[ウィキペディア「夢」](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2#.E7.A5.9E.E7.B5.8C.E7.94.9F.E7.90.86.E5.AD.A6.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E5.A4.A2.E3.81.AE.E7.90.86.E8.A7.A3)
にも、

> 夢を見る理由については現在のところ不明である。

などと書かれているのだが、
どうも夢というのは、
外部からの感覚が遮断された状態の脳の活動そのものではないか。
私たちは夢というものを寝ている間に見る不思議な演劇のようなものだと考えがちだ。

睡眠というものは、脳を休ませるためのものというよりも、
身体や、視覚や聴覚などの感覚器官を休ませるものだとしよう。
眠ると脳は感覚が遮断される。
脳もまた眠るが、身体よりも先に脳は目を覚ましてしまう。
外部からの刺激がまったくない状態の脳は幻覚を見る。
それが夢である。

外界を見たり、音を聞いたり、他人と話をしたり、食事をしたりすることによって、
脳は情報を得て、外界や他者に対して反応しなくてはならない。
外から得られるバイアスによって人は、いや、動物というものは、正常に行動できる。
というよりも、バイアスのもとに行動が最適化されるように進化し、淘汰されている。
外界からの刺激がない場合の脳の働きは定義されてない(する必要がない)から、
幻覚となり、夢となる。

人も動物も無重力ではうまく動き回ることができないが、
重力下では歩いたり座ったり寝転んだりすることができる。
それと同じだ。
凧は糸が切れると制御不能になる。
糸というバイアスがあるからこそ凧は安定して浮かんでいられる。

外界からの刺激がない状態では脳はうまく動くことができず、
浮遊し、くるくる回って飛んでいってしまう。
それが夢なのだ。
動物の見る夢もそれで説明つくのではないか。

つまり、人工知能とか人工の自我とか、
自我エンジン、意識エンジンというものが発明されたとしよう。
外部からの刺激がまったく無い状態で、それはただ空回りするしかない。
それが夢だ。
逆に言えば、
人工知能を作りたければまず無入力状態で夢を見る機能を持たせなければならない。
そこに外部から刺激を与えることによって反応するように仕込む。
意識というものはただそれだけなのではないか。
夢にも、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのではないか。
だから、クラウドの中に人工知能だけが存在していても役に立たない。
それはただクラウドの中を浮遊しているだけだ。
人工知能は個体の中に入れてやり、目を付け耳を付け手足を付けて、
自己存続のモチベーションを与えてやらないと、知能として成立しないのではないか。

で、夢というものがそういうものだとして、
では夢から小説のネタができるか。
うーん。場合によっては偶然できるかもしれない。

ある種の薬物は感覚を狂わせたり遮断したりするのかもしれない。
だから脳は幻覚を見る。
脳が麻痺したり興奮したりするから幻覚を見るのではないのかもしれない。
脳とはもともとそうしたものなのだ。

作御歌

古事記の読み下しというのはいったいだれがどうやってきめたのか、よくわからんのだが、
「作御歌」は「みうたよみしたまふ」と訓じているようである。

思うのだが、「御」を頭に付けて敬う用法は漢語にはなくて、
本来は「統御」「還御」などのように、
動詞の後に付けて天子の行いであることを示したもののようである。
だから、「作御歌」を「御歌ヲ作ル」と訓むのはおそらく間違いで、
「歌ヲ作御ス」すなわち「歌を詠みたまふ」と訓むべきではなかろうか。

万葉集にも動詞を伴わず「御歌」とあるところもあるが、
これは「歌を御す」つまり「歌をよみたまふ」と訓じるべきではないか。
それが和語の「みうた」とか「おほみうた」などと混同されて、
「御」に「み」とか「おほみ」とか転じて「おん」「お」などの訓に使われたのではなかろうか。
中国人はトイレで「御婦人」という文字を見て「婦人を御す」のかとびっくりするそうだ。
「御名御璽」も漢語では意味が通らない。

「作」もややこしい語であり、「つくる」とも「なす」とも「なる」とも読む。
従って「作歌」を「うたをよむ」と訓じてもおかしくない。
そもそも古今集の時代には歌を作るという言い方はなかった。
かならず、歌を詠むと言った。
奈良時代もそうだったと考えるのが自然だ。

ちなみに「詠」は「永い」「言」と書くように、
漢語の本来の意味は、声を長く引っ張って言うことをいう。

傘松道詠

道元歌集

> 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり

> おし鳥や かもめともまた 見へわかぬ 立てる波間に うき沈むかな

> 水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されども道は わすれざりけり

> 世の中に まことの人や なかるらむ かぎりも見へぬ 大空の色

> 春風に ほころびにけり 桃の花 枝葉にのこる うたがひもなし

> 聞くままに また心なき 身にしあらば おのれなりけり 軒の玉水

> 濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる

> 冬草も 見へぬ雪野の しらざきは おのが姿に 身をかくしけり

> 峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

> 草の庵に 立ちても居ても 祈ること 我より先に 人をわたさむ

> 山深み 峯にも尾にも こゑたてて けふもくれぬと 日ぐらしぞなく

> 都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

> 夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

> 梓弓 春の嵐に 咲きぬらむ 峯にも尾にも 花匂ひけり

> あし引の 山鳥の尾の 長きよの やみぢへだてて くらしけるかな

> 心とて 人に見すべき 色ぞなき ただ露霜の むすぶのみして

> 心なき 草木も秋は 凋むなり 目に見たる人 愁ひざらめや

> 大空に 心の月を ながむるも やみにまよひて 色にめてけり

> 春風に 我がことの葉の ちりけるを 花の歌とや 人の見るらむ

> 愚かなる 我は仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならむ

> 山のはの ほのめくよひの 月影に 光もうすく とぶほたるかな

> 花紅葉 冬の白雪 見しことも おもへば悔し 色にめてけり

> 朝日待つ 草葉の露の ほどなきに いそぎな立ちそ 野辺の秋風

> 世の中は いかにたとへむ 水鳥の はしふる露に やとる月影

> また見むと おもひし時の 秋だにも 今宵の月に ねられやはする

全体的に普通。
あまり説教臭くない。

最初の歌が一番有名らしいがあまり感心しない。

> 目には青葉 山郭公 初松魚

を思わせる。
江戸時代の俳人山口素堂の句というが、
道元の影響を受けていたかいなかったか。

「色にめてけり」がよくわからん。
「色に愛でけり」ではあるまい。
「色に見えてけり」ではあるまいか。
俊成の歌に、

> たかさごの をのへのさくら みしことも おもへばかなし いろにめてけり

とある。
慈円のようにつまらなくもないが、
俊成や西行にははるかに及ばない。

> 都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

これが少し面白い。
道元より後の人だが、宗良親王に

> 都にも しぐれやすらむ 越路には 雪こそ冬の はじめなりけれ

がある。
道元と宗良親王には接点がある。
「将軍放浪記」に書いたとおりだが、
越後、越中と放浪し越前の新田・名越氏らを頼った宗良親王が、
永平寺に立ち寄ったかどうかまではわからぬが、
道元の境遇を自分と重ね合わせて詠んだ歌であっただろうと思う。
も少し調べてみると、道元の三十才年長で藤原範宗という人がいて、

> 都だに 夜寒になりぬ いかばかり 越の山人 ころもうつらむ

とあるが、道元はこの歌を本歌としたのではなかったか。

> 夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

これと先の「都には」の二つは、奥越前永平寺の暮らしを偲ばせる秀歌と言ってよい。

北条時頼が道元を鎌倉に招いたのだが道元は越州に帰ってしまった。
鎌倉時代からの禅宗の寺はたいてい臨済宗で、
曹洞宗の寺は戦国以後のものしかないようだ。

見しやいつ

正徹

> 見しやいつ 咲き散る花の 春の夢 覚むるともなく 夏はきにけり

なかなか巧んだ歌である。
「春の夢覚むるともなく夏はきにけり」
まさに今の季節をうまく言い表しているなあと思う。
「見しやいつ」
もなかなか斬新な言い回しだなと思って検索してみると、
どうも明日香雅経が最初らしい。

> あきはただ かれぬるかさは みちしばの しばしのあとと みしやいつまで

「かれぬるかさは」は「枯れぬる風葉」で合っているだろうか。

初句切れで反語または疑問というのは小野篁以来よく使われる形だが、
「見しやいつ」は「冬の御歌の中に」後伏見院御製

> みしやいつぞ とよのあかりの そのかみも おもかげとほき くものうへのつき

が最初か。
典型的な京極派だよね?
後伏見院が京極派かどうか明記されてはいないが、
父の伏見院も弟の花園院も京極派だから当然京極派だわな。
字余りだがちゃんと母音の連続という規則で回避しているのが見事といえば言える。

正徹にはもう一つあり、

> 見しやいつ 心とけつる うづみびに 春のねぶりの 冬の夜の夢

こちらはあまりに狙いすぎてていやみだなあ。
ていうか正徹が京極派をまねているというのが、不思議な気もするし、
全然当たり前な気もする。

> 秋の風 立てるやいづこ みそぎせし 昨日も涼し 四方の川浪

「立てるやいづこ」これも同工異曲か。

> 春霞 たてるやいづこ みよしのの よしのの山に 雪はふりつつ

古今集詠み人知らずの歌。
うーん。
正徹よく勉強して、本歌取りしてる感じだわな。
そこらへんは定家に近い。

一休は正徹の弟子で、正徹物語下巻「清巌茶話」は一休が正徹の言葉を聞き書きしたというがほんとかね。
正徹物語を読む限り正徹がかなりの変人で乱暴者であったのは間違いないのだが、
このころの臨済宗の僧というのはみんなそんな感じであったろうか。

釣月耕雲と禁葷食

相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、
それでいろいろ人とも話をしてみて、
果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、
もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。

道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。
一休も、また、済顛も肉を食べた。
道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。
我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。
しかし、当時中国でも日本でも、
僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。

どうも[禁葷食](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E8%91%B7%E9%A3%9F)
など読むと、
中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。
というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、
中国の神仙思想から来ているように思えるからである。
カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。

宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。
日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。
インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、
独自の中国仏教というものが出来てきた。
私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが
(寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、
あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、
中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。
ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、
仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、
その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、
そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、
道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。
日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。
そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、
今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。
曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。
日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、
むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。

原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、
インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、
仏教は中庸を唱えた。

ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。
そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。
「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、
「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、
「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、
済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと
「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。

そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。
道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。
そう思って読むと、
「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。
「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。

済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。

でまあ、私のブログで良く読まれているのが
臨済関連の「裏柳生口伝」と
済顛関連の「山居」
なのは単なる偶然ではないのかもしれん。
誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。
最近中国語のスパム多いし)。
ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、
ついでに宣伝しておく。

ところで臨済という人は、
というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、
それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。
警策自体は江戸時代以来らしいが、
それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。
そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。

皇室は日本の役に立たない

[石原慎太郎、衝撃発言「皇室は日本の役に立たない」「皇居にお辞儀するのはバカ」](http://biz-journal.jp/2014/03/post_4279.html)
によれば、石原慎太郎が

> 皇室は無責任極まるものだし、日本になんの役にも立たなかった。

> 石原氏は戦時中、父親から「天皇陛下がいるから皇居に向かって頭を下げろ」と言われた際、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね」と語っている。

などと発言しているそうだが、
特に驚くに当たらない。
全然衝撃ではない。
むしろ日本の歴史をきちんと学んだ結果だと思う。
政治家は歴史を知り、冷徹でなくてはならないが、
石原慎太郎はそのうえに正直だというだけだ。

私もつい最近
[皇族をなぜ敬わなくてはならないのか、 なぜ敬わなくてもよいのかという問題は、 自明ではない。](/?p=16146)
と書いたばかりだった。
無批判に皇室を敬うのは左翼に利するだけだ。

幕末維新で天皇が必要とされたのは、日本が分権社会で、
藩がばらばらに人民を治めていたからだが、
同じことはイタリアとドイツにも言えた。
小国が分立していてイギリスやフランス、オーストリア、ロシアなどの大国に対して不利。
産業革命が有効に機能するには大きな国内市場と強力な中央政府が必要で、
そのためにはイタリア人はイタリアという国を、
ドイツ人はドイツという国民国家を必要とした。
国家統一のためイタリア王、ドイツ王というものを必要とした。
イタリアもドイツも日本より先に国民国家に移行していた。
小国分裂状態だった日本がイタリアやドイツをまねしたのは当たり前であり、
その際日本人全体の君主として天皇が必要だった。

しかしながら今やイタリア王もドイツ王もいない。
近代国家の君主としてのイタリア王やドイツ王は、もはや必要では無く、
共和国になればそれで足りるからである。

イタリア王といってももとをたどればサヴォイア公であり、ドイツ王といってもプロイセン公兼ブランデンブルク辺境伯である。
ヨーロッパの一諸侯に過ぎない。イタリア全土、ドイツ全土に君臨していたわけではない。
そこが天皇とは違う。
近代君主としての役割を終えた今、天皇はどうあるべきかということになるが、
その答えはやはり自明ではない。
石原慎太郎やホリエモンのようにもう要らないとは私は考えたくない。

漫画貧乏

佐藤秀峰「漫画貧乏」はキンドル版ならば無料で読めるのだが、
例によって
[漫画 on Web](http://mangaonweb.com/)の広報的なものであり、漫画 on Webでも無料で読めるものである。

前半部分の漫画はすでにどこかで読んだことがあった。
後半の文章はかなり長いが一応読んでみた。

NHKのアナウンサーも最初はNHKというショバでNHKという看板を背負って、
認知度を上げていく。
売れっ子になればNHKを辞めてフリーランスになるわけだが、
そこには何らかの「仁義」「年季奉公」的な制度があるのだろう。
プロ野球選手もそうだ。
フリーになるのは何かやりかたがあるようでないようで、
興味がないので詳しく調べようとも思わないが、
何か円満退社するだんどりというものがあるのだろう。

私の知る限りアニメのプロダクションなどは、最初は正社員もしくは正社員に近い待遇だが、
正社員のままではいつまでも給料は上がらない。
契約社員になっていくつかのプロダクションを掛け持ちした方が儲かるということになり、
さらにはフリーランスになったり起業したりして、
人や金を使う側に回るとやっと飯を食い家を建て家族を養えるようになるそうだ。
デザイン事務所も個人経営の小さなところが多い。

アニメもデザインもだいたいは美大出の仕事であり、
美大出身の人間しかいない業界はこんなふうになりがちである。
佐藤秀峰も武蔵美の出だわな。
だが、新聞業界や出版業界は違う。
一流大学出のエリートが牛耳っている。
政治家になろうか実業家になろうかという同輩がうようよいるなかで、
たまたま文学が好きで、
出版業界に入ってくる。
だが漫画家はそうではない。たいてい学歴は無い。
漫画家はアイドルタレントに似ている。
本人に実力があるかどうかは大した問題ではない。
ある種の愛嬌と個性があればそれでいい。
業界に取り込まれて、がんじがらめにされて、
足抜けできなくされる。
同じクリエイティブな職種でも、
そこがアニメーターやデザイナーとは根本的に違うところだ。

アニメーターの劣悪な労働環境を考えるとどちらが良いとも言えない。
どちらも悪いとしかいいようがないが、
ともかく、
佐藤秀峰はそういう地雷をどんどん踏みつけていった。
彼は学閥エリートの社会と、
美大という自由な世界のちょうど中間点にいた。
でまあ、この漫画貧乏を読んでいると、
出版業には、出版業界にはやはり関わらぬ方がよいと思う。
他人に恩を売るのも売られるのもまっぴらごめんだ。

作品そのものより名前を売りたいとか名を残したいというのならともかく、
クリエイティブな仕事をしていればよいというだけなら、
どこかの小さなデザイン事務所でちらしや名刺のデザインしてたほうがましだろう。

漫画 on Webは偉大な試みだったがたぶんそんなには売れないだろう。
彼はいろんな新人漫画家の参加を期待していたようだが、
そんなに良い人材はうまく集まってこない。
けっきょく佐藤秀峰一人のウェブサイトになってしまい、
それ以上に広がらない。
[電脳マヴォ](http://mavo.takekuma.jp/)のほうがまだましかもしれない。
竹熊健太郎は佐藤秀峰のやり方を良く観察してあのようなサイトを立ち上げた。
良い新人が集まっているかどうかわからんが、
少なくとも多様性はある。

キンドルの良いところは個人作家の多様性があることだと思う。
誰でも小説を書いて出版することができる。
大半はつまらんが中には良いものが含まれる可能性がある。
出版社や編集者にいじられることなく。
意外性や偶発性がある。
もちろん胴元のアマゾンの意向には逆らえないが。

佐藤秀峰のデビュー前の作品は絵は下手くそだが、それなりにストーリーは面白い。
もしブラよろでブレイクしなければ、
ああいう地味でアシスタントも使えない下手な絵の面白い漫画をこつこつ書き続ける、
味のある貧乏漫画家になったのではなかろうか。

他人の力を借りようとすればたかられる。
他人とつるもうとすれば身動きとれなくなる。
そういうことはできるだけしないつもりでいる。

男系女系

女帝は奈良時代に圧倒的に多く、
平安遷都してからはしばらく途絶えて、
その次は江戸時代の明正天皇まで時代をくだらなくてはならない。
後水尾天皇が春日局と家光に腹を立ててむりやり明正天皇に譲位したのだから、
やはりかなりイレギュラーな即位だった。

私は思うのだが、
歴史に残ってないだけで、実は推古天皇より昔にもたくさん女帝はいたのではないか。
天照大神から推古天皇の間に一人の女帝もいないと考えるほうが不自然ではないか。
推古天皇より前の皇統というものはそれだけ不確かなものなのだ。
あ、そういえば神功皇后がいたな。
彼女もまた女帝だったはずだ。

天皇はやっぱ男子でしょ、
という話はやはり平安遷都をきっかけにして固定したのだと思う。
桓武天皇がどんな人だったかよくわからないが、
嵯峨天皇ならばよくわかる。
漢風。唐風。これに尽きる。
万事中国の制度に倣って中央集権な国家にする。
女帝なんてありえない。
則天武后の一件がやはり日本の皇位継承ルールにも影響を与えただろう。

女系男系という話も実は持統天皇より以前にはほとんど意識されてなくて、
天皇には男がなっても女がなっても良いとされた時代があって、
それが今から見ると男系に見えるとか、
男系に見えるように皇統が改竄されたとしたほうがすっきりする。

それでまあなぜ男系ということになったかというとそれは全然天皇家古来の家訓というのではなしに、
藤原氏の都合であっただろう。

女帝の息子でも天皇になれるというのでは、
皇統はどんどん分岐していってコントロールがきかない。
一つの有力な貴族だけが天皇の外戚となって皇統をコントロールできる仕組み、
それが男系なのである。
その仕組みは平清盛にも崩せなかった。
清盛は藤原氏がそうしてきたように、
娘を入内させてその皇子が即位するのを待つしかなかった。
しかし清盛の死後、平家は滅亡した。
藤原氏はたくさん皇族の親戚がいて存続した。
ある意味この仕組みは昭和天皇まで残ったのである。

皇統とか皇位継承のルールというものは天皇家主体ではなく、藤原氏、北条氏、
足利氏、徳川氏などの時の実力者の恣意によって決められてきた、
天皇主体の時代にはむしろ皇統というものは案外好い加減だった、
ということは先に[皇統の正統性](/?p=15983)に書いたとおりである。

今の女系男系議論は、そもそもなぜ天皇家は男系となったのか、
という前提にまったく基づいてない。
万世一系天皇家は男系だったから、というほとんど根拠の無い理屈。
或いは持統天皇や推古天皇、舒明天皇などのあまりにも古い時代の例を挙げて、
男系ならば女帝でもいいじゃないかと言う。、
或いは女権論者が欧州の王位継承ルールの話を持ち込んできたりする。
論理的にプアな右翼と同じくらい論理的にプアな左翼が子供の喧嘩をしてる感じだ。

男系でも女系でも実はどっちでもよい。
おそらく考古学的学術的に精査すればそういう結論になるのに違いない。
しかし中世や近世、近代の事例を尊重するならば、
皇位継承のルールをいきなり書き換えようとすれば天下大乱となってきたことを念頭に置くべきだ。

今ホリエモンが皇太子がどうしたという話も実にナンセンスで、
ホリエモンはただのリベラルだがそこにかみついてくる連中の論理がお粗末だ。
リベラルにはリベラルの論理武装というものがあるから、
単に感情的に反論してもなんの意味も無い。
いつかどこかでみたような議論が蒸し返されるだけで何の価値も無い。

歴史的に言えば臣下に殺害された皇子はたくさんいる。
以仁王がそうだし、
護良親王もそうだ。
安徳天皇は違うかもしれない。
皇太子で殺された例はなかったかもしれない。
皇族をなぜ敬わなくてはならないのか、
なぜ敬わなくてもよいのかという問題は、
自明ではない。
皇室を敬うべきであるという論拠は、
皇統が割れて、
皇子らがどんどん戦争に巻き込まれて行き、
どんどん殺されていった南北朝の事例にこそあるのだが、
誰もそこを論点にしようとしない。
護良親王なんてすごく面白い人なのにまるで人気が無い。
おかげで鎌倉宮も参拝客や観光客集めに必死だ。
やはり私が「剣豪親王護良」とかいう小説を書いてみせなきゃダメか。
いやそれでもまだ全然ダメだな。
読者がいないことには。

ああいうことをもう一度繰り返さなくて済むという意味では、あの歴史は実に貴重である。
天皇家の歴史というのはおおむね連続的にきちんと残っているのだから、
すべては歴史に記されていて、
それをまっとうに解釈すれば済むだけなのだが、
そんな議論はめったに見かけない。

深む2

昨日書いたことは少し自信がなくなったので、非公開にした。
改めて書いてみる。

[「秋深む」を認めるかどうか](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11876310023.html)

「深む」だが、口語では自動詞の場合「深まる」であり、他動詞だと「深める」である。
文語だと他動詞下二段「深む」はあるが、自動詞の「深む」は存在しない。

ただ、文語にも自動詞で「青む」とか「赤む」、「白む」、「黒む」などはある。
このように青、赤、白、黒などのク活用の形容詞となり得る語幹に
「む」がついて自動詞となる例は多い。

従って「深し」に対して四段「深む」があってもおかしくないということになる。
秋深まず、秋深みたり、秋深む、秋深むとき、秋深めば、秋深め。
一応活用してみせることもできる。

要するに、問題は、すでに口語の「深まる」があって、
それに対する文語が存在しないので、「深む」を造語して良いかどうかということだ。
現代の言語に合わせて古語や文語を改変するというのは国学的にはあり得ないことだが、
そうすると、
古語で「深まる」を表現するには「深くなる」と言う以外ない。

ただ、「秋が深まる」ということを古語では普通は
「秋たけゆく」とか「秋たけぬる」のように「たく」を使うのであり、
「秋」を「深まる」と表現するのもまた近世的なのである。
おそらく近世「たく」がすたれてしまったので代わりに「深まる」が使われるようになった。

「深み」という名詞はすでに平安時代にはあったらしいので、
これに対応する「深む」という動詞があってなぜいけないのか、
そもそもなぜ「深まる」なのか。
なぜ「青まる」「赤まる」ではないのかという話になる。

似た例で思いつくのは「暖める」と「暖まる」だが、古語では
「暖む」と「暖まる」であって、自動詞四段「暖む」は存在しない。

「高める」「高まる」あるいは「強める」「強まる」、
「広める」「広まる」などもそうか。
これらは要は自動詞と他動詞を明確に区別しようとする近世語の傾向なのかもしれん。
これらを自動詞で「高む」「強む」「広む」ではやはり何か変だ。
現代俳句では遠慮なく使うのかもしれんが。

「休まる」「休む」のように、自動詞に二種類あるものもある。
他動詞の「休める」とともに、昔からある言葉だ。
ということは、「深まる」も用例が残ってないだけで昔から使われていたのかもしれん。

松尾芭蕉の

> 荒海や佐渡に横たふ天の川

もやはり同じ部類の問題であるかもしれない。
「横たはる」という古語は存在する。
自動詞の「横たふ」は存在しない。
もし存在するなら、
四段に「横たはず」「横たひたり」「横たふ」「横たふとき」「横たへば」「横たへ」と活用せねばなるまい。
「横たふ」と「横たはる」の関係は「休む」と「休まる」の関係と同じであろう。

ますますもってよくわからない。
ただ大胆に仮定してみると、
「横たはる」「休まる」などは「あり」との合成語で本来ラ変であったかもしれんね。
そうでないとしても何か規則性は感じられる。

俳句は主に名詞と助詞でできているが、
和歌は動詞や形容詞、助動詞でできている。
俳句は体言に「てにをは」つけて適当に配置すれば足る。
和歌は、用言をさまざまに活用させ屈折させることによって複雑な心理を表現する。
故に和歌で活用がおかしいのは非常に奇妙な感じがするが、
俳句ではあまり気にならない(気にしない)のだと思う。
さらに俳句では季語を入れなきゃならないという規則があるわけだが、
「秋深む」は季語だよと歳時記なんかに採録されてしまい、
いろんな人が使っているのに慣れてしまった日にはなぜいけないということになってしまう。
俳句とか季語というものは、他人の趣味にケチをつけるようでなんだが、
素人がよってたかっておかしなことをやらかす。
いわば大衆化した文芸で、二次創作の一種だが、
次々に変な文語や季語を作り出して言語感覚を狂わせてしまう。
それもこれも始祖の芭蕉が変なお墨付きを与えてしまったからだ。

私とはまったくスタンス違うわけだからぐちぐち文句言わずほっとけばいいんだが。

京都巡り

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、
寺では鐘楼を、
神社では舞殿を撮るようにしている。
鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、
舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

[鐘](/?p=12653)については以前も書いた。
上の写真は相国寺の鐘楼だ。
相国寺の近所に一泊した。
特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。
相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、
たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。
なかなか一般人が見る機会はないと思うが、
舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。
というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、
拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。
薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。
石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、
これも以前[舞殿](/?p=12046)というのに書いた。
なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、
鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、
四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。
それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、
人にとっては神の表象である。
神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。
後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。
上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、
社殿ができたのはずっと後のことである。
といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。
結界に入って神に対面する人は当然貴人である。
貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。
そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。
本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。
舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。
我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。
本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。
社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。
いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。
将軍放浪記冒頭、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。
それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。
しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。
面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、
京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、
北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。
ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、
神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、
いったいどういうわけなのだろうか。
そういや京都御苑もルートから外れているわな。
あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。
今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、
あんなひどいところはない。
五条からの参道は狭くて車が多いし、
建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。
見た目が京都っぽいってことだろうか。
京都七不思議の一つにすべきだ。
上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、
逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。
実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、
京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、
教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。
しかし建物はよかった。
義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。
たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、
やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、
「西行秘伝」を書いたので見に行った。
法住寺。
すごいなこれは。
清盛が後白河に建ててやったものだが、
京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。
他に何かあっただろうか。
まったく思いつかない。
後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、
ここで矢通しをしたわけだ。
不思議なことをしたものである。
西行の時代に通し矢があったかどうか。
たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、
ランチだったが、ずいぶん散財した。
よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。
牛肉を食うのは横浜が先だし、
それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。
だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。
上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、
なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。
両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。
そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。
いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、
鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、
めずらしくて撮影した。
鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。
鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。
河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。