明治神宮の森
明治神宮の森が今年で100年目だというのをNHKでやっていた。
明治神宮はもともとは荒れ地だった。
荒れ地と言えるかどうかはともかく、代々木練兵場という更地だったわけだ(江戸時代は井伊家の下屋敷等)。
100年前に3人の天才がいて、
最初針葉樹と常緑広葉樹を植えて、
だんだんに針葉樹が枯れて常緑広葉樹が優勢になり、
人間が手を加えなくても持続可能な、昔ながらの武蔵野の森が「再生」されるよう計画したのだと言う。
これは内村鑑三の
[デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話](http://www.aozora.gr.jp/cards/000034/files/233_43563.html)
にそっくりである。
「デンマルク国の話」は1911年初版なので、
明治天皇崩御の直前だ。
この頃にはすでに、先に針葉樹と広葉樹を混ぜて植えておき、
次第に広葉樹が優勢になっていく、というような植物学的手法は、内村鑑三ですら知っていたということになる。
ただまあ内村鑑三を農学者と言うことは不可能ではない。
それで私はこのダルガス父子のことをwikipediaなどで調べてみたのだが、
小樅と大樅を混ぜて植えてある程度大樅が生長したら小樅を切り倒すことで、大樅が育つという、
この話の根拠をどこにも見いだすことができなかった。
ダルガスの話はシュレスヴィッヒホルシュタイン戦争(1864年)頃より後のことなので、
ちょうど幕末維新頃だ。
そしておそらくこの話を内村鑑三は札幌農学校時代(1880年頃)にほぼリアルタイムに聞いたのに違いない。
ダルガスという一人の天才がこの植林技術を発明したのではないと思う。
いろんな農学者がいて、それらの研究が総合されて、おおよそ確からしい植林手法というものが確立されていったはずなのである。
何が言いたいかといえば
100年前に3人の天才がいた、などというのはただのNHKの煽り文句だということだし、
内村鑑三の話もかなり脚色されたものだということだ。
さらに言えば、太古の武蔵野の森などというものが存在するはずがない。
武蔵野はもともと火山灰の上に広がる草原もしくは湿地だった。
武蔵野に森ができたのはおそらくは江戸時代以降であり、それも人工林として作られたものだ。
国木田独歩の「武蔵野」に描かれた光景というのは完全に人手によって管理されたものだ。
そんなことは調べればすぐわかる。
大正時代の農学者が信じた「理想郷」をなぜ現代の我々も信じなくてはならないのだろうか。
思うに、明治神宮の森が植林した後人手が加わらなかったのは鎮守の杜という性格のものだからだろう。
そこに当時常識となりつつあった植林技術の話が薬味として加わったにすぎない気がする。
つまりは結果論だ。
今は藤原定家とヨハンナ・シュピリを同時並行でやっているのだが、
定家のほうは最終校正を終えたので、もうやることはほとんど残ってない。
いろんな意味で疲れたが、KDPと違ってこっちは共同作業的な部分が多いので、あまりいろいろ書くわけにはいかない。
著者名も田中久三でもなく、実名でもなく、なんとなく中途半端な感じになってしまったが、
まあそちらの名前で知られるならそれでも全然かまわない。
KDPのほうを廃業するつもりはないが今は完全にこちらに軸足を移した、といえる。
私の場合、昔は共著で紙の本を書いていたこともあるのだが、
2000年くらいにばかばかしくなってやめてしまった。
その後某雑誌の編集長のようなことを少しやった(それも紙の本のうちに入るといえば入る)が、それも疲れてやめてしまった。
今回本を出してもらえるのは100%その縁故である。
いろんな寄り道をしていろんなムダをしてきたが、50歳となったいま、
ほんとに役に立ったのはあのとき編集長をしたことだったかもしれないと思う。
おかげで単著の本をこの世に残せるのだから。
KDPは個人名で本を出版できるのでとてもすばらしいと思うが、
明らかに限界にぶつかってしまっている。
今回紙の本を個人名で出せることになったのは非常にうれしいことだ。
なぜ私に書かせてくれたかということもだんだんにわかってきたのだが、それもここに書くのははばかられる。
今後の企画もいくつかあり、しばらくは本を書かせてもらえるようなので、がんばってみるつもりだ。
KDPはともかくとして、昔共著で書いた本(書かされた本)しかこの世に残せないのは非常に腹立たしかったので、
そしてほんとうに書きたいものを今回は書けたと思う。
田中久三という完全に匿名のペンネームで書き始めたのは2009年から。
そのきっかけは今となってはどうでもよいことだが、
その頃から、本業や本名とは別に作家活動がやりたくなったわけだ。
田中久三の名で本を書くことと、実名でやっている仕事と、最初はそんなに分けるつもりはなかった。
分けることによる不便さというのは実際大きい。
KDPで書いているうちはわけるのはそんなむずかしくなかったし、わざわざ私がどんなやつか調べる人もいなかったと思う。
しかしこれからは分けるのは難しくなってくる。
今度出る本には今まで明かしていなかった私個人の情報がいくらか出る。
それでも私が誰かということはわからんと思うが、
いつまでもそうしてはいられない。
もともとばれてこまるようなことはしてないのだけど。
ドイツ語のほうはずいぶん上達したと思う。
もっとはやくからまじめにやればよかった。
フローニを訳した頃はほんとひどかった。
とりあえずドイツ語の翻訳で少しまとまった仕事がしたい。
いわゆる小説を書くというところからはしばらく離れるかもしれない。
私の場合こないだ50になって、精神的にも肉体的にもすでに限界を超えている気がする。
執筆活動に専念できたらなと夢想もする。
いやそもそも、もっとはやくから著作活動をやっていたら良かったと思う。
文章はだんだん書いているうちにうまくなるものだ。
35、いや、40歳くらいから本気で始めていたら全然違っただろうなと思う。
1809 Militärarzt
Johanna Spyri の父 [Heusser, Johann Jakob](http://www.hls-dhs-dss.ch/textes/d/D14405.php)
が 1809年に軍医となっているのは明らかにこれはナポレオン戦争の真っ最中である。
イタリアかどこかに派遣されたのだろうか。気になる。
右往左往遺伝子
現状を変更しようというときに、
既得権益を持っている連中は必ず反対するのだが、
それによって誰が既得権益を持っているかすぐにばれるのだが、
それが左翼の場合(あるいは右翼も同じかもしれんが)、
だいたいどういう反応をするか、私もだいぶ学習した。
たいていの人間は普段経営とか政治というものと直接関わらず生きている。
現状維持派は会議を紛糾させて引っかき回して、多数派たちを不安にさせる。
判断できないまま、右往左往してしまう。
そこで多数決を採れば、不安に駆られた連中は、現状維持の方が無難だと考えて、
改革派の意見を否定してしまうのである。
そういうその他大勢の連中に主体的に判断させるのが問題だ。
左翼はもう何十年もそういう戦略で生き残ってきた。
彼らは無知な多数派、民主主義とか多数決というものを人質に取ることで、
経営判断とか政治判断というものをつぶしてしまう。
ふつう民主政治といっても全員が政治に関わっているわけではない。
間接民主政というやつで、政治判断を選挙で選ばれた代表者に委任している。
比較的少数の場合には直接民主政となるが、
例えばスイスなどは毎年何回もリファレンダムやるんだが、
そういうところはふだんから一人一人が政治判断をしているからできるんであって、
ふだん間接民主政で委任している連中がいきなり直接民主政にひっぱり出されるとたいてい恐怖に駆られて後ろ向きな判断をしてしまう。いっせいに寝た子が起きた状態になる。
そういうことではたいていの会社はつぶれてしまうから、会社法というものがあるんだろう。
株式会社は短期的な独裁はできるようになっている。
ともかく左翼はそういう戦術で、民主主義の御旗をかかげて多数派を扇動してきた。
その言うことはそのときそのときはもっともに見える。
だが彼らがやってきたことを長期的に見ればその場限りの自分たちに都合の良い取るにたりないことをかき集めたに過ぎない。
たぶん古代ギリシャのアテネの頃からずっと繰り返されてきたことに違いない。
政令指定都市が大きくなるのも、大阪市を解消して大阪府にするのも、
地方行政の単位を大きくしようという意味では同じなのに、
政令指定都市が市であることを根拠に、大阪市の区への解体は他の地方自治体の流れと反する、などと言ったりする。
少なくともそこには嘘がある。
そして一つ嘘があるということは他も嘘かも知れない。
そういう嘘を紛れ込ませるということは既得権益者であろう。
実は多くの人は政治的に右往左往するのが好きなのかもしれない。
そういう遺伝子を持った人が多いのではなかろうか。
西園寺公重
定家を調べていて、ついでに西園寺家についてもずいぶん調べたのだが、そうすると南北朝の頃の西園寺家について、いろいろ疑問がわいてきた。
西園寺家は関東申次であり、公家ではあるが、北条得宗家との関係が深い。
北条氏が滅んでも当時の当主の公宗は北条高時の弟の泰家を擁立し、後醍醐天皇を討って、幕府を復興しようとした。
ところが公宗の弟の公重は公宗を後醍醐天皇に密告し、公宗は処刑される。建武の新政の最中、1335年のことである。
同じ年、高時の息子の時行(当時は元服前で長寿丸)を擁立した中先代の乱が起きるのだが、泰家と時行はおそらく連絡を取り合い同時に蹶起しようとしたはずだ。
公重は後醍醐天皇の信任を得るが、そもそも建武の新政で西園寺が鎌倉時代ほど優遇されるということはあり得ないのである。
足利尊氏は1335年にクーデターを起こす。
1336年に尊氏はいったん九州に落ちるが、湊川の戦いで盛り返し、京都を制圧し、後醍醐天皇は吉野に逃れる。
しかし公重は1353年まで北朝にいたことになっている。
風雅和歌集が1346年になるがこれには公重の歌も入っているので、公重は北朝の公卿であったことになる。
その後、新葉和歌集にも歌が採られるがこのときにはすでに南朝の公卿になっていたことになる。
和歌と詩
詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。
詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。
或いは押韻がある。
そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。
中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。
この四行を核として普通はもっと長く続く。
ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。
最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。
しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。
日本語には基本的には母音の長短は無い。
強弱はあるが、しかし和歌では無視される。
則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。
押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。
つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。
他の詩形と比べてみるとそれが如実である。
和歌は詩というよりはパズルである。
短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。
その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。
和歌は完全な文法をそなえている。
名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。
そして完全な修辞を駆使できる。
暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。
言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。
日本にも歌謡はあったわけである。
和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。
さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。
俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。
少なくとも普遍的概念としての詩ではない。
俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。
俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。
逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。
メディアの業
すでに[靖国神社合祀](/?p=16623)、[産経購読10年](/?p=16491)、[地方紙5紙の社説がソックリ。](/?p=1635)
などに書いたことの蒸し返しになるが、
私は2006年8月時点で日経を見限って、以来ずっと産経を読み続けていることになる。
ということは現時点でもまだ10年経ってないわけだ。
> 2つ目の話題は、元宮内庁長官の日記と手帳に関する報道の件です。昭和天皇が太平洋戦争のA級戦犯の靖国神社合祀について不快感を示していたという報道をしました。これは1面トップで取り上 げ、国際的なスクープになりました。
> 日経がなぜ報道したかというのは、新聞としての原点で考えたということです。いろいろな検証の結果、正しいと判断した事実があります。これを1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ、1年後に公表したとします。これこそまさしく政治的利用と言えるのではないでしょうか。
> 正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える、それが政治的にどういう影響を与えようと、読者にまず知らせるという行動をとる。これは新聞に限らずメディアの非常に重要な基本であり、日経は日経としての編集方針を忠実に守って掲載しました。
日経が富田メモを入手したのは2006年5月。
もちろん誰かが意図的にこの時期を狙って、わざわざ日経というメディアを選んでリークしたのである。
記事にしたのは2006年7月20日。
「1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ」というのはつまり、
小泉総理の総裁任期満期総辞職とその前に行った靖国参拝を言っているわけである。
普通に考えれば、富田メモをリークした者は、小泉を靖国に参拝させたくない誰かである。
日経は発表を若干遅らせることはできたがそうしなかったという。
逆に小泉靖国参拝にぶつける形でセンセーショナルに煽ったのだ。
終戦記念日まで一ヶ月きった時期にトップ一面でだ。
いや、一番の問題は、この日経のスクープ以来世論が、
昭和天皇が靖国参拝しないのはA級戦犯が合祀されているからだということに固まってしまったことだ。
詳細に分析すれば、昭和天皇が靖国参拝しない理由は他にある。
きちんと分析したきちんとした論文として発表していれば世論はこれほど騒がなかった。
しかし日経はその真逆のことをしたのだからやはり罪は重い。
報道はつねに脚色される。報道は事実ではない。
報道と事実はむしろ対極にある。
事実を称したければ仮説の一つとして提示すれば良いだけである。
メディアは単に事実を即座に発表しましたではすまされない。
> 正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える。
これこそが日本経済新聞社東京本社編集局総務小孫茂の、そしてより一般的にはメディアというものの確信犯的な大嘘だ。
検証したというのは要するに秦郁彦・半藤一利の二人に分析させたというだけだろう。
それは個人の見解以上のものではないし、
事実を確認したものでもない。
歴史というものは、歴史的検証とか事実とかいうものは、そんなやすいものではない。
Johanna Spyri
ハイジは
> 1880年に出版された前半部分 Heidi’s Lehr und Wanderjahre (元祖ハイジ)
と
> 1881年に出版された後半部分 Heidi kann brauchen,was es gelernt hat (ハイジ続編)
に分かれており、
元祖ハイジの著者は
> Von der Verfasserin von “Ein Blätt auf Vrony’s Grab”
つまり、「フローニの墓に一言」の作者としか記されていないのに、
ハイジ続編は Johanna Spyri という実名で書かれている。
普通は元祖ハイジが非常に売れて人気が出たので匿名をやめてハイジ続編から実名を使ったのだと考えられている。
あるいはこの時点でシュピリは商業主義に転向したのだと。
しかし実はそうではない。
最初に実名で書いたのは 1880年の Im Rhonethal (ローヌの谷で)である。
Im Rhonthal で Johanna Spyri は
> Verfasserin von “Verschollen, nicht vergessen”
つまり、1879年に出版された Verschollen, nicht vergessen(失踪したが忘れられてはいない人)の作者であると紹介されている。
また、1880年に出版された Aus unserem Lande (私たちの土地から。Daheim und wieder draussen と Wie es in Wildhausen zugehtの2編を収録)では、単に Johanna Spyri と著者名が記されているだけである。
Im Rhonethal はチラ見しただけだが、やはり病気の子供が死ぬ話である。
なぜこの作品からシュピリは実名を明かしたのだろうか。
Verschollen, nicht vergessen には、
> Ein Erlebniß, meinen guten Freundinnen, den jungen Mädchen
と副題がある。
「meinen guten Freundinnen」「den jungen Mädchen」いずれも明らかに3格であるから、
「私の良き友に、また若い娘たちに語りたい一つの経験」
というような意味だろう。
おそらくこれも童話ではなさそうだ。
いや小説ですらなく、実話かドキュメンタリーだったはずだ。
1878年に書いた Heimatlos は明らかに童話である。
しかし、1879年に書いた Verschollen, nicht vergessen や、1880年に書いた Im Rhonetal は童話ではなかった。
もし童話であれば誰かが邦訳したにちがいない。
シュピリがほぼ完全な童話作家となったのは1881年からということになり、
それ以前から実名で作品を書いていた、
ということについては少し考察が必要だ。
Erde der Hand
> Wie ein zarter Fremdling stand sie unter den übrigen Bergblumen, als gehöre sie einem andern Lande an und harre still und blaß auf fremder Erde der Hand, die sie versetzen würde nach dem heimatlichen Boden.
auf fremder Erde der Hand とは何かと思うではないか。
手の土地?
そんな言い回しがあるのか?
違うのだ。
> sie harre der Hand, die sie versetzen würde
でひとかたまり、つまり、「それはそれを移し替えてくれるような手を待ち望んでいる」と訳すのだ。
harren は2格支配なので、der Hand は2格ということになる。Hand は女性名詞なのでこれを die で受けているのだ。
> still und blaß auf fremder Erde
でひとかたまり。「見知らぬ土地の上で静かにひっそりと」と訳すべきなのだ。
> gehöre sie einem andern Lande an
これはつまり
> sie angehöre einem andern Lande
という意味だ。
als という接続詞の訳も難しいけど、als ob (as if)のように訳しておけばよかろう。
でまあ全体としては、
> 一人のよそもののように、それは他の山の花たちのなかに立っていた。まるで、それはよその土地に属しており、見知らぬ土地の上で静かにひっそりと、それを移し替えてくれるような手を待ち望んでいるかのように。
とでも訳せば良いのだろうが、これではくどすぎるから、もう少し滑らかに意訳するべきだろう。
ちなみにgoogle翻訳で英訳すると
> Like a delicate stranger she stood among the other mountain flowers, as they belong to another country and wait for still and pale on foreign soil by hand, which would enable them after the native soil.
となるのだが、やはり der Hand 以下がうまく訳せてない。
シュピリがわざとそういうややこしい言い回しをしたからだ。
こうやって一個一個理詰めで訳しているときりがない。
しかもほんとにそれであっているのかどうか、確証も持てない。