Heidi, translated by Louise Brooks 1885

「ハイディ」だが、
Heidi’s Lehr- und Wanderjahre が出たのが 1880 年。
続編の
Heidi kann brauchen, was es gelernt hat が出たのが 1881年だった。

[初フランス語訳](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5337916)
は 1882 年。
原著の版元 Gotha: Perthes が出版していて、訳者は不明。
Heidi’s Lehr- und Wanderjahre のみの内容。

[英訳は1885年](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5320749)。
訳者は Louise Brooks。
出版社は Couples, Upham, and Company,
The Old Corner Bookstore, 283 Washington Street, Boston.
巻末の広告の価格がドルで書かれているので、間違いなく、
イギリスではなくてアメリカのボストンだ。
こちらは前編と続編両方の合冊になっている。
これがおそらく最初の英訳。
そしてハイディを世界的に有名にした本なのだろう。

> From the pleasant village of Mayenfeld a path leads through green fields, richly covered
with trees, to the foot of the mountain, which from this side overhangs the valley with grave and solemn aspect.

冒頭だけだが、ドイツ語原文と比べてみると、そのまま自然に訳されていることがわかる。

> Vom freundlichen Dorfe Maienfeld führt ein Fußweg durch grüne, baumreiche Fluren bis zum Fuße der Höhen, die von dieser Seite groß und ernst auf das Tal herniederschauen.

[「ハイディ」邦訳疑惑](/?p=17598)参照。

神鹿、死刑

昔、神鹿を殺すと死刑になった、といわれているのだが、ちょっと信じられない。常識的に考えて、あり得ないことだ。

信長が神鹿を殺した者を密告させて、処刑したという記録があるそうだ。しかしこれはおそらく、奈良の鹿を組織的に密猟した者がいて、処罰したという意味であろう。たまたま過失で鹿を殺してしまって、それでただちに死刑になるはずがない。

だいたい誰が死刑を執行するのだろうか。春日大社の宮司?そんなはずはない。東大寺か興福寺の僧兵?まさか。

江戸時代の奈良奉行や京都所司代、あるいは寺社奉行ならば幕臣だが、幕府の役人が鹿を殺した程度で人民を処刑するはずがない。鎌倉時代の北条氏、室町幕府ですらそんなことをするとはとうてい思えない。

鹿の密猟というのは寺社領でなくともよくあったことだろう。その首謀者は、場合によっては死刑になることもあっただろう。

アーチスト

最近体調が悪いのは、心臓の具合が悪いとか、年をとったからということもあるかもしれんが、たぶんアーチストという薬を飲んでいるせいだ。

服用を忘れたときに、2回分をいちどに服用すると血圧が下がりすぎて、めまい、転倒をおこすこともあります。飲み忘れたときは、その分は抜いて、次回から正しく飲んでください。

アーチストは血管を広げて血圧を下げ、これによって心臓の負担を軽くしている。しかしながら、よく立ちくらみするようになった。しばらくすると体が慣れたのか立ちくらみすることはほとんどなくなった。しかし電車に長く立っていると気分が悪くなってきて、冷や汗が出てくるようになった。たぶんアーチストのせいだと思う。

座っていれば特に問題ない。短い時間なら問題ない。歩いてるのは全然平気。しばらく山歩きしても、息が切れるとかそんなことはない。

でまあ、電車やバスではできるだけ座るようにしているのだが、本来は私のような人間が優先席に座ってよいはずだが、見た目は健常者なので、席を譲ってもらうのは難しい。アーチストの量を減らしてもらいたいとも思うが、それで心臓に問題が出ても困る。でも減らしても全然平気なのかもしれない。

血圧というのは多少高いくらいが体調は良いものだ。がんがん遊びたくもなる。しかしそれはもうできない。いつもなんか眠い感じもするが、無理せず寝るようにしている。私は日本が認めた重病人なのだからなー。

通勤というのがまあ問題なわけですよね。特に都心方向への。多少金がかかっても仕方ないので指定席でいくか、あるいは逆に各駅停車で行くようにしているが、ときどきどちらもできないことがあって、そんなときたまたま座れると良いが、座れないときは、ときどき途中下車して休憩しなくてはならないだろうと思う。実に面倒だ。

そんなふうで私はいつも生命の危険を感じて生きているわけだ。私のような人間は早く田舎に引っ越して店番かなんかして、毎朝墓参りなんかして生きていくのが体には良いのだろう。そうしてただ無為に、死ぬまでの間生きていく。もう、それで良いのではなかろうか。

皮膚が弱くなってきている気がする。これも薬の副作用かと思ったがなんともいえない。私は汗かきなのだが多少汗をかいてほっといてもたいしたことにはならなかった。しかし今はこまめに下着を替え、体を洗ったり拭いたりするようにしている。まあ、普通の人がふつうにやってることをやるようになっただけなのだが。

「虚構の歌人」に載せた自詠の歌の一つに致命的な文法上のミスを発見してしまった。

恥ずかしい。しかし印刷したものは直せない。
まあ、人間は過つものだよな。

> しぬばかり 酒飲むことも ありけむや いまはおぼえぬ わかかりし日に

> 世の中の 人とたはぶれ 酔ひしれて 歩くはおそろし 老いにける身は

年取ったせいでなんとなく昔より文章が書けるような気がしたのと、
これ以上年取ると頭ぼけてくるから急がないとってのと、
死に損なったので、
慌てていろいろ書いたりしたのだが、
まそれも一段落して、
すでにこれまでに書いたものをかき集めただけでも、
後世の人は私がどんな人だったかってことはわかるはずで、
これからさらになんか書いたからって世の中に何かをよけいに残せるわけではない気がする。

小室直樹も「ソビエト帝国の崩壊」より後は書いても書かなくてもよかった。
50歳前に死んでいても小室直樹は小室直樹だったはずだ。
むろん一時期テレビに出てたことや、その後の著作活動なんかも、
彼を有名にし、世の中に彼の評価が定着する役にはたったわけだけども、
本質的な部分は、「ソビエト帝国の崩壊」と、そのあとの「アメリカの逆襲」あたりまで読めば十分なわけだ。

そうしてみれば、私がこれから多少頑張ったところで、
或いは本の部数が多少増えたところで、大したことはなくて、
むしろいかに何もせず、自分が楽に生きるかってことを目標に生きたほうが良いのではないかという気がする。

周りの人が間違っているように見えても、
また実際これまでずっと間違った判断をしていて、
自分が属する組織や社会を悪い方向へもっていこうとも、
それを指摘したり、改善しようとしたり、戦う必要はない。
それは私の仕事ではないし、私に向いてもいないし、そもそもする必要がない。
人のペースに巻き込まれて無理に酒を飲む必要もない。
自分が一番楽な生き方をすれば良い。
ある意味それが今の私がやるべき仕事だと思う。

ますかがみ

増鏡を頭から読み始めたのだが、

> 見渡せば やまもとかすむ 水無瀬川 ゆふべは秋と なにおもひけむ

これだが、
水無瀬離宮を建てた記念に、その障子絵にふさわしい歌を、何ヶ月も推敲してこしらえたもの、
典型的な屏風歌であって、当座の実景を詠んだのでないのは間違いあるまい。
すべて屏風歌というものは、実景ではない。
当座に詠んだ歌をのちに屏風歌に採用した、という例は私の知る限り無い。
つまり、屏風歌、障子歌というのは、新築祝いにあらかじめ発注される歌であって、
建てた後に詠んだり、すでにできた歌を採用するということは、
原則なかったということだと思う。ただし小倉色紙に関しては少し事情が違う。
これには古歌が含まれていた。
もしかすると古歌を色紙に書いて障子に貼るというのは小倉色紙以来なのかもしれない。

この離宮は、久我通親が養女で土御門天皇の実母である在子の御所として寄進したもののように思われるが、
通親は1202年に死んでおり、
代わりに九条良経(というより後鳥羽院自身)が1205年に水無瀬離宮で歌合を主催して、
上の歌が成ったものである。
しかしその良経も翌年には死んでしまう。

さて、嵯峨中院には定家染筆の小倉色紙形が障子に貼られていた。
それは後嵯峨院の時代に亀山殿の一部となったはずだ。
亀山殿は西園寺実氏が後嵯峨院に寄進したもので間違いない(それ以外あり得ない)。
定家は増鏡の時代にはすでに非常に高名であり、増鏡の中でも何度も引用されているのにもかかわらず、
かつ後嵯峨院が何度も亀山殿で歌合を行っているのにもかかわらず、
増鏡にもとはずがたりにも嵯峨中院、小倉色紙の話は一切でてこない。
おそらく、小倉色紙は、嵯峨中院が亀山殿に建てかえられたときにすでに失われたのだろう。

増鏡が書かれたのは建武の新政当時のことと思われる。
が頓阿の時代にすでに知られていた小倉色紙とか、すでに存在していた小倉百人一首、百人秀歌などというものも、
増鏡には出てこない。
これまた推測だが、頓阿は、小倉色紙に関するなんらかの写本を入手し、
それをもとに彼が小倉色紙を再構成したのではないだろうか。
だからこの時代頓阿以外の歌人は小倉色紙を知らなかった。

何もしたくない病。
毎年だんだん悪化する。
最近は酒も飲みたくない、外食もしたくない、とかになってきた。
金がかからないのは良いが、
酒飲んで気分リセットする派なので、
いつまでもいつまでも気分がリセットできなくてかなりやばい。

体力が落ちてきているのもあるし。
酒と戦うとだいたい負けるようになってきた。

Aus dem Leben と Verirrt und Gefunden と Ein Blatt auf Vrony’s Grab

[Aus dem Leben (Projekt Gutenberg)](http://gutenberg.spiegel.de/buch/aus-dem-leben-670/1) (1900)
はテキストデータ化されているのだが、元の書籍の写真(PDF版)は見つからない。

[Verirrt und Gefunden](http://www.e-rara.ch/sikjmc/id/5316201)
は初版は1872年だが、このPDF版は1882年の第2版。

[Ein Blatt auf Vrony’s Grab](http://www.e-rara.ch/sikjm/content/titleinfo/5287470)
は初版は1871年だが、このPDF版は1883年の第4版である。

細かく差分を見て行くとこの三つの版は少しずつ、微妙に異なっている。
それでどれが一番古い形なのか、
まあ普通に考えれば 1882版なのだろうが、1883版のほうが古いような気がする箇所もある。
1900版では明らかに標準ドイツ語への書き換えが行われている。
Fluth を Flut と綴ったり、thut を tut としたり。
treulich Hülfe を treuliche Hilfe としたりしている。
また zum ersten Mal を zum erstenmal としたり、
大文字や小文字を変えたり、
コンマやコロン、セミコロンの打ち方を細かく変えたりしている。
ただしこの辺りのことはヨハンナ自身ではなく編集や校正がやった可能性が高い。

1882版と1900版では

> Wir waren nahe Freunde.

となっているところが、1883版では

> Wir waren nahe befreuendet.

となっている。
どちらも「私たちは仲良くなった。」と訳せば良いわけだが。
また 1882、1883版では

> Warte nur, balde, balde /
Schläfst auch Du!

となっているところが 1900版では

> Warte nur, balde /
Ruhest du auch!

になっている。
1900 のほうはゲーテの詩のままであるが、
昔のは少し改変してある。
それをヨハンナは気にして、
後から[ゲーテのオリジナル](https://de.wikipedia.org/wiki/Wandrers_Nachtlied#Ein_Gleiches)
に戻しているらしいのである。
しかし子供の頃のフローニが口ずさんだ歌としては 1883 のままのほうがそれっぽくみえる。
実は私がこのゲーテのオリジナルを見つけたのはまったくの偶然だった。
たまたまゲーテの詩集を読んでておやっと思ったわけだが、それくらいこの詩は有名だということになる。

* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1883](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1883.txt)
* [Ein Blatt auf Vronys Grab 1900](http://tanaka0903.net/libroj/Vrony_1900.txt)

引用符は » と «、または › と ‹ に揃えてある。
実は原作は引用符がきちんと閉じてないところがあって、それは 1900版でも直ってない。
訳すときに割と困った。
仕方ないのでそこだけは私が直した。

クララ

びびりなのでときどきドイツ語原文を読み直したりしているのだが、

> »Ja,« erwiderte sie, »sehr lange und tief krank war ich an Leib und Seele.«

> 「ええ、」彼女は答えた、「とても長く深く、私は体も心も病んでいた。」

この部分、本の中では

> 「ええ、とても長い間、とても重い、体と心の病気を患ってた。」

と訳している。
会話中に erwiederte sie とか sagte sie(彼女は言った)のような短い言葉が挿入されることが非常に多いのだが、
これはヨハンナの癖というよりは、
ドイツ文にはよくあることのように思える。
現代日本文としてはやや違和感あるし、文脈上書かなくてもわかるので、全部省くことにした。
しかし、

> »Klara,« sagte ich nun, »hast Du die Krankheit durchmachen müssen, an der wir Marie damals so elend sahen?«

の nun ような語が付加されている場合には、省かずに

> 「クララ、」私はまた言った、「あなたはもしかしてマリーが苦しんでた頃からもう心身を病んでいたの?」

などと訳した。
ところでこのクララという女性なのだが、
もちろん「ハイディ」に出てくるクララとは名前が同じだけなのだが、
どうもヨハンナの友人というよりはヨハンナ自身がモデルなのだろうと、
私にはますます思えてきた。

数年間、心も体も病んでいて、音信不通で、しかもある詩人に失恋していた。
何千もの「知性の泉」の水を汲んで飲んでみたが、何の役にも立たなかった。
友人に聖書を薦められても納得がいかなかった。

ヨハンナが結婚してチューリヒで暮らしはじめ、
子供が生まれるまでの間、ヨハンナ自身がそういう状態だったのだろうと思えるのだ。
親しい女友達の「私」とは、
コンラート・フェルディナント・マイヤーの妹、ベッツィー・マイヤーであったかもしれない。
ベッツィーのほうがむしろ、ヨハンナよりは信心深かったかもしれない。

とはずがたりで、主人公の後深草二条が伊勢の外宮にお詣りしたとき、

> 神だちといふ所に、一・二の禰宜より宮人ども祗候したる、すみぞめのたもとは憚りあることと聞けば、いづくにていかにと参るべきこととも知らねば、「二の御鳥居、三には所といふへんまでは苦しからじ」といふ。

などとある。
墨染めの袂というのはつまり出家した尼姿だということだ。
他の箇所では熱田神宮にも参っているが、そんなことは書いてない。写経までしている。
鎌倉時代でも、
伊勢神宮だけは神仏習合を免れていたということだ。
そして僧侶や尼は第二鳥居の先にある第三庭所というところまでは入って良いとされていたことがわかる。

伊勢神宮がなければ日本の神道と仏教は完全にごっちゃになっていたかもしれない。
伊勢神宮以外で仏教色がほとんどないのはあとはわずかに上賀茂神社、下鴨神社くらいか。

大和国に長谷寺というのがあるが、ここはもとは雄略天皇などの都であったはずで、
かつては神道の本場だったと思われるのだが、神宮などはなく、
ただ長谷寺があるばかりだ。
南紀の神道も完全に密教と融合してしまっている。

昔の(公家の)女性はいきなり(高貴な)殿方から恋歌を詠みかけられたときのために、
即興で気の利いた歌を詠み返すために日々修業しなくてはならなかったと柳田国男が書いていたのだが、
いかにも桂園派の歌人の生き残りの彼が言いそうなことだが、
「とはずがたり」を読んでると実際そんな需要はあったんだろうなあと思えてくる。

普段の歌会で、題詠でつまらない、心のこもってない、そらぞらしい恋歌を量産するのは、
いざというときのためのウォーミングアップに過ぎない。
多くの女性はふつう真剣な恋愛やどろどろの不倫など無縁の一生を送る。
仮にどろどろな男女の恋歌のやりとりがあったとしても、
そういうものは他人には見せなかっただろうし、
また江戸中期以降はそういうこともかなり下火になっていたように思う。
細川幽斎や松永貞徳の頃の恋歌にはまだリアリティが残っていた。

毎日ジョギングしたり水泳したりするようなことが昔の人の(日常の)詠歌であり、
そういう訓練を日々欠かさず行う人のことを歌人と言った。
決して今の「ポエマー」のことを「歌人」と言ったのではない。
昔の女性は、ある意味、昼メロを見るだけでなく、恋歌を実作することによって、昼メロを仮想体験していたのかもしれない。

「とはずがたり」の頃の宮中というのは、後嵯峨院がいて、新院(後深草院)がいて、
天皇(亀山天皇、後深草院の実母弟)と皇太子(亀山天皇の皇子世仁、後の後宇多天皇)がいた。
本来なら後深草院の皇子熈仁(後の伏見天皇)が即位するか、皇太子になるべきであったが、
熈仁は洞院氏の子、世仁は西園寺氏の子。
洞院は西園寺の分家に当たるので、
世仁が皇位を継承するべきである、熈仁には皇位は継がせないという判断が当初はあったと思われる。
「とはずがたり」の女主人公は後深草院の女房になる(後深草院二条と呼ばれる)のだが、
後嵯峨院が崩御し、続いて父が死去すると、
後深草院と亀山院と西園寺の間でふらふらと翻弄される存在になる。

後深草院の女房になったのに西園寺実兼から求愛されて

> 知られじな 思ひ乱れて ゆふけぶり なびきもやらぬ 下の心は

などと歌を返し「こはなにごとぞと我ながら覚え侍りき」などと言ってみたり、
実兼から関係を迫られて

> 帰るさの たもとは知らず おもかげは 袖の涙に ありあけのそら

などと返歌を詠んで送ったりしている。
これらの歌だが、決して秀でた歌ではないものの(あなたのおもかげは私の袖の涙にあります、と有明の空をかけただじゃれ)、きちんと整っているし、
皇室を巻き込んだ、実際の不倫の際に詠まれた歌として見るとき、すごみがある
(仮に、実兼の子が後深草の実子として即位してたらシャレにならなかった)。

これらの歌から見ても、
後深草院二条の意中の人は後深草院ではなくて実兼であることがわかるのである。
必然的に「とはずがたり」は鎌倉・室町期に宮中にご奉公にあがる娘たちが身の処し方、歌の詠み方の事例研究をするために必ず読まされる書となったし、
21代集の恋歌はその果てしない再生産だった。
そしてその雰囲気がずっと後の江戸期まで、
深窓の淑女達にも恋歌の訓練をさせることになったのだろう。

嵯峨中院は西園寺から後嵯峨院に寄進されて、
さらに亀山院に相続され、亀山殿と呼ばれるようになる
(のちに尊氏が大覚寺統の菩提寺天龍寺とする)。
亀山殿はもともとは大宮院(西園寺姞子。後深草、亀山両院の生母)の御所であった。
亀山院と後深草院は別々の御所に住んでいて、時折り互いに行幸があり、宴があり、
勝負事があった、ということが、
「とはずがたり」には書かれていてこれまた面白い。

ところでウィキペディアには

> 後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にして、治天の君を定めずに崩御した事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。

とか

> 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。

などと書かれているのだが、本気でこんなことを信じているのだろうか。
日本史というのはなんでこんなにいつまでたってもアホなのだろうか。
後嵯峨院の遺志、というか、西園寺の意志は、世仁親王を皇太子としたことで明白ではないか。
大宮院にとって後深草も亀山も我が子であるからどちらも同じに可愛いのに違いない。
どちらかを憎んでいたとか、どちらかが嫌われていたというようなことは(少なくとも「とはずがたり」の中では)感じられない。
同母兄弟どうし、両方即位させたのは、皇統を西園寺で固めるためだったのだが、後深草に西園寺の皇子が生まれず、
亀山に生まれたのだから、その皇子を即位させようとした。
この時代は関東申次西園寺絶対なのだからその線で判断すればよい。
「治天の君ガー」とかバカの一つ覚えで言うまでもない。
ウィキペディアは「治天厨」に汚染されていていらいらする。
たぶん吉川英治辺りが悪い。

それで後嵯峨院が崩御すると今度は後深草院が一院、本院となる。
本院は一応皇族の代表者なので、本院が自分の皇子を即位させたいと言えばなかなか反対は出来ない。
少なくとも西園寺は反論できないし、弟の新院(亀山院)もダメとは言えない。
戦時ならばともかく平時に北条氏も口出しはできない。
となると後嵯峨院が一応決めておいた、亀山・後宇多のラインはいったん棚上げになって、
後深草皇子の伏見が即位してしまう。
両統迭立の責任は誰かという問題では、西園寺が悪いとも、後深草が悪いともいえるが、
どちらもやむをえない理由はあった。
弟に譲位する例は今までなんどもあって、それがただちに悪いとも言えない。