俗中之真

小林秀雄「本居宣長」12章を読む。
なんとなく読み飛ばしていたが、おもしろい。

> 契沖は、学問の本意につき、長年迷い抜いた末、我が身に一番間近で親しかった詠歌の経験のうちに、彼のいわゆる「俗中之真」を悟得するに至った。

などと言っている。
小林秀雄本人はともかくとして契沖は「学問の本質とは詩歌だ」と言っているのだ。
また契沖の所感として

> たとえ儒教を習い、釈典を学べども、詩歌に心おかざるやからは、俗塵日々にうず高くして、君子の跡十万里を隔て追いがたく、
開士の道五百駅に障りて疲れやすし

をあげている。
契沖自身膨大な歌を詠んだが、誰も彼の歌をうまいと評価はしなかった。
また歌論すら残さなかった。
そこで小林秀雄は

> 宣長が直覚し、我がものとせんとしたのは、この契沖の沈黙である。

と言い、その最初の発露が、真淵に会う以前にすでに京都遊学中に書かれたという「あしわけおぶね」であって、
その中に

> 歌の道は、善悪の議論を捨てて、もののあはれと言うことを知るべし。
源氏物語の一部の趣向、このところをもって貫得すべし。ほかに子細なし。

とまで書いている。
つまり、契沖にしろ、宣長にしろ、またおそらくは小林秀雄本人の意見も、
学問の本質は歌である、源氏物語の「もののあはれ」の本質は歌である、古事記を研究材料としたのも歌に使われる詞の用例を調べるためである、
と明確に述べている。
くどいが、近代小説の先駆けとしての源氏物語を発見したのでもない。
古神道を発掘し復元するために古事記を解読したのでもない。
すべては歌のためだというのである。
ここまで明瞭に書かれているのに、小林秀雄を読んだ人たちの感想なり評価は決してそのようには見えない。
実に不思議だ。
だいたいにおいて宣長という人の思想を本気で理解しようとはしてなさそうな上に、
理解はしつつ「歌」という中核の要素だけが抜け落ちている。
「歌」は現代人にとって盲点なのか。
たぶん現代日本人は「歌」を知覚する以前にふるい落とす無意識のフィルタを持っているに違いない。

反実仮想まとめ

「まし」「ましものを」「ましを」の使い方だがいろんなバリエーションがあることがわかったので、まとめてみる。

まず、一番確実でわかりやすいのは「AましかばBまし」または「AましかばBましものを」というパターンで、
「もしAだとしたらBなのだが」となる。
Aは今の現実をあえて否定し無視した別の仮定。つまり反実仮想。
現実はAではないので、Bが導かれることもあり得ない。

あるいは、Aはほぼあり得ない、可能性がありそうもない、絶望的な希望。
つまり反実希望。
実際にはAはありえないので、Bが実現することもない。

もし宝くじにあたったら遊んでくらせるのに、
もし私が宇宙人なら人間をこらしめてやるのに、
もし私が男なら私は女を捨てないのに(笑)のようなもの。
実際はAは単なる仮定ではなく好悪の感情が込められることが多い。
ファンタジー系の実現不可能な願望とか。
逆に強烈な嫌悪からくる拒絶とか。

> 山里に散りなましかば桜花匂ふ盛りも知られざらまし

桜の花が山里に散ってしまったとしたら花の盛りも人に知られることはなかっただろうに。
たわいない例ではあるが、実際には花は山里ではなく人目につくところで咲きそして散ってしまったので人に知られてしまった、ということ。
もちろん桜の花にわが身をなぞらえた比喩であって、
失恋かなにかが人目について知られてしまった、というような意味だろう。

> 暁のなからましかば白露のおきてわびしき別れせまし

暁というものがなければ、別れなどしないのに。実際には暁があるので別れもある。
最後に「や」が付くので反語的に「別れなどしようか、いやしない」と訳すとよいかも。

「Aましかば」だけのパターンもあるが、これは「よからまし」「よからましものを」「あらましものを」「うれしからまし」などが省略されたと見て良い。

> 春くれば散りにし花も咲きにけりあはれ別れのかからましかば

春が来て去年散った花もまた咲いた。別れというものがこのようなものであったなら(よかったのに)。

「Aましかば」の部分が単なる疑問形となった「AばBまし」というものも多いが、「AましかばBまし」とほぼ同じ。
互いに代用がきくと考えてほぼ間違いない。

> 恋せず人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る

冗長ではあるが「恋せざらましかば人は心もなからましものを」でも意味は同じわけだ。
もし恋をしなければ人には心もないだろう。
ふつうは恋の一つや二つはするので人には心がある、となる。

> 世の中に絶えて桜のなかりせ春の心はのどけからまし

世の中に桜がまったくなかったとしたら、春の心はのどかだろうに。
世の中には桜があるから春の心はのどかではない、という意味。

> 待てと言ふに散らでしとまるものなら何を桜に思ひまさまし

待てと言えば散らずにとまるものであれば、桜の花に対する思いがこれほどまさることもないのに。
実際には散るなと言っても散るので思いがまさる、という意味。

> うれしく忘るることもありなましつらきぞ長きかたみなりける

うれしい思いは忘れることもあるだろうが、辛い思いは長く忘れないものだ。

> 夢ならまた見るよひもありなまし何なかなかのうつつなるらむ

夢ならばまた見る宵もあろうが、どうして現実ではとうてい会うのがむずかしいのだろう。
「何」があるので疑問として訳してみた。
小野小町のなかなかおもしろい歌。
上の二例は、自分の当面の関心事とは正反対の場合を仮定しているので、反実仮想という範疇に入るのだろう。
別にふつうに「ありなむ」でも意味は通じるわな。
あるいは「ありやせむ」とか。

「Bまし」「Bましものを」だけのパターン。

> ひとりのみながむるよりはをみなへし我が住む宿にうゑてみまし

「ひとりのみながむるよりは」が架空の前提になっている。
女郎花を独りでながめるよりも、自分の家に上でみなで見ればよいのだが。
植えてないので実際には見れないのだが、しかし不可能な絶望ではない。
むしろじゃあ植えればいいだろと思う。
どうしても植えられない理由でもあるかのようだ。庭がないとか、家が狭いとか、借家なので大家さんに怒られるとか(笑)。

疑問の助詞が混じると不可能性が減り、不確実さが増す。
単なる希望や、のぞみのありそうな希望に近づくようだ。

> 秋の野に道もまどひぬ松虫のこゑするかたに宿からまし

秋の野で道に迷ったので、松虫の声のする方に宿を借りたいのだが。
宿はあるかもしれないしないかもしれない。

> いづくにて風をも世をも恨みまし吉野のおくも花は散るなり

これも「いづくにて」が付くことによって、不可能ではなく不確定、疑問になっている。
吉野の奥でさえ花は散るのに、いったいどこで風や憂き世を恨めばよいのだろうか。
「いづくにて風をも世をも恨みばや」でも良さそうなものだが、
この定家の歌は、定家というのは仏教的諦念というか無常観というかそういうものが、
西行と同じくらいに強い傾向があるのだが、結局生きてこの世にいる限りどこへ行こうと世を捨てて世を恨むなどということはできない、
というのが結論なわけであり、
不可能の形をとった疑問のような結局は不可能、ということを表したいのだろう。
だから「ばや」ではなしに「まし」が使われている、と考えると納得がいく。

「AともBまし」。
「とも」と組み合わさると「ば」「ましかば」のような単純な反実ではなくて、
逆説的な強い願望と解釈した方が良い用例が少なくない。
つまり、「たとえAだとしてもせめてBであってほしいのだが」と訳すとぴったりくるパターン。
Aは受け入れねばならないつらい現実、或いは譲歩可能な条件。
Bはぎりぎり叶って欲しい願望。
もともとの「まし」の意味合いを考えれば強い意志というよりは、
実現が怪しく疑わしいが切実に望む感じではあるまいか。

> 梅が香を袖に移してとどめては春は過ぐともかたみならまし

たとえ春は過ぎても形見になって欲しいのだが。

> 片糸の思ひ乱るる頃なれやことづてすともあはましものを

六条修理大夫。たとえ伝言を頼んででも逢いたいのだが。

> 急ぐともここにや今日も暮らさまし見て過ぎがたき花の下かげ

たとえ急ぐとしてもここに今日も暮らしたいのだが。
上、三例、いずれもどのくらい不可能性が高いのか、定かでない。
急ぐというのがとても緊急であれば限りなく不可能に近い、とも言えるし、
ことづてするのが事実上不可能なのかもしれない。
いずれにしても不可能性が限りなく強い事案に対してその逆を強く願望する、と理解すべきだと思う。

> 春浅き飛ぶ火の野守り点けずとも雪間の若菜まづやつままし

春が浅く、たとえ野守が飛ぶ火に火をつけなくとも、雪間の若菜をさっそくつんでみたいのだが。

> 散りぬとも面影をだに山桜忘れぬほどや花になれまし

たとえ散ってしまったとしても、山桜のおもかげを忘れないほどに花に馴れておきたいのだが。

用例探しはこれくらいで十分だろうか。結論として

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

> たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしてもせめて大和魂だけは留めおきたいのだが

と訳すのが正解、ということになろうか。
「身が武蔵野の野辺に朽ちてしまう」というのがまだ実現してないが、
近い将来確実に来ることの仮定。
たとえそうだとしても、
とどめ置きたいものだ、ということになろう。
「必ずとどめ置くぞ」というような固い決意ではあり得ないだろう。
そういう用例は、探せばあるのかもしれないが、一般的ではない。
吉田松陰のような人がそんなトリッキーな和歌を詠むとは思えない。

もっと複雑で、「CばAともBまし」という形もあって、
「とも」が薄まり、
上の逆説願望よりも反実的要素が強く、
「もしCならばたとえAだとしてもBだっただろうに」
となる。このパターンは割と多い。和泉式部とか。

> 待つ人のなきよなりせ聞かずともあめふるめりと言はましものを

待つ人が居ないならば、たとえ聞かれなくても、雨が降るようだと言っただろうに。
実際には待つ人がいるので聞かれてから言った、ということか。
待つ人のあてがないので振るとは言いたくなかったということだろうか。よくわからん。

> 霞だに立ち遅れせ新しき春の来るとも知らずぞあらまし

もし霞が立つのでさえ遅れたならばたとえ新しい春が来たとしても知らないでいるだろうに。
実際には霞がたったので春が来たことを知った、となる。

> わかるべきわかれなりせ思ふとも涙の道にむせばましやは

「やは」が付いているので反語的に訳し、
もし当然別れるべき別れだとしたらたとえ思いつづけていたとしても涙にむせんだでしょうか。
ややこしいな。別れるべくして別れるのであればこんなに泣くことはなかっただろうという意味だろうな。

> ときはなる峯の松原春くとも霞たたずいかで知らまし

これも「いかで」が付くので反語的に訳し、
峯の松原は常緑なので、たとえ春が来たとしても、霞が立たなければ、春が来たことをどうやって知るだろうか。
いやはやややこしい。

補足。
「まし」は助動詞「む」から来ているのはまあ間違いなく、
「む」は単なる推測のようなものから強い願望まで意味する。
したがって「まし」が「のどけからまし」のように単なる推測として訳せば良いこともあるが、
「やどやからまし」のように願望として訳すべきときもある、ということだろう。
だから「AともBまし」は願望として訳して正解なのだ。

さらに補足。
「ば・・・まし」や「とも・・・まし」などの用例は古語辞典にも載ってない。
少し困った。

さらに補足。
「もしCならば、たとえAだとしても、Bしただろうか、いやしない」などという複雑な文法構造の歌を31文字で詠めるというのは驚異。
高度な修辞技法と重層的なオマージュによって屈折した心理を短い詩形に読み込むのが和歌。
しかし俳句にはそれは無理だ。
俳句は文法をあらかた捨てた。
正岡子規の

> 敦盛の鎧に似たる桜哉

を例に挙げるまでもないが(余談だが、しだれ桜が全体に釣り鐘のように垂れていて、鎧直垂のように見えるという意味かと思ったのだが、須磨で詠んだ句らしく「敦盛の鎧に似たり山桜」「敦盛の鎧に似たる山桜」の形もあり、では山桜を詠んだかとも思うが、題が「糸桜」つまり「しだれ桜」だからややこしい)、
いくつかの名詞、あとは形容詞か動詞が一つかせいぜい二つ。あとは助詞。
俳句には圧倒的に助動詞が少ない。
助動詞の役割の重さというのが和歌と俳句の違い。
助動詞が生きるには17文字3句では足りず31文字5句が要る。

今の短歌というのは俳句をのばしたようなもの、冗長な俳句のようなもので、
17文字で足りないから31文字にしたようなものが多い。
一度、和歌から俳句になるときに捨てたものをもう一度学び身につけるのはおそらく不可能。
俳句のような「単純明快な文形」をただ文字数を増やしただけでは「高度な修辞技法と重層的なオマージュ」には出来ない。
ただ文字数を増やすだけだとリフレインくらいにしかならない。「塔の上なるひとひらの雲」とか「針やはらかく春雨のふる」とかがそう。
あるいは上の句と下の句が別々の俳句になっているがごとき。

さらに追記。
「まし」はもともと事実と反することを述べるが、
「や」「か」「やは」「かは」「いかに」などの疑問や反語の助詞などが付くと意味がそちらにひっぱられて、
もともとは「あるとよいのに」という諦めにもにた境地だったのが、
「ありえるかもしれないよね」「ないといえるだろうか、いやある」のような意味になる。
「とも」がつくと「あるとよいのに」が「ありたいのだが」まで変わってくる。
このように組み合わせによってはかなり本来の意味から離れた使い方をする、
ということが用例を調べることでわかってくる。
おそらく「あるとよいのに」「ありたいのだが」くらいまでが安全圏で、
「きっとあるぞ」とか「かならずある」「ゆめうたがうことなかれ」などと訳すとやり過ぎなのに違いない。

とも・・・まし

竹取物語を読んでいたら

> いたづらに身はなしつとも玉の枝を手折らでただに帰らざらまし

という歌があり、これは松陰の辞世の歌にそっくりだ。

> たとえ死んだとしても玉の枝を取らぬままに帰ることはなかっただろうに

とでもなるか。つまり「帰らなかったかもしれない」が実際には「生きていたので帰ってきた」のである。
反実仮想である。同じ具合に

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

> たとえ身は武蔵の野辺に朽ちたとしても大和魂だけは留めおくだろう

となるか。
事実に反することを言っているとしたら、「留め置きたい」かったが「留め置けなかった」というのが結論にならざるを得ないが、
他の用例などみると上の程度に訳しても良さそうな気がしてきた。
「たとひAともBまし」という用例があって、
「たとえAだったとしてもBしただろうに」または
「たとえAとなろうとBだろう」などと訳せばよいか。

> 梅が香を袖に移してとどめては春は過ぐともかたみならまし

梅の香りを袖に移して留めたので、たとえ春が過ぎたとしても形見になるだろう。
春が過ぎたころには梅の香りも消えてしまって形見にはならない、と反実仮想に訳すまでもなく、
逆接的な強い願望として訳せば良いのではないか、少なくともこの用例では。

> 住吉の岸におひたる忘草見ずあらまし恋ひは死ぬとも

たとえ恋しくて死んだとしても見ないでいただろうか。

> 風だにも吹き払はずは庭桜散るとも春のほどは見てまし

和泉式部。
風さえ吹き払わなければ、庭桜がたとえ散ったとしても、(散った花びらが残っているので)春のようすは見ただろうに。
実際には風に吹き払われてしまったので、春のようすは見れなかったのである。
これは割とわかりやすい。

> 命だにはかなからずば年ふともあひみむことを待たましものを

命さえはかなくなければたとえ年を経ても逢い見ることを待っただろうに。
実際は命がはかないので待たなかった。
これもわかりやすいな。

小林秀雄 源氏物語

連休だがまったく予定がない。前倒しで仕事を片付けておくというのが一番生産的なのだが、あまりやる気にならない。
最近宣長関連を読んでばかりだったので桜の咲くのが妙に待ち遠しくなった。
「極道めし」を読むと卵かけご飯が食べたくなるようなものだ。
山桜をぼーっと眺めてみようかとも思う。
この際、山鹿素行あたりを一気読みしてやろうかなどとも思うがきりがない。

仕方ないので小林秀雄の「本居宣長」を読み続ける。
ついでにネットでいろんな人がこの本を読んでいる感想を読んでみるのだが、
だいたいみんな私と同じようなこと考えながら読んでるなと思う。
小林秀雄を読みながら宣長全集も読んでいる、という人は不思議とあまりいないようだ。

はっきり言って、まったく読みにくい。十年以上にわたってとりとめもなく書き継がれたものだから、
としか言いようがない。
たとえて言えば神懸かりになって着想の湧くまま筆先の動くままに書いたような、
思いつくままに整理せず書き連ねたというような文章だ。
あるいは意図的に「しどけなく」物語るように、論文というよりは随筆のように書きたかったのかもしれんが、
読んでる方としてはどうか。
どこに何が書いてあるかというくらいで良いので解説があるべきだと思う。
ただこの本はまだ解題や校注付きで出版されるような「古典」ではないというだけだろう。

源氏物語のあたりをまとめて読む。
13から18章までの部分。
宣長どうこうというよりは源氏についての話なので以前は読みとばしてた。
しかし読んでみるとなかなか全体の中でも読み応えのある箇所ではある。
「もののあはれ」を知るということが源氏物語の本質であり、
「もののあはれ」を知るからこそ光源氏はこの物語の主人公として紫式部に取り上げられたのであって、
しかも源氏物語とは本質的には歌物語であって、
そこから導かれるのは男女の間の歌のやりとりこそが「もののあはれ」を知るということだ、となる。
これは歌をあまりにも過大評価した言い方だろうか。
しかし、小林秀雄も

> 詩と袂を分かった小説が、文芸の異名となるまで、急速に成功していく、誰にも抗しがたい文芸界の傾向のうちに、私たちはいる。

と言っている。
事実、中世では文芸といえば物語よりも詩歌の方が優勢だった。
また物語の中にも歌がふんだんに引用されていた。
平家物語や吾妻鏡ですらそうだし、古くは古事記も、竹取物語・伊勢物語・土佐日記みんなそう。
後鳥羽上皇の時代の文壇といえば、まずは和歌だろう。
小説全盛時代といえる現代ではこのあたりがたぶん感覚的にピンと来ないはずだ。
だいたい、仮名漢字変換で「かがくしゃ」とやると「化学者」「科学者」は出てきても「歌学者」は出てこない。
これほどまでに現代人にとって歌というものはうといものなのだ。

> 「源氏」は、(坪内)逍遙の言うように、写実派小説でもなければ、(正宗)白鳥の言うように、欧州近代の小説に酷似してもいないが、
そう見たい人にそう見えるのをいかんともし難い。

かつて物語は、勧善懲悪や啓蒙教育や娯楽といった何かに役立てるためにあるものだったのが、
西洋の影響を受けた近代小説では、ありのままの人間というものを描写するのが小説の役目ということになり、
現代では源氏物語を「もののあはれ」をありのままに描いた近代小説の先駆として読んでしまうために、
逆に本来の源氏物語の姿から離れている、ということになる。

やはり宣長という人を理解しようと思ったら歌というものを基軸にしなくてはわからんと思う。
歌を文芸の価値の頂点においた人なのだよ。
だから詞の用例を学ぶために古事記の勉強もし、歌のやりとりのされ方を学ぶために源氏を学んだ。
ところが、宣長は古事記の研究もしました。
源氏物語では「もののあはれ」という現代小説に通じる本質を見いだしました。
という書き方をしてしまうと、へえっ。いろんなことをやったんだなくらいにしか思えない。
だいたい宣長について書いた本というのはそんな書き方がされているが、
小林秀雄の宣長本は全体としては歌論書として書かれていて、
宣長は歌学者として描かれている。
ここが小林秀雄が他より理解の度合いが深いと知れる点だと思う。

定家は源氏物語を評して詞花言葉をもてあそぶようなものと言い、
また俊成は「源氏見ざる歌読みは遺恨のことなり」と言った。
要するに当時は歌があり、詞があり物語があり、
それ以上でも以下でもなかった。その主人公としての光源氏がいて、紫の上との恋愛があって、
歌のやりとりがあって、物語があったのだ、ということになる。
恋愛至上主義でもなければことさら猥褻をねらったわけでもない。
それは別に写実でもなければ現実主義でもなく、
またそれらの思想に基づいて現代語訳された源氏を読んでも、
意味はわからない、というのが宣長の、また小林秀雄の結論ということになる。

そのほかいろんな解釈が紹介されている。

源平争乱の頃にはすでに、上流男女の乱脈な交際の道を、狂言綺語を弄して語った罪により、作者は地獄に落ちたに違いないので、
供養してやらねばならない、といういわゆる「紫式部堕地獄論」というものがあったらしい。

それから、源氏物語は単なる架空の物語ではなく、歴史的な事実を反映していて、
もとの史実と対応づけることによって源氏物語を再構成し、
その真意を儒仏的に解釈できるという「準拠説」というものもあったらしい。

契沖は、源氏物語の中の登場人物は一人のなかに良い面も悪い面もあり相混じり合っている、
善人と悪人をきっぱりと分けて論じる勧善懲悪に基づく春秋の筆法とは比較できない、などと言っている。

そのほか森鴎外の源氏悪文説(実際には源氏に対する単なる無関心)やそれに対する谷崎潤一郎の反論、など。
私も源氏物語は読んでも別におもしろいとは思えないので、鴎外や漱石が源氏に冷淡だったというのも、
まったく同感で、これから好きになるかどうかもわからない。
正宗白鳥は英語訳された源氏物語を読んではじめて源氏に感動したので鴎外と違ってまったく率直な悪文論者である、など。

まし

ふと思ったのだが、吉田松陰の留魂録冒頭の

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂

ここで「まし」というのは通常は事実と反することを想像したり希望したりするものなので、
「まし」を古典文法どおりに解釈すれば「たとえこの身がくちても私の魂をとどめおけたら良いのに(実際には留めることはできない)」
となる。
しかし通常は
「この身がたとえくちても魂は留めおくぞ」
のように解釈されるだろう。
「たとひ・・・とも」はふつう逆接的に解釈されるからだ。
この、「たとひ・・・とも」と「まし」はあまり相性が良くはない。
逆接と反実仮想は素直につながらない。
いろいろ悩んだが、うまくなじませるため

> この身が武蔵の野辺に朽ちたあとにも、私の大和魂はとどめておきたいのに。いやたとえ身は朽ちても魂だけはきっと留めてみせる。

ややくるしいが、歌全体を「たとひ・・・とも」による強い希望とし、
その中に「まし」は、未来への不安やためらい、自分の欲しない未来を否定したい強い希望として反語的に挿入されているという重層構造に解釈してみたわけだが。

「まし」は通常なら「もしこうだったならこうするだろうに、しかし実際にはできない」という形になる。
たとえば

> もしわれに死ぬまで足れる金あら明日よりつとめやめましものを

> ひとしげくことまたしげきみやこよりのがれましかばうれしからまし

のように。だが、

> もし身が朽ちな魂を留め置かましものを

では意味をなさない。身に朽ちて欲しいわけではなく、たとえ身は朽ちてもせめて魂だけは残したい、と言いたいわけだから。

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かばや大和魂

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かなむ大和魂

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めて置かむ大和魂

とか、或いは多少口語調だが

> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きたし大和魂

などだとすっきりする。
だが「まし」にはある心理的な屈折がないわな。
「まし」を生かすとすれば、字数合わせは難しいが、

> 身が武蔵の野辺に朽ちしのちまで 大和魂だに 留め置かましかば うれしからましものを

とでもなろうか。
「たとひ・・・とも」「まし」という文法的な危うさが普通でない感じを出していると言えば言える。
しかし普段の詠歌でそういう冒険をするかというと、難しい。
「まし」とか「ましものを」「ましかば・・・まし」は難しいから、つい無難な使い方しちゃうよね。

古典的な用例だと、

> 見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむのちぞ咲かまし

他が散ったあとに咲けば良いのに。
これは事実に反することを想像して、そうなってくれたら良いのにと希望している。
普通の使い方。

> うぐひすの谷よりいづるこゑなくば春来ることを誰か知らまし

これなんかは反語的に使われている。
誰が知るだろうか、誰も知りはしない。
事実に反することを想像し希望しているといえば言える。

> 世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

これも事実に反することを想像し希望している。

> いかにせまし、迎へやせまし、と思し乱る。

源氏物語によく出るパターンだが、
訳としては「どうしたらよかろうか」だが、「いかにせむ」とどう意味が違うのか説明するのは難しい。
ああしようか、こうしようか、どうしようか、というように、ひとつに定まらず、
いろいろとできるかどうかわからないことを仮定し想像しながら悩んでいるときに使うのかもしれん。

> ほにはいでぬいかにまし花すすき身を秋風に捨てやはててん

小野道風。
迷い、ためらいの例。

> あらはれて恨みまし隠れぬのみぎはに寄せし波の心を

小式部内侍。少し面白い歌。

> 六条前斎院にうたあはせあらむとしけるに、みぎにこころよせありとききて、小弁がもとにつかはしける

と詞書にあるので、歌合わせは右と左に分かれて戦うが、水際(みぎは)に右をかけて、右をひいきにしているというので恨んで、という意味になる。
わけがわかるとかえってつまらんな。

国意考

真淵が「にひまなび」と同じ頃に書いた[國意考](http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1765_kokuikou.htm)というものがあるが、
真淵の「大和魂」とはこの「国意」つまり「日本精神」というものを大和言葉に訳しただけのものではないか。
宣長がやった(と思われる)方法で、日本の古典の「大和魂」という用例からその意味を解釈したのではなく、
北畠親房や山鹿素行などに由来する当時の(反儒学的な)武家の思想から来たものだと思う。
なので、中世の「大和魂」の用例と相違があっても特に意に介さなかったのだろう。
「にひまなび」はその題名からしてできるだけ大和言葉で論じようとして、
用語も出来る限り大和言葉に翻訳しようと考えて、そのために「大和魂」という言葉を作り出したのではないか。
たまたま、それだけだったのではなかろうか。
とりあえず、wikipedia などの記述を参考にすれば、
当時は仏教や儒教が伝来する以前の、日本古来の思想や精神というものを、それらの影響を排除して、
できるだけ昔のままに再現し復活させることが国学の目的だと考えられていた。
江戸時代になって幕府によって儒学、特に朱子学が官学と位置づけられ、
急激に隆盛したことに対する心理的反発もあったのだろう。
そこで当然、仏教や儒教に対立する概念としての国意というものが理論武装のために用意され、確立されねばならない。
平安王朝というのはすでに仏教や儒教などによって古来の日本精神というものが変容し、廃れて衰えており、
参考にするに足りず、それらの影響を受けていない記紀万葉などから復元されねばならないというのが、真淵の考え方だったのではなかろうか。

小林秀雄は、「大和魂」という言葉を「発明」したのが真淵であるところまでは突き止めた。
しかし、宣長がやったような古文辞学的な方法をとらず、源氏物語に初出のこの「大和魂」という言葉を、
自分の都合の良いように、中世の用例を無視する形で使ったことを批判している。
しかし、それは現代人から見たときの結果論であり、
というか、「大和魂」の初出を源氏物語に見いだしたという方法論や論法自体が極めて戦後的であって、
当時の真淵にしてみると、
武家政権によって官学とされた朱子学に対抗するための国学というものを打ち立てるというのが緊急の課題であって
(それは古今集の選者となった紀貫之と似たような使命感だっただろう)、
そしてそれは儒学との対抗上、武士の精神としてふさわしい「高く直き」「ますらお」ぶりの「もののふ」というものが、
万葉時代からすでに日本古来の美風として存在しており、外来の学問の存在は不要だというような論法に傾かざるを得なかった。
宣長のような、非常な時間と努力を必要とするような方法は、あまりにも回りくどくて、取りえなかっただろうなと思う。
しかも宣長が至った、「大和魂」とは源氏物語や新古今集などに代表されるような「もののあはれを知る」的なものだという結論は、
国学のためには有害無益だと見えたに違いない。

wikipedia や今のネットの「大和魂」説はだいたい小林秀雄の「本居宣長」か、広辞苑に基づいている。
広辞苑の方が常に新しく改訂されているだけあってより正確だ。
だがおおむね、議論は小林秀雄時代で完結してしまっていて、それからたいして進んでない。
しかし、真淵がなぜ「大和魂」という造語を作ったかという考察が抜けているため、話は混乱してしまっている。
さらに、真淵と宣長の立場の違いというものも、小林秀雄を良く読んでない人はたいてい混同してしまっており、
またほとんどすべての人たちは「大和魂」について新渡戸稲造的なイメージしか持ってない。
一番良くわかっている人でも大野晋、小林秀雄らの説までだ。
こんな具合で「やまとだましい」について正確に把握している「やまとびと」は実はほとんどいないという状態になってしまっている、
というおそるべき結論に達してしまう。

ヨドバシ

たしかにヨドバシって、家電量販店な面もありつつ、
カメラ専門店でもあって、かつ自作PCとかもある程度はやってて、
そこは採算的には大したもうけじゃないか知らんが、量販店とかスーパーとかの泥沼の戦いからは距離を置いている。
長期的にはその方が安定してやっていけるということか。
地方郊外型でテレビ白物家電の他はホームセンターと大差ないとことはやっぱ棲み分けてるんだろうが、
ヨドバシ以外はそこまで体力ないか。
というかカメラや自作PCを切ってるところが狙い撃ちにあってるよな。
そこを切るともう、差別化できないから、あとは物量戦に巻き込まれる。
あと、自作PCだけとかになると今度は秋葉とかしか生きていけない。
家電量販+専門店という絶妙なさじ加減なのだろう。
あとヨドバシはスケールメリットもすごいよな。
あんだけのものを作ると後から出店するにもひるむ。
逆に、ちょっと中途半端な規模だと後からもっと大きな店が来るとつぶされる。
プラモやゲームやDVDなどを取り込んでるところもわかってらっしゃる。

やっぱ聖地秋葉原に巨大店を出店したあたりからして、戦略的にかなり前から読んでいたということか。
オタは駅前にしか来ないし。郊外に車で買いにはいかんわな普通。

賀茂真淵の大和魂

賀茂真淵にいまなびによれば、

女の歌はしも、古は萬づの事丈夫に倣はひしかば、萬葉の女歌は、男歌にいとも異ならず。

かくて古今歌集をのみまねぶ人あれど、彼れには心及さく巧みに過ぎたる多ければ、下れる世人よひとの癖にて、
その言狹せばく巧めるに心寄りて、高く直き大和魂を忘るめり、とりてそれが下に降くだちに降ち衰えつゝ、終に心狂ほしく、言狹小ささき手振となん成りぬる。

女の歌も古い時代には何事も丈夫であって、万葉の女歌は男歌と大した違いはなかった。古今集の時代によると言葉を狭く巧むようになって高く直き大和魂を忘れ、だんだんと衰えて言葉狭く小さくなっていった、とある。

末の世にも、女をみなにして家を立て、鄙つ女にして仇あたを討ちしなど少なからず。かゝれば、此の大和魂は、女も何か劣れるや。まして武夫ものゝふといはるゝ者の妻、常に忘るまじき事なり。

末の世でも女が家を建てたり、田舎女で仇討ちをしたりするものが少なくない。このように考えれば大和魂というものも女が劣るというものではなく、まして武士の妻というものは常に忘れるべきではない、と。

こうしてみると、「大和魂」「大和心」という用例は源氏物語や赤染衛門が初出であるのに、その精神は万葉時代からすでにあったという論法だ。確かにそのようなますらおぶりな、高く直き心というものは、古くからあり、また近世の武士にもあるかもしれないが、それを「大和心」「大和魂」と呼んでしまうと、中世の用例と齟齬ができてしまう。

いったい全体、賀茂真淵のような用例はいつ頃から誰が言い始めたのだろうか。賀茂真淵がいきなり始めたこととはとても思えないのだが。「にひまなび」は1765年成立とあるから、宣長が35才のときにはすでにこのような説があったということだな。真淵と宣長がはじめて松坂で面会するのは1763年。国学者が「大和魂」などと言い始めたのはいつかってことは、たとえば小林秀雄の追求も真淵までで止まっており、そこからさかのぼってはいない。北畠親房「神皇正統記」、山鹿素行「中朝事実」あたりが怪しいと思うのだが。

うーん。やはり、それらしい思想はすでにあったけれど、その思想にそのものずばり今日の意味の「大和魂」という言葉を「発明」し当てはめたのは、やはり賀茂真淵なのかもしれない。そういうことはうまい人だったのだろう。宣長は真淵の弟子ということになっているので、宣長も真淵と同じような意味に「大和魂」という言葉を使ったに違いない、という誤解はあり得ただろうし、宣長よりは真淵の意味の「大和魂」の方が勇ましくてわかりやすいので、宣長の主張はかすまざるをえなかったということかもしれん。

地名づくし習作。

> たばこぐさともに飲み食ひするがなる富士のけぶりのけぶたくもあるか

ええっと。「飲み食いする」と「駿河」がかけてあるわけです。

> しらぬひの筑紫しまねの峯の湯の湧き捨つるほど歌は詠まばや

> 蝦夷島の人も通わぬ山の湯におびただしくも湧く歌もがな

> 伊豆山に千とせふりにし走り湯の果つる世もなく歌は湧かなむ

> うつせみの代々木の杜に絶えもせで湧く水のごと歌も出でばや

敷島の大和心の謎まとめ暫定版

結局、「敷島の大和心」に類する宣長の言い回しは発見できず。
とりあえずのまとめ。

44才の時の自画像には「めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」
とある。鈴屋集など自選集にもたびたび掲載されている。こちらには山桜も描かれてる。
この年、ものぐるおしいほど異様な桜に対する執着を歌った歌がたくさんある。
この歌と同工異曲だとして補助線としてこの歌を利用することが許されれば、
珍しい外国の花よりも朝日に匂う日本古来の山桜を愛するのが洋才漢才でなく和魂というものだ」と解される。
特に「やまと」を「こまもろこし」に対比させる意味に使っている可能性は宣長自身の用例からかなり高い。
漢意に囚われず大和心をしっかり固めれば外国の花より桜の花の方がずっと良いのだ、ということ。
つまり、自分の桜に対する異常なまでの愛着と国学への心構えを同時に述べたものと考えられなくもない。
たまたま花が例に挙げられているが、さらに広く解釈すれば、
珍しい舶来ものをありがたがらず、日本古来の独自のものを愛するのが大和心だよという、宣長らしい教えにたどり着く。

61才の時の自画像には「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」とある。
還暦を迎えて功成り名を遂げて、弟子も増え、自分の学問も広く世の中に知られるようになり、
ライフワークにも一区切りついて(とは言っても「古事記伝」はまだ脱稿してない)、
後世に残すというつもりで書いたものだろう。
自選集にはない。
ここで、この歌には特に重要な意味があり、またその自画像と切り離せない意味があるために、
自選集に載せなかったという解釈もできるが、
どちらかと言えば、大して重要ではなかった、大してうまいできではなかったので、自選集に入れなかった、と考えた方が良いのではないか。
およそ宣長の歌は読めばすぐに納得の行くわかりやすい歌がほとんどであり、
何かをほのめかしたような、
禅問答のような、
意味不明な歌というものは一生懸命探しても滅多には見つからない。
意味がすっと通らないという意味において、良い歌ではないと判断した可能性が高い。
44才の自画像の歌の補足として考えると極めてわかりやすいのだが。
なので、それ以上の意味はないのかもしれない。

大和心、大和魂などの用例は古くは大鏡、赤染衛門の歌などにある。源氏物語と今昔物語にも一例ずつある。
学問として学んで得た漢籍仏典などの「机上の空論」に対して、日常生活から得られた実体験に基づく「生きた知恵」、
機転や工夫、世の中で生きていく上での才覚、甲斐性みたいな意味に使われている。
具体的には商才、実務を裁く能力、戦争を指導し遂行する能力、災難や危害から逃れる機転や深慮、
家事をやりくりする能力、などのこと。
「やまとうた」は古今集の時代にはすでに表向きの「朝廷における漢学の素養」に対する「日常生活の仲間や親子や男女の間でやりとりされる歌」
という意味に使われていた。
というかそもそも古今仮名序に初めて使われた用語で、漢詩に対してわざわざ断る意味で、「やまと」歌と呼んだわけだ。
ここでもまた外国と日本の対比として使われているが、明らかに宣長の使い方とは違う。
違うけれども、宣長という人は、過去の用例というものに極めて神経質で、最大限に配慮した人だから
(つまり「語釈は緊要にあらず」として、古語を自分の都合の良いように解釈せず、用例を最優先した)、
「外国と日本の対比」という意味合いだけは決して外してないものと考えて間違いないと思う。

近世では滝沢馬琴の椿説弓張月に「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど多くは慮の浅きに似て、学ばざるの誤りなり」
とある。発刊は宣長の死後10年くらい。歌舞伎となった。
また桜に対する武士の愛好もまた歌舞伎の忠臣蔵による。
これらのことから「桜のように命を軽んじる」という風潮は遠くは中世の仏教的厭世思想や、葉隠などの武家の思想や、水戸学や国学などが理論的背景にあるが、
主に歌舞伎によって「国民精神」として定着し
宣長の歌もまたそれに飲み込まれていったものと思われる。
宣長の正確で緻密な学術考証はいろんな「思想」に便利に利用されていったが、
彼自身の「思想」はほとんど万人には理解されず受け入れられなかった、と言える。
宣長にとって桜はあくまでも愛でるものであり

> もののふのたけき心も咲く花の色にやはらぐ春の木のもと

というようなものだった。
大和魂を「清く直き心」などと言ったのは賀茂真淵であり、宣長の考え方とは異なる。
宣長は桜に心があるなどとは一度も言ってない。
また、宣長は桜が散るのが嫌いで一年中咲いていれば良いと考えていた。

> 願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

平田篤胤以降の国学は宣長の考えた「大和心」とは根本的に異質なものである。