俵万智「プーさんの鼻」をさらっと読む。
そうかあ。
かつての学生歌人が20年経って今はこんな歌を詠んでるのか。
我が子を「みどりご」と呼ぶシングルマザー。
贈り物が
> いるけどいないパパから届く
このあやうさがやはり俵万智なんだよなあ。
ある意味20年前となんら変わらず歌を詠み続けているんだなと思った。
> 記念写真撮らんとするにみどりごは足の親指飽かず舐めおり
うーん。
「それぞれの未来があれば写真はとらず」からこうなったんだなあ。
大きなお世話だがけっこう高齢出産だな。
俵万智「プーさんの鼻」をさらっと読む。
そうかあ。
かつての学生歌人が20年経って今はこんな歌を詠んでるのか。
我が子を「みどりご」と呼ぶシングルマザー。
贈り物が
> いるけどいないパパから届く
このあやうさがやはり俵万智なんだよなあ。
ある意味20年前となんら変わらず歌を詠み続けているんだなと思った。
> 記念写真撮らんとするにみどりごは足の親指飽かず舐めおり
うーん。
「それぞれの未来があれば写真はとらず」からこうなったんだなあ。
大きなお世話だがけっこう高齢出産だな。
木の花の 咲くがなどかは めづらしき よそぢとしふる 我が身なりせば
木の花の うつしゑうつす はかなさよ よろづの人も ならふてぶりに
ねぢけたる 老い人なれや わこうどの いはふ日なれど たのしくもなし
春の日に ねぢけゆくわが 心かな おくりむかふる 人の世ぞ憂き
いはふとて 飽かざらましや 千とせふる つるかめの身の 我ならなくに
いはふべき 春の良き日に しかすがに ふさがりとざす 我が心かな
ねぢをれて ひねまがりたる 老いけやき 憂き世に長く ふればなるべし
浮かれ女や 浮かれ男つどふ 春の野辺 たまゆらにこそ 浮かれやはせめ
なぜか大国魂神社にしだれ桜を見に行く。そのあと府中美術館。歌川国芳展。まあまあ。
文覚が那智の滝に打たれる三枚続きの浮世絵が印象的。
ひろびろとして良い町。工場も多いし競馬も競輪もあるからさそがし地方税やら医療費やらは安かろう。戦闘機も飛ばず静かだし。のんびり住むには良い町だろう。
たま川を わがこえくれば 川の辺に 咲きたる桜 ひと木だになし
しだれざくらは赤みが強い。エドヒガンの一種らしい。ということはやや早咲き。ほぼ見頃だが、まだ満開ではなく散るようすもない。
こちらはやはり早咲きの、府中美術館近くに咲いていた大寒桜。
頼義・義家父子と家康が奉納したという大国魂神社ケヤキ並木を
武蔵野の司の道にうゑつぎていやさかえゆくけやき並みかな
しかし八幡太郎が千本植えてさらに家康が補充したはずなのに現在は150本しかなくてしかも並木道の全長は500mもあるっていうのはどういう計算なんだいという。もともとせいぜい100本くらいしか植えなかったんじゃないのかなと。イチョウ、ケヤキの並木、大木が多い。五月頃来るとまた美しいのだろう。
二宮金次郎
菜の花の 咲けるをりには 思ひやれ 身を立て世をも 救ひし人を
「歯がない」と「はかない」をかけて
をさなごの歯の生えかはりゑむかほのはかなきものは春ののどけさ
をさなごのはかなきかほをながめつつ春のひと日を過ぐしつるかな
またたばこ
いたづらに立つや浅間のけぶり草目には見えでもけむたきものを
> もろこしの砂も降り来る春の日の夜半は嵐を聞きつつぞ寝る
> 雨風はきのふの夜こそはげしけれけふはしづけく春ぞ更けゆく
> をちこちの花咲く野辺にうたげせむ日どりばかりぞまづ決まりゆく
> 惜しまずやあたら月日を春さればつとめもしげくなりゆくものを
> いにしへの大宮人よわれもまたいとましあらばうたげせましを
> わが宿ののきばに出でて草まくら旅寝ごこちの春を楽しむ
> ぼんやりとけふも暮らしつかかる日のあはれこのまま続かましかば
> なりはひのわざにつとめばなかなかにいとまなくとも歌は詠ままし
> うららかに晴れたる春を惜しむべしけふぞ過ぎなばいとまなからむ
> つのぐみて咲かむとみゆるこずゑかなをみなをのこら日を数へてぞ待つ
> ことしげき日々ぞ待ちぬる春過ぎてあはれ浮き世の夢も醒めなば
> おもひやれ四十ぢのをのこいかばかり国に貢ぎて世を支へてむ
> あしびきのやまどりのをのしだりをのしだれ桜をけふこそは見め
[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)がおもしろい。
「ますらを」で検索すると一番古いので金葉集。つまり万葉集はともかく古今集辺りでは「ますらを」は一切歌に詠まれなかったということだ。
> 雨降れば小田のますらをいとまあれや苗代水を空にまかせて
勝命法師という人の歌。新古今集。苗代に水を引く農夫が、雨がふったので、その手間がいらず、ひまなのだろうか、というのんきな歌。
> ますらをは同じふもとをかへしつつ春の山田に老いにけるかな
俊成の歌なのでだいたい新古今時代。同じ山のふもとを耕しつつ農夫は春の山田に年老いていくのだなあ。
これまたのんきな農夫の歌。
新古今時代は「ますらを」とは「農夫」「山人」「狩人」などを意味していたようだ。
> ますらをもほととぎすをや待ちつらむ鳴くひとこゑに早苗とるなり
藻壁門院但馬(知らん人)。農夫もほととぎすの声を待っていたのだろうか、一声鳴いてから早苗をとった。これまたのんきな話だわな。
> ますらをの海人くりかへし春の日にわかめかるとや浦つたひする
「ますらをのあま」で漁師。まあ「あま」だけでも大差ない。
> ますらをも月漏れとてや小山田の庵はまばらに囲ひおくらむ
誰の歌かよくわからん。
農夫も月の光が漏れるようにと小山田の庵はすきまだらけに作るのだろうか。
ふーむ。
どうも、「ますらを」「しづのを」「やまがつ」「あま」などは同じような意味だったようだな。
農業や狩猟、漁労などの第一次産業に携わる男たち。
万葉時代とはかなり違う使われかたのようだ。
宣長よりも頼山陽は50年も後に生まれてきている。
宣長は頼山陽が21才の時まで生きているが、これは山陽が江戸遊学中に出奔するのとほぼ同じ時期。
ほとんどなんの接点もなくても仕方ないと言える。
宣長は本人の自覚としては「歌学の中興の祖」であったはずだが、
当時の社会は「歌学の中興」などというものは欲しておらず、「国学」だとか「尊皇攘夷」というものを望んでいた。
武士道というものを国民精神にまで高めることを望んでいた。
そのために宣長の意図は一切無視され、凡百の思想家たちに好き勝手に利用される過程で封印された。
ヒエログリフを解読したシャンポリオンのように、
エニグマや紫暗号を解読したチューリングのように、
単なる暗号の解読者として重宝がられもてはやされたが、その思想はゴミくずのようにはぎ取られ捨てられた。
師にも弟子にも理解されなかった。孤独な人だった。
敗戦後、戦前思想の粛清の嵐が吹きすさんでも、戦前までに作られたそうしたステレオタイプは、
現代人にも無意識のフィルタとしてほぼ無傷に受け継がれた。
今でも理解されてない。
こうした暗黙のフィルタの強靱さは驚くべきものだ。
江戸時代の学者というのはたいていそんなふうに利用されてきた。頼山陽もまた同じように利用されたと言えなくもない。
しかし50年後の江戸末期に生まれてきた山陽は、宣長よりもずっとそうした時代精神に素直であり、
自ら進んでその役を買って出たようにも見える。
山陽が死んだ1783年というのは幕末動乱のほんの手前であって、
幸か不幸か、たとえば80才まで生きていたらどうなったか(つまり安政の大獄で息子三樹三郎が処刑される頃まで)と思うと興味深くはある。
あいかわらず小林秀雄宣長本13章辺り。
ややはしょって引用するが、
> 文学の歴史的評価というものは、反省を進めてみれば、疑わしい脆弱な概念なのであるが、
実際には、文学研究家たちの間で、お互いの黙契のもとにいつの間にか自明で十分な物差しのような姿をとっている。
> 過去の作品へ至る道は平坦となってもはや冒険を必要としないように見えるが、
傑作は、理解者・認識者の行う一種の冒険を待っているものだ。
機会がどんなにまれであろうと、この機を捕らえて新しく息を吹き返そうと願っているのだ。
もののたとえではない。
宣長が行ったのはこの種の冒険だった。
なかなかおもしろい。宣長を語りながら自分自身を語っているのだろう。
傑作は冒険者を待っており、そのまれな機会を利用して何度でもよみがえろうとしている。
読書とはそういう種類の冒険であると。
ふーむ。
「まこと」と「そらごと」を超えたところにあるのが、創作だろうし、
ファンタジーというものだろうな。
現代のオタク文化に通じる肝酢。
宣長のことを調べてるといろんなことが。
日露戦争の軍費を調達するために煙草が国の専売になって、
最初に作られたのが「敷島」「大和」「朝日」「山桜」
だったそうだが、これは宣長の歌にちなむという。
宣長が愛煙家だったからだそうだ。
[JTのサイト](http://www.jti.co.jp/sstyle/trivia/study/history/japan/04_1.html)
/
[楽天のサイト](http://item.rakuten.co.jp/plaza/c/0000000435)
口付たばことは、円筒状の中空のやや厚手の口紙というものを両切りたばこの片側のはしに取り付けたもので、
口紙を口にはさみ、つぶして吸ったらしい。
要するに口紙とはキセルの吸い口の代用品ということだ罠。
wikipedia 読んでるといろいろ愉快なことも書いてある。
> 金鵄あがって十五銭 栄えある光三十銭 朝日は昇って四十五銭 鵬翼つらねて五十銭 紀元は二千六百年 あゝ一億の金は減る
元歌。
> 金鵄輝く日本の 栄えある光身にうけて いまこそ祝えこの朝 紀元は二千六百年 あゝ一億の胸はなる
神風特攻隊の最初の四部隊も「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」
と名付けられたそうだ。
> 道の辺の尾花がもとの思ひ草今更になど物か思はむ
「尾花が本」「思ひ草」ともに煙草の異称としても使われている。
たしかに、明治時代には「[敷島](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%B3%B6_(%E6%88%A6%E8%89%A6))」「[大和](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97))」「[朝日](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5_(%E6%88%A6%E8%89%A6))」
ともに軍艦の名前としてある。
しかし「山桜」は見あたらない。
またこれらが宣長の歌にちなむかどうかは、建造時期が違うのでなんともいえない。
しかし、敷島と朝日は同じ[敷島型戦艦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%B3%B6%E5%9E%8B%E6%88%A6%E8%89%A6)
であり、宣長の歌にちなむと見てよく、すると宣長の歌が日本政府に利用された一番最初の例は戦艦の名前と言って良いのかもしれん。
すごい人気である。
> 子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。
子曰く、詩経にある三百ほどの詩について一言で言えば、よこしまな思いが無いということだと。
宣長が引用し、それを小林秀雄が指摘したと思うと趣深い。
小林秀雄「本居宣長」12章を読む。
なんとなく読み飛ばしていたが、おもしろい。
> 契沖は、学問の本意につき、長年迷い抜いた末、我が身に一番間近で親しかった詠歌の経験のうちに、彼のいわゆる「俗中之真」を悟得するに至った。
などと言っている。
小林秀雄本人はともかくとして契沖は「学問の本質とは詩歌だ」と言っているのだ。
また契沖の所感として
> たとえ儒教を習い、釈典を学べども、詩歌に心おかざるやからは、俗塵日々にうず高くして、君子の跡十万里を隔て追いがたく、
開士の道五百駅に障りて疲れやすし
をあげている。
契沖自身膨大な歌を詠んだが、誰も彼の歌をうまいと評価はしなかった。
また歌論すら残さなかった。
そこで小林秀雄は
> 宣長が直覚し、我がものとせんとしたのは、この契沖の沈黙である。
と言い、その最初の発露が、真淵に会う以前にすでに京都遊学中に書かれたという「あしわけおぶね」であって、
その中に
> 歌の道は、善悪の議論を捨てて、もののあはれと言うことを知るべし。
源氏物語の一部の趣向、このところをもって貫得すべし。ほかに子細なし。
とまで書いている。
つまり、契沖にしろ、宣長にしろ、またおそらくは小林秀雄本人の意見も、
学問の本質は歌である、源氏物語の「もののあはれ」の本質は歌である、古事記を研究材料としたのも歌に使われる詞の用例を調べるためである、
と明確に述べている。
くどいが、近代小説の先駆けとしての源氏物語を発見したのでもない。
古神道を発掘し復元するために古事記を解読したのでもない。
すべては歌のためだというのである。
ここまで明瞭に書かれているのに、小林秀雄を読んだ人たちの感想なり評価は決してそのようには見えない。
実に不思議だ。
だいたいにおいて宣長という人の思想を本気で理解しようとはしてなさそうな上に、
理解はしつつ「歌」という中核の要素だけが抜け落ちている。
「歌」は現代人にとって盲点なのか。
たぶん現代日本人は「歌」を知覚する以前にふるい落とす無意識のフィルタを持っているに違いない。