謝野訳の方があってる気がするが、
どちらとも言えないというか。
与謝野訳はいろいろ補完されているので意味は通るがそれと原文と意味があっているかはなんとも言えない。
渋谷訳は直訳なんだろうが、意味不明。これ読んで意味がわかる人は居るまいし本人もわかってはいるまい。

ヤマザクラ


多摩の尾根緑道にヤマザクラの並木があったので、わざわざ撮影に行った。美しいが、ソメイヨシノに比べるとかなり地味。逆に、ヤマザクラを見てからソメイヨシノを見るといかにも人工的な造花のような感じがする。ソメイヨシノは派手だが色調が単調で、幹が黒々とごつごつしてて醜い。ヤマザクラは幹がすっと細く高く伸びて気持ちが良い。

ソメイヨシノだと、桜のトンネルのようなものを何千本も作りやすいのだろうが、ヤマザクラはそんなことをしてもあまり派手な感じにはならず、遠目にはかなり地味な印象で、ここの尾根緑道のような、雑木林にとけこんだような自然な感じにしかならないのではないか。しかしまあ、むやみやたらとソメイヨシノが咲いて、屋台や御輿が出てよさこいソーラン祭りみたいになっているところもあるのだが、わざわざこのような緑道まででかけて静かにのんびり桜を見る方がずっと良い気がする。

青い葉と白い花のコントラストが高いミドリヤマザクラとも明らかに雰囲気が異なる。

参考までにこちらが同じ日に別の場所で撮ったソメイヨシノ。
うーむ。こういうものを日本の文化と言ってしまうのはどうかと、
ヤマザクラを見た後では考えてしまう。単一DNAのクローンなんだよなあ、ソメイヨシノは。戦後の混乱期に、後にどんな劇的な効果を生むか最初はあまり深く考えず、植えてしまうのだが、それが50年も経つとえらいことになってしまい、さくらまつりみたいな盛大な祭りをやらざるを得なくなっている、そんな気がするのだが。ソメイヨシノに振り回されている日本、みたいな。宣長が見たらなんと言うだろうか。

ヤマザクラ(幼木)


比較的新しく植えられたヤマザクラ。ソメイヨシノは割と若いうちから花がたくさん咲くようだが、やはりヤマザクラは若いころは花が多くないのではないか。

植樹されたばかりのヤマザクラ(花が咲いてないのでよく確認できないが、状況的には)は添え木をあてられて幹は一本だけ。花を咲かすことはできず、若い葉だけがめばえている。

ヤマザクラ(樹形)

開けた場所に植えられると、根本から何本も放射状に分岐する。ソメイヨシノの場合に、一本のごつごつとした太い幹が、やや立ち上がった後に分岐するが、ヤマザクラはもっと地面に近いところから何本にもわかれ、幹の一本一本は比較的細い。ヤブに生えているときはその放射状の分岐がかなりせばまり、上へ上へと伸びる。斜面に植えられると横にのび、垂れ下がることもある。