源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

後三条院御製

『後拾遺集』をながめていたら、後三条天皇の御製が三つあることに気付いた。

> 皇后宮みこのみやの女御ときこえけるときさとへまかりいでたまひにければ、そのつとめてさかぬきくにつけて御消息ありけるに
> 後三条院御製
> まださかぬ まがきのきくも あるものを いかなるやどに うつろひにけむ

少し難しい。
まず皇后宮が、後三条の中宮・馨子内親王なのか。それとも白河の中宮・藤原賢子を言っているのか。
賢子は贈皇太后とは呼ばれたが皇后と呼ばれたことは無いらしい。
いっぽう馨子は後三条の死後、皇后宮と呼ばれ、『後拾遺集』完成時にも存命だった(賢子はすでに死去していた)。
だから、「皇后宮」というのは馨子であろう。
馨子は後三条が皇太子尊仁親王のころに入内している。
それが「皇后宮、皇子の宮の女御ときこえける時」であろう。
その皇太子妃が里に出ていたときに、尊仁がまだ花の咲いていない菊に添えて和歌を馨子に送った。
菊もまだ咲いてないのに、どんな宿に行ってしまったのだろうか、と。

> 延久五年三月に住吉にまゐらせたまひてかへさによませたまひける
> 後三条院御製
> すみよしの かみはあはれと おもふらむ むなしきふねを さしてきたれば

わかりにくいが、これは後三条が白河に譲位した後に、住吉大社に参拝して、
その帰りに船上で詠んだ歌であるという。
譲位は延久四年十二月、崩御は延久五年五月であって、退位して半年あまりで死んでいるし、
その死のわずか二ヶ月前に詠まれているのだから、おそらく死の病のために譲位したのではないか。
「むなしきふね」とはその死ぬ間際の後三条のことを言い、
神も「あはれ」と思うだろう、そう言っているのではなかろうか。

> 七月ばかりにわかき女房月みにあそびありきけるに蔵人公俊新少納言がつぼねにいりにけりと人人いひあひてわらひ侍りけるを、九月のつごもりにうへきこしめして御たたうがみにかきつけさせたまひける
> 後三条院御製
> あきかぜに あふことのはや ちりにけむ そのよの月の もりにけるかな

蔵人公俊新少納言というのは藤原輔子の外祖父藤原公俊らしいが、どんな人かはよくわからない。
七月頃に後三条のある若い女房が月を見にあちこち遊び歩いて、
藤原公俊の局に入った(駆け落ちした?)ということを、人々が笑い合っているのを九月になって後三条が聞いて、
秋に会おうという約束は果たされなかったのか、その夜の話は漏れてしまった、
とでも言う意味であろうか。

ともかくこれらの歌を後三条が自分で詠んだのはほぼ間違いなさそうだし、
それなりの知性をそなえた人であっただろうと思われる。

[後三条天皇](/?p=11431)。

血圧

血圧がすごく下がることがある。もともとそういう体質でもなければ、そういう病気に罹ったわけでもなく、これは飲んでいるアーチストという薬が血管を拡げているせいなのだ。そうすると、立ちくらみすることがある。歩いてたり、座って安静にしていても、
急に血の気が下がったような状態になる。ところがまあ、日本では(世界的にも?)、血圧は低ければ低いほど正常なことになっていて、私の場合低いと言っても上が 100 とか 105 とかなんで、医者に言っても「正常値です」「大丈夫です」としか言われない。しかし血圧が低い状態で気分悪いから寝てしまうと寝たまま死んでしまうんじゃないかと不安で仕方ない。

私の場合もともと血圧は高いほうで、130 とか 140 くらいが普通で、そういうときは目も覚めるしやる気も出る。しかし血圧が低いとなんか生きる気力まで失われてしまう。電車に乗ると、いつ気分が悪くなるかと気が気でない。田舎で、仕事もせず、車にも電車にも乗らない生活をしてればいいんだろうが、それもできない。なんかもうすごい年寄りになった気分になる。ここまでしてこの薬を飲まねばならないのかと思う。何度か医者に文句を言ったこともあるんだが「我慢して飲んでください」としか言われない。血圧が低すぎて死ぬ人は、高すぎて死ぬ人に比べて皆無に近いのだろう。

この低血圧というのは女性には多い症状なのかもしれない。生まれたときからずっとそうならば、人生とはそうしたものだと思うかもしれんね。

じんましんが出たり、おしりにおできができるのは、毎日きちんと石鹸で体を洗い、きちんと下着を着替えれば、ほぼ防げるようだ。しかしそれがなかなかめんどうだ。じんましんに関していえば、ほぼ原因は、食べ物によるアレルギーではなさそうだ。酒を飲むとめんどくさくてそのまま寝てしまう。それが2日続くとじんましんがでる。たぶんそんな感じ。

1日以上放置すると確実に体の表面の角質層に残った脂が古くなってダメだ。汗をかくたびにシャワーを浴び、古い角質と脂を洗い流し、新しい脂をワセリンなどで補充し、下着を替えると完璧なんだろうが、そこまでする必要もなさそうだ。というよりそんなことしたら別の皮膚の病気になるかもしれん。

おできは今まで気にしなかっただけで毎日できては消えているらしい。おしりを圧迫したりむれたりするのが良くないようだが、よくわからない。できるのはしかたないからそれがかぶれたり悪化しないようにやはり清潔にしておかねばならない。

昔は体のことなど何も考えずに暴飲暴食してたわけだが、そうもいかなくなったのはやはり加齢のせいだろう。皮膚の新陳代謝が衰えているのはまず間違いない。

うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

* 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
* 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、
なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

あるいは

我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを

または

安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

「シュピリ」だが、アマゾンではまったく動きがないのに、図書館ではまだ徐々に所蔵が増えている。

東京都だと杉並区が4館で他よりも少し多く、ほほうなるほど、杉並はやっぱりアニメ好きですか、って感じがする。

埼玉はなぜか所蔵館が多く、なかでも川越が若干多い。
これまた宮崎駿の影響を感じさせなくもない。

思うに、アマゾンで中身を見ずにいきなりこの本を買う人はそんなにはいないだろう。
いるとしたら研究者かなにかだろう。
とりあえず読んで見るには立ち読みか、図書館で買ってもらうか。

反応はほとんど無いに等しいが、何となく今回は多くの人に読んでもらえてる気がする。
サイレントマジョリティの存在を感じる。

宮崎駿は確実に歴史に名を残す人で、彼を理解しようと思えば、
「アルプスの少女ハイジ」までさかのぼってみないわけにはいかない。
原著と比較したときにその多くの違いに人は気付くだろう。
そこからさらにヨハンナ・シュピリという作家について疑問がわいてくるに違いない。
私はますますシュピリという人は童話やメルヒェンを書きたくて書いたわけではなく、
編集者にそそのかされて書いたんじゃないかという気がしている。
シュピリのおもしろさは、メルヒェンから逸脱した、彼女の「地」の部分にあると思う。
その不純物を漉し取ってしまうと、まったく味けのない作品になってしまうのだ。
シュピリはほんとはもっとシリアスな話を書きたかったのだが、
そんな売れない本はとか出版社に言われて仕方なく童話を量産したのではなかったか。
シュピリが自伝を残さなかったのも、そういう、人には言えない事情がたくさんあったせいではないか。
私の直感では明らかにそうなのだが、
その証拠固めをするのは骨が折れる仕事だ。
今より100倍くらいドイツ語を読んで、ドイツ語と格闘しなきゃいけない。
今更ドイツ語にそこまでのめり込んでどうするという気がする。
ていうか本場のドイツ人が研究しろよと思う。

ともかく、
無名の新人(筆名では。まあ、実名でも全然名は知られてないが)が多くの人に読んでもらうには今回の狙いは割とあたったように思う。
私だって宮崎駿以外が「ハイジ」を作っていたらまったく興味を持たなかっただろうし、
宮崎駿学の文献の一つを提供したのだと思っている。

アミオダロンというのはアンカロンという薬のジェネリックで、
そのアミオダロンを以前は1日2錠飲んでいたが、
甲状腺ホルモンが異常になったので、
つまりアミオダロンにはヨードが含まれていてヨードを過剰摂取すると甲状腺がやられて、
甲状腺炎になってしまう(バセドー病みたいなものらしい)らしいんで、
1日1錠に減らした。

アミオダロンは心室細動や心房細動を抑える薬で、
以前は1錠飲んでいたこともあったが2錠にすると
BNP(心臓に負担がかかると出てくるホルモン)
の値がとても小さく(つまり正常に)なり、心房細動もほとんど出なくなる。
でアミオダロンを減らしたので BNP はまた増えて、ほぼ常時心房細動が出るようになった。
心房細動は30歳頃の健康診断でも出てたことがあるので、
たぶん出たり出なかったり、ずっと昔からそういう調子で、
年をとるほど出る、そんな体なのだろう。
だから私は(戦争になって供給が絶えて)
アミオダロンを飲まないと心室細動を再発して死んでしまうのだろう。
心房細動は命に別状はない。ただ血の流れがよどんで血栓ができやすくなるので(血栓が脳の血管に詰まると脳梗塞になる)、
血を固まりにくくする薬を飲まなきゃならない。
ワーファリンとかがそれだ。しかしワーファリンは納豆が食えなくなる(納豆に多く含まれるビタミンKがワーファリンを効かなくする)ので、イグザレルドという新薬に替えてもらった。
そのせいか採血をするときにときどき血が止まらなくなる。
私の周りではそんな人はあまり見ない。
今までは脱脂綿で五分押さえるだけだったのだが、
今度から包帯を巻かれることになってしまった。

心室細動は致死性のもので何の前触れもなくいきなりくる。
アミオダロン1日1錠でも心室細動は一度もおきてないので、
仕方なくアミオダロンは1錠で済ませている。

私はICDを入れられてしまったのだが(その話は「安藤レイ」に書いた通り)、
免許の更新に行ったら、ICD を入れている人は、
半年に一回診断書を出さなきゃいけないと言われ、
病院に通う上に警察署にも通わなきゃならんのはめんどくさいので、
それにそもそもいつか乗ることもあるかもしれんが普段はまったく運転せず、
車も持ってないので、
「運転経歴証明書」というものに替えた。
つまり私はもう車の免許をもってないから車には乗れなくなってしまった(取り直せば乗れるわけだが、そんなめんどくさいことはするまい)。
とりあえずしばらく身分証はこれでもたせてそのうちパスポートを取って期限切れしないようにする。

24時間ホルターというので心電図を取られたのだけど、
心房細動は心電図に細かなノイズが入るのかというとそういうわけではなく、
1分間に400回くらい心臓を拍動させようするのだが、心臓はそれを適当に間引いて、
適性な心拍数にする機能があって、
それは私の場合今のところ正常に働いている。
ところが適当に間引いた心拍というのは間隔がランダムになるのでそれが心房細動。
心臓がほんとに1分間に数百回も拍動してしまうのが心室細動。
心拍が速すぎて血管が心臓から出ていかなくなるから要するに心臓が止まったのと同じ状態になる。
心室細動は AED で直る(ことがある)。
体に埋め込んだ AED が ICD。

心拍の間が空きすぎるときには ICD がペースメーカーの役割をしてペーシングしてくれる。
ICD はペースメーカーを兼ねているのだが、私の場合は、
ペーシングが常時作動しているのではないのだが、夜寝ている間に心拍数が50よりか下がってる時があって、そのときペーシングが起きているのが、ホルターの心電図に記録されていた。
今まで一度も ICD は作動(除細動器として心臓に強い電気ショックを与える)してないのだが、
ペーシングはたまに起きていたのだなあとあきれた。
アミオダロンを2錠飲んで心房細動を止めればその必要もないのだが、
また甲状腺炎にはなりたくないし、いろいろ難しい。
結局機械と薬の両方に頼ってバランスをとっていくしかないらしい。
まったくとんだ重病人だ。

フローニの墓

訳者は著者ではないので作品をずけずけと批評できる立場にいる一人であるはずだが、私の場合「フローニ」を「ハイディ」の謎解きのために無理やり訳し、それでもまだ謎が解けきれないから続く数編も訳して読んでみたので、純粋に「フローニ」という作品を読んだとは言えないかもしれない。

「ハイディ」をある程度知ってはいるが深くは知らない普通の人に「フローニ」を読んでもらうと、だいたい同じような印象を持つようだ。
つまり、ストーリーは別に面白くはない、しかし、文章にある独特の雰囲気があって、なぜか最後まで読んでしまう、と(ストーリーは面白くなく独特の雰囲気はあるが最後まで読む気にならないものは、ありがちだが、単につまらないということよね)。

その独特の雰囲気というのは明らかに訳者である私の文体のせいではない。
逆に私がそのヨハンナの独特の言い回しの影響をうけた、のは確かだ。
もちろん私もそれに気付いてはいたが、うまく表現できない。
しかし周りの人も同じようなことに気付いているとすれば、やはりそこが「フローニ」のおもしろさであって、もしかすると私は宝石の原石を見つけたのじゃないか、という気にもなる。
その雰囲気というのは当然「ハイディ」にもあるんだが、アニメにも表れてはいるが、残念ながら十分に表現されているとは言えないと思う。
その雰囲気というのはアルムおじさんやデーテのあたりに濃厚にただよっていて、つまりそれらのキャラクターに何らかの実在のモデルがいることを暗示しているのだ。
そしてそのモデルを作中に描写するときにヨハンナは奇妙な、達者というよりはぎくしゃくした表現をして、そこが何かしらの味になっている、と思う。

> man ihr das Äußerste in dieser Richtung hätte zutrauen können, wenn nicht die schelmischen Mundwinkel von unten herauf sich wie darüber moquirt hätten.

たとえばフローニの容貌を描写しているこのとても訳しにくい部分。
特に moquiren という単語がわからんし(ラテン系の言葉をドイツ語の動詞化したものだが、調べてもわからん。しかたなく口がへの字に曲がってると訳した)、
das Äußerste in dieser Richtung
もよくわからん(目が賢そうなわりに鼻がとても純朴で、その印象がちぐはぐだ、ってことを言いたいらしいのはなんとなくわかる)。
あるいは

> Drüben standen die dunkeln Felsenspitzen des Pilatusberges auf dem lichten Abendhimmel, und die Hügel umher lagen so lockend grün im Abendschein.

「ピラトゥス山の薄暗い断崖絶壁が明るい夕空の上に浮かび、夕焼けの中、心があこがれるような緑色の丘があたりに横たわっていた」
などのような自然描写。
so lockend grün は「心があこがれるような緑色」とでも訳すしかないではないか。

しかしながらヨハンナの作品にはとても退屈なものも混じっていて、そういうものにはたぶんそういう何か屈折した、「魔法をかけるような」描写が盛られてないのだろうと思う。

世の中にはチェックとストライプのシャツが溢れかえっており、
それ以外の柄の襟付きのシャツというのはほとんどないか、あっても高い。
とにかくもう絶対チェックとストライプのシャツは着ないぞと思えば、
6千円とか7千円とか、或いはうん万円のシャツを買うしかない。
あるいは、古着であろうか。
なんでこんなことになってしまっているのだろうか。

まともかく年齢的にも立場的にもTシャツばかり着るわけにはいかないので、
襟付きのシャツが必要だな、チェックみたいにださくなく、
ストライプみたいにありきたりじゃないやつが着たい、と思うがそれには金がかかる。

それで実家に眠っていた父の服をサルベージしたのだが、
そのほとんどがチェックでもなくストライプでもなく、
今時どこにも売ってないような柄の服ばかりであり、
一生かかっても着つぶせないくらい大量に出て来た。
時代が違うというのもあるのだろうが、いったいどこでこんな服を買ったのだろう、
どこでこんな服が売られていたのだろう。
そしてなぜ現代ではこれらの服はまったく作られなくなったのだろう。
非常に不思議だ。
ともかくこれだけのシャツを今買うとしたら数十万円はする。

シャツだけでなくズボンにも金がかかる。
ズボンはジーパンはいとけば安くで済むが、
ズボンも実家から送ってもらうことにした。
金がかからないのは良いことだ。
ズボンのほうが消耗が速いからいくらあっても困らない。
シャツはさすがに置き場に困る。

国を救った数学少女

まあまあ面白い。
特に出だしのノンベコの話は面白いが、
突然スウェーデン人の話に切り替わり、
交互にストーリーが進展していく。
まあそれも最初のうちは我慢して読んでいたが、
だんだんに話が拡散して行く。
鄧小平やブレジネフやカーターが出てくるあたりで飽きる。
なんだ何でもアリのどたばたものかと。
それが面白いと思える人には良いのかしれんが。
私としては南アフリカ共和国の話で完結しててネルソン・マンデラが大統領になるあたりで終わってれば(そしてそういう歴史的経緯がきちんと描かれていれば)良かった。
いろんなことつまみ食いなんかしたくなかった。

著者はスウェーデン人のようだがスウェーデンの話が特につまらない。
中国人とかその他もろもろの話も一応最後で伏線回収されるのだが、
いろんなことを書きすぎて、だんだんにネタバレしてきて、
西洋人視点の支離滅裂なごたくが並べてあるだけに見えてくる。
西洋人は帝国主義やら植民地支配やら人種差別を今は反省していると必死に言いつくろっているようで、逆にそれが嫌みに感じる。

まあともかく悪い本ではない。
世の中の本がどれもこれくらい面白ければ退屈しのぎに困ることはないのにと思う。
「火星の人」もそれなりに楽しめたし。
こういうエンタメ系の小説で面白いのが、
日本の作品にはまるでない。
まるで思いつかない。

カーリルで検索してみても、所蔵館の多さにしても何にしても、比較的最近の本であるせいもあるのか、貸し出し中ばかりですべてにおいてすごい。

The Girl Who Saved the King of Sweden は普通に訳せば「スウェーデン王を救った少女」となるはずだが「国を救った数学少女」と訳したのはどうだろうか。
どちらにしてもあまり話の内容を反映してないが、余計わからなくしているように思える。

ついでだが、「サハラ」という映画が少し面白かった。
これまたタイトルからはまったく予想の付かない内容だった。
雰囲気は「国を救った数学少女」に似ている。
こういうのが流行っているのだろうか。いや、そんなはずはないが。

e-rara Johanna Spyri 文献

初版の年ではなくて実際に出版された年の順

## Bremen : C. Ed. Müller’s Verlagsbuchhandlung

* [Ihrer Keines vergessen / von der Verfasserin von: «Ein Blatt auf Vrony’s Grab»](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17066) 1873 彼らの誰も忘れない
* [Verirrt und gefunden / von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16661) Zweite Auflage, 1882 迷い出て、そして見出されて
* [Ein Blatt auf Vrony’s Grab : Erzählung](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16597) Vierte Auflage, 1883 フローニの墓に一言

## Gotha: Friedrich Andreas Perthes

* [Heimathlos : Zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16705) 1878 故郷を失って
* [Verschollen, nicht vergessen : Ein Erlebniss meinen guten Freundinnen, den jungen Mädchen / erzählt von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vronys Grab” etc.](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16711) 1879 失踪したが忘れない
* [Aus Nah und Fern : Noch zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16706) 1879 近く、そして遠くから
* [Aus unserem Lande : Noch zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16713) 1880
* [Im Rhonethal](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16645) 1880 私たちの国から
* [Heidi’s Lehr- und Wanderjahre : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16704) 1880 ハイディの学びと放浪時代
* [Ein Landaufenthalt von Onkel Titus : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16673) 1881 ティトゥス叔父さんの滞在
* [Heidi kann brauchen, was es gelernt hat : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16913) 1881 ハイディは学んだことを役立てられる
* [Kurze Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16708) 1882 子供と、子供を愛する人のための短い話
* [Wo Gritlis Kinder hingekommen sind : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17065) 1883 グリティスの子供たちはどこに帰ったか
* [Gritlis Kinder kommen weiter : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16674) 1884 グリティスの子供たちはまた来た
* [Was soll denn aus ihr werden? : Eine Erzählung für junge Mädchen](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16714) 1887 彼女はどうなるべきか
* [Arthur und Squirrel : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16712) 1888 アートゥアとシュクヴィレル
* [Was aus ihr geworden ist : Eine Erzählung für junge Mädchen / Zugleich Fortsetzung der Erzählung: Was soll denn aus ihr werden?] (http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16672) 1889 彼女は何になったか
* [Aus den Schweizer Bergen : Drei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17007) 1889 スイスの山から
* [Keines zu klein Helfer zu sein : Geschichten für Kinder und auch für solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16658) 1890 誰も助けられない
* [Cornelli wird erzogen : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16850) 1890 コルネリは育てられる
* [Volksschriften](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16707) 1891 民話
* [Schloss Wildenstein : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16659) 1892 ヴィルデンシュタイン城
* [Einer vom Hause Lesa : ein Geschichte für Kinder und auch für solche, welche Kinder lieb haben.](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16657) 1894 レザ家の人

## Stuttgart: Carl Krabbe

* [Sina : eine Erzählung für junge Mädchen](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16671) 1884 ジーナ

## Barmen: Hugo Klein

* [Am Sonntag](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16662) 1881 日曜日に

## Basel: Allgemeine Schweizer Zeitung
* [Aus dem Leben eines Advocaten](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-26408) 1885 ある弁護士の生涯