建暦3年は12月5日まで、翌日改元して、建保1年12月6日となる。
建保1年12月6日はユリウス暦で1214年1月18日。
つまり建暦3年は西暦でいうと1213年と1214年をまたいでいる。
1214年は、建暦3年でもあり、建保1年でもある。
問題は、建保2年1月1日が1214年2月12日なので、
1214年は建暦3年でもあり、建保1年でもあり、建保2年でもあるのである。
ややこしい!
建保1年は、1214年1月18日から1214年2月11日まで。
建暦3年は12月5日まで、翌日改元して、建保1年12月6日となる。
建保1年12月6日はユリウス暦で1214年1月18日。
つまり建暦3年は西暦でいうと1213年と1214年をまたいでいる。
1214年は、建暦3年でもあり、建保1年でもある。
問題は、建保2年1月1日が1214年2月12日なので、
1214年は建暦3年でもあり、建保1年でもあり、建保2年でもあるのである。
ややこしい!
建保1年は、1214年1月18日から1214年2月11日まで。
世の中には文系も理系も得意な人と、文系も理系も不得意な人しかいないのだが、
特に英語が嫌いな人が理系へ行き、
特に数学が嫌いな人が文系へ行く。
国語が文系理系問わず嫌われないのは単に学ばなくてもそれなりの点がとれてしまうからだ。
子供が多くて学校が少ない時代はそれでもよかったが、少子化で教員も余ると、
文系しかできない理系しかできないというような教員は害悪であり、
また本人もそれに気付いているからなおさら古い体制にしがみつこうと必死になる。
高校の段階で理系文系と分けるのは時代にあわない。
ドイツやフランスなどでやっているように、大学で高等教育を受けるか、
さもなくば職業訓練学校に行くのかを高校で選別すればよい。
文系理系などの専門に分かれるのは大学に入ってからでよく、場合によっては大学院に入ってからでよい。
学位は全部Ph.Dに統一してもよい。
そうしないと、文系も理系も出来る人の居場所が確保できない。
そして、文系も理系も教えられる教員だけを残して、
場合によって数学を教えたり、場合によって語学を教えたりすれば良いだけだ。
日本の文部省は高校に文系コース理系コースを残しながら、
学位だけ博士に揃えようとした。
抵抗が強いので博士(理学)とか博士(文学)などという珍妙な呼称を押しつけてきた。
気違いだ。
歌論集 : 俊頼髄脳, 古来風躰抄, 近代秀歌, 詠歌大概, 毎月抄, 国歌八論, 歌意考, 新学異見 新編日本古典文学全集 (87)
非常に良くできた本だ。
密度が濃い。
原文と、解説と、ほぼ完全な現代語訳がついている。
原文にかぶせた註が茶色に着色されているのもすばらしい。
全集の中に埋もれているのが惜しい。
この「新編日本古典文学全集」は比較的後発のためか、あまり図書館には納められていないのだ。
新しいがゆえに完成度も高いのだろう。
『俊頼髄脳』が読めるのは事実上この本だけではなかろうか。
源俊頼によるこの歌論書は、
古今集仮名序や後拾遺集序などを下敷きにしつつ、
先行する公任による[新撰和歌髄脳](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%AB%84%E8%84%B3)をさらに長大精緻にしたものと言って良い。
公任や俊頼の時代の歌論は、後世の古今伝授のようないかがわしさがある。
> をののはき みしあきににす なりそます へしたにあやな しるしけしきは
これは句の頭の一字ずつ集めると「をみなへし」となり、句の終わりの一字ずつを逆に読むと「はなすすき」
となる。
> むらくさにくさのなはもしそなはらはなそしもはなのさくにさくらむ
これは回文。こういうトリッキーな例がいろいろ蒐集してある。
歌論としての深みはあまりない。
変なことを言っているところもある。
たとえば「安積山」は「あざかやま」と濁って読むべきだとか。
安積山は万葉仮名で「阿佐可夜麻」と書くことが出土した木簡などからも確認されていて、
「あさかやま」と濁らず読むのが正しいと思うのだが。
「あさかやま」と「あさきこころ」と浅いが繰り返されているのが歌の病だ、
歌の親が病んでいるのだから後代の歌は影響を受けないのだろうか、などと言っているのもおかしい。
『毎月抄』はやはり偽書であろう。
いろんな人の説があるようだ。
関連する『定家十体』も偽書だろう。
頓阿の『井蛙抄』あたりと関係あるか。やはり頓阿はあやしい。
ここらの偽書の話も今書いている本に盛り込もうかと思っていたが、
も少しちゃんと調べてから、きちんと書いた方がよさそうだ。
『俊頼髄脳』を読んでみると、
俊成がなぜ『古来風体抄』のようながちがちの天台教学的歌論を書いたかわかる気がする。
私はずっと『古来風体抄』は偽書ではなかろうかと疑っていたのだが、
法華経かぶれの俊成が年寄りの繰り言のようなこんな文章を、俊頼に対抗して書く可能性はあるなと思った。
俊成は俊成なりに、俊頼のようなぐにゃぐにゃした歌論を、
仏教思想に基づいてきちんと整理しなきゃいけないと考えていた。
定家は仏教と和歌を混ぜるようなうかつなことはしなかったが、
京極為兼が『古来風体抄』の影響をもろにうけて『為兼卿和歌抄』のような歌論を残したのは残念である。
『近代秀歌』『詠歌大概』は定家の歌論で間違いない。
『近代秀歌』の秀歌例に異同があるなと思っていたら、
前掲の本の解題にちゃんと解説があった。
歌論についてはあまり深入りせず今書いてるやつからは極力除こうと思うが
『近代秀歌』だけはちゃんと調べなきゃいけないなと思った。
まったく終わる気がしない。
すでに四百字用紙換算で300枚超えている。
分量はもうそんなに増えないはずだが、書き換えが終わらない。話が収束しない。
調べ始めるときりがなく、
wikipedia と吾妻鏡の記述に矛盾があったりして困る。
余暇のほとんどを執筆活動に追われて、ツイッターとか書いてるヒマがない、のは良い傾向だ。
wikipedia の日本史は汚染されている。
読んでてすごく嫌だ。
特に仏教関係には捏造が多い印象。
藤原定家について書いている。
タイトルは仮に「定家の禅」。受け狙いでもあり、わりと本気でもある。
さくっと書き終えたと思ったが、調べているうちに知識が増えていき、
最初は推測で「かもしれない」などと言っていたところが、
確かな証拠を発見したりして、「なのだ」などと断言したり。
全体をまんべんなく加筆するのではなく一部がどんどんふくらんでいくので、バランスが崩れていき、
全体のテーマ自体が変わっていく。
先に古今集をやったから、次は百人一首の真相みたいなのを書こうかと思ったのだが、
定家個人が面白くなってきて、ある意味百人一首なんて、どうでもよくなってきた。
だれが読むのだろうか。
いずれにしても今回は紙の本で出す予定なので売れないわけにはいかない。
こむつかしい本ではなく、ある程度娯楽性のある本を書かねばならぬ。
基本的には、定家の時代の歌論書である。
定家は以前は嫌いだった。
今は割と好きになった。
定家は以前は勉強家の秀才だと思っていた。
今はある意味天才だと思っている。
少なくとも、若いころに「天命」に目覚めた人である。
癇癪を起して、発作的にやってるのではない。すべて確信的にやっている。
オタクとか、マニアとか、マッドなわけでも必ずしもない。
のめりこむ性格ではあったかもしれないが、必要に迫られて勉学に励んだのだと思う。
編集の人と相談して意外だったのは、
私のような門外漢でもネタしだいでは定家の本を書いて出版してもよいということだった。
ただ、筆名を田中久三以外にできないかと言われてやや戸惑った。
編集の考えることはよくわからん。
これから読もうと思っているのだが、「天才帝王と空気の読めない秀才貴族」
という解釈は間違いだと思う。
後鳥羽院の宮廷で「空気を読む」ということはつまり自我を捨てて幇間になるということだ。
皇帝の前の宦官になれというのか?
だから北条氏と戦争して負けるんでしょう?
むしろ後鳥羽院が暴走して破滅するのを定家は予測してたんじゃないの。
どちらかというと
「空気が読めない裸の王様と、それなりに現実的でニヒリストな秀才貴族」というところか。
どちらも天才ではない。
後鳥羽院は天才というよりは狂人というべき。
いや、狂人というのも当たらないかも。
菊池寛に『[忠直卿行状記](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/501_19864.html)』
というのがあるが、この[松平忠直](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4)に近い。
御曹司にありがちな錯覚と狂乱(ただしこの小説は、忠直自身の行いに、古代中国の暴君の行いをモチーフに脚色したものが加わっており、忠直の人格を忠実に記したものではない、か。なるほどね)。
> 八番目の勅撰集『新古今和歌集』が編まれた時代は、和歌の黄金期である。新たな歌風が一気に生み出され、優れた宮廷歌人が輩出した。
これも大きな間違いだ。
黄金期というよりは一種の狂乱期。
すでにこの時期には宮廷以外のところに優れた歌人が現れ始めた。
> 未曾有の規模の千五百番歌合、上皇自ら行う勅撰集の撰歌、と前例のない熱気をみせながら、宮廷の政治と文化は後鳥羽院の磁力のもと、再編成されていく。
いや、それが狂気。
後鳥羽院の狂気。
> 後鳥羽院と藤原定家という二つの強烈な個性がぶつかりあい、日本文化の金字塔が打ち立てられていく時代の熱い息吹に迫る。
金字塔(笑)
この時代ほんとうの天才歌人は西行だけだ。
なぜみんなそんな簡単なことがわからんのか。
菊池寛ならわかるだろうに。
図書館に行って新編国歌大観って電話帳みたいな本読みながら、和歌を俺様のレッツノートでメモろうとしたのだが、
持ち込みパソコンは専用のブースに行って使ってくださいみたいなこと言われて、
その専用ブースってのは違う階にあって、しかも席が限られている。
新編国歌大観ってね、でかくて重いんですよ?
禁帯出なんですよ。
もうね、図書館。
時代についていけてねーよ、ていうか、新編国歌大観をどうにかしろっ。
Windows 8 とか最新の OSでも動くようにしろよっ。
早く改訂版だしてくれ。
久しぶりに一太郎ではなくWordを使ったんだが、wordはコピペするときリンクとか文字サイズとか色までコピペするじゃん。
そうするとネットからコピペするときうざくて仕方ない。
一応右クリックでメニュー出してテキストだけペーストとかできなくはないが、うざい。
一応Ctrl + Alt + V で選択できるが、うざい。
思えば MacOS 9 使っててぶちきれて二度とマック使わんわーと思ったのもこの件だった。
なんか回避策あるのかな、しかし今更マックなんか使わんが。
でまあ、一太郎だと、Ctrl + V は普通にテキストだけペーストなんですよ。
あとスクロールがね。
縦書きなのに縦スクロールするでしょ、word。うざいよね。
縦書きなら横スクロールして欲しいじゃないですか。
まー一太郎にも不満がないわけじゃないのだが、例えば横スクロールがページ単位で飛ぶとか勘弁して欲しいんだが、
それでもwordよりはまし。
今度から一太郎で書いてwordで提出するときはword出力するわまじで。
不便な方が便利なことってあると思うんだな。
自分がPCで使ってる機能ってそんな多くない。
それこそ1991年当時のワークステーションのGUIで十分とか思う。
ウィンドウシステムはSunViewで十分。
あとはコンテンツだと思うのよ。
あのぬるぬるするトランジションな。マックの。
あれのどこがいいんだよ。
北条泰時はすごく地頭がよかったのは確かだが、
ちゃんと子供の頃から勉強してなくては、和歌が詠めたり、御成敗式目を作れたりするようにはならないと思うんだよね。
そうすると、誰が泰時に学問を教えたのか、ということになるのだが、ざっと調べた限りではよくわからない。
泰時は1183年生まれ、源頼家が1182年生まれなので、泰時は頼家の学友だったのではないか。
頼朝はインテリだから、子供の頃から勉強しなきゃいけないってことはわかっていたはずだ。
だから頼家に京都から呼んできた教師を付けて学ばせたはずである。
その教師とは僧侶であったかもしれないし公家だったかもしれない。
しかし、頼家についてはほとんど何も記録が残ってない。
頼朝は泰時をかわいがっていた。
もともとは頼朝から一字もらって頼時という名前だった。
頼朝が死んだ後、泰時という名に変えた。
なぜ変える必要があったのか。これもさっぱりわからない。
いずれにしても頼朝にかわいがられたということは頼朝からも学問を教わったと思われる。
実朝も聡明だったのだから、頼家もある程度頭は良かったはずだ。
頼家は蹴鞠ばかりして泰時が諫めたという話がある。
事実かどうかはともかく、これなども、泰時が頼家と一緒に学問をしていた証拠になるかもしれん。
頼家が遊んでいる間も(学問好きな)泰時は勉強をしていたのではなかったか。
北条泰時をあらためてちゃんと調べなきゃなという気がしてきた。
明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。
頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、
立派な邸宅に住んでいたとは思えない。
またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。
障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。
障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。
襖が100枚というのはいかにも多すぎる。
襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。
ちと考えにくい。
頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。
そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。
頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。
当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。
1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。
御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。
泰時はときどき六波羅に来ていただろう。
六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。
定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。
ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。
うーむ。これはどうもフィクションに仕立てた方が面白いのではという気がしてきた。
襖の両面に貼ったとすると、98枚ならば半分の48枚。
48を4で割ると割り切れて12。
1辺が12枚の部屋は72畳。
あり得るな。