うけらが花

加藤千蔭「うけらが花」

貞直卿より季鷹県主へ消息におのれがよみ歌のうち二首殊にめでたまへるよしにてみづから書きてまゐらせよとありければ書きてまゐらすとて
武蔵野や 花かずならぬ うけらさへ 摘まるる世にも 逢ひにけるかな

* 富小路貞直。千蔭の弟子。千蔭は江戸の人のはずだが。
* 加茂季鷹。京都の国学者、上賀茂神社の神官。

これが歌集の名の由来だと思われるが、 自分を「うけら」にたとえて謙遜しているのはわかるのだが、
なぜ「うけら」? さまざまな野の花の一つということか。虫のオケラにかけているのかな?

本歌取りで、万葉集

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

あるいは

我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを

または

安齊可潟 潮干のゆたに 思へらば うけらが花の 色に出めやも

「うけら」。キク科の多年草「おけら」のこと。

「シュピリ」だが、アマゾンではまったく動きがないのに、図書館ではまだ徐々に所蔵が増えている。

東京都だと杉並区が4館で他よりも少し多く、ほほうなるほど、杉並はやっぱりアニメ好きですか、って感じがする。

埼玉はなぜか所蔵館が多く、なかでも川越が若干多い。
これまた宮崎駿の影響を感じさせなくもない。

思うに、アマゾンで中身を見ずにいきなりこの本を買う人はそんなにはいないだろう。
いるとしたら研究者かなにかだろう。
とりあえず読んで見るには立ち読みか、図書館で買ってもらうか。

反応はほとんど無いに等しいが、何となく今回は多くの人に読んでもらえてる気がする。
サイレントマジョリティの存在を感じる。

宮崎駿は確実に歴史に名を残す人で、彼を理解しようと思えば、
「アルプスの少女ハイジ」までさかのぼってみないわけにはいかない。
原著と比較したときにその多くの違いに人は気付くだろう。
そこからさらにヨハンナ・シュピリという作家について疑問がわいてくるに違いない。
私はますますシュピリという人は童話やメルヒェンを書きたくて書いたわけではなく、
編集者にそそのかされて書いたんじゃないかという気がしている。
シュピリのおもしろさは、メルヒェンから逸脱した、彼女の「地」の部分にあると思う。
その不純物を漉し取ってしまうと、まったく味けのない作品になってしまうのだ。
シュピリはほんとはもっとシリアスな話を書きたかったのだが、
そんな売れない本はとか出版社に言われて仕方なく童話を量産したのではなかったか。
シュピリが自伝を残さなかったのも、そういう、人には言えない事情がたくさんあったせいではないか。
私の直感では明らかにそうなのだが、
その証拠固めをするのは骨が折れる仕事だ。
今より100倍くらいドイツ語を読んで、ドイツ語と格闘しなきゃいけない。
今更ドイツ語にそこまでのめり込んでどうするという気がする。
ていうか本場のドイツ人が研究しろよと思う。

ともかく、
無名の新人(筆名では。まあ、実名でも全然名は知られてないが)が多くの人に読んでもらうには今回の狙いは割とあたったように思う。
私だって宮崎駿以外が「ハイジ」を作っていたらまったく興味を持たなかっただろうし、
宮崎駿学の文献の一つを提供したのだと思っている。

アミオダロンというのはアンカロンという薬のジェネリックで、
そのアミオダロンを以前は1日2錠飲んでいたが、
甲状腺ホルモンが異常になったので、
つまりアミオダロンにはヨードが含まれていてヨードを過剰摂取すると甲状腺がやられて、
甲状腺炎になってしまう(バセドー病みたいなものらしい)らしいんで、
1日1錠に減らした。

アミオダロンは心室細動や心房細動を抑える薬で、
以前は1錠飲んでいたこともあったが2錠にすると
BNP(心臓に負担がかかると出てくるホルモン)
の値がとても小さく(つまり正常に)なり、心房細動もほとんど出なくなる。
でアミオダロンを減らしたので BNP はまた増えて、ほぼ常時心房細動が出るようになった。
心房細動は30歳頃の健康診断でも出てたことがあるので、
たぶん出たり出なかったり、ずっと昔からそういう調子で、
年をとるほど出る、そんな体なのだろう。
だから私は(戦争になって供給が絶えて)
アミオダロンを飲まないと心室細動を再発して死んでしまうのだろう。
心房細動は命に別状はない。ただ血の流れがよどんで血栓ができやすくなるので(血栓が脳の血管に詰まると脳梗塞になる)、
血を固まりにくくする薬を飲まなきゃならない。
ワーファリンとかがそれだ。しかしワーファリンは納豆が食えなくなる(納豆に多く含まれるビタミンKがワーファリンを効かなくする)ので、イグザレルドという新薬に替えてもらった。
そのせいか採血をするときにときどき血が止まらなくなる。
私の周りではそんな人はあまり見ない。
今までは脱脂綿で五分押さえるだけだったのだが、
今度から包帯を巻かれることになってしまった。

心室細動は致死性のもので何の前触れもなくいきなりくる。
アミオダロン1日1錠でも心室細動は一度もおきてないので、
仕方なくアミオダロンは1錠で済ませている。

私はICDを入れられてしまったのだが(その話は「安藤レイ」に書いた通り)、
免許の更新に行ったら、ICD を入れている人は、
半年に一回診断書を出さなきゃいけないと言われ、
病院に通う上に警察署にも通わなきゃならんのはめんどくさいので、
それにそもそもいつか乗ることもあるかもしれんが普段はまったく運転せず、
車も持ってないので、
「運転経歴証明書」というものに替えた。
つまり私はもう車の免許をもってないから車には乗れなくなってしまった(取り直せば乗れるわけだが、そんなめんどくさいことはするまい)。
とりあえずしばらく身分証はこれでもたせてそのうちパスポートを取って期限切れしないようにする。

24時間ホルターというので心電図を取られたのだけど、
心房細動は心電図に細かなノイズが入るのかというとそういうわけではなく、
1分間に400回くらい心臓を拍動させようするのだが、心臓はそれを適当に間引いて、
適性な心拍数にする機能があって、
それは私の場合今のところ正常に働いている。
ところが適当に間引いた心拍というのは間隔がランダムになるのでそれが心房細動。
心臓がほんとに1分間に数百回も拍動してしまうのが心室細動。
心拍が速すぎて血管が心臓から出ていかなくなるから要するに心臓が止まったのと同じ状態になる。
心室細動は AED で直る(ことがある)。
体に埋め込んだ AED が ICD。

心拍の間が空きすぎるときには ICD がペースメーカーの役割をしてペーシングしてくれる。
ICD はペースメーカーを兼ねているのだが、私の場合は、
ペーシングが常時作動しているのではないのだが、夜寝ている間に心拍数が50よりか下がってる時があって、そのときペーシングが起きているのが、ホルターの心電図に記録されていた。
今まで一度も ICD は作動(除細動器として心臓に強い電気ショックを与える)してないのだが、
ペーシングはたまに起きていたのだなあとあきれた。
アミオダロンを2錠飲んで心房細動を止めればその必要もないのだが、
また甲状腺炎にはなりたくないし、いろいろ難しい。
結局機械と薬の両方に頼ってバランスをとっていくしかないらしい。
まったくとんだ重病人だ。

フローニの墓

訳者は著者ではないので作品をずけずけと批評できる立場にいる一人であるはずだが、私の場合「フローニ」を「ハイディ」の謎解きのために無理やり訳し、それでもまだ謎が解けきれないから続く数編も訳して読んでみたので、純粋に「フローニ」という作品を読んだとは言えないかもしれない。

「ハイディ」をある程度知ってはいるが深くは知らない普通の人に「フローニ」を読んでもらうと、だいたい同じような印象を持つようだ。
つまり、ストーリーは別に面白くはない、しかし、文章にある独特の雰囲気があって、なぜか最後まで読んでしまう、と(ストーリーは面白くなく独特の雰囲気はあるが最後まで読む気にならないものは、ありがちだが、単につまらないということよね)。

その独特の雰囲気というのは明らかに訳者である私の文体のせいではない。
逆に私がそのヨハンナの独特の言い回しの影響をうけた、のは確かだ。
もちろん私もそれに気付いてはいたが、うまく表現できない。
しかし周りの人も同じようなことに気付いているとすれば、やはりそこが「フローニ」のおもしろさであって、もしかすると私は宝石の原石を見つけたのじゃないか、という気にもなる。
その雰囲気というのは当然「ハイディ」にもあるんだが、アニメにも表れてはいるが、残念ながら十分に表現されているとは言えないと思う。
その雰囲気というのはアルムおじさんやデーテのあたりに濃厚にただよっていて、つまりそれらのキャラクターに何らかの実在のモデルがいることを暗示しているのだ。
そしてそのモデルを作中に描写するときにヨハンナは奇妙な、達者というよりはぎくしゃくした表現をして、そこが何かしらの味になっている、と思う。

> man ihr das Äußerste in dieser Richtung hätte zutrauen können, wenn nicht die schelmischen Mundwinkel von unten herauf sich wie darüber moquirt hätten.

たとえばフローニの容貌を描写しているこのとても訳しにくい部分。
特に moquiren という単語がわからんし(ラテン系の言葉をドイツ語の動詞化したものだが、調べてもわからん。しかたなく口がへの字に曲がってると訳した)、
das Äußerste in dieser Richtung
もよくわからん(目が賢そうなわりに鼻がとても純朴で、その印象がちぐはぐだ、ってことを言いたいらしいのはなんとなくわかる)。
あるいは

> Drüben standen die dunkeln Felsenspitzen des Pilatusberges auf dem lichten Abendhimmel, und die Hügel umher lagen so lockend grün im Abendschein.

「ピラトゥス山の薄暗い断崖絶壁が明るい夕空の上に浮かび、夕焼けの中、心があこがれるような緑色の丘があたりに横たわっていた」
などのような自然描写。
so lockend grün は「心があこがれるような緑色」とでも訳すしかないではないか。

しかしながらヨハンナの作品にはとても退屈なものも混じっていて、そういうものにはたぶんそういう何か屈折した、「魔法をかけるような」描写が盛られてないのだろうと思う。

世の中にはチェックとストライプのシャツが溢れかえっており、
それ以外の柄の襟付きのシャツというのはほとんどないか、あっても高い。
とにかくもう絶対チェックとストライプのシャツは着ないぞと思えば、
6千円とか7千円とか、或いはうん万円のシャツを買うしかない。
あるいは、古着であろうか。
なんでこんなことになってしまっているのだろうか。

まともかく年齢的にも立場的にもTシャツばかり着るわけにはいかないので、
襟付きのシャツが必要だな、チェックみたいにださくなく、
ストライプみたいにありきたりじゃないやつが着たい、と思うがそれには金がかかる。

それで実家に眠っていた父の服をサルベージしたのだが、
そのほとんどがチェックでもなくストライプでもなく、
今時どこにも売ってないような柄の服ばかりであり、
一生かかっても着つぶせないくらい大量に出て来た。
時代が違うというのもあるのだろうが、いったいどこでこんな服を買ったのだろう、
どこでこんな服が売られていたのだろう。
そしてなぜ現代ではこれらの服はまったく作られなくなったのだろう。
非常に不思議だ。
ともかくこれだけのシャツを今買うとしたら数十万円はする。

シャツだけでなくズボンにも金がかかる。
ズボンはジーパンはいとけば安くで済むが、
ズボンも実家から送ってもらうことにした。
金がかからないのは良いことだ。
ズボンのほうが消耗が速いからいくらあっても困らない。
シャツはさすがに置き場に困る。

国を救った数学少女

まあまあ面白い。
特に出だしのノンベコの話は面白いが、
突然スウェーデン人の話に切り替わり、
交互にストーリーが進展していく。
まあそれも最初のうちは我慢して読んでいたが、
だんだんに話が拡散して行く。
鄧小平やブレジネフやカーターが出てくるあたりで飽きる。
なんだ何でもアリのどたばたものかと。
それが面白いと思える人には良いのかしれんが。
私としては南アフリカ共和国の話で完結しててネルソン・マンデラが大統領になるあたりで終わってれば(そしてそういう歴史的経緯がきちんと描かれていれば)良かった。
いろんなことつまみ食いなんかしたくなかった。

著者はスウェーデン人のようだがスウェーデンの話が特につまらない。
中国人とかその他もろもろの話も一応最後で伏線回収されるのだが、
いろんなことを書きすぎて、だんだんにネタバレしてきて、
西洋人視点の支離滅裂なごたくが並べてあるだけに見えてくる。
西洋人は帝国主義やら植民地支配やら人種差別を今は反省していると必死に言いつくろっているようで、逆にそれが嫌みに感じる。

まあともかく悪い本ではない。
世の中の本がどれもこれくらい面白ければ退屈しのぎに困ることはないのにと思う。
「火星の人」もそれなりに楽しめたし。
こういうエンタメ系の小説で面白いのが、
日本の作品にはまるでない。
まるで思いつかない。

カーリルで検索してみても、所蔵館の多さにしても何にしても、比較的最近の本であるせいもあるのか、貸し出し中ばかりですべてにおいてすごい。

The Girl Who Saved the King of Sweden は普通に訳せば「スウェーデン王を救った少女」となるはずだが「国を救った数学少女」と訳したのはどうだろうか。
どちらにしてもあまり話の内容を反映してないが、余計わからなくしているように思える。

ついでだが、「サハラ」という映画が少し面白かった。
これまたタイトルからはまったく予想の付かない内容だった。
雰囲気は「国を救った数学少女」に似ている。
こういうのが流行っているのだろうか。いや、そんなはずはないが。

e-rara Johanna Spyri 文献

初版の年ではなくて実際に出版された年の順

## Bremen : C. Ed. Müller’s Verlagsbuchhandlung

* [Ihrer Keines vergessen / von der Verfasserin von: «Ein Blatt auf Vrony’s Grab»](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17066) 1873 彼らの誰も忘れない
* [Verirrt und gefunden / von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16661) Zweite Auflage, 1882 迷い出て、そして見出されて
* [Ein Blatt auf Vrony’s Grab : Erzählung](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16597) Vierte Auflage, 1883 フローニの墓に一言

## Gotha: Friedrich Andreas Perthes

* [Heimathlos : Zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16705) 1878 故郷を失って
* [Verschollen, nicht vergessen : Ein Erlebniss meinen guten Freundinnen, den jungen Mädchen / erzählt von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vronys Grab” etc.](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16711) 1879 失踪したが忘れない
* [Aus Nah und Fern : Noch zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16706) 1879 近く、そして遠くから
* [Aus unserem Lande : Noch zwei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16713) 1880
* [Im Rhonethal](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16645) 1880 私たちの国から
* [Heidi’s Lehr- und Wanderjahre : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben / Von der Verfasserin von “Ein Blatt auf Vrony’s Grab”](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16704) 1880 ハイディの学びと放浪時代
* [Ein Landaufenthalt von Onkel Titus : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16673) 1881 ティトゥス叔父さんの滞在
* [Heidi kann brauchen, was es gelernt hat : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16913) 1881 ハイディは学んだことを役立てられる
* [Kurze Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16708) 1882 子供と、子供を愛する人のための短い話
* [Wo Gritlis Kinder hingekommen sind : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17065) 1883 グリティスの子供たちはどこに帰ったか
* [Gritlis Kinder kommen weiter : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16674) 1884 グリティスの子供たちはまた来た
* [Was soll denn aus ihr werden? : Eine Erzählung für junge Mädchen](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16714) 1887 彼女はどうなるべきか
* [Arthur und Squirrel : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16712) 1888 アートゥアとシュクヴィレル
* [Was aus ihr geworden ist : Eine Erzählung für junge Mädchen / Zugleich Fortsetzung der Erzählung: Was soll denn aus ihr werden?] (http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16672) 1889 彼女は何になったか
* [Aus den Schweizer Bergen : Drei Geschichten für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-17007) 1889 スイスの山から
* [Keines zu klein Helfer zu sein : Geschichten für Kinder und auch für solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16658) 1890 誰も助けられない
* [Cornelli wird erzogen : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16850) 1890 コルネリは育てられる
* [Volksschriften](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16707) 1891 民話
* [Schloss Wildenstein : Eine Geschichte für Kinder und auch für Solche, welche die Kinder lieb haben](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16659) 1892 ヴィルデンシュタイン城
* [Einer vom Hause Lesa : ein Geschichte für Kinder und auch für solche, welche Kinder lieb haben.](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16657) 1894 レザ家の人

## Stuttgart: Carl Krabbe

* [Sina : eine Erzählung für junge Mädchen](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16671) 1884 ジーナ

## Barmen: Hugo Klein

* [Am Sonntag](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-16662) 1881 日曜日に

## Basel: Allgemeine Schweizer Zeitung
* [Aus dem Leben eines Advocaten](http://dx.doi.org/10.3931/e-rara-26408) 1885 ある弁護士の生涯

Heidi, translated by Louise Brooks 1885

「ハイディ」だが、
Heidi’s Lehr- und Wanderjahre が出たのが 1880 年。
続編の
Heidi kann brauchen, was es gelernt hat が出たのが 1881年だった。

[初フランス語訳](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5337916)
は 1882 年。
原著の版元 Gotha: Perthes が出版していて、訳者は不明。
Heidi’s Lehr- und Wanderjahre のみの内容。

[英訳は1885年](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5320749)。
訳者は Louise Brooks。
出版社は Couples, Upham, and Company,
The Old Corner Bookstore, 283 Washington Street, Boston.
巻末の広告の価格がドルで書かれているので、間違いなく、
イギリスではなくてアメリカのボストンだ。
こちらは前編と続編両方の合冊になっている。
これがおそらく最初の英訳。
そしてハイディを世界的に有名にした本なのだろう。

> From the pleasant village of Mayenfeld a path leads through green fields, richly covered
with trees, to the foot of the mountain, which from this side overhangs the valley with grave and solemn aspect.

冒頭だけだが、ドイツ語原文と比べてみると、そのまま自然に訳されていることがわかる。

> Vom freundlichen Dorfe Maienfeld führt ein Fußweg durch grüne, baumreiche Fluren bis zum Fuße der Höhen, die von dieser Seite groß und ernst auf das Tal herniederschauen.

[「ハイディ」邦訳疑惑](/?p=17598)参照。

神鹿、死刑

昔、神鹿を殺すと死刑になった、といわれているのだが、ちょっと信じられない。常識的に考えて、あり得ないことだ。

信長が神鹿を殺した者を密告させて、処刑したという記録があるそうだ。しかしこれはおそらく、奈良の鹿を組織的に密猟した者がいて、処罰したという意味であろう。たまたま過失で鹿を殺してしまって、それでただちに死刑になるはずがない。

だいたい誰が死刑を執行するのだろうか。春日大社の宮司?そんなはずはない。東大寺か興福寺の僧兵?まさか。

江戸時代の奈良奉行や京都所司代、あるいは寺社奉行ならば幕臣だが、幕府の役人が鹿を殺した程度で人民を処刑するはずがない。鎌倉時代の北条氏、室町幕府ですらそんなことをするとはとうてい思えない。

鹿の密猟というのは寺社領でなくともよくあったことだろう。その首謀者は、場合によっては死刑になることもあっただろう。

アーチスト

最近体調が悪いのは、心臓の具合が悪いとか、年をとったからということもあるかもしれんが、たぶんアーチストという薬を飲んでいるせいだ。

服用を忘れたときに、2回分をいちどに服用すると血圧が下がりすぎて、めまい、転倒をおこすこともあります。飲み忘れたときは、その分は抜いて、次回から正しく飲んでください。

アーチストは血管を広げて血圧を下げ、これによって心臓の負担を軽くしている。しかしながら、よく立ちくらみするようになった。しばらくすると体が慣れたのか立ちくらみすることはほとんどなくなった。しかし電車に長く立っていると気分が悪くなってきて、冷や汗が出てくるようになった。たぶんアーチストのせいだと思う。

座っていれば特に問題ない。短い時間なら問題ない。歩いてるのは全然平気。しばらく山歩きしても、息が切れるとかそんなことはない。

でまあ、電車やバスではできるだけ座るようにしているのだが、本来は私のような人間が優先席に座ってよいはずだが、見た目は健常者なので、席を譲ってもらうのは難しい。アーチストの量を減らしてもらいたいとも思うが、それで心臓に問題が出ても困る。でも減らしても全然平気なのかもしれない。

血圧というのは多少高いくらいが体調は良いものだ。がんがん遊びたくもなる。しかしそれはもうできない。いつもなんか眠い感じもするが、無理せず寝るようにしている。私は日本が認めた重病人なのだからなー。

通勤というのがまあ問題なわけですよね。特に都心方向への。多少金がかかっても仕方ないので指定席でいくか、あるいは逆に各駅停車で行くようにしているが、ときどきどちらもできないことがあって、そんなときたまたま座れると良いが、座れないときは、ときどき途中下車して休憩しなくてはならないだろうと思う。実に面倒だ。

そんなふうで私はいつも生命の危険を感じて生きているわけだ。私のような人間は早く田舎に引っ越して店番かなんかして、毎朝墓参りなんかして生きていくのが体には良いのだろう。そうしてただ無為に、死ぬまでの間生きていく。もう、それで良いのではなかろうか。

皮膚が弱くなってきている気がする。これも薬の副作用かと思ったがなんともいえない。私は汗かきなのだが多少汗をかいてほっといてもたいしたことにはならなかった。しかし今はこまめに下着を替え、体を洗ったり拭いたりするようにしている。まあ、普通の人がふつうにやってることをやるようになっただけなのだが。