ヤマザクラとミドリヤマザクラ

さくら品種図鑑桜花譜等々を見ると、山桜には主に「ヤマザクラ」と「ミドリヤマザクラ」がある。私も近所の公園をぷらぷらと歩いてみたが、新しい葉の葉緑素が足りずに赤みがかって、一見枯葉のようにもみえる桜の木がある。こちらが吉野山などの「ヤマザクラ」なのだろう。一方で青々とした葉の「ミドリヤマザクラ」というものもある。

ヤマザクラの美しさはおそらく、花の白さ、花芯や軸の赤さ、新葉の茶、赤、黄色みがかった緑まで、さまざまな淡い色合いが混じり合い、それらが山全体にわたって咲いているようすなのだろうなと思う。

ソメイヨシノは枝が横へ横へと広がっていく。ミドリヤマザクラもだいたい同じような形になる。どちらも花が間近に見れて、観賞用には良い。しだれ桜などはさらに花が目の前まで垂れてくる。しかし、「ヤマザクラ」は枝が上へ上へと伸びてたいへんな高木になり、さらにその梢に花が咲くので、花自体をよくよく見るのは難しい。特にやぶの中に生えているものは、他の雑木と競うから、よけいに上に延びる。写真にも撮りにくい。池の岸辺などに生えているものは、これも池の真ん中の方へ伸びてそこで咲いている。やはり写真にとりにくい。日本原生種の古態を留めていると言えば言えよう。とまあそんなわけでまだ満足のいく「ヤマザクラ」の写真がとれてない状況ではある。

源氏物語を読み始める

本棚から出てきた岩波文庫版の源氏物語を読み始める。
今、桐壺から帚木の途中まで。
平家物語よりは難しいが太平記やら吾妻鏡などに比べれば読めるか。
なにしろ源氏物語レベルになると攻略本も walkthrough もなんでもありだと思ったが、
案外 wikipedia なども使いにくく、
間違いもあるようだ。
たとえば弘徽殿女御は左大臣家の人物となっているが、右大臣家でないと話が通らない、など。

フリーの現代語訳は
[渋谷栄一訳](http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/)と、
[与謝野晶子訳](http://www.genji.co.jp/yosano/yosano.html)がある。
渋谷訳は直訳調でなんかわからんことが多い。
与謝野訳は、かなり意訳してある。
たとえば、
桐壺で、

> 里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。

とあるのを、渋谷訳は

> 実家のお邸は、修理職や内匠寮に宣旨が下って、またとなく立派にご改造させなさる。

とあり、与謝野訳は

> 更衣の家のほうは修理の役所、内匠寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。

とある。
源氏は元服して左大臣の娘・葵の上と結婚したので、里の殿とは左大臣家のことかと思ったが、
これは要するに妻の実家であるから他人の家なわけで源氏が
「かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」などと思うはずがなく、また左大臣家は「大殿」と書かれている。
渋谷訳では「里の殿」を「実家」と訳しているだけだが、
与謝野訳では「更衣の家」、つまり源氏の母である桐壺の上が生まれ育った実家であることが明示されていて、
わかりやすい。
ただ「宣旨下りて」を「帝がお命じになって」まで意訳する必要があるかどうか。
その他の場所もだいたい同じ。
「いかで、はたかかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる」を
与謝野「意外であったということは十分に男の心を引くカになります」と訳すのはやり過ぎではないか。
渋谷「どうしてまあ、こんな人がいたのだろうと、想像していたことと違って、不思議に気持ちが引き付けられるものです」
程度に訳した方が無難ではなかろうか。
渋谷訳はたぶん現代語読んでも逆に良くわからんところがある。
与謝野訳は意味は良くわかるがそのままでは原文のニュアンスが伝わらないところがある、というところか。
原文読みながら参照するのであれば与謝野訳が良い。

狂歌

> いきつけの店に寄らむと思へどもいつもと同じ今日のおすすめ

ひどい歌だな。
我が詩情はもはや枯れた。

> はなみつつねびえやしけむかぜをいたみせきもとめあへぬながれなりけり

寝冷えして風邪を引き鼻水や咳がとまらないという意味。ひどい。これはひどい。

> やがていぬる人には言はじなにごとも言ふも答ふも聞くもうたてし

> 今よりはしばしいとまもなかりけりただことしげき春のあけくれ

なんか今年は嫌な年になりそうだなということを

> ことしこそ思ひも侘びねむらぎもの心ひらかむどちもあらなくに

まあ、用心することだな。

> うらもなく飲みてかたらふ人もがなわがつねづねの憂さも聞かせて

酒飲んで愚痴はやめような。

> あさましや人みな思ひたがひてはもだすべきのみ言ふかひもなし

昔から同じようなことは言っている。

一番初期に詠んだ歌

たまたま当時の日記が残っていたので漁ってみる。

20才の3月13日。

> 久しぶりにこたつを出してあたりつつ松本伊代の歌など聴けり

> つれづれにうるせいやつらに鉛筆で塗り絵をしつつ春の日は過ぐ

> 金のない学生なればやきそばの三食分を晩飯に食ふ

> リプトンとトワイニングを買ひおきてけふはリプトンをいれて飲むかな

> ウィスキーの飲みおはりたる空き瓶の捨てられざれば部屋に留まる

田舎から帰省してきた直後で、田舎の愛宕山のことを

> いとけなきころより登る愛宕山のこぼてるほこらたてなほりけり

> 山の上は木のしげりしがひらかれて四方にみはらすうてなたちけり

3月21日。たぶん初の長歌

> 買ひおきし 米をかしぎて 魚屋で 買ひしめばると 野菜屋で 買ひし生姜を 醤油にて 煮て食べにけり けふのひるげに

反歌は見あたらない。このころ自炊するのがとても楽しかったようだ。

> 高来峯の土のうつはにぬばたまの黒きコーラを注ぎて飲みけり

「高来峯の土のうつは」とは「雲仙焼き」のこと。

> 電話屋が今日部屋に来て電話機をつけたのですぐ電話してみた

3月23日

> ここちよきものにぞありける広々とひとりこたつにうたたねするは

この頃寮を出て独り暮らしを始めたばかり。
こたつの歌が非常に多い。

> ここちよききはみにぞある血を吐きて床に伏したる祖父を思はで

> 電話引きはじめて届きし連絡は故郷の祖父の血を吐きぬとぞ

> わが家はいかにかあらむことしげきをりは人手も足らざるらむを

> 朝の日に窓は白みてあまだれの音にまじりて鳥のねもする

> 明けぬるに腹の具合の悪ければ外にいづるもうたてあるかな

> ひねもすに雪の降りても冬のごといとど寒くはあらぬよはかな

> 春来むとけはひはすれどたれこめて今日またふれる雪ぞくちをし

> 降る雪の雨にかはりてふりければ積もれる雪の靴にしむかな

> 固からば雪まろばしもすべからめかくゆるくてはせむかたもなし

> 雪降れば壁にむかひて日のささぬ窓もひときは白き朝かな

独学感に満ちあふれているな。
漢語も現代語もかなりかまわず使っているのがわかる。

山形赤湯温泉合宿免許

大学三年生の夏。22才。青春だなあ。車と中免の同時教習だった。

> ふかきよりふかき思ひに入りにけり今ひとたびと求むるにより

> いねし間に町に夕立はふりにけりよひの祭りを清むるごとく

> 花も実もあらで畑におふる木をつくづく見れば桜なりけり

> 思ふさまに林檎は育ち鳥は鳴き川には土地の子らさへ遊ぶ

> ひさしぶりにつくづく熱き湯に入りてあがればビールふと飲ままほし

> 柿の種買はむと来つる夜の店になんとラムネは五十円なり

> さすがプロ全然こぼさなかったねとおせじを言ってくれるおばさん

> アメリカやオーストラリアに行かずとも空の広さは日本にもある

> 国つ神に我が来しことを告ぐるなりひとりつとめての外山に登り

> けふひと日雨は降りけりゆく川の流れは満ちてささにごりたり

> おみくじを結びおくためひとむらのあをささだけぞまうけられたる

> こぞの夏買ひし麦わら帽もがなけふしも日差し強くなりけり

> ゆふさればおほかたのせみはしづまりてみやゐの杜にひぐらしぞ鳴く

> やうやくにみづかさは減り子らもまた来むと見しまに雨はふりけり

> たかさごの尾根をつたひてゆく雲のいづこにけふはつどはむとする

> えも言はず夏の光にみがかれて指に乱るるみづの流れを

> 暗幕で外は見えねどひぐらしの鳴く声きこゆゆふさればにや

> いくにちかそるもうたてとありしひげも思ふともなくけふはそりけり

> あたたかき部屋に戻りてかけおきし作業着におのが匂いをかぎぬ

> 思ひみなしづめむとして湯に入りて伊東静雄の歌くちずさむ

> おもいきりバイクの第二段階の急制動でこけてしまった

> この分じゃ帰るころにはばらばらになるんじゃないかおれのからだは

> 汗をかいてそのあと風呂に入るのもビールをうまく飲むだけのため

> けふよりは残しし仕事はじめむと思ひしことのほかにもあるかな

> 卒検にこさめ降らなむふらふらと道に出で来る人もこそ減れ

> とみに雨降り始めける部屋にありてこころあてなき日を過ぐすかな

> わが宿のかたへに川の水は満ちかたへに稲の穂ぞ実りける

> かの車とくも行かなむかのおうなな出でそ我は検定中ぞ

> たれかこの川わたるらむこことかの岸辺に続く道はあれども

> 卒検を受けてののちにくらぶれば昔はものを思はざりけり

> 卒検はおはりにけりないたづらに歩道をわたるおうなを知らで

> あめやむはありがたかれどしかすがにおきなおうなら道に出づらめ

> 温泉に栄ゆる町にゐやあつく神はとやまにまつらるるなり

> 故郷でも今日より盆にいりにけむ祖父の初盆なれどあらぬかも

> 初盆にみかんはいまだ青からむとぶらふ人もまたおほからむ

> こぼすなよ、心配無用、ゆっくりと半クラッチでコルク抜くから

> 夜さりて窓のあかりにはむしらはあまた来れども我は帰るも

> とをあまりやうかのあひだこの町にあれどもあした我はいぬめり

> 始発ではないのでつばさもやまびこも最悪の場合たちどほしだな

> かへるさに小室直樹の新刊を買へばつれづれなぐさまれけり

> 立ったまま食う幕の内のんびりと釜飯なんか食ってられるか

> 立ちぼうけ弁当売りの姉ちゃんがとほれるくらいの混み具合にて

> 時間割吹き流してる扇風機夏休みあと幾日もなし

> 一枚にふたつきごとのカレンダーながつきなればあらためにけり

古歌

われひとり もの思ふとも 思はれず とも思はれず もの思ふ身は

へんてこな歌を詠んでいたものだな。

はかはかと 部屋片付けて 暑さのみ いかにもえせで 過ぐすよはかな

エアコンなんてなかったんだな。「はかはかと」は「はかばかし」からの連想だろうが、造語だなこりゃ。

クレンザーを スチールウールに しみこませ 磨く急須の うらものがなし

たっぷりと お湯をつかって さっぱりと したい気分だ テストがすんで

学生時代の気分はもうピンとこないな。

レポートが あと三つある プログラム 実習いれたら あと五つある

ははっ。わろす。

首を振る 扇風機より 風を受けて いくらか冷ゆる 洗い髪かな

生協の ステーキにさへ ミディアムと レアの違いが あるというのに

こめられて 飛ばずなりにし 水鳥の そのひねもすの うきしづみかな

六時には 起きむと思ひて めざましを あはせはすれど 起くるものかは

ははっ。わろす。

ありがたい ことに今日から 夏休み さあはりきって レポートやるか

「レポート」は「やる」ものなのかな。

みつよつの 中間テストも かたづきて 休講がちなる 年の暮れなり

楽章も なかばでやっと キーシンの ピアノ始まる ショパンなるかな

これは。

あさましや 人みな思ひ たがひては もだすべきのみ 言ふかひもなし

かりそめに 髪を洗ひて ますかがみ むかふはうたた おのれなりけり

はらからは あらずやと見し 野の鳥の けふはとをほど 群れ来たるかな

植林の まもなき尾根の 深草の いづこにかくも ひぐらしや鳴く

しろたへの 中国製の Tシャツの 漂白しても 落ちぬしみかな

ちはやぶる 神田うるほす 神田川 千代に流れて 名のみ残れり

部屋の中 くまなく探し あらかたは かたづきたれど ものは出で来ず

うぶすなの 山に見慣れし 花なれば つつじを見れば かなしかりけり

ひさかたの 明治の御代の かたみにと たてる代々木の 大君の宮

音に聞く 明治のわざを 目にも見むと とつくに人も おほく参るらむ

緑深き 代々木の杜に 七五三 祝ふ親子ら あまたつどへり

この岡に 銀杏をおほみ ぎんなんを 拾ひに町の 親子おとづる

買ひ置きも 寒さたのみて ことごとは 冷蔵庫には しまはざるなり

あまざかる ひなの子なれば みやこなる 富士の根飽かず うちまもるらし

風を強み 町の通りの 店先に うちたふれたる 鉢や自転車

はや春の ながめはすれど かたくなに 時をまもりて 桜ふふめり

年の瀬の 忘年会の またの日に 朝七時から バイトかと思ふ

風をいたみ 吹き落とされし ものほしの ズボンをとれば 雨に濡れたり

天長節に参賀したる日、本丸跡にて詠める

すずかけの 葉もこそしげれ かなへびは 穴より出でて 石垣をはへ

今日もまた 連休なので クレーンが 昨日の姿勢で 佇んでいる

夏休み ひかへて心 やすらはず いつの年にも かくありにしか

道の上 異郷の公衆 電話にて 試験報告 しつる思ひ出

水無月の おはらむとして 光満ち 木々のいよいよ さかゆくを見る

禅僧が 梅干しの種を 吐くごとく そをビニールの パックに受けつ

かくありて 時計の音の つぶつぶと 打つを聞きゐて 良かるものかは

つかれゐて やうやくすする 豚汁の こちたき味の つきづきしきや

やかんにて 作りし麦茶 冷えぬれば ほかへうつさず 口つけて飲む

とつくにの ねにぞ鳴くてふ しきしまの 鳥はたがねを まねびたるにや

ふつかみか さみだれ続き 何もかも 乾くまもなし ここちよからず

休日に 活字忘るる てふエディター されば詩人は ことば忘れむ

君たちが わかる言葉で 歌うなら わかる言葉で 悪口を言おう

潟近き 芦辺に子らが 踏みなしし 道もとほろひ 我はもとほる

いまさらに たが手もからじ 我が友と 見ゆるものこそ 我がかたきなれ

出入り口 ふさいで並ぶ 自転車を 皆蹴飛ばして 出ようと思う

金のない 貧乏人には この酒が 良いよと我に ジンを勧める

面白い 匂いがするね この酒は いったい何から 作るんだろう

夜更けて テレビ終われば 今日もまた 二階のやつは ファミコンをやる

飽きもせず 二階のやつは 一晩中 たかたたかたと ファミコンやるよ

最近は 二階じゃビデオも 見るらしい ダーティーペアの声が 聞こえる

最後まで 寝ずに応援 してたのに 岡本綾子は 負けてしまった

朝まだき 真夏の中原 街道の アスファルト白く えんじゅふりつむ

日々に海 ながめてあらむ 湾岸の 高きところに つとむる人は

みよしののよし野の山の山さくら花

> ときしもあれなどかは花の咲くをりにかくも嵐ははげしかるらむ

とでも言いたいくらいに風の強い日。
電車もバスも乱れまくり。
それはそうと、
だいたい、これでもかこれでもかとばかりにやたらに桜が咲いているのはたいていソメイヨシノであり、
おそらくは戦後にむやみと植えまくったものなのだろう。
しかし、山桜はたいてい一本だけぽつんと生えている。植えられている。
しかしそれが吉野山には三万本もあるという。
ちと想像がつかない。

で、その山桜だが、ここらで見かけるのは白い花といっしょに葉が青々と混ざる桜だが、
それはそれでまあ良いとして、
吉野山の桜は、宣長が形容しているように「葉は赤く照」っているようなのである。
幼い赤みがかった葉と白い桜の花がまじりあったのがほんとうの吉野の山桜なのであって、
それに近い桜をたぶん私は見たことがないのだと思う。
真淵の

> もろこしの人に見せばやみよしののよし野の山の山さくら花

の歌からは芭蕉の松島の歌にも似た意図的な同語反復による興奮が伝わってくる。
宣長がこれにそっくりな歌

> もろこしの人に見せばや日の本の花の盛りのみよしのの山

を詠んでいるのがおかしいというかほほえましい。
しかし、吉野は遠い。せめて大阪辺りに住んでいれば電車で日帰りできるのだろうが。
花鳥風月と言って馬鹿にはするが、そこまですごいものはやはり体験してみたいものだ。

本棚をあさっていたら絶版になった岩波文庫版千載和歌集が出てきた。
これはラッキー。
書き付け

> やすらはでことわざしげきをりをのみもとめて花はかへりみぬらし

うーむ。
何才くらいの頃に詠んだ歌だろうか。
花見なんかしてるヒマはないんだというやけくそな感じが出ているわけだが
(昔の日記を見たら、昭和61年4月11日だった)。
上のは覚えがあるが、

> ゆふさりて窓ゆすずしき風ふけどなほなぐさまぬ我が心かな

> オレンジのナトリウム灯の下に咲く夜のつつじのけふはやさしき

自分の作のはずだが、まったく覚えがない。
今とあんまり作風変わらんな。

角川文庫の古今集も出てくる。
これにも書き付けがある。

> 伸びたなとひげをみなからいはるれどそりてみむとは思はざるなり

> まとめては食へぬものから八百屋にて葱ふたたばで百円なりき

> 六十分テープに昔こまごまとエアチェックせし曲を聴くなり

かなり昔の歌だな。
俳句もある。

> ストーブで靴あぶったら布こげた

> 夜遅く台所に行きものをくう

> することのない日は一日中寝てる

> 牛丼を食べに三十分歩く

> ストーブは次から次にお湯が沸く

> ストーブをしまうにはまだ早すぎる

なんとも言いようがないな。
たぶん、20才くらいのだろう。
俳句が混ざっているのはかなり古い。

秋成と蘆庵

秋成

> 山に入る人のためしはならはねど憂き世のあるにまどひてぞ来し

蘆庵

> 我も世にまどひて入りし山住みよいざ身の憂さをともに語らむ

なかなか良いやりとり。

なにがしの孝子がまづしくておやにつかふることの心にもまかせぬよし歎きたるを、
なぐさめて言ひつかはしける

> 家富みて飽かぬことなく仕ふとも報いむものか親の恵みは

家が裕福でなに不自由なく親に仕えても親の恩に報いることはできない、の意味。

景樹の歌

> しづのをがうつや荒田のあらためて作るにはあらずかへす道なり

「荒田」と「あらためて」がかけてあり、田の縁語として「かへす」が使われている。
和歌の道を新しく一から作ろうというのではなく、
いにしえに返すという意味であろう。
ちなみに「たがやす」はもとは「田かへす」。

> 子はなくてあるがやすしと思ひけりありてののちになきが悲しさ

子がいて死んだら悲しいので、もともと子がいない方がましだ、の意味か。
子に景恒がいる。

> 限りなく待たせ待たせてあら玉の今年ぞふれるこぞの初雪

旧暦なので、二月過ぎてから雪が降ったということだろう。

> こころなき人は心やなからましあきのゆうべのなからましかば

これは、俊成の

> 恋せずば人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る

の本歌取りだわな。

子規の和歌

[子規以前の短歌は堂上和歌。庶民は関知しないもので、一部の階級のものであった和歌を一般の人のために引き下ろした](http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1230335577)
などといわれているが、
契沖も賀茂真淵も上田秋成も堂上ではない。
堂上家の門人にはなってないから、いわゆる地下(じげ)だ。
田安宗武も真淵の弟子だから、将軍の子であっても地下だ。
子規によって堂上から地下への変革が起きたのではない。
香川景樹と小沢蘆庵は半分堂上だが半分は地下だ。
つまり、堂上家の門人だったが離縁したり破門されたりして、のちに桂園派という独自の一門を作り出した。
ある意味で、堂上から地下への橋渡しをしたのは蘆庵と景樹の功績だ。
それまでは堂上家の家柄の者でなければ歌道の一門を立てたり門人を取ったりということは事実上できなかったのだろう。
堂上から生まれ、堂上を受け継ぎ、堂上との腐れ縁を断ち切ったのは大いなる改革者というべき。
それなりの実力があったからできた。
ところがこの桂園派が明治時代には堂上和歌として攻撃される始末。
先達者に対するなんという無礼か。
桂園派ではないとすると明治の歌人たちの好みで残るのは真淵の国学の系統しかない。

吉田松陰に代表される幕末の志士たちも明らかに地下だし、
孝明天皇や明治天皇でさえその作風はもはや堂上ではないのである。
子規が攻撃した歌会所の歌だって、その代表格の高崎正風の歌だって、
みな蘆庵や景樹の影響を受けているのであって、堂上とは言い難い。
宣長が古今伝授を批判して以来、もはや純粋な堂上などは存在しなくなった、
と考えられる。
確かに江戸初期には、冷泉、飛鳥井、武者小路、中院などのいわゆる堂上家の歌人やその門人が活躍してしたが、
幕末にはほとんどその影響はなくなっていた。

庶民が和歌を詠まなかったというのもまったくの誤解だ。
仮に和歌は詠めなくても狂歌はさかんに詠んでいたはず。
下級武士や町人に至るまで盛んに歌は詠んでいた。
江戸時代からすでに和歌は完全に国民レベルにまで浸透していた。
明治になってからいきなり牛飼いが歌を詠み始めたのではない。
というか、明治になっても牛飼いは滅多に歌は詠まなかった。
きちんと教育を受けないと歌は詠めないのだから。
明治と江戸とどれほどの違いがあっただろうか。

江戸時代という長い平安の中で後水尾天皇から橘曙覧まで徐々に和歌は民衆に浸透していった。
和歌を大衆化したのは江戸文化そのものであり、明治維新でも文明開化でもない。
極限まで過小評価したとしても、
江戸時代という準備の時期がなくては明治になっていきなり和歌を大衆が詠めるようになるはずがない。

子規が20代に詠んだ歌などは確かに古今調だ。

> 物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな

> いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉

> 我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし

あまり感心しない罠。
30代に病床で詠んだ歌などは確かにあわれは誘うが、秀歌とは言い難い。
むしろ、反則技に属するものと言える。
実質的に子規が近代和歌に与えた影響というのはほとんどない。
子規によると思われている功績のほとんどは実は蘆庵と景樹によるもので、
或いは江戸中期以降に大流行した狂歌からの間接的な影響であって、
ある種の「司馬史観」とでも呼び得るものによるすり替えが起きているのである。

私たちは明治時代を過大に評価しがちだ。
確かに明治は偉大だったが、しかし、その多くは実は江戸時代に準備され、
あるいはすでに完成していたものなのだ。