亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘読書’ Category

個人出版はいかにプロデュースされるべきなのか

10.04.2016 · Posted in kindle

プロデュース、本来は何か物を作る、特に農産物を生産することのはずだが、多くの場合、ラジオやテレビ、映画など、 何かの作品を作るために人と金を手配して、作品を市場に売り込むことを言うらしい。 別に日本人がそう誤解しているだけでなく、本家のアメリカでもそうらしい。

Amazon 講談社の読み放題対象作品を一方的に削除した問題

きんどうとしては、もともと読み放題にユーザーさんが参加されても、読まれてもアフィ収入にはならないので……そのどっちでもいいっちゃいいんですが。

なるほど。 ぽちって買わないと広告収入にはならないわけですね。

私としてはアマゾンがこれからも「実験的」な新サービスを次々繰り出してくれることはありがたい。 アマゾンとしては Kindle Unlimited がどっちの方向へ走り出すか、 完全に読み切れない状態でのスタートだったと思うんで、不測の事態に備えて、 一方的に配信停止したり、契約解除できるような契約を結んでいたのに違いない。 大手出版社や、佐藤秀峰らが、アマゾンとどんな形で契約していたのか。知らんがな。 実際にアマゾン側に不手際があったのかどうか。 そんなことは私にはわからないから推測するしかないのだけど。

たとえば、佐藤秀峰さんところの「マンガ on ウェブ」。 今も読み放題で提供されている。 これは良い本だ。 アマゾンはこれは切ってない。 それ以外のどんな本が切られたのか。 佐藤秀峰は言及してない。

どんな本がどんな理由で配信を拒否されたか。 それについては誰も語りたがらない。明示してない。 語りたくないからでしょう。 ほんとうにアマゾンが不当だったのか。判断できない。 自分に不利なカードは隠して戦おうとしている。そりゃそうだろう。商売とは、訴訟というものはそんなものだ。 どうもどっちもどっちな気がしてしかたない。 出版社側もわかってるのではないか。なぜ切られたか。 ほんとうに自信がある本が切られたから怒ってるのじゃあるまい。 アマゾンにカスをつかませようとして断られたからキレてるだけでしょ。違うの?

私としては、アマゾンに対して、まじめな個人作家の作品をなんとかプロデュースしようという「愛」を感じている。 読者がたくさんの文字を読むということは、良書であるということだろう。 たくさんの文字を書いて、それをきちんと読んでもらえたということは、報いがあったと感じる。励みになる。 KENP はおそらくその指標のために作られたものだろう。

中身がすっかすかで、1ページ辺り読むのに1秒かかるかかからないかで読み捨てられるような本。 エロと猫と萌えの写真がずらずら並んだような本。 アマゾンとしてはそんな本をプロデュースしたくて KDP を始めたんじゃなかろうよ。 私も自分で書いていて、この本の1ページと自分の本の1ページ、同じ報酬で読まれたんじゃたまらんなという本をよくみた。 逆ももちろんある。 ああこの本の1ページには他のアホみたいな本の100ページ以上の価値があるのにと感じることもある。

もちろんアマゾンも商売で本が売れりゃそれでいい、しかし、 いままでの流通や広告では見すごされて、埋もれていた、良質な個人作家の作品を、マスとして掘り起こしたい。 潜在需要を掘り起こしたい。 いわゆるロングテイルというやつ。そういう戦略で KDP をやっている。 アマゾンの一連のサービスや対応で見えてくるのはそこだ。 アマゾンに一貫する長期戦略というのはそこだよ。 個人出版としてはそこに乗っかるしかないじゃないか。

あほみたいなマーケティングに明け暮れる出版業界。 そのあほみたいなマーケティング、特に、すでに形骸化して久しい文学賞とか権威付けに群がるしか能の無い読者たち、作家たち。 アマゾンがそこをヤってくれるかどうかはわからんが、そこが、長い目で見て解決されなきゃならない部分でしょ。淀みでしょ。

読み放題や試し読みの方法はもっといろいろ試されて良い。もっと広まったほうがよい。 読んでみたらつまらなかった本は淘汰されたほうがよい。 今のアマゾンランキングは改善されるべきだ。 これからもどんどん変わっていくのに違いない。

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重訂日本外史全 頼襄子成著 久保天随訂 東京博文館蔵版 明治43年

09.27.2016 · Posted in 読書

維基文庫

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ソラリス

09.24.2016 · Posted in 読書

自分で小説を書くようになると、むかし読んだ小説が違って見えてくる。 『ソラリス』を読み解くのはなかなか厄介だ。 まず原作のスタニスワフ・レムという人がややこしい。 『ソラリス』を読んだだけではよくわからん人だ。 それをアンドレイ・タルコフスキーというソビエトの監督が映画化した。 これまたよくわからん映画だし、映画版『ソラリス』を見ただけではタルコフスキーという人はわからない。

さらに『ソラリス』をよくわからなくしているのはハリウッド版の『ソラリス』なのだが、 ハリウッドという存在をある程度知っていれば、このような脚色になるのは理解できるし、 その知識に基づいてリバースエンジニアリングすれば元の『ソラリス』をある程度「復元」することも可能だ。

タルコフスキー『惑星ソラリス』:悪しき現実逃避映画。 山形浩生もまたそのややこしさに目くらましされているように思う。 もしかすると彼は東宝が配給した日本語吹き替え版を見たのかもしれない。 この日本配給版は、冒頭で説明的なナレーションをかぶせたり、 意味深な前振りをざっくり省略したりしている。 この前振りはラストと呼応しているわけだが、 前振り抜きでラストだけ見させられると、どうしても山形浩生のように、

タルコフスキーは最後の最後でそこから逃げる。

という印象になってしまうだろうし、そこから

現実との直面を妄想との置換で逃げるやりかたのあらわれでもある。

という結論に導かれてしまいがちなのである。 レム原作の『ソラリス』は現実逃避な話でもなければ、 「愛が世界との関係の比喩になっている」作品でもない。 最初から最後まで完全純粋なSFである。 SFというか、物語仕立てにした、科学的手法に基づいた思考実験、というべきか。 その「まな板」の上で「恋愛」が調理されているに過ぎない。 この「まな板」はレムの他の作品と共通なものだから、それを知った上で『ソラリス』を見れば、 ああ、レムは今回は「恋愛」をSF的手法で徹底的に切り刻んだわけだと、簡単に理解できるのである。

大嫌いです。冷たくて人工的で。だいたい兄は映画で、家族への思慕を繰り返し描きますが、実際には実家にも全然帰らず、まったく家族に会おうとすらしなかったんです。あんなの全部、口先だけのインチキです

変なことを言う、と思う。 創作者はみな自分を狂気に追い込まなくてはならない。 狂気の中に身を置かねばならない。 いつも自分がほんとうに狂ってしまわないように自分の理性をコントロールしながら生きていくものだ。 家族が好きかどうかということはあまり関係ない。 それに妹に兄のことがわかるはずがない。親にも子にもわかるはずがない。 映画監督の気持ちなんて。 そこが創作者と評論家の違いだとは思わないかね?

それでまあ、山形浩生は律儀な人だから、レムの原作も読んでみたわけだ。 感情なき宇宙的必然の中で:スタニスワフ・レムを読む。 ところが彼はレムの小説ではなく評論を先に読んでしまったようだ。 山形浩生は作家ではなくて評論家であるから、 評論家としてレムを見ようとしたのかもしれないが、 レムの評論に何か意味があるとは思えない。 レムはSF作家以外の何者でもないからだ。

さようなら、人間嫌いのレム。死んで、水のつまったべちゃべちゃの醜悪な肉体から解放されたあなたは、機械に生まれ変われたでしょうか、それとも情報の炎を放つ星になれたでしょうか。もうしばらくして人間の時代が終わり、宇宙の主役が交代して機械となったとき、その機械たちにあなたの慧眼が伝わりますように。もっとも……あなたが正しければ、おそらくぼくたちは、その交代が起こったことにすら気がつくことはないのでしょうけれど。でもその一方で、かれを悼む人々に対してレムなら平然と言い放つだろう。悲しむことはない、と。

「機械に生まれ変われた」というのは『砂漠の惑星』のことを言っているのだろうし、 「情報の炎を放つ星になれた」というのは惑星ソラリスのことを言っているのだろう。 しかし、レムはおそらくただの「人間嫌い」ではなかったはずだし、 宇宙の主役が機械になってしまうことを望んでもいなかっただろうし、 自分自身が機械になりたいとも思ってなかったはずだ。

レムが嫌っていたのは、例えばウェルズの『宇宙戦争』のように、 地球に人間が住んでいるのならば、火星には火星人が住んでいるはずだ、とか、 火星人がいたら、地球人が民族どうし戦争するように、戦争するはずだ、 文明人が野蛮人を征服するように、 火星人のほうが地球人よりも文明が進んでいれば、先に火星人が地球に征服に来るはずだ、 という「あまりにも人間的」な発想だ。 19世紀のヨーロッパ帝国主義的と言ってもよい。

このウェルズ型の素朴な「宇宙人」「侵略者」は、徐々に洗練されていく。 人間と良く似た宇宙人がいて、地球を侵略しに来て、時には宇宙人と地球人の間に恋愛が成立して、子供まで出来てしまうという、実にご都合主義的なSFも出てくる。 そのご都合主義は、イデオンのように宇宙人も地球人ももともとは同源であるとか、 キューブリックのように、キリスト教的な、地球のすべての生命体のスーパーバイザーとしての知的生命体の存在を仮定したりする。 『未知との遭遇』のように、戦争に倦んだヒッピーたちは人間の形に似ているが友好的な宇宙人像を求めた。 すべて馬鹿げたことだとレムは思っただろう。 そんな人間に都合の良いような、人間の想像力で説明が付くような宇宙人が存在するはずがない。 人間の都合で宇宙人を作るな。 それは、人間の都合で神を作ってきたのと同じくらい馬鹿げたことだ。 人間固有の発想に囚われている。 先入観を捨てて、人間的発想から脱出しなくてはホンモノのSFは書けない。 レムはそう思ったはずだ。

宇宙には人間とはまったく異なる知的生命体が存在するに違いない。 それはどういうものであり得るか、 ということを(20世紀に生まれた人間という限界の中で、ぎりぎりまで)追求したのがレムという人だった。 他のSF作家が「あまりにも人間的」なSFばかり書くのでそれに反発したのがレムであったというだけであり、 そここそがレムのオリジナリティーなのである。 作家が自分のオリジナリティーに過度にこだわり、必要以上にのめり込むのは当然といえる。 レム自身が人間嫌いだったとは言えない。

飯田規和氏の訳はともかくとして、『ソラリスの陽のもとに』という早川文庫の邦題は余計だ。 「ソラリス」はもともと「太陽」の意味でかぶってるし、「ソラリスの陽」ではまるでソラリスは恒星のように思える。 まあ、惑星をソラリスと名付けるのがそもそも問題だが。 『ソラリス』だけでわかりにくいというのであれば『惑星ソラリス』くらいにしておくのが一番良かろう。 『ソラリスの海』というのは冨田勲の命名。

タルコフスキーが『ソラリス』をあんな恋愛ものに仕立ててしまった理由はよくわからない。 レムは反発してそして抵抗を諦めたのに違いない。 『僕の村は戦場だった』で、白樺林の中でマーシャがくるくる回るシーンがある。 そしてあの暗く冷たい湿地帯のイメージ。 まさにポーランドの原野だ。 『ソラリス』では東京の首都高をぐるぐる走ってる。 要するにタルコフスキーはそういう映像表現が好きな人であって、 それを『ソラリス』に投影すればあんなふうになるのだろう。としか言えない。

ハリウッド版の『ソラリス』はまあどうでもよい。 タルコフスキー版からヒントを得て、きちんとしたSF恋愛ものにリメイクしてしまった。 ヒロインは悲劇のアンドロイドとして描かれている。 和食がみんな醤油味なのと同じで、ハリウッドの『ソラリス』はハリウッド味のハリウッド映画、としかいいようがない。

レムの『ソラリス』だが、導入からして完全にSFである(タルコフスキーとはまったく違う!)。 第一章の終わりで、 スナウトの手に干からびた血がこびりついている、という記述がある。 この日の朝、ギバリャンは死んだとスナウトは言っているのだから、 スナウトがギバリャンを殺したか、あるいはその死に深く関わっているだろうということが暗示される。 うまいひっかけだと思う。 読者はこのひっかけにひっかかってさらに読み進めざるを得なくなる。 多くの謎が第一章で投げかけられるが、そのほとんどすべてがあとで裏切られていく。 そこがまあこの作品のおもしろさだろう。 第二章ではさらに昔死んだ恋人が現れる。 これがだめ押し。 ここまで読めばとりあえず読者は中盤までは読み進めるだろう。 レムの他の作品にもあると言えばあるが、これほど巧妙な仕掛けはしてないと思う。

私もこういう仕掛けを使わなきゃならんなと思わせる。

ま、しかし、レムの代表作が『ソラリス』なのはタルコフスキーの映画のせいであって、 『ソラリス』が真に理解されたからではないし、 『ソラリス』だけに恋愛要素があるからでもないだろう。 『ソラリス』は確かに傑作だが、その評価はかなり本質からずれていると思う。

『ソラリス』の多くの部分は、おそろしく退屈だ。 恋愛なんて一言も語られない。 ここはレム自身による作品解説になっている。 タルコフスキーもハリウッドもこの部分はざっくり省略している。 多くの読者もそれらはよみとばしているのではないか。

真ん中あたりに「バートンの飛行日誌と調査委員会における証言」というエピソードがある。 巨大な人間の赤ん坊がソラリスの海の中で、 ソラリスに操られて無意味な動きをしているという場面などが出てくる。 実は『ソラリス』は他を一切読まず、ここだけ読んでもわかる。 『ソラリス』という話の核とも言える。 もしかするとレムは最初にここを書いて、前後を付け足したのかもしれない。

レムはおそらく科学者に憧れた人だっただろう、宇宙時代を開拓したソビエトという国家に現れた科学者たちに。 少なくともレムの作品にはオカルト的な、不条理な、ファンタジー的な要素はひとかけらもない。 100%ピュアな科学小説だ。 レムにしてみれば、 この作品は小説の体裁をした「学術論文」あるいは「哲学書」という性格のものであり、 徹底的につじつまを合わせ、ネタばらしをしなくては気が済まなかった。 実は私も「エウメネス」や「マリナ」ではそうしている。 前半部分は読者サービス。 中盤以降の解説部分は、たぶん読者にはあまり興味ないのだろうと思うが、著者としては書かずにはおれない。

finis vitae, sed non amoris

などと言った、恋愛小説めかした文句は結局は飾りなのだ。

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食卓の賢人たち

09.11.2016 · Posted in 読書

アマゾンで買った電気時計とかリモコンとかが続けて不良品で、 返品、交換することになった。 誰かが出品してるんじゃなくてアマゾン直営。 なんかもう自分がクレーマーか何かになった気分になるし。 届いた品が動かないと精神的に消耗する。 たぶんこういうのって店頭販売で不良品が多くてそういうの家電量販店とか秋葉のショップなんかからまとめて安値でアマゾンが買い取ってるんじゃないかな。 そういうのを返品・交換込みでネットで裁いている。 割と簡単に返品が効くんで、アマゾンとしてもそういう商売でいいんだって割り切ってやってんじゃないのかな。 まあねえ。 普通に量販店で手に入りにくいものを安値で買ってるわけだしリスクはあるわね。 高額な国産メーカー品だと返品理由も割と細かく書かされるみたいだが、 そうでないのはかなり適当だよね。 どうせパチモン買うなら一番安いやつにしといたほうが精神的ダメージは少ないかもね。 250円の得体の知れないリモコンとか絶対わかっててやってるよね。 まあ秋葉のジャンク屋みたいなもんだよな、この手のは。 そういやこないだタイムセールで買ったボクサータイプのパンツにもひどい目にあった。 遊びと割り切って買えばいいんだけどさ。

「食卓の賢人たち」は良書だ。 古代ギリシャっぽいフレーバーを文章にふりかけるのに重宝する。 こういうなんということのない、日常の食生活の空気感というのがね、 欲しいわけなんですよ。 フィクションにリアリティを持たすためにね。 てわけでいまだにちょこちょこ書き直してる。

kindle unlimited のおかげでときどき読まれているのがわかる。 以前にはなかったことだ。 そうすると自分でも気になって読み直すと書き直したくなる。 「将軍放浪記」は冒頭テンション高いんだが、途中でだれてくる。 そう、南北朝がどうしたこうした西園寺兄弟がどうしたこうしたとかそういうことを説明しているあたりで明らかにだれている。 以前は気付かなかった瑕疵が今は見える。 ていうか昔はこんな話だれが書こうが読もうがだれるに決まってるからって思ってこっちも書いてるんだが、定家の話とか調べてて、だんだん西園寺さんのことにも詳しくなってきて、 あれっ、こんな雑な書き方してたんだなあ、って自分で気付く。そうすると書き直さないわけにはいかない。

今川了俊なんかが北条時行は死んでないとか言ってて、 まあ彼は今川ですし。足利ご一家の一員なのにわざわざ北朝に不利な証言をしているわけだから、 信憑性がありそうじゃないですか。 ということは、北条得宗家は滅亡したんじゃなくて、 歴史の中にフェードアウトしていった、ってことになる。 頼山陽も「亦不知其所終」なんて書いててそれがまあこのブログのタイトルにもなっとるわけですけどね。龍ノ口で斬られたなんてことは書いてない。 そうすると時行を生かしといてやりたいなあなんて著者ごころがわいてくる。 「将軍放浪記」のストーリーもかなり大きく影響受ける。 ましかし旧作なんでもうこれ以上いじらないことにした。

「将軍家の仲人」もかなり書き換えた。 つまり、話の流れがすっと流れてない。澱んでるところがある。 間部詮房の生い立ちを説明しているところなんかが澱んでる。 つまり昔自分で書いててあまり乗り気でなかったところなんだな。 そゆところをちまちま直している。

すみませんがそんなもんだと思ってください。

西田詮房、十八で百五十俵の小姓となり、間鍋と改め、のちにさらに間部と変えている。 百五十俵はそれなりの御家人なのでたぶん親が死んだか隠居して相続したんだと思うが、 親は西田清貞は甲府藩士で小十人組格とあるから、 推測するにやはり百五十俵十人扶持くらいであったろう。 小十人組頭というのはたぶん下っ端が十人いる中間管理職、みたいなもんだ。 間鍋氏と西田氏。 どちらかが甲府藩士の家柄で、もう片方は浪人か何かで猿楽師もやっていたはずだ。 ま、猿楽師はたぶん西田だろう。 それをいやがって詮房は間鍋に変えた。 間鍋を間部にしたのはおそらく鍋松(徳川家継の幼名)と字がかぶっているせいだと思う。 鍋松は実は詮房がお喜代に産ませた子ではないかという話がここから出てくるのだが、 まあ疑えばきりがないが、どうだろうかね。 そういう話にしてしまうこともできなくはない。 調べ出すときりがない。

でまあ思うにね。 この五年間ほど作家のようなことをやってみたわけだ。 昔のコネを使って紙の本も出させてもらった。 ずいぶん出版業界にも詳しくなった。昔は素人同然だったわけだから。 で、読もうと身構えている人、 探している人はもうほとんど読んでくれたんじゃないかと思う。 私の書いたものを読む読者ってのはそんなにたくさんいない。 そっからさきにはなかなか広がらない。 たとえば、NHKの大河ドラマで主人公が新井白石か、間部詮房かとか、 まあ地味だからやる可能性は低いわな、 でもそんなことがあって、KDPで新井白石書いてるやつがいるっていうんで、 読まれる。読んでみたらなんか普通じゃない切り口でいろんなこと書いてあるってんで話題になる、なんてことはおきるかもしれん。 そういういつ当たるかしれない仕掛けをできるだけいっぱいしかけておく。 そういうやり方しかもう残ってない気がする。 様子見ですよ。

ミステリーでも書いてみようかと思った。 警視庁捜査一課の女性刑事なんかを主人公にしようかとか。 でもまあ、調べてて、私は警察組織になんの興味もないし、 私より警察詳しい人とかいくらでもいるし、 殺人とか詐欺とかやくざとか性犯罪とかそんなものを扱う仕事なんて自分から関わろうなんて全然思ってなくて、書いてて気持ち悪いってことがわかって、やっぱ書くのやめた、ってことになる。 同じように、ラノベとか動物ものとか青春ものとか、或いは漫画とか、売れ筋のもの書いて注目集めて、それで自分の好きなジャンルに誘導するって手も考えたが、めんどくさいなやっぱり歴史物だけ買いてようってところに落ち着いてしまう。 まあ、なんか面白いネタを思いついたらともかく今後も書かないだろうなと思う。

「エウメネス1」を読んだ知人から「砂漠のような風景しか思い描けなかったのが残念でした」というようなことを言われたのだが、 サンテグジュペリの「星の王子様」「人間の土地」なんかをオマージュにして、 砂漠を体験したことのないわたしが、必死にリアルな砂漠を表現してみたんですよ! それがあの「ゲドロシア紀行」なんです。 喜んでよいのか悪いのか悩んだ。 まあ彼はこんなところ読まないだろうとたかをくくってこそっと書いてみる。 「エウメネス1」はギリシャ感が乏しくてインドとか砂漠ばっかりで、 だからこそアレクサンドロス大王のアナバシス(遠征記)なわけだが、 ギリシャの話が読みたかった人には肩すかしだろうと思う。 「エウメネス2」と「エウメネス3」ではギリシャっぽさを大サービスしたつもりだが、 それでもまあ、ほとんどの舞台はギリシャの外なんで、 だからアレクサンドロス大王はギリシャ以外の土地で活躍した人なんだから仕方ないんだけど、 たぶん読んでいる人は釈然としてないんだろうなって思っている。 ていうかアレクサンドロス大王がいまいち人気がないのは、 ギリシャムードに乏しいからなんだよな、ギリシャ世界にどっぷり浸ることができないの。 そりゃそうだよ。アレクサンドロスなんだから! アレクサンドロスはむしろイスラム世界でイスカンダルとか呼ばれて超人気が高い。 完全にアジアの王なんだよな、アレクサンドロスは。 そこんところが西欧史観に毒された日本人にはわからんのですよ!

「エウメネス4」はたぶんスパルタがメガロポリスで敗北する話をメインに、 オリュンピアスとエウメネスが初めて出会う話をサブに書くことにしたいなとか、 エウメネスとアルトニスが再会してなんか痴話げんかでもやらせるかなとか、 思っている。 しかしそれと同時並行でガウガメラの戦いがあるわけで、 ガウガメラを「エウメネス5」にもっていきたい。 そしてその続きはいよいよソグド。 ラオクスナカ、アマストリー、ヴァクシュヴァダルヴァ、アパマの話にいける。 それが「エウメネス6」になり、やっと「エウメネス1」につながる。 この辺まででたぶん1000枚は超える。超大作。

で、スーサに戻って来たあと、ハルパロスとのすったもんだがある。 アレクサンドロス大王死ぬ。 まあ、私としてはここらへんで終わりにしたい気持ちで一杯です。

ディアドコイ戦争始まってエウメネスやアマストリーが死ぬまで。 ちょっとそこまで書いてたらどんだけ長編になるのか想像もつかない。

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ギリシャ語訓み

09.03.2016 · Posted in 読書

ギリシャ語の読みなのだが、 ψ(psプシ)やξ(ksクシ)、或いはプトレマイオスのπτ(ptプト)のように、 或いはドイツ語のpfのように、いわゆる二重子音が普通に使われていた形跡がある。 χ(ch)、θ(th)、φ(ph) なども本来は摩擦音ではなくて、吐息の音を伴った、 二重子音とも言うべき、クホ、トホ、プホ、のような音だった可能性が高い。 ρも単にrの音ではなくて、常にhの音を伴い、ロホ、のように発音されていた。 例えばリズムを rhythm と書くのは遠い古代ギリシャ語のなごりなわけである。

Φίλιππος はローマ字綴りでは Philippos となるわけだが、 もともとの原音はプヒリッポスであったろうと思われるし、 これを単にピリッポスと書くのはどうもしっくりこない。 χ、θ、φ を単なる k、t、p の音で書きたがるのは、 たぶんギリシャ語とラテン語を両方やる日本人、 もっと具体的に言えば日本のキリスト教の牧師か神父くらいではないか、と私は疑っている。 ラテン語の文中でギリシャ語綴りを発音するにはそのほうが都合が良いからだ。

φ (ph) は今のヨーロッパの言語ではほとんど f と同じに発音されていて、 フィリップを古代ギリシャ語だからプヒリップとかピリップと書くのは非常に不便ではないか。 またフィリッポスと綴ってくれればフィが φi であるのは一義であるから、 φ に関しては、ファ、フィ、フ、フェ、フォと綴ればよいとおもう。

その他、χとk、θとt、λとρの日本語表記上の差異については、 今のところ私にはなんとも答えようがない。

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世界から猫が消えたなら

09.01.2016 · Posted in 読書

どういう本が人によく読まれるのかということを知るために読んでみたのだけど、 まあこのくらいあざとくないといけないんだろうなと思った。

悪魔と契約して「猫を消せなくて自分が消える」という、 基本的なコンセプトはこれだけで、 コンセプトがシンプルだというのも売れる本にとっては良いことなのだろう。 ものごとは単純化したほうがよいこともある。

そして、飼い猫を消せなくて自分が消えることにしたということに、 共感できる人には面白い本で、 それ以外の読者は捨ててる潔さもよい。

文体は、よくわからんのだが、 これが村上春樹風というのだろうか。 「文章が稚拙」というレビューもあったがそれは違うだろうと思う。 「稚拙」にみせるテクニックはあるかもしれない。 「あれ、これなら自分にも書けるんじゃないかな」と読者に思わせるくらいが親近感があって良いのかもしれない。 中島敦とは正反対な戦略と言える。

神や悪魔については、これもこのくらいシンプルなほうが一般受けするのだろうが、私には絶対受け入れられないものだ。 完全にステレオタイプ化され、ブラックボックス化されていて、そういうものだというのが前提で話が構築されているが、そうね、私の書くものはまず、そのブラックボックスを壊して開いてみるところから始まる。なので、こういう話の展開には決してならない。

猫がかわいい。家族や恋人は大事。 友情は大切で、戦争は悪いこと。 ここをまず疑い否定するところから近代文学は始まるのではないか(?) というのはたぶん私の思い込みなのだろう。 前提がまず違っている。 これを「感動的、人生哲学エンタテインメント」とうたっているところがもう不倶戴天な感じがする。

まともかくこういうのを喜んで読む読者というのがいて、 そういう読者に本を買って読ませる業界というものがあるというのはなんとなく理解した。 私が抱いていた「売れる本」というものに対する漠然とした疑問と不安を、 明確に突きつけてくれた本、と言える。 そう。こういう本を、私は書いてはいけない。 というより、こういう本を否定するために、私は本を書かなくてはいけない。

さらに余計なことを書くと、この本の著者は、 「「文系はこれから何をしたらいいのか?」 この本は、理系コンプレックスを抱える文系男が、 2年間にわたり理系のトップランナーたちと対話し続け、 目から鱗を何枚も落としながら、視界を大きく開かせていった記録だ。」 というコンセプトで 『理系に学ぶ。』という本を書いているのだが、 この人は文系でも理系でもない。 学問とは無縁な世界の人だと思う。 学問と無縁な人を文系というのならアリかもしれないが。

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斎藤さん アラカルト

08.25.2016 · Posted in kindle

Kindle Unlimited に反応したのは一部のコアな KDP ユーザーだけだったように思う。 多くの人々はまだその存在が意識の片隅をかすめただけなのだろうと思う。 多少売れたり読まれたりしたのは一過性だったのではないか。 一部のユーザーが読みたいものを一通り読み終わってしまうと沈静してしまう。 これが継続して、右肩上がりになる、というのは早計だった。 もちろん長期的にこれからずっと観察してみる必要がある。

「内親王遼子」がまったく売れておらず「エウメネス」はそこそこ売れているのは(といっても何千部も売れたわけではない)、 「内親王遼子」が私の完全オリジナルな架空のキャラクター、架空の世界を描いた作品であるのに対して、 「エウメネス」は世界史を一通り学んだ人には既知の世界だからだと思う。

とすると、今度の「斎藤さん アラカルト」は売り方を工夫しないと、「内親王遼子」状態になりかねない。 「斎藤さん」にはいろんな要素を盛り込んだ。いろんなタイプの読者の琴線に触れるように、 いろんなストーリーをアラカルトにしてみたのだ。 一番売れ筋のミステリーや推理こそないが、ファンタジー系の風味も少し加えてみたし、 藤原頼長、レオニダスなど、歴史物もやり、 剣豪物もやり、 三島由紀夫のオマージュみたいなものを書いた。

一通り私が書くジャンルが一冊に網羅されている。 長編にはレビューがつかない。ついててもろくに読んでないってことはもうわかっている。 短編集なのでさっと読んでさっとレビューを書くこともできるだろう、という計算もある。 「斎藤さん アラカルト」が売れなきゃもうどうしようか。あとは営業くらいしかやることは残ってないんじゃないか。

どれが面白かったか。どれがつまらなかったか。 レビューが集まると今後の参考になるのだが、そうもならないだろうなあ。

最初は「斎藤さん」というタイトルにしようと思ったが調べたら同じタイトルの漫画(「斎藤さん!」)が既にあった。 そんで「アラカルト」を付け足した。

今回三島由紀夫の「春の雪」を下敷きにして「春の雪 外伝」を書いたわけだが、 どうも、おんなじことを何度も繰り返して書いているところがある。 エフェクトとして巧んでそうしているというよりは、ぼけ老人が前書いたことを忘れて、 或いは推敲不足のために消し忘れているようなところがある。 文章もすごく切れるところと、だらだら書いているところがある。 明らかに文章の質にムラがある、と私には思える。 意味はまあわかるがこういうふうに書いた方がわかりやすいんじゃないか、これは一箇所でまとめて短く記述すれば済む話じゃなかろうか、 と思ったところも多々ある。 ほんとのところ、この「豊饒の海」という長編は、三島が死を覚悟して、遺書代わりに、一気呵成にあまり推敲もせずに書いたものであろう。 なので、長文のだらだら書かれたエッセイのような気分で読むには良いのかもしれん。 実は三島由紀夫をきちんと読み始めたのはこれが初めてなのだが。

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三島由紀夫が復活する

08.07.2016 · Posted in 読書

小室直樹「三島由紀夫が復活する」の中に 坊城俊民 「焔の幻影 回想三島由紀夫」の次のくだりが引用されている。

「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」
「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定していたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。

これの

そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった

の箇所は坊城のセリフであって三島ではないのだろう。 「定家が自ら神になった」とは何が言いたいのか。 三島が抱いていた何かの虚像なのだろう。 三島由紀夫や小室直樹が定家を理解していたとはとても思えないのだが、 それはともかくとして 「ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」 というセリフが私にはどきりときた。

私はこの「三島由紀夫が復活する」をその出版当時、つまり昭和60年2月26日頃に、 読んでいるのである。 当時私は19才だったはずだ。 そして私が「定家を書いた」のはちょうど私が50才の時であった。 実際には49才頃からすでに書き始めていて、構想はもっと前からあったのだが。 私の脳のどこかの無意識にこのセリフが刻み込まれていて、 それが時限装置のように働いて私に定家を書かせたのではないか、 そんな気がしてきたのだ。

小室直樹はこの本をその2年前から書き始めたと言っているのだが、 1932年9月9日生まれの小室直樹にしてみると、彼が50才の時のことだったはずだ。 小室直樹はだから、50才で定家を書くのではなく、三島由紀夫を書き始めて、 2年の歳月をへて、ちょうど226事件の日に、「三島由紀夫が復活する」を刊行したのである。

私はずっとこの「三島由紀夫が復活する」が、小室直樹の書いたものの中では一番難解だと思っていた。 カッパブックスなどの売れ筋の本は編集者の手が入っていて多少読みやすいが、 「三島」は小室直樹が好き勝手書いているからちんぷんかんぷんなんだと思っていた。 しかし50才になって「定家」を書き、「ヨハンナ・シュピリ」を書いて、 その他いろんなものも書いてみて、著者の気持ちというのがわかったような気がしてきた。 著作を深く理解するには自分も著作してみるとよいと思う。 読者を意識して書くという作業を通じて、著者が読者に何を言いたいかが読み取れるようになる。 というより、書こうと思って書き切れなかったことにも今なら気づけるのではないか。 私が「三島由紀夫が復活する」を理解できないのは小室直樹の執筆意図を理解せず誤読しているせいかもしれない。 そう思ってもう一度丹念に読んでみることにした。

それでまあこの本は小室直樹が真剣にまじめに書いたものであって、 きちんと一冊の書籍の体裁にまとまっているのはわかった。 しかしいろんな点でやはり納得はできない。 唯識論や三島理論と天皇制とは特に関係ないとしか言いようがない。

「ミリンダ王の問い」という仏典が引用されている。 これはギリシャ的哲学とインド的哲学の対立と捉えられているのだが、 例えばギリシャ人でもディオゲネスなどは明らかにインド思想の影響をうけている。 またギリシャの宗教でもギリシャ由来でないものは多い。 アドニス、アルテミス、デュオニソスなどは西アジアやインドの影響をうけている。 イエスにも仏教の影響は見える。 西洋と東洋を対立させてみるという考え方は本質を見誤らせるし、定家が自ら神になろうとした、 なんていう証拠はどこにもない。 そんなことを定家がやろうとしたはずがない。

それでもまあ、小室直樹や三島由紀夫を知るには貴重な本であるのには変わりないが、 三島由紀夫は結局50才で「定家」を書かずに45才で死ぬ。 三島由紀夫が1970年11月15日に割腹自殺したのは1971年1月14日に転生しなくてはならなかったからだ、と書かれていて、 おそらくこれは小室直樹の持論なのだろう。 そして1月14日は三島由紀夫の誕生日なのである。 小室直樹は三島由紀夫は自分自身に転生したかったのだと言いたいわけだ。

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特務内親王遼子完結編

06.05.2016 · Posted in kindle

もう文章はほぼ書き終えた。 あとはどのくらい文章に厚みをつけるか、挿絵を増やすかだが、 結局、どんなに頑張っても、小説なんてものは読んでもらえないんだってふうに近頃は思えてきた。 ヨハンナ・シュピリに関して言えば、彼女のハイジ以外の作品を読んでみたいという人は多く、それに対して翻訳する人が少なかったので多少売れたのに過ぎない。 普通の小説にしても、書く人が少なくて読む人が相対的に多ければ本は売れるはずだが、 書く人が多すぎるから売れない。 小説の需要自体、大して増えも減りもしないが、書きたい人が大勢いるから一人一人の作家のもうけは少なくなる。 アニメ・マンガ業界と同じ。

がんばってCGで挿絵を増やしてできればマンガにして出したかったが、 たぶん無駄な努力だと思うからこのくらいで出そうと思う。 特務内親王遼子1はPDFで無料で公開していたが、これも公開をやめる。 2はKDPで出していたが、これも出版停止する。 1から3まであわせたものを近日中にKDPで出版する。 我ながらうまい具合に完結させた、400字原稿用紙換算で200枚ほどで、良いできだと思うのだが、期待してもしかたない。 まあ、期待しないでしばらくお待ちください。

思えば私はこういう「プリンセス」ものを今までいくつも書いてきた。 「エウメネス」のアマストリナはそうだし、「エウドキア」はそのまんまだし、「将軍家の仲人」の喜世もそうだし、 「西行秘伝」の源懿子もそうだ。 だが根っこにあるのはディズニーのプリンセスものみたいなアメリカナイズされたステレオタイプに対する反発であり (と同時にNHK大河ドラマ的ステレオタイプに対する反発でもある)、 そこからひねって和風の皇女にしてみたり、 ペルシャ王女にしてみたり、東ローマの女帝にしたりしている。 少しだけ主流から外す。 しかし主流から外れているというのは今のテレビドラマ的ハリウッド的価値観から外れているだけのことで、 いずれもそれぞれ主流たり得る、つまり小説となり得る価値がある、そういうものを「発掘」している気持ちで書いている。 「エウメネス」は外したつもりだったのに同じ主人公のマンガがあって少し売れてしまった。 なんか不本意だ。

竹取物語や源氏物語に限らずお姫様は昔からたくさん話に出てくる。 しかし「内親王」と呼ばれることはない。「内親王」という呼び名は奈良時代にはすでにあったのにも関わらず、だ。 そういうところもこだわりなのだが、一般読者には通じないかもしれない。

あちこちきどって加筆してみた。出だしはこんなふうになるはずだ。

何の恨みがあるかはしらないが、こんな風向きの日にはきっと馬賊が出る。
悪天候は彼らの宴の合図だ。
猛禽が山から舞い降りてきて、地上の獲物を掠め取っていくように、山に棲む馬賊どもが、農家の子羊を略奪し、酒盛りの肴にしてしまうのだ。
砂漠に隣り合わせの痩せた土地で、そのうえ匪賊まで出る。誰の記憶にも残ってない遠い昔、ここに住んでいた原始人が、あるいはもっと太古に、この平原を闊歩していた獣たちが犯したとんでもない罪のために、この土地は罰せられているのに違いない。こんな日に哨戒に出る稗島は、そんなふうに思わずにはいられない。
砂埃にまみれた霜が強風で舞い上がり、厚くよろった防寒具の上から肌にたたきつけてくる。

あるいは

こんなにも王族にふさわしくない私がか。こんなにいいかげんでおっちょこちょいで自分勝手で移り気で。男にだらしなくて、男にすぐ騙される私が、よりによって、民の君にならねばならないのか。

というような台詞もある。

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05.31.2016 · Posted in 読書

「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」だが、 相変わらずアマゾンではまったく売れていない。 だんだん中古が値崩れしてきているがそれでも売れない。 ところが紀伊國屋書店やツタヤのオンラインショップではときどき在庫切れしたり入荷したりしているから、 多少は売れているらしいのだ。 アマゾンで中古だけものすごく高値で売られていた時期があって、 その頃、わざわざアマゾンで高い中古を買うくらいなら、 普通の書店で新品を買った方がよい、などとツイートしたことがあって、 それを見た人がアマゾンを避けているのかもしれないと思い、 そのツイートは削除した。

それで、ツタヤに「あわせて買われている商品」というのが15冊あって、 ということは、 少なくとも「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」は現時点でツタヤオンラインで15冊売れた、ということになる(もしかすると書店売りのデータも含まれているかもしれない)。 多いような少ないような。よくわからない。 ともかくツタヤで本を買う人は思ったより多いのかもしれない。 中古は別として新品を買うならアマゾンでもツタヤでも同じはずだが、なぜかツタヤで買われている。 それで合わせて買われた本なのだが、 どちらかと言えば日本文学の本が多く、 洋書の翻訳物は2冊しかない。 いったいどんな人が買っているのだろう。実に不思議だ。 ツタヤで買う人というのはたぶんリピーターだろう。 私の本だけ買った人は考えにくい。

ところでカーリルのほうもときどき調べてるのだが、 すでに250館以上の公共図書館が「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」を入れている。 未だに入れてない県が四つある。 どことは敢えて言わないが。 当然東京が一番多いが、愛知、大阪、埼玉、兵庫などが割と多い。 神奈川は少なかったのだが、少し追いついてきた。 京都が意外にも少ないのだが、それでも少しずつ入ってきた。 ある程度県民性が見えてくる。 大学図書館がなかなか入れてくれないのは不満だ。 地方自治体の図書館に比べると圧倒的に少ない。 落ち着いてきたが図書館だけでもまだ伸びしろがある。 近いうちに300館に達するのに違いない。 まあ他の人気の本に比べれば、全然大したことはないのだけど、私にしてみれば大成功だ。 ビジネス新書などは図書館はなかなか入れないが、 逆に文芸書などは入れてもらえやすい傾向はあるようだ。 それで結局どのくらい売れているか、確かなことは出版社に聞けばわかるんだが、 怖くてできない。 私が書いたもののなかではダントツに売れていることは間違いない。 しかし増刷、重版がかかるにはまだ全然足りない。

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