亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

07.31.2017 · Posted in ドイツ語

Wo den Frühling Festgesänge würzten,

Wo die Ströme der Begeisterung

Von Minervens heilgem Berge stürzten –

Der Beschützerin zur Huldigung –

Wo in tausend süßen Dichterstunden,

Wie ein Göttertraum, das Alter schwand,

Hätt’ ich da, Geliebter! dich gefunden,

Wie vor Jahren dieses Herz dich fand,

そこは、祭りの歌が春に味付けし、

そこは、感激の奔流が、

ミネルヴァの聖なる山から

女神たちに敬意を表して流れ落ちる。

そこは、悠久の時間の中で、甘い言葉を紡ぐ詩人たちが、

神々がつかの間の夢を見ている間に、年老いて死んでいった。

私はそこで、愛する人よ、あなたを見つけたい。

何年も前に、この心があなたを見つけたように。

うーん。 ミネルヴァはローマの女神なのだが。 ギリシャの女神に直しようがない。 どうしようもないな。

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07.31.2017 · Posted in ドイツ語

Hätt’ ich dich im Schatten der Platanen,

Wo durch Blumen der Cephissus rann,

Wo die Jünglinge sich Ruhm ersannen,

Wo die Herzen Sokrates gewann,

Wo Aspasia durch Myrten wallte,

Wo der brüderlichen Freude Ruf

Aus der lärmenden Agora schallte,

Wo mein Plato Paradiese schuf,

私はあなたとプラタナスの木陰に憩いたい

そこは、アテナイの花園の中をケーフィソス川が流れ、

そこは、若者らが名誉を得ようと瞑想し、

そこは、ソクラテスの心が魅了し、

そこは、ペリクレスの愛妾アスパシアがミュルテの木立の中を逍遙し、

そこは、兄弟らの親しげな声が

賑やかなアゴラから響き、

そこは、私のプラトンが地上の楽園を創りあげたところ。

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Griechenland — Friedrich Hölderlin

07.31.2017 · Posted in ドイツ語

Ach! es hätt’ in jenen bessern Tagen

Nicht umsonst so brüderlich und groß

Für das Volk dein liebend Herz geschlagen,

Dem so gern der Freude Zähre floß! –

Harre nun! sie kommt gewiß, die Stunde,

Die das Göttliche vom Staube trennt –

Stirb! du suchst auf diesem Erdenrunde,

Edler Geist! umsonst dein Element

ああ!かのよりよき日々ならば、

雄々しく大いなることも無意味ではなかった

おまえの愛する心は高鳴る、かの民族のためならば、

歓喜の涙はいくらでも流れ得た –

今はただ待ち焦がれよ!必ず時は巡り来る、

運命が切り離す、土くれから神なるものを –

死ね!おまえはこの地上を探し求める、

気高き魂を!むなしき、おまえの一部を

シュピリを惰性で訳しているうちにふとヘルダーリンを訳したくなった。 シュピリはもう訳してもしょうがないかもしれない。もはやたいしたものは出てこないように思える。 シュピリを訳しているうちにだいぶドイツ語訳にも慣れてきた。 もっと面白いもの、意義のあるものを訳してみたい。

「運命が」は完全な意訳。 「その時が」を繰り返したくなかったのと、韻をちゃんと踏みたかったから。

伊藤静雄はヘルダーリンをドイツ語原文で読んで、あのような初期の詩を作ったという。 それでヘルダーリンの詩の訳というものは、そんなに良いものはないように思う。 例えば川村二郎訳の岩波文庫版で上の箇所は

ああ! あのよりよい日々になら

愛にみちた君の心は 民のために

どれほど大らかに親密を脈うったとしても 空しくはなかった

あの日々ならば 君の心は歓喜の涙を思うさまながしただろうに!――

待つがよい! いずれは刻がおとずれよう

神的な力を 牢から解きはなつ刻が――

死ぬがよい! 高貴な精神よ! この地上では

君の住まう場を求めても 所詮甲斐ないのだ

と訳されているらしいのだが、あまり上手な訳とは思えない。

この「ギリシャ」という詩は1793年、ヘルダーリンが23才のときの作らしい。 比較的きちんと韻を踏んで作られた真面目な詩のように思える。 たとえば die Stunde と Erdenstunde、trennt と Element が韻を踏んでいる。 だから私も少し律儀に訳してみた。 このリズムを訳さなくては面白さは失われるだろうし、 川村二郎訳では、原文の意味が忠実に伝わってくるとはとても思えない。

これはギリシャ独立戦争に熱狂するヨーロッパ人の気持ちを表した詩だ。 「待つがよい! いずれは刻がおとずれよう 神的な力を 牢から解きはなつ刻が」 これは明らかにその時代背景をわかった上で訳しているのだが、あまりにも説明的で結果論的だ。

このように気狂いしたような若者の詩を、 神聖ローマ帝国的な中世の沈滞の中にその青春時代を生きたゲーテやシラーが、好むはずもなかった。 同じ理由でニーチェがヘルダーリンの影響を受けたのは当然だったと言える。

1793年、フランス革命は勃発していたがナポレオンはまだ大尉。イタリア方面司令官にすらなっていない。 ギリシャ独立運動も、まだかげもかたちもなかった。 ヘルダーリンはまさに時代の先駆者だったのである。

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ギリシャ古典

07.28.2017 · Posted in 歴史

『エウメネス』なんぞを書き始めて、エウメネスという人はよくわからない人なのだが、 とりあえずアリストテレスの下で学んだ学徒であったから、アレクサンドロスの遠征に秘書官として従軍した、という設定にしてみた。

それでアリストテレスを調べてみると、この人はどうも変な人で、お父さんはニコマコス、子供もニコマコス。 自分を飛ばしてお父さんの名を子に付けることは無いとはいえない(たとえばアンティオコス→セレウコス→アンティオコス)、 しかし三代同じ名前というのは普通だ。 たまたま違う名前に入れ替わって見えるのは兄弟がいたりするからだ。

でまあ、アリストテレスという名は後世の人がつけた(すげえかっちょいい)あだ名であって、本来はニコマコスという名前であった可能性が極めて高い。

そしてアリストテレスはたしかに学者であって、博物学者のようなことは(あちこち放浪しながら)多少やったようだし、 「ニコマコス倫理学」は本人が書いたものである(あるいは息子の口述筆記)のは間違いあるまいが、 しかし、リュケイオンの講義をまとめたのがアリストテレス全集だというのはまあ絶対嘘だ。

アリストテレスが有名なのは、彼がアレクサンドロスの家庭教師で、アレクサンドロスがヘレニズム世界を作って、 そのヘレニズム世界の学者らが、アリストテレスという偶像を必要としたのにすぎない。 そしてヘレニズム世界の学者がみなギリシャ人であったわけでもない。 ペルシャ人やエジプト人のほうが多かったはずだが、残された文献がギリシャ語で書かれているので、 なんとなくギリシャ人だと思っているだけだ。

それでヘレニズムは東ローマが継承したわけだが、オスマン帝国が東ローマを滅ぼして、 オスマン帝国がヘレニズムを継承することになったわけだが、 こんどは西洋がオスマン帝国をぶん殴り始めて、ギリシャを独立させ、ギリシャ王国を作って、 ヨーロッパのルーツはギリシャだとか言い出して、 ニーチェみたいなオカルト的思想が流行した。 まあ、ニーチェにしてみればギリシャだろうとペルシャだろうとよかったわけだが、いずれにしても、当時のヘレニズムというものは近世のキリスト教が生み出した虚構にすぎない。 それが虚構であって、本来のギリシャ古典とはなにかということを、 近現代のオックスフォードとかの学者たちはけんめいに復元しようとしている。 しかしオックスフォードが生み出した膨大な近代古典とか、ニーチェなどの近代哲学のために、 あとは、それらを教義に取り込んでしまったキリスト教のために、なかなか元のギリシャ古典が世の中に知られることはない。

ヨーロッパの後追いをしているだけの(しかも五周遅れくらいで!)日本ではいまなお近代ヨーロッパにおけるギリシャ感がそのまま残っており、その虚像をぶっ壊そうと考えている学者もいなければ、オックスフォードの英訳に頼らず、ギリシャ語をそのまま読んで、本意をつかもうという学者もいなさそうだ。 もちろんごくまれにプラトンを原語で読むとかいうのを自分の研究にしている人もいるようだけど。

プラトンは生粋のギリシャ人ではなくて、ギリシャ人の中でもかなり異邦人に近いシチリア人であったはずだ。 彼はソクラテスの弟子の一人だったというにすぎない。 そしてアリストテレスの師匠に収まったおかげで有名になったのである。

私たちが古代ギリシャにシンパシーを感じるとしたらそれは単に近代ヨーロッパの幻想に踊らされているだけなのだ。 イスラム教徒が描いたヘレニズムに共感を覚える日本人は少ないだろ? アレクサンドロスをイスカンダルと呼んだり、マレーシア国王がイスタンダル・シャーを名乗ったりすると違和感を感じるだろ。

それでまあ、せっかくなので、この際徹底的に調べ上げて、『エウメネス』の続編の中で、ヘレニズムの実態を暴いて、見せつけてやりたいと思ったりしているのだが、 しかしギリシャ語は難しい。

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やまと

07.06.2017 · Posted in 雑感

ヤマトという言葉なのだが、 ヤはおそらく八洲や八百万と同じく「八」(たくさんの)という意味だろうと思う。 トは水戸や江戸や瀬戸と同じく「戸」、つまり入り江という意味だろうと思う。 ではマは何かといえば「まほろば」の「ま」であるかもしれない。 だから漢字表記すれば「八真戸」となるか。

ともかく「八」と「戸」は間違いないように思える。 「山」とはたぶん関係ない。 ヤマトという名は「大和」という内陸部に都ができるようになるずっと以前の名前であろう、 海と関係のある名前であろうと思う。

でまあ、ヤ・アマトがつながってヤマトになったのではなかろうかとも思える。 アマトとはつまりアマノイハト(天の岩戸)のことだ。

天の岩戸というのは、具体的には、岩礁にうがたれた岩窟のようなものではないか。 天の岩屋戸、天の岩屋、天の岩船みな同じ。 宗像神社の奥津宮(沖ノ島)のようなものを考えても良い。

アマトと母音で始まるとおさまりが悪いのでヤ・アマト、ヤマトとなったのではないか。 東シナ海から瀬戸内海に続く多島海のことをヤマトと言っていたような気がする。 つまり、ヤマトと八洲はだいたい同じ意味なんじゃないかとおもう。

あと、ヤマタのおろちのヤマタとヤマトの関連性は疑ってみてよいとおもう。 ヤマタは単に山田かもしれんが。

邪馬台国はヤマト国であり、北九州地方にあったと考えるのが自然だ。

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07.06.2017 · Posted in

夜熟睡できてないのが一番の原因ではないかと思うが、起きていて頭が重いというか血が頭に回ってこない感じの時間帯がある。

これはもう寝るしかない。 しばらく寝ていれば直る。

最悪なのは、電車の中で立っているときにこういう状態になることだ。

心臓の病気、飲んでいる薬のせいもあるかもしれないが年相応に身体にガタが来ているのだろうと思う。 とにかく養生第一。

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06.17.2017 · Posted in 雑感

文科省が読解力を問う国語入試を導入しようとしていて、たとえばこれまでは、 小林秀雄の悪文を一部切り取ってきて、そのどうしようもなく論理的に破綻した文章を読ませておいて、 その設問に対して間違いから一番遠いものを選べとか、 最もあり得なさそうなものを選べとか、そういう馬鹿げた問題だった。 ただしこのような問題は官僚や弁護士の事務処理能力を問う問題としてはある程度有効だっただろう。 法律の条文と照らして正しいのかただしくないのか。 多くの場合正しいと一意には決まらないから、もっとも正しそうなものを選ぶ、より正しく無さそうなものをより分けるという作業が必要になる。 実にくだらない。 おかげでくだらない文系人間を大量生産することになった。

漢文の問題もひどかった。 どれが正しい読み下しかを問う問題があって、 明らかに間違っているものもあるが、間違いとは言えないものが複数あり、 素直に考えれば正解と思われるものは間違いであり、 間違いとは言い切れないものが正解であったりする。 その根拠というのは、作問中の他の部分の読み下し方に統一するならば、そのように読み下さなければならないから、だというのだ。 漢文の基礎をきっちり学んできた者がひっかかり、 漢文についてろくに知らなくても、設問の全体の雰囲気で一番確からしそうなものを選ぶ者が得をする。まさにセンター試験的な悪問だ。 これでは、整合性のある読み下しをすることが漢文教育にとって重要だということになってしまう。 まったく馬鹿げている。

こんな問題をずっと作り続けて、よくこれまで訴訟にならなかったものだ。

新しい問題は、複数の異なる資料(図、パンフレット、討議など)の組み合わせを提示して、 そこから何らかの意見を記述させるという手の込んだものであって、 「小林秀雄問題」 とは対極にある。 いわば企画立案タイプの出題だ。

まあせいぜいラノベとかBLとか村上春樹くらいしか売れないこの嫌な時代を矯正してもらいたいものだ。

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06.17.2017 · Posted in 雑感

「……田舎の県警なら昭和の任侠映画さながらにやくざと警察の泥仕合みたいな捕り物やってるじゃん、でも、東京のど真ん中じゃあもうそんな刃傷沙汰は廃れちまった。都下じゃ町田辺りでまだやってるがね。ほとんどは水面下の情報戦。僕らが「マルサの女」や「名探偵コナン」なんか見て喜んでるうちに、日本の反社会勢力は外国勢力と混血しつつ進化した。犯罪統計みてりゃ一目瞭然さ。殺人などの凶悪犯罪は激減した。しかし知能犯罪は増え続け、国際化し、ステルス化した。

で、佐々井は、我々がその名も知らぬシンジケートから、我々の知らないルートをたどって、報酬を得てるんだろうって推測できるわけ。」

「でも、それがほんとだとしたら、佐々井が得ている利益は国税局では把握できない。」

「そうなんだよ。みんなでわーっと踏み込んで、マルサ手帳と捜査令状見せて、でかいハサミでドアのチェーン切って、あちこちで一斉に家宅捜査して裏帳簿を押さえ、段ボール箱に詰めてトラックで押収とか、そんな時代がかったやり方は通用しないんだ、今の時代。テレビ局はいまだに国税局の強制捜査っていうと、そんな絵を撮りたがるがね。

これは『マリナ』に書いたことなのだが、 共謀罪に反対しているのは、かつて全共闘とか中核派とかで暴れていた連中だと思うのだが、 そういう連中の頭の中は昔の学生運動の時代から何も変わっていないのだろう。 そして週刊誌で広域暴力団のドンパチの話なんかを読み、飲み屋のテレビ見ながら政治談義しておもしろがっているのだ。

推理小説、探偵小説、ミステリー、サスペンスなんかも多くはそういう古典的時代設定にとどまっている。 まったくいつまでも大岡裁きじゃあるまいし。

『マリナ』は推理小説という形をとった推理小説批判でもあるのだ。 というか、最初に死体が出てこないこの小説を推理小説だと思う人はあるまい。 死体は最後にちょっとだけ出るのだが、最後まで死人が出ない小説を世間では「推理小説」とは思わないだろう。

現代のマイナンバー時代、共謀罪時代に即して推理小説を書こうというのであれば、 推理小説というもの自体がまるきり変わってくる。 ステルス化した名も無い国際シンジケートと闘わなきゃならないんだから警察もたいへんだよ。

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ベルツの日記

06.03.2017 · Posted in 雑感

岩波文庫の菅沼竜太郎訳のベルツの日記は、ドイツ語原文の匂いがまったくしない。 おそらくこれは1974年に出た英訳をもとに、和訳したものだろう。

Baelz, Erwin. Awakening Japan: The Diary of a German Doctor. Indiana University Press (1974). Translated by Eden and Cedar Paul. ISBN 0-253-31090-3.

1931年にシュトゥットガルトでドイツ語初版が出版されたらしいのだが、 それはかなりの部分が省略されたものであったらしい。 では欠落のない、ドイツ語の完全版はどこで手に入るのかというと、そんなものは実はどこにも存在しないのかもしれない。

追記。 岩波文庫版は1951年と1979年に出ている。

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05.23.2017 · Posted in 雑感

まあ、あの、特別報告者の言っていることは、 法律家だけあって、自分が国連から委任された範囲ぎりぎりで、 ごく当たり前のことを言っている。

共謀罪にプライバシーを侵害するおそれがあることなど、誰にでもわかることだ。 テロの捜査がプライバシーを侵害するのはむしろ当たり前ではないか。 プライバシーを侵害せずにテロを捜査できるとでもいうのか。 アメリカだろうとどこの国でもやっていることだ。 プライバシーを犠牲にしてでもテロを防ごうという趣旨で法律を作ってるわけではないのか。

だからこそこれは巧妙な嫌がらせなのであって、菅官房長官も外務省も怒っているのだ。 怒らずほっとけばよかったのだ。 まあ相手にするなら「プライバシーを侵害する可能性がまったく無いわけではないが、総合的に判断して必要で妥当だ」とか適当に答えておけばよかった。

たった一人の「国連のほうから来た人」の書簡が、法案採決の前日に来てマスメディアがここぞとばかりに取り上げる。 当然、野党が特別報告者とやらに煽らせているのだ。 やいやい騒いでいる政党やメディアの顔ぶれを見れば瞭然だ。 国連という肩書きを使った嫌がらせ以外のなにものでもない。 国連を政争の具にするのは賢明ではないと思うが。

オリンピックのせいで法案成立を急いでるんだろ。 オリンピックなんてやらなきゃいいんだよ。 国連とかオリンピックとかそんなものに振り回されなきゃいいだけのことだ。

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