ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集

「ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集」をある種の義務感で読破してみようとしたのだが、余りにも退屈で挫折した。
この全集があっという間にその存在を忘れ去られてしまったのは、やはり単につまらないからなのだろう。
簡単な解説、あらすじくらいは付けて欲しかった。
この膨大な文書を読み通す人がはたしているだろうか。

例えば、Arthur und Squirell という話では、工場の経営者の子供に兄と妹がいて、兄は会社を継ぐのが嫌で失踪、社長は妹に婿をとって仕事を継がせようとしたが、妹にはすでに好きな男(牧師の息子)がいて、結局工場は売ってしまい、妹は牧師の息子と結婚した。
二人には男の子が出来たが(この子が主人公 Arthur)、Arthurが小さいうちに両親は他界してしまい、親戚に引き取られて、寄宿学校に入れられてしまうが、そこですったもんだあって、Arthurはある女の子(Squirell)と親しくなる(ボーイミーツガール!)。
そこへ失踪した兄(つまりAuthurの叔父)が大学教授となって戻ってきて(予定調和的な伏線の回収!)、甥Arthurとついでにその彼女Squirellを引き取って楽しく暮らす、という話なのだが、こんな話を延々と読まされたら気絶しそうだ。
あらすじだけで十分な気がする。
主人公が孤児で親戚に引き取られて知らない土地に連れて行かれる、という辺りがなんとなく「ハイディ」っぽい。

なぜ「ハイディ」だけがある程度読むにたえうる作品になり得たか(アニメの「ハイジ」はとりあえずよけといて)という考察は、もう少ししたほうが良いのではないか。
やはりストーリーというよりは、ハイディやアルムおじさんやデーテやロッテンマイヤーなどのキャラの濃さだと思うのだよね。
キャラの濃さという意味では「フローニ」もそれなりのもんだと思うよ。

そんで余りにも頭が疲れたのでヨハンナ・シュピリはやめにして佐佐木信綱を読み始めたのだが、
これも恐ろしく退屈だ。
この人は、少なくとも初期はちゃんと大和言葉だけで和歌を詠んでいた。
江戸時代の和歌や、明治期の桂園派の和歌と大差ない。
だが次第に漢語やそのほかの外来語が混じり始める。
明らかに明星派やアララギ派の影響をうけているのである。
佐佐木信綱の代表作である

> ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

あるいは正岡子規の代表作といわれている

> くれないの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

これらは長く伸びた俳句、或いは漢詩の翻案とでもいうべきものだ。
漢語を交えて叙景、もしくは叙事だけでできあがっている。
確かに古く武士にもこのような直截な叙景の歌はあったかもしれないが、
叙景や叙事が心象風景に転調するところが和歌の骨頂であって、
叙景に仮託した心象の微妙な表現というものはやはり大和言葉、和歌でなくてはならない。

佐佐木信綱は明治の歌を詠みたかった。
新しい時代の和歌は変わらねばならないと思った。
だから明治以後の話題を歌に取り入れなくてはならない、という義務感のようなもので、
いろんな概念、例えば「サタン」のような言葉を取り入れた。

> 敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるがごと雲走りゆく

これは単に雨雲がサタンの軍勢のように見える、ということが言いたかったのだが、
こういうものが世間にもてはやされることによって佐佐木信綱という歌人自体が変容していく。

佐佐木信綱の崩れ方というのは昭和天皇の崩れ方と良く似ている。
おそらく昭和天皇も佐佐木信綱の影響をうけたのだろうと思う。
そして今の現代短歌というものは、もはや何でもありのカオスになってしまった。
ましかし、短歌は短歌で勝手にやれば良い。
問題は和歌を詠む人がほとんどいなくなり下手をすると私で断絶するかもしれないってことなのだ。

私には、明治の歌人たちは、
明治という一過性の時代に和歌を適合させようとして和歌を破壊した(あるいは和歌から逸脱していった)だけのように見える
(柳田国男などの桂園派の歌人は抵抗した。明治天皇も最後まで大和言葉だけで歌を詠んだ)。
明治は過ぎ去っても和歌は残らねばならない。
和歌は時代の影響をうけるとしても、和歌自体は「永遠の過去」に属するものでなくてはならない。
能や歌舞伎ではそれが当たり前なのに和歌はそのことが軽んじられているのは残念ではないか。

『ハイディ』原作者に見るドイツ精神世界の深淵

> 「アルプスの少女ハイジ」の深層が垣間見えるファン必読の小説集

と書いてあるので(言っておくがこれは私の文章ではない。編集者が考えた煽り文句である)、何も知らないハイジファンがうっかり買ってしまうのではないかという不安が、どんどんつのっている。
ふつうの「アルプスの少女ハイジ」ファンが読んだら激怒するんじゃなかろうか。
しかし私は嘘は何も書いてない。
私は(解説と前書き以外)単なる訳者であって、原著はまぎれもなく作者のヨハンナ・シュピリが書いている。

ちなみに私が当初予定していた副題は

>『ハイディ』原作者に見るドイツ精神世界の深淵

というものだった。
いかにも売れなさそうだ(笑)
後書きの一部をここに自ら引用するくらいはかまわないだろう。

> 今回ヨハンナの作品を読んで、スイスの自然や風俗というよりも、ドイツの文学、特にゲーテの詩や、宗教詩についてずいぶんと学ばせてもらった。聖書についても改めて勉強させてもらった。ヨハンナの視点で、非常に効率良くドイツの古典文学を概観させてもらった。ヨハンナは私たちをドイツ文学の森の入り口まで招待してくれる。そこはかつてヨハンナが生まれながらに住んでいた場所だ。少なからぬ人が『ハイディ』をきっかけにその作家の世界をも知ろうと願う。そうしてさらにその森の奥へ足を踏み入れようとして、その深淵をのぞき見て、ぎょっとすくんでしまう。ヨハンナの童話以外の作品が未だに英訳すらされてないのはそのせいなのだろう。

こういう内容の本だという心づもりで読んでもらえば、びっくりすることはないと思う。


この、amazonに辛辣なレビューを書いた人のサイトを後になって発見した。というよりそのサイトは前から知っていたが、そのサイトを作っている人がレビューも書いたのだということが最近になって記事が追加されていたので判明したわけである。

フローニ他

知り合いに
『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』を読んでもらい、いろいろ感想を聞いたので書いてみる。

私はこの本ではできるだけふりがなをふらないつもりでいた。
というのは『定家』ではふりがなのおかげで校正でひどい目にあったからだ。
『定家』は illustrator で版組されていて、ふりがなもすべて手作業で(しかも書き終えた後で追加で)ふってたので間違いが半端なかった。
『シュピリ』は in Design で組み版されているのでそういう間違いはまったくなかったのだが。

また、もともと原作が若者向けのわかりやすい話であったはずだから、わざわざルビをふらなきゃならないような難しい単語や言い回しは(少なくとも本文中は)使わないようにしようと思った(しかし童話のような文体にする気はなかった)。

難しくて読めない単語があったというから聞いてみるとそれは「敬虔」だった。
なるほどこれは確かに子供には読めない。
調べて見るともとの単語は fromm であったり religiös であったりする。
「信心深い」とか「信仰心の厚い」などと訳するべきだったかもしれない。
ただ「敬虔」のほうがドイツの敬虔主義的なキリスト教の信仰を表すにはふさわしい気もする。

いずれにしても、『定家』では最初の数ページでギブアップした人も、今回「シュピリ」は、本文は最後まで読めてくれたようで、多少堅苦しい言い回しはあったようだが、誰でも読める本になってると思う。
普通の翻訳ものに比べて解説が異様に長くてこ難しいのは訳者の趣味なので勘弁してもらいたい。
ドイツ語の引用が多いのはドイツ語をひけらかしたいとか厳密を期したというより、むしろ訳者が自分の訳に自信がないからだ。
私にしてみれば、ゲーテの詩集が原文の引用なしであんなに出ていることの方が不思議だ。
小説ならそんな必要はないかもしれんが。
確かに私もドイツ語なら原文が多少気になるが、アラブ語やロシア語の原文をいちいち引用されては迷惑な気もする。
普通翻訳というのはそんなものだろう。

「フローニの墓に一言」をkindleで出版したのは2014年1月のことだった。
ここでは、ハインリヒ・ロイトホルトがアルムおじさんのモデルである、などと書いているがこれは間違いだ。
「若い頃」に出てくるヨハネスがハインリヒ・ロイトホルトをモデルにしたものであるとすれば、ロイトホルトは「怖い大工」ではなく、少年の頃からふにゃっとした詩人タイプであったはずだ。

「ハイディ」は処女作「フローニ」を土台として構築されたメルヒェンであると考えてほぼ間違いなかろうと私は今も考えている。その考えは2014年以降、他の初期作品も訳し終えてみて変わってない。
「ハイディ」はヨハンナの他の子供向け作品と比べると宗教色が濃厚である。
初期作品よりはずっと薄められているが、例えば1878年に出た Am Silser- und am Gardasee 《小さなバイオリンひき》(ジルス湖とガルダ湖のほとりで)、Wie Wiseli’s Weg gefunden wird 《ヴィーゼリの幸福》(ヴィーゼリの道はどうやって見つかるか)などの作品が完全な童話として構成されている(ただし主人公は片親だったり孤児だったり、家が貧乏だったりして不幸な子供のことが多い)のに対して、ハイディには暗い死の影が落ちている。
それはやはり、生涯童話作家になりきれなかったヨハンナが、フローニを下敷きにハイディを書いたからだと思われるのだ。
「ハイディ」を書いた動機は、ハイディという少女を描きたかったというよりも、フローニを不幸に死なせてしまったアルムおじさんの魂を救済するため、またフローニという不幸な娘の霊を慰めるために、ハイディという、ある意味聖なる少女をアルムおじさんのもとに遣わしたいという衝動であったのに違いない(というより、書いているうちどうしてもそっちのほうに話がひっぱられていった)。
つまりフローニの夫を悔い改めさせることによってフローニの物語を完結させたかったのだと思えるのである。ここでハイディは牧師役でもあるし、天使役でもある。
フローニを弔うという意味でやはりハイディはフローニの続編とみなしてよいと思うのだ。
ヨハンナは単に宗教的な作品を書きたかったのではない。おそらくは実在のモデルに基づくフローニという人を哀れんだゆえに宗教的になってしまった。
しかしフローニの話から書き始めるともう話が複雑でかつ暗くなってしまって児童文学にはならない。ハイディを児童文学として書きたかったヨハンナは、その代わりに、ハイディの母アーデルハイトや父トビアス、そしてアルムおじさんについてのなにやら思わせぶりな噂話をデーテに語らせている。
そして読む人が読めばわかるような仕掛けがしてあるのではなかろうか。
ハイディの続編、クララが山に来て立つという部分は明らかに当初の執筆動機から逸脱している。しかしながらクララが立たないことにはハイディは成り立たないことになってしまった。
ハイディが世界に通じる一個の仮想物語(メルヒェン)になり得たのは、そうしたいという出版社の意図と助言があったからだろう。ヨハンナ自身の意志もあったかもしれないが。

「フローニ」を読まねば「ハイディ」はわからんよということに多くの人がだんだんに気付くに違いない。

「彼らの誰も忘れない」に出てくるロベルトとザラの関係は、アルムおじさんとハイディの関係に近いかもしれない。

ある人は頭からどんどん読んでしまったが、またある人は、時代背景が難しくてなかなか読めないといって進まない、らしい。
確かに、たとえばグリム童話で、継母に森に捨てられた兄妹が魔女に騙されるという話、これなどは時代背景などいらない。
そういう(現実世界とは切り離された架空の)世界観の中にさっくりと読者を連れ込めれば良い。
アニメの「ハイジ」もまた同様な手法を採っている。
19世紀末のスイスの時代背景やドイツ文芸事情なんてものをいちいちアニメを見る子供にわからせてはいられない。
ヨハンナはゲーテファンだったからゲーテの話から始めます、という悠長なことは言ってられない。

ズイヨーはハリウッドやディズニーの手法を取り入れたのだと私は思う。
アメリカは歴史が短く文化が貧困な国だから、ヨーロッパから盛んに原作を輸入して、アメリカンにアレンジして、実写化し、アニメ化した。
ヨーロッパの歴史的伝統的でドリーミーな要素をよりこってりと濃縮し、一方ヨーロッパ固有の暗くて重い宗教観をそぎ落とすという脚色手法を取り入れた。
キリスト教を絡めるとイスラム諸国に売れなくなるなどとズイヨーの会長は言っているようだが
高橋茂人,日本におけるテレビCMとTVアニメの草創期を語る(TCJからズイヨーへの歴史)、

> イデオロギーは,みなそれぞれ違う。それを出すべきではないと思う。「ハイジ」には深層に流れているものがある。それはキリスト教思想なんだ。しかしそれを正面きっては出せない。世界に広く作品を売ろうとするなら,キリスト教のほかイスラム教の国もあり,例えば中近東では売れなくなってしまう。

高橋茂人が当初からそこまでワールドワイドにアニメを売ろうとしていたとは考えにくい。
ヨーロッパの市場はそれなりに大きいから、ヨーロッパ人に受けるようにキリスト教的な要素を盛り込もう、という戦略もあり得たはずだ。

ハイディをヨハンナの作品群の中の一つに戻す。
ヨハンナを当時のドイツ文学界の中の作者の一人に戻す。
そして当時のスイス、ドイツ文芸界、ドイツ語圏の社会情勢の中で、では、ヨハンナとは、ハイディとは何だったのかということを示してみせたことになっただろうか。
いろんな本を効率良く読もうという忙しい人は、本をいちいち頭から読んだりしない。
その概略だけさらっと知りたいと思うだろう。
解説から読み始めるかもしれない。
ところがそういう読み方をする人にはこの本は時代背景が難しすぎてなかなか読めない、ということになる。そりゃそうかもしれない。
私もそんなに簡単に読める本を書いたつもりはない。
しかしできるだけいろんな人に読んでもらいたい。
だからこんな本になった。

ロッテンマイヤーはスイスの少女に聖なる幻想を持つ人だった。
一方デーテやハイディは生の、野生のスイス娘だった。
デーテ対ロッテンマイヤー、あるいはハイディ対ロッテンマイヤーのやりとりは、もしかするとヨハンナと編集者の間のものであったかもしれない。
つまりロッテンマイヤーみたいな潔癖でかつスイスに幻想を抱いているドイツ女がいて、編集者として、もっとこんな風なストーリーにしましょうよ、などとヨハンナに提言する。
ヨハンナはそれに対して半信半疑に従ったり抵抗したりする。
もしかすると、ヨハンナの多くのかなり退屈な童話群というのは、Gotha Friedrich Andreas Perthes にいたロッテンマイヤー女史みたいな人の要望に沿ったもので、ハイディはそんな編集者への反発を反映したものかもしれない。
などと空想するのは楽しい。

シュピリ

「シュピリ」はアマゾンに入荷が無いせいで売れているんだかいないんだかまったくわからないのだが、図書館の蔵書は出て1ヶ月でかなり伸びてて、それなりに貸し出されていることがわかる。
実名で共著で書いたものはいくらかあるが、おそらくそのどれよりも売れることになるのじゃないかと思ってる。
「定家」は全然売れなかった。
「シュピリ」は売れてもらわないと困る。少なくとも増刷くらいはしてもらわないと次に続かない。

それでまあ、「定家」「シュピリ」と筆名というか匿名みたいなもんで出したわりには「シュピリ」の調子がよさそうなのは、やはり「シュピリ」の名前がそれなりに知れているからだろう。

邪鬼

四天王に踏まれている邪鬼だが、これは夜叉とも言い、
インドでは男はヤクシャ、女はヤクシー、もしくはヤクシニーと言う。
それで仏教が始まってしばらくの間は仏像はなかったが、バラモン教の神像はあったようだ。

釈迦が出家する(密かに城を出る)ときに馬の蹄の音がしないように蹄を持ち上げているのがヤクシャであり、
この頃からすでにヤクシャは踏まれていたということになる。
また、ヤクシャは建造物を支える像としても作られている。

四天王に踏まれている邪鬼が笑っているように見えるのはヤクシャがそもそも笑っている神像だからではなかろうか。

源光

光源氏が仁明天皇の皇子・光であったとすると。

桐壺帝は仁明天皇。

桐壺更衣の父・故按察大納言は百済王豊俊。

一院は嵯峨院。

弘徽殿の女御は藤原順子、その父・右大臣は藤原冬嗣(右大臣→左大臣、贈正一位、贈太政大臣)。

弘徽殿の女御が産んだ第一皇子とは道康親王(文徳天皇)。物語上では朱雀帝。

藤壺中宮とは藤原沢子、その皇子の冷泉帝とは光孝天皇。

某哲学者との対話

最近どうも歌がうまく詠めない。昔詠んだ歌をながめてみても、良いと思えなくなっていた。自分が詠んだ歌とか自分が書いた文章が嫌いになることはこれまでもよくあったことだ、自分としてはもっとうまい歌を詠みたいとかもっとうまい文章を書きたいとか、詠めるはずだ書けるはずだいう気持ちがでてきてそのレベルに達してないわけだから、これはもう仕方ない。

それでこないだ「セックス哲学懇話会」という怪しげな集会に飲み会だけ参加したのだが、そこで某哲学者に「本が売れたいのか?有名になりたいのか?」と聞かれたので、なんかもごもごとうまく説明できなかったのだが、商業的に売れてくれれば好きな仕事で金がもうかって嫌いな仕事をしなくて済むわけで、それはそれでもちろんありがたいのだけど、本が売れて、いろんな人から正当な評価を受けて初めて本というのは「自分の業績」になるのである。論文ならば査読がある。それなりの権威ある学会の査読に通りさえすれば、別に一般読者はいなくても、自分の仕事が認められたことになる。その学会とか査読システムというものも、必ずしも万能ではない。分野から少しでも外れるとなかなか読んでもらえず評価もしてもらえない。学生の頃からずっと同じ研究をして同じ学会にいれば良いのかもしれんが、私のように、せっかちで落ち着きの無い性格だと、どんどん関心がずれていってまったく違うことをやりだしてしまう。そういうタイプの人間にとって、基本縦割りのたこつぼ構造になってる学会というのは不便である。

そんでまあ、自分に合った「学際的」な学会を作ろうとかそういう「学際的」な大学に移ろうとかいろいろ画策した(実際にはふらふらと転職を繰り返したり、学会の立ち上げに関わったりした)のが、私の場合は30代だった。もっと細かくいえば、30歳から43歳くらいまで。まじめに論文を書いたのは30歳までだった、とも言える。

私の田中久三という名前は先に tanaka0903 というユーザー名があって、これは 2009年3月という意味。43歳の終わりだ。この頃から完全にもう学会とか論文とか大学での研究というものから外れだした。だったらそこで教員を辞めるかと言えば、メシが食えなくなるので辞められないし、もともと研究すること自体は嫌いじゃないから、大学の仕事はそれとして、趣味みたいなことを研究しだした。それで知り合いの出版社を頼って単著で本を書かせてもらうことはできるかもしれないが、ただ書いただけじゃ、誰も査読してない勝手に書いた論文と同じで、出版しても何の意味もない。本は、査読の代わりの何か、第三者による評価が必要なわけで、それはある程度商業的に成功することだったり、社会的な影響を与えることだと思うのだ。そうなれば私も、今までとは全然違う分野だけど、「研究業績」のリストの中に加えることもできるだろう。そうでないのに(そうしている人はたくさんいるかもしれないが)これが私の研究ですよなんて自慢する気にはなれない。

それで、出版社に損をさせない程度に売れたらまた本を書かせてもらう。書きたい本を書けてたまに売れてくれればうれしい。売れなきゃもうそれっきりだ。

歌経標式

[歌経標式序考](http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/metadata/1281)

> 臣濱成言。原夫歌者、所以感鬼神之幽情、慰天人弓懸心者也。
韻者所以異於風俗之言語、長於遊樂之精神者也。

【臣・藤原濱成が申し上げる。
そもそも歌は、鬼神の幽情を感じ、天人の恋心を慰めるものである。
韻は、風俗の言語と異なり、遊学の精神に長じたものである。】

「毛詩正義序」「動天地、感鬼神、莫近於詩」

> 故有龍女帰海天孫贈恋婦歌、味耜昇天會拙作称威之詠。
並尽雅妙之音韻之始也。

【それゆえに、豊玉毘売命が海に帰る際に、火遠理命は女を恋する歌を送った。】

赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり

沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに

短歌形式に整いすぎているので、おそらく古歌ではあるまい。

【阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネ)神が天に昇るときの宴では、
その威を称える歌を詠んだ。】

あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる あな玉はや み谷ふたわたらす あぢしき高ひこねの神ぞ

【いずれも、雅妙の音韻を尽くした初めである。】

> 近代歌人雖長歌句、未知音韻。
含他悦懌猶無知病。
准之上古既無春花之儀、傳之來葉不見秋實之味。
無六體何能感慰天人之際者乎。
故建新例則抄韻曲、合為一巻名曰歌式。
蓋亦詠之者無罪、聞之者足以戒矣。

【最近の歌人は歌句に長じてはいるが、未だに音韻を知らない。
他のことばかり喜んで、歌の「病」を知らない。
これを上古の風になぞらえているが、すでに春の花はなく、
これを後世に伝えようとしながら、秋実の味が無い。
六体が無くて、天人を慰めるということがどういうことか、何を感じることができようか。
そのために新例を建てて、韻曲を】

> 伏惟、聖朝端歴六天、奉樂無窮。
榮比四輪御賞難極。
臣含恩遇奉侍聖明、
欲以撮壌導滑之情而有加於賞樂焉。
若蒙収採、幸傳當代者、可久可大之功、並天地之眞観、日用日新之明、將金鏡之高懸。
臣濱成誠惇誠恐、頓首謹言。

> 寳亀三年五月七日参議兼刑部省卿守從四位上勲四等藤原朝臣濱成上

天皇の血を引いた徳川将軍

tenno8

徳川家康の母は「大」と言い、皇族ではない。

秀忠の母も、「西郷局」と言って、皇族ではない。

家光の母「江」も皇族ではない。
正室鷹司孝子は天皇家の血を引いていたに違いない、しかし実子無し。

家綱の母「楽」も普通の農民の娘。
正室は伏見宮貞清親王王女顕子女王。
家綱に実子はない。

綱吉の母「玉」は公家の家司と言われているが、実際にはただの召使いだろう。
正室鷹司信子は公家の娘なので、天皇の血を引いてるかといえば遠いかもしれないがたぶん引いてるだろう。
しかし信子には子がなく、また綱吉の子はみな夭折した。

家宣の母「保良」も一般人。
正室近衛熙子は母が後水尾天皇の娘常子内親王。
つまり熙子は天皇の孫娘だが、生まれた子はみな夭折した。

家継の母「喜代」も一般人。
霊元天皇皇女・八十宮と婚約するが、家継は早世。

吉宗の母「由利」も一般人。
ただし、正室は伏見宮貞致親王王女理子、死産の後死去。

家重の母「須磨」も一般人。
ただし正室は伏見宮邦永親王の娘増子、実子無し。

家治の母「幸」も一般人。
ただし正室は閑院宮直仁親王王女倫子女王、実子は女子のみ、いずれも夭折。

家斉の母「富」は幕臣の娘。

家慶の母「照」も一般人。
ただし家慶の正室は有栖川宮織仁親王皇女の喬子女王、長男竹千代を産むが夭折。

家定の母「美津」も単なる側室。実子無し。

家茂の母「美佐」は紀州松平。
ただし正室は仁孝天皇皇女和宮親子内親王、実子無し。

慶喜の母「吉子」女王は有栖川宮織仁親王の娘。
織仁は職仁の皇子、職仁は霊元天皇の皇子。
奇しくも、職仁は家継と婚約した八十宮吉子内親王の一歳年上の同母兄である。
母は松室敦子。
霊元天皇と松室敦子の娘は婚約まではもちこんだが、家継が幼くしてなくなったために、
天皇の血を引いた将軍が生まれることはなかった。
しかし霊元院がなくなってずっと後の幕末に、夭折もせず、成人して、
たまたま将軍職が水戸徳川家から一橋家に養子に出た慶喜に回ってきたのである。
家光以来、徳川将軍は皇女か、王女か、天皇の血を引いているはずの公家の娘を正室にしている。
しかし、誰一人として、慶喜以外は、将軍となることがなかったのである。

もし、慶喜が、天皇の血を引いていなかったら。
もし、慶喜が、水戸光圀の血を引いていなかったら。
もし、幕末、慶喜以外の普通の徳川将軍が就任していたら。
皇室に対してあれほどの恭順の姿勢を示しただろうか。
おそらく将軍家はもう少し保っただろうし、或いは日本が二分することもあったかもしれない。
慶喜の血の由来を意識しないことには幕末維新は語れないのではなかろうか。

天皇の系図

tenno8

皇女、皇子、主要な関係者などほぼ書き込んだ、と思う。
ただし明治以降の皇女は一部の例外をのぞいて記してない。
幼年で死んだ人は略していることが多いが、書いている場合もある。
これからは微妙な訂正などしていこうと思う。

後西天皇の皇子・有栖川宮幸仁親王とか、家康の孫・松平忠直の孫娘に当たる明子内親王、
霊元天皇の后・松室敦子やその娘・八十宮(吉子内親王)については「将軍家の仲人」にも書いたので、
特に感慨ぶかい。
その他にもいろんなことをいろいろ書き散らしてきたわけだが。

景行天皇はすごいな、とか、
彦坐王とか何者なんだろうとか、
手白香皇女ってほんとは女帝だったんじゃないの、とかいろんな妄想が沸いてくる。

図が横に広がっているときには、やはり、天皇家を巻き込んだ、なんか歴史的にたいへんなことが起きているんだよね。

掛け軸かなんかにして売れば需要があるんじゃなかろうか。