「もやしもん」第一巻

研究者というものをよく調べて活写しているわけだが(しかし、白衣を着て細菌を研究してるというのは野口英世のステレオタイプそのままで結構迷惑)、

世界の研究は日進月歩だ。一秒論文を出すのが他人よりも遅れれば数十年の研究も灰燼に帰する。

というのはまー真実なわけで。
以前にも書いたかもしれないが、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したとき、世界中にはアインシュタイン予備軍が何十人といただろう。
もしアインシュタインが半年論文の発表を遅らせていればおそらく別の誰かが「アインシュタイン」になったに違いない。
ゲーデルの不確定定理もまた同じ。
ガウスやガロアの時代からそう。
世の中切磋琢磨しているので、社会が漸次発展し新しい理論が生まれる機運が満ちてくると、後は時間との勝負で、誰が先に思いついて発表するかと言う問題に過ぎない。
要はタイミングであって、誰が誰よりよけい頭が良いとか天才だとかという問題ではない。
時代(or社会)が天才を作るのであって天才が時代(or社会)を作るのではない。
個人とか個性を否定するつもりもないが、かと言って個人崇拝はほとんど間違いなく間違いだ。
個人の役割というのはつまり個人的成功報酬を求め時間を争う結果が社会変化を加速させるということだろう。

人間の発想というものは大差ない。
人間の着想は社会情勢や環境によって100%決まる。
それ以外のものが人間の脳から出てくることはない。
それより重要なことは誰が先にやるかということであり、どのくらい早いかということはあまり関係ない。
ただ単に他人より早ければよくそれ以上のことは必要ない。

それはそうと、「一秒論文を出すのが遅れれば」という焦りは今まさに研究テーマに取り組んでいて、ギアを3速から4速に入れた辺りの人だろう。
研究には緩急流行り廃りがある。
ある意味数十年という単位の研究は存在しない。
数十年という積み上げはあるかもしれんが。
研究ネタは数年単位で徐々にシフトしていくし、新しいネタほど速さが要求される。

というのは一般論なんだが、では新しい研究をやるにはどうするかといえば、社会の機運というか運気を眺めつつ、社会が向かいそうな方向性を予見し掴むというところか(笑)。
しかし社会の方向性なんて所詮は誰にもわからん。
偶然としか言えないのでないか。
確率を増すくらいのことはできようが。

外濠線

小僧の神様など読むと「神田から京橋まで外濠に乗って15分だよ」などというフレーズが目にとまり、外濠線というのを調べてみると:

東京電気鉄道(外濠線) 明治37(1904)年12月8日~明治38(1905)年10月11日 土橋-呉服橋―神田橋-駿河台下-御茶ノ水-飯田橋-四谷見附-虎ノ門-土橋

とあるが、このままでは粗すぎてよくわからんな。ともかく山手線の数倍小さな環状の路面電車があったわけだ。逆の言い方をすれば今や山手線の数倍でかい環状線が開発されてもおかしくない。ああ大江戸線とかではなくて。

十年一日のごとき授業

筒井康隆の小説のモデルになった某大学文学部の教授会は、事実しゃべりたい人だけが延々としゃべり続け、途中退席して喫茶店で休憩してもよく、戻るとまだ同じ話が続いているらしい。

e-Learningの授業を未だに手書きOHPシートでやっているという某教授によれば、授業をやっている時が公務の中で一番楽な時間なんだそうで、なぜかといえば授業中だけは電話もかかってこず、学生に向かって自分がこれまでずっとやってきたことを語る場だからだそうだ。
何十年も大学教員をやっているとそんな境地に達するのだろうか。

放送大学は編集も取り直しも一切やらず本番撮りっぱなしなんだそうだ。
講師が収録までに十分に練習しておくということなのであろう。
落語の寄席と同じで学生が聴講する実際の授業を収録しないとライブ感がなくておもしろくないという。放送大学の授業は講演会を15回やるのと同じ程度に周到に準備されているように見える。

落語のネタを15本しかもってなかった名人の話があるけれども、また十年一日のごとき授業という言い方もあるが、授業というものは同じ内容でも毎回毎年違うというのも真実なのであって、同じ授業も回を重ねれば次第に密度が増し話芸としての完成度も高まり、学生への教育効果も高まるのかもしれん。
そうやって年月を経て練り上げられた授業というものは、独り講師から学生への一斉授業というにとどまらず、むしろ講師と学生との合作というべきものであって、まさしく古典落語のような名人芸へと昇華するのかもしれん。
そこまで練られた授業であればこそライブ収録する価値もあろうと思う。

実際には単に十年一日同じことを繰り返す授業の方が多いのだろうが。

牛乳

牛乳が最近安くてミネラルウォーターより安いくらいで問題になっているが、要するに作りっぱなしで流通や広報をやらないと搾取されまくるというわけだよな。
エンジニアも同じで営業や経営を他人任せにして現場の仕事ばかりやると搾取されまくる。
搾取されっぱなしでまともな評価もされないと腹立つからそのうちろくな仕事しなくなる。

だがそれでも豆乳よりは牛乳が安い。
もし価格が逆転しようもんなら日本酪農業は壊滅するに違いない。
で豆乳よりもわずかに安くなるように牛乳の価格が下がっているのではないかと邪推。
ていうか豆乳こそもっと安く作れるように思うがなんかあるのか。

激安台所洗剤買ったら泡立ち悪い。
安物買いの銭失い。

モーニングついに300円台突入。

メディアに踊らされるということ。

カドの八百屋がなぜすいかを売らず、大根を売るかと腹を立てているようなものだ。
なぜスイカでなく大根かと言えば、たまたま大根を売った方が儲かるからだ。
メディアも同じで、あおれば煽るだけ儲かるなら煽るし。
煽って逆効果ならやらないだけのこと。
失礼なたとえで悪いが八百屋もメディアも同じこと。
よけいにもうけてよけいに給料もらいたいだけのこと。
メディア批判など何の意味もない。
そういう報道を見たい読みたい大衆が諸悪の根源なわけだが、大衆というものは常に責任を免除されている。
そこが民主主義の最大の問題。
大衆の影であるメディアもまた100%免責されてるからたちがわるい。
メディアなぞ無力だ。
メディアの側にしても、世の中踊らしているつもりで何一つ自分の思い通りにできないのだから。

子供の科学教室基金

子供の科学教室基金に募金したからといって子供の科学離れが防げるわけじゃないと思うんだよね。
なんか根本的に、金の使い道を間違ってる気がする。

昔のやり方は昔は有効だったかもしれんが、それが行き詰まって破綻した現在、昔のやり方が良かったというそのまんまの話をされても困る罠。
破綻の原因を洗い出して、これからはどういうやり方に変えていかなきゃいけないのかとか、そういう問題じゃないの。
世の中みんなが貧しかったころ白亜の殿堂建てて大学教育したと。
研究や教育に重点的に投資したと。
そのやり方が奏功したのは1980年代までなんだよね。
今それと同じやり方もしくはその延長線上のやり方やったって駄目でしょうよ。
子供が科学離れするから科学の授業や学外活動を増やそうとか、ドイツに比べて博士が少ないからもっと増やしてって、そういう啓蒙主義的公共事業的やり方が破綻してるんだよな。
博士を増やしたかったら博士が自然と増えるような制度を考えるべきで、予算をぶんどってきて撒いたからといって博士は増えないし、増えても食えなかったり、自力で食える人材も集まらないし育たないんでしょうよ。

link free

今更らネタかもしれんが、 “link-free page” というのは “page without links” という意味かもしれんよね。
書くとすれば “free-link page” かな。
しかしこれでは無料でリンクを張れるページって感じ。
あるいは「このページにリンクを張る場合、そのリンク先のページも必ず自由にリンクを張れるようにしなくてはいけません」、みたいな(笑)。

mixi はいきなり他人だらけのオフ会に足を踏み込んだような間合いの近さが気まずい。
特に「足あと」というので誰が来たか、誰のところに行ったかばれるのがナー。
リアルな知り合いともあまり積極的に「マイミクシィ」とかやりたくないのだが。
まー、間合いのとり方とか慣れてくると違和感なくなるのかな。

天才は偶像

天才は後世の人が祭り上げたもので偶像崇拝個人崇拝の一種。
昔は聖人とか教祖様とか。
弘法大師も聖徳太子も日本仏教徒が布教に都合の良いように作り上げた偶像。
聖徳太子に至っては存在すらあやしい。
空海はもちろん優れた人物だっただろうが普通の人間。
レオナルド・ダ・ヴィンチも19世紀が捏造した偶像。
同世代の人間が死に絶えると同時に歴史も人物評価もどんどん後世の人間に都合の良いように変わっていく。
明治維新や大東亜戦争も同じ。

最近は情報過多になってごまかしもだいぶきかなくなった。
こういう世の中ではいくら誰かが意図的に祭り上げても天才というものは生まれにくい。
ものすごく有能で優秀な人でも天才まではいきにくい。
情報が誤っていたり欠落したところにこそ天才は生み出される。
坂本龍馬も似たようなもの。

良い研究良い作品はたとえ同時代では理解されなくても、
長い年月をかけて淘汰されて歴史に残るんだと昔は考えていたが、
そういう例もあるがそうでない例もたくさんある。
一握りの天才ではなく無数の無名な有能な人物たちによって今が成り立っているのだと思えば、
少しは気が楽だ。