ヴイナス戦記

「アリオン」「クルドの星」の続編だというので、気になったのでアマゾンでポチって読んでみたが、あまり面白そうではない。どうも安彦良和が自分で書きたくてかいたストーリーではないと思うんだ。たぶん、アニメ化、映画化するための原作として仕方なく書いた。映画監督になるために自分が原作者になった。そりゃそうだわな、「クルドの星」じゃアニメ化できんわな。それで無理矢理SF仕立てにしたかんじだわ。

アニメは、まあ、良く出来てはいるようだが。だがこれは(CG使ってなかった頃の昭和の)メカの動きが面白いのであり、キャラクターの作画が安彦良和である必然性がほとんどないわな。

やっぱ安彦良和で面白いのは「クルドの星」「王道の狗」「虹色のトロツキー」とか、近代アジア史ものなわけだが。異論はあるだろう(実際ここらが好きだという人を見たことがない)。今連載している(らしい)「麗島夢譚」まで時代をさかのぼるとかなり変な癖が出て、「神武」とかはもう全然つまらない。不思議な人だわな。要するにフィクションが下手な人だと思うんだ。いや、フィクションにする元ネタがフィクションだとめろめろになってだめな人というべきか。フィクションの元ネタが史実だったり近代だったりするとすっと一本筋が通って面白い、というか。「三河物語」もまあまあ面白い。これも大久保彦左衛門という原作者の強い個性がうまく安彦良和を制御できている感じ。「アレクサンドロス」も見たが、これはもう安彦良和自身が言っているように完全な企画倒れ。そう簡単に描けるわけがないんだよな、アレクサンドロスを。老臣パルメニオンを妙に持ち上げていたあたりが少しおもしろい。

巨神ゴーグ。出だしが「Cコート」っぽくて良い(笑)。これぞまさしく純粋な動く安彦良和。つか、「Cコート」アニメ化した方が絶対良いと思う、こんなロボットものより。ロボットじゃないとスポンサー付かないんだなあ。不毛だよな、安彦良和イコールガンダムという発想。まあ入り口はガンダムで良いとして他にいろんなことをやらせてあげれば良かったのに。で、安彦良和も最後は諦めて(開き直って)ガンダムオリジンとか描き始めたのな。全く興味ないがな、ジ・オリジン。

安彦良和は、キャラが命の人なのだが、そこにガンダムテイストのSFを混ぜると、肝心のキャラが死んでしまう。「王道の狗」なんてほんとによくできた話で、架空の人物、加納周助、風間一太郎のコンビはすごく良く出来てるし、実在の陸奥宗光なんかも良くかけてる。「虹色のトロツキー」も主人公の日本人とモンゴル人のハーフのウムボルトや、その他の脇役ジャムツや麗花などの中国人も、よく思いつくもんだと思う。ていうか明らかに私が書いた「特務内親王遼子」なんてのは「虹色のトロツキー」の影響だしな。東洋のマタハリとか(笑)。近代アジア史物はもっと書きたいが、いろいろアレがアレなので書きにくいものはあるわな。

ま、私もいろんなジャンルを書き散らすほうではあるが、安彦良和の統一感のなさははんぱない。

小泊瀬と大泊瀬

和歌では長谷(はせ)のことを「をはつせ」と言ったりするのだが、
「はつせ」は初瀬のことだなってすぐわかるんだが、「を」がよくわからない。
古今以後でもたまに使われるが、もう意味がわからなくなっているようだ。
万葉集では「小泊瀬」とあるから、
「小泊瀬」に対して普通の「泊瀬」があるんじゃなかろうかと思い調べてみると、
意外な事実が。

武烈天皇のことを小泊瀬稚鷦鷯尊(をはつせのわかさざきのみこと)
といい泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に住んだが、これに対して、
雄略天皇を大泊瀬稚武尊(おほはつせわかたけるのみこと)
と言い、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に住んだとある。

そんでまあ、泊瀬に大泊瀬と小泊瀬があったのかなかったのか、
あったけど忘れられたのか、
それとも雄略天皇のほうが昔或いは年上なので大泊瀬でそれに対して、
武烈天皇を小泊瀬というのか、よくわからん。
ただもう万葉集の時代には「をはつせ」だけが歌語として残っていて、
古今集以後でもまれに使われた、ということなのだろう。

> 01-0045 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

こもりくのをはつせやまは、とある。

> 01-0079 天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手尓 座多公与 吾毛通武

こもりくのはつせのかはに。

> 03-0282 角障経 石村毛不過 泊瀬山 何時毛将超 夜者深去通都

はつせやま。

> 03-0420 名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隠久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曽言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 我聞都流母 天地尓 悔事乃 世間乃 悔言者 天雲乃 曽久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之乎 高山乃 石穂乃上尓 伊座都類香物

こもりくの、はつせのやまに。
どうも万葉時代は「初瀬」ではなく「始瀬」と書いたらしいな。

> 03-0424 隠口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方

こもりくのはつせをとめが。

> 03-0425 河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶

かはかぜ(の?)さむきはつせを。
この頃から長谷という表記があったのか。

> 03-0428 隠口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟

こもりくのはつせのやまの、か。

> 06-0912 泊瀬女 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開来受屋

はつせめ(の?)

> 06-0991 石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見

はつせがは。

> 07-1095 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之桧原 所念鴨

こもりくのはつせのひばら。

> 07-1107 泊瀬川 白木綿花尓 堕多藝都 瀬清跡 見尓来之吾乎

はつせがは。

> 07-1108 泊瀬川 流水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久

はつせがは。

> 07-1270 隠口乃 泊瀬之山丹 照月者 盈県為焉 人之常無

こもりくのはつせのかはに。

> 07-1382 泊瀬川 流水沫之 絶者許曽 吾念心 不遂登思齒目

はつせがは。

> 07-1407 隠口乃 泊瀬山尓 霞立 棚引雲者 妹尓鴨在武

こもりくのはつせのやまに。

> 07-1408 狂語香 逆言哉 隠口乃 泊瀬山尓 廬為云

こもりくのはつせのやまに。

> 08-1593 隠口乃 始瀬山者 色附奴 鍾礼乃雨者 零尓家良思母

こもりくの、はつせのやまは。

> 09-1770 三諸乃 神能於婆勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也

みもろの、かみのおばせる、はつせがは。おばせる?「おはせる」でいらっしゃる、か。
「御室の神のおはせる初瀬川」まともかくすでに万葉集の頃には初瀬川流域は三輪山とともに神域と見なされていたようだ。

> 09-1775 泊瀬河 夕渡来而 我妹兒何 家門 近舂二家里

はつせがは。

> 10-2261 泊瀬風 如是吹三更者 及何時 衣片敷 吾一将宿

はつせかぜ。

> 10-2347 海小船 泊瀬乃山尓 落雪之 消長戀師 君之音曽為流

あまをぶね、はつせのやまに、ふるゆきの、と読むらしい。
なぜ海小船なのか、少し気になる。

> 11-2353 長谷 弓槻下 吾隠在妻 赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨 一云 人見豆良牟可

(を?)はつせ(の?)ゆつきがしたに。

> 11-2511 隠口乃 豊泊瀬道者 常滑乃 恐道曽 尓心由眼

こもりくの、とよはつせぢは。

> 13-3225 天雲之 影塞所見 隠来笶 長谷之河者 浦無蚊 船之依不来 礒無蚊 海部之釣不為 吉咲八師 浦者無友 吉畫矢寺 礒者無友 奥津浪 諍榜入来 白水郎之釣船

こもりくの、はつせのかはは。

> 13-3226 沙邪礼浪 浮而流 長谷河 可依礒之 無蚊不怜也

さざれなみ、うきてながるる、はつせがは。

> 13-3263 己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打 下湍尓 真杭乎挌 伊杭尓波 鏡乎懸 真杭尓波 真玉乎懸 真珠奈須 我念妹毛 鏡成 我念妹毛 有跡謂者社 國尓毛 家尓毛由可米 誰故可将行

こもりくの、はつせのかはの。

> 13-3299 見渡尓 妹等者立志 是方尓 吾者立而 思虚 不安國 嘆虚 不安國 左丹柒之 小舟毛鴨 玉纒之 小檝毛鴨 榜渡乍毛 相語妻遠 或本歌頭句云 己母理久乃 波都世乃加波乃 乎知可多尓 伊母良波多〃志 己乃加多尓 和礼波多知弖

こもりくの、はつせ(波都世)のかはの。

> 13-3310 隠口乃 泊瀬乃國尓 左結婚丹 吾来者 棚雲利 雪者零来 左雲理 雨者落来 野鳥 雉動 家鳥 可鷄毛鳴 左夜者明 此夜者昶奴 入而且将眠 此戸開為

こもりくの、はつせのくにに。

> 13-3311 隠来乃 泊瀬小國丹 妻有者 石者履友 猶来〃

こもりくの、はつせをくにに。

> 13-3312 隠口乃 長谷小國 夜延為 吾天皇寸与 奥床仁 母者睡有 外床丹 父者寐有 起立者 母可知 出行者 父可知 野干玉之 夜者昶去奴 幾許雲 不念如 隠孋香聞

こもりくの、はつせをくに(に?)

> 13-3330 隠来之 長谷之川之 上瀬尓 鵜矣八頭漬 下瀬尓 鵜矣八頭漬 上瀬之 年魚矣令咋 下瀬之 鮎矣令咋 麗妹尓 鮎遠惜 麗妹尓 鮎矣惜 投左乃 遠離居而 思空 不安國 嘆空 不安國 衣社薄 其破者 継乍物 又母相登言 玉社者 緒之絶薄 八十一里喚鷄 又物逢登曰 又毛不相物者 孋尓志有来

こもりくの、はつせのかはの。

> 13-3331 隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛

こもりくの、(を?)はつせのやま

> 16-3806 事之有者 小泊瀬山乃 石城尓母 隠者共尓 莫思吾背

ことしあらば、をはつせやまの、いはきにも。
ここまで万葉集。
読みは「をばつせ」であった可能性もあるようだ。

どうもいま長谷寺のある辺りはいくらなんでも天皇が都にするには奥まりすぎているようだ。
実際の初瀬宮は三輪山の麓、今の桜井市役所あたりにあったのではないか。
そして初瀬山というのは三輪山のことだったのではなかろうかと思うが、どうよ。
ただまあ、枕詞の「こもりくの」を奥まった国の、と解釈できなくもないわな。
で、長谷寺は清少納言や紫式部や紀貫之も参詣したらしいんだが、
ほんとかいなと思わなくもない。
吉野は初瀬よりもさらに奥だわな。

後撰集

> 菅原や伏見のくれに見わたせは霞にまかふをはつせの山

はて。伏見に長谷寺などあったのだろうか。

> うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

「祈れどもかなはぬ恋」という題詠だったらしい。
祈るから長谷観音、ということになったのだろうか。
割と唐突な感じのする歌。
源俊頼とかよくわかんね。

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

有名な歌なんで、気にも留めてなかったが、
ググってみると、
「かげもなし」というのは、
「雪や風を避けるための物陰」が見当たらないと解釈している例がほとんど。
いやしかし、
古語では、「かげ」というのはまず「光」(朝日影、など)のことであり、
次には「像」「姿」「幻」のことである。
「かげろふ」の「かげ」である。
たとえば「人影」というがこれは「人の影」ではなくて「人の姿」と言う意味だ。
英語で言えば light よりも vision、image というのに近い。

「陰」(shade)という意味はなくもないが一般的ではない。
おそらくは割と最近になって「陰」という意味が固定してきて、
さらには光が当たらない「影」(shadow)という意味になった。

「影」という漢字にしてもそうだが、これは「景」と同じで、
ひかり、すがた、まぼろし、という意味だ。
これを光の差さない暗い箇所という意味につかうのはおそらく近世の日本だけだ。
だから

> 駒をつなぎ止めて、袖や馬の背に積もった雪を打ち払い、しばらく休憩するための、適当な物陰がない

というよりは、単に

> 馬の姿も、人の姿もまったくみあたらない閑散とした雪原

という意味に解釈すべきだと思うがどうよ。
でまあ現代人にはこの定家のダダイズムがピンと来ない。
存在しない景色をなぜ歌に詠むか、となる。
私も最初、はぐらかされて腹を立てたほうだ。

定家ただ独りがたどり着いたこの境地を、現代人はわかってない。
幽玄とかありがたがっておりながら幽玄の意味がわかってない。
[幽玄](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E7%8E%84#.E5.92.8C.E6.AD.8C.E3.81.AE.E5.B9.BD.E7.8E.84)だが、正徹がすでに、

> 人の多く幽玄なる事よといふを聞けば、ただ余情の体にて、更に幽玄には侍らず。
或は物哀体などを幽玄と申す也。余情の体と幽玄体とは遙か別のもの也。
皆一に心得たる也。

などと言ってるのがおかしい。
でまあ、鴨長明

> 詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし

これが比較的近いかな。
正徹と鴨長明は正確に理解しているわな。
姿に見えない景色をわざわざ感得する。
まさに禅だな。
或いは「色即是空、空即是色」。
定家が和歌で初めてやって、みんなまねした技だ。

> 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

これも同工異曲。
こっちのほうがわかりやすい。
さきほどの佐野のわたりの、と比べるとより理解しやすいだろう。
断っておくが私はこういう定家の歌が好きなわけじゃない。

結城氏と小山氏の関係を調べていて気づいたのだが、結城直朝の幼名は「犬鶴丸」。
小山義政の息子に「若犬丸」(元服前に死んだか)。
小山朝郷の幼名は「常犬丸」。
小山持政の幼名は「藤犬丸」。
小山氏郷(の子?)「虎犬丸」。
氏郷が若死にしたので山川家から成長を養子をもらい、成長の幼名が「梅犬丸」。成長は小山泰朝の曾孫。

つまり、結城氏と小山氏には「某犬丸」「犬某丸」という幼名が一般的だったらしい。そういう幼名を付けた他の武家の例がないわけではないが、特に結城・小川氏に多い。結城と言えば結城合戦。「八犬伝」と無関係ではあるまい。つまり犬の名を付けるのはもともとは安房ではなく下野、いや常陸の風習だったということだ。いやいやいや、小山は下野で結城は常陸だわな。ややこしい。

小山氏と結城氏の家系は養子縁組ばかりでよくわからん。資料もあるようでないようで。今も小山市と結城市は隣どうし。JR水戸線でつながれている。なんか面白いな。一度行ったことあるがすごい田舎だ。

だんだんわかってきた。源平合戦のころ頼朝についた武将に小山朝光があり、彼が結城朝光を名乗る。つまり結城氏は小山氏から分かれた。小山氏は藤原秀郷の子孫でもとは太田氏らしい。だが、朝光の父政光くらいまでしか確かにはたどれないようだ。要するに小山氏も結城氏も同族で頼朝の時代に、その住む場所によって家名が二つに分かれた、ということだな。

朝光は頼朝が烏帽子親となって元服する。頼朝の命で義経に腰越で鎌倉入り不可の口上を伝える、とあるから、まあ、頼朝の寵臣だったらしい。

時代は下って、小山義政が鎌倉公方足利氏満に謀反を起こして小山宗家は断絶。分家筋の結城家から小山家に養子泰明を迎えて家督をつなぐ。逆に小山泰明から結城家に養子氏満を迎えて家督相続。結城氏満が結城合戦の主役で、氏満の子成朝が江ノ島合戦や享徳の乱の主役、というわけだ。ふー。

そういや義経の幼名は「牛若丸」。「丸」は「麿」「麻呂」なんだよな。蝉丸とか。猿丸とか。人麻呂も人丸と言ったりする。基本的には人の名、それも、万葉時代から前の名の名残なんだろうな。

「牛若丸」「犬若丸」があれば、「虎若丸」「熊若丸」「鶴若丸」「亀若丸」「馬若丸」、「松若丸」「梅若丸」「藤若丸」「菊若丸」なんてのもあったんだろうが、どうやって調べれば良い。

ていうか頼朝が鎌倉に幕府を開いたことによって、それまで名字をもっていなかった、或いは持っていたけどよくわかんなかった人が、御家人となり、名字を持つようになって、
やっと武家というものが生まれたのだろう。それまでは、そもそも庶民には名前がなく家系もなかった。と、考えると頼朝はすごい。奥州藤原氏とか、その前の清原、阿倍氏なども、みな京都の貴族の名を借りただけで、ようは、名字なんてただの飾りだったのだろう。三河介みたいなもんで、勝手に自分で名乗ってた。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

DSC_0016

そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

DSC_0066

材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

南総里見八犬伝

南総里見八犬伝が、足利持氏・成氏父子によって引き起こされた、
永享の乱から享徳の乱に至る、関東の騒乱を元にした伝奇小説であることを知り、
今さらながら衝撃を受けている。
古河公方のことを滸河公方(訓みは同じ)などと記している。

[南総里見八犬伝の登場人物](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%B7%8F%E9%87%8C%E8%A6%8B%E5%85%AB%E7%8A%AC%E4%BC%9D%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9)
によれば、
長尾景春、足利成氏、上杉定正、千葉自胤、上杉顕定、北条早雲などが登場しているのに、
太田道灌は出てこない。
実に不思議である。
私の小説「川越素描」では、千葉自胤の妹佐枝が赤塚姫で(架空の人物)、太田道灌の愛妾になることになっている。
山崎菜摘と竹田一成、そして木下加奈子の三人は卒業制作に歌劇「赤塚姫」を作る、というものなんだがね。
とにかくもうびっくりである。
滝沢馬琴先生とネタがかぶってたなんて。全然しらんかった。
ともかく原文でじっくり読ませてもらい、ネタをいただこう。

太田道灌と千葉自胤は同世代だが、長尾景春、上杉定正などは少し年下、上杉顕定、北条早雲などはもっと後の人である。

扇谷定正と山内顕定と足利成氏の連合軍が里見を攻める、これを関東大戦などと言っているが、
まったくの虚構である。あり得ないことだ。
全体的に、時代考証はいい加減で、かなり好き勝手に作っている。
先行する里見家関連の軍記物に大きな影響を受けているのだろう。
滝沢馬琴は、太田道灌を主役にした享徳の乱の話などはまったく書く気がなかったのだろうか。
なかっただろうなあ。
よくわからん人だが、江戸時代の人にとって歴史とは、だいたいそんなものだったのかもしれん。
道灌を出してしまうと急に普通の歴史物になってしまってしらけるのかもしれんな。

江の島合戦

成氏が鎌倉公方に復帰するときには当然父持氏についた恩顧の家臣らを鎌倉に連れてきたわけだが、
幕府再建の名のもとに、事実上の鎌倉の領主である上杉家宰の長尾や太田は、
その所領の一部を成氏の名のもとに没収されようとした、というのはあり得る話である。
その多くは実際没収されたであろう。
だが、長尾の本貫である鎌倉郡長尾郷までも、成氏の家臣簗田持助にとられようとして、
長尾は反発した。
家宰長尾景仲は主君関東管領上杉憲忠にその取り消しを願い、また簗田持助と多少の揉め事があっただろう。

それで長尾と太田が先に鎌倉公方の御所を襲撃したという記述も見えるが、
襲撃計画が事前に漏れて逃れた、というほうが事実に近く、おそらくは、
成氏が江の島弁天を参詣したときに簗田あたりがそそのかして、鎌倉に戻らず、
場合によっては頼朝のように海路安房にわたって、それから持氏らの本拠であった結城に戻り、再起をはかりましょう、
くらいのことは言ったかもしれない。

つまりは成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。
あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。
いきなり長尾太田が鎌倉御所を襲うというのは信じられない。
また江の島合戦という呼称自体が、成氏が江の島を陣としたことによるのであり、
江の島で実際の戦闘があったわけではない。
鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。
由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあって、
しばらく成氏も鎌倉には戻れず、
憲忠も戻れず、
太田は伊勢原の糟屋館に避難し、
太田資清の主君上杉持朝は厚木七沢に避難した。
憲忠も七沢にいたらしいから、長尾も七沢にいたのであろう。
憲忠の父憲実は伊豆に隠遁していた。

要するに成氏に対する持朝や長尾や太田の謀叛というよりは、
幕府再建当初のトラブルのようなものであり、ゆえに仲裁が入ることによってなんとか収まったのだろう。

足利氏はふるさと関東を離れて京都にいながらにして、
鎌倉公方と関東管領によって関東を支配しようとした。
鎌倉公方は京都の公方、つまり室町将軍の代わりに関東の守護を支配するはずであり、
京都扶持衆という言葉あるように、室町将軍に直接仕える関東の守護もいた。
将軍に関東管領に任命された上杉氏なども実質的な京都扶持衆といえる。
もし関東管領が鎌倉公方に任命されるのであれば関東の独立性はもっと高まったはずだが、
それを京都が許すはずもない。

足利氏の本貫が北関東の足利であるように、
もともと足利氏は北関東と親和性が強い。
上杉は京都から関東管領を拝命し、五ないし八くらいの守護を束ねたわけだが、
それは京都の代官役を買って出たからである。
鎌倉公方はどんどん土着していって関東武士(一国のみの守護ら)に戴かれるようになる。
それで当初は鎌倉一極であったが、
後には京都派は伊豆腰越公方に、関東派は常陸古河公方に二極化したが、
それはそれで一つの安定解であった。
でまあ後付の理屈のようにもみえるが再び関東を一か所で支配しようとしたときに、
二極の最前線にあたる江戸城を家康が居城に選んだのは必然だといえる。

成氏はすんなり鎌倉に入ることができず、
出たり入ったりしたのが江の島合戦。
結局鎌倉に居着くことができず鎌倉を出て北関東に奔ったのが享徳の乱、ということになる。

南総里見八犬伝でも、持氏の遺臣である里見義実が頼朝のように海路安房に渡った、という記述があるのが興味ぶかい。

ややこしい。

とりあえずまとめておく。

[足利満兼](http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/AshikagaMitsukane.html)
によれば、満兼は義満を討って自分が将軍になろうとした、という。
西国六国の守護大内義弘が乱を起こすと挙兵して上洛をうかがうが、
乱がおさまったので鎌倉に帰っている。
義満はこれに怒り陸奥国伊達政宗に反乱を起こさせるが、
満兼は[上杉禅秀](http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/UesugiZensyuu.html)を大将として派遣して平定する。

満兼が死んだとき(1409)、息子の持氏はまだ満11歳で、元服前だっただろう。
満兼の弟[満隆](http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/AshikagaMitsutaka.html)は不服として自分が鎌倉公方になろうとする。
当然、満兼を嫌っていた京都将軍家の支持があっただろう。
しかし結局満隆は折れて持氏の弟満仲を養子とする(1410)。

持氏と上杉禅秀は不仲で、禅秀は関東管領を辞する。
不服とした理由は家人が持氏に領地を没収されたからとあるが、まあいろいろあったのだろう。
このとき当然禅秀は満隆に接近したであろう。
持氏と満仲も不和だった可能性がある。
こうして、満隆・満仲・禅秀は持氏に謀反を企てるが、
このとき[足利義嗣](http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/AshikagaYoshitsugu.html)、
[足利満直](http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/AshikagaMitsutada.html)
らも同調して時の将軍[義持](http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/AshikagaYoshimochi.html)
に対抗しようとしたのかもしれない。
それだけ義持の基盤が脆弱だと思われていたのかもしれない。

禅秀の乱によって持氏は鎌倉を逐われるが、
結局は満隆よりも持氏を支持する家人が多かったのだろう、乱は失敗する。
禅秀は上杉氏宗家である犬懸上杉氏であったが、
以後は山之内上杉氏が関東管領となる。

持氏は義持の次の将軍義教に反発し、山之内上杉氏と対立するが、
結局討たれてしまう。
義教が暗殺され、持氏の子成氏が鎌倉公方に復帰すると、
当然成氏と山之内上杉氏は不仲となる。
成氏と京都将軍家も対立する。
成氏を排除して義教の子政知を鎌倉公方に送り込もうという動きがあり、
成氏は上杉氏の家宰長尾氏と太田氏に鎌倉を逐われる。
いわゆる江の島合戦であるが、
結局、やはり成氏を支持する関東武士団によって成氏は鎌倉に戻る。

思うに持氏が討たれるというのは関東武士団にとっては異常事態なのだが
(その他の場面ではたいてい関東の意向が通っている。鎌倉公方が慕われているというよりは、京都の支配下にはいるのが嫌なのだろう)、
義教が赤松氏に討たれたのも実は関東武士による画策ではなかったか。
関東は西国よりも武士が倍多い。
西国の細川・山名などが京都で政争を繰り広げているようにみえるが、
実は関東の影響というのはそうとう大きかったのではなかろうか。

普通の人は応仁の乱を無意味で無駄な内乱だった、と思っている。
私も日本史をほとんど知らなかったころは漠然とそう思っていた。
関ヶ原とか大坂の陣などは意味のある大事な戦争だと思っていた。
でも今はそんなことはない。
応仁の乱や室町時代について知らなすぎるだけなのだ。
室町時代は一言でいえば守護や将軍家の家督争いが延々と続いた時代なのだ。

足利将軍家

ashikaga

こうして系図にしてみると、
足利将軍家というのは兄弟で横にどんどん分岐していて、
しかも徳川氏のように御三家とか御三卿などの区別もなく、
尊氏の子孫のだれが偉いのかという序列もないように見える。
これではお家騒動が頻発してもおかしくない。
そのお家騒動に乗じて守護らが力をつけていき、足利氏はさらに弱体化していったはずだ。

逆の言い方をすれば徳川氏は足利氏のありさまを見て、
争い事が起きないような相続の規則を定めたのだろう。
徳川氏ではめったに起きてない、同族間の抗争が、足利氏では頻発しているのがわかるのである。

しかしまあ、知れば知るほど室町時代は奥が深いな。
そのうえほとんど世間には知られていない。

ゴッドファーザー追記

今では映画が一つあたるとシリーズ化するのが当たり前のようになっているが、
ゴッドファーザーの頃はそうでもなかったらしく、
続編を作ることにいろんな抵抗があったようだ。
二作目は一作目の前の話と後の話でサンドイッチする形で作られており、
一作目に相当する時期のちょっとした逸話も挿入されている。
もしマーロン・ブランドがヴィト役を引き受けていたらもっとその部分を膨らましただろう。

興行的にはともかくとして、またこの作品が結果として非常に優れているということもおいておいて、
この二作目はおそらく作る必要のないものだった。
少なくとも一作目から必然的連続的に出てくる話ではない。

コッポラはのちに地獄の黙示録を作ったように、
キューバ革命を描きたかったのだろう。
いや話はほんとは逆で、当時同時進行していたベトナム戦争が、
かつてのキューバ革命をコッポラに思い出させたのだろう。
彼の関心はアメリカという国の大義名分というものではなかったか。
あるいはアメリカ人を負かしたベトナム人やキューバ人に興味があったのかもしれない。
マフィアの話を書きたいのでもなかったかもしれない。
コッポラはヴィトやマイケルになんとかして表の世界、
つまり知事や上院議員などの仕事に就かせようとする。
裏社会の話は彼にはどうでも良い気がしていたのではないか。

コッポラにはゴッドファーザーという持ちネタがあったから、
ある意味それに引きずられて、
続編という形で作ることになる。
キューバのバチスタ政権と結んで、
フロリダ州マイアミを拠点して大儲けしていたユダヤ系のマフィアが[マイヤー・ランスキー](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC)、彼は[Hyman Roth](http://en.wikipedia.org/wiki/Hyman_Roth)のモデルである。
友人のベンジャミン・シーゲルは同じユダヤ系で[Moe Greene](http://en.wikipedia.org/wiki/Moe_Greene)のモデルである。

コッポラは一作目から二作目へ話を橋渡しするためにモー・グリーンを使った。
一作目でモー・グリーンとロスはヴィトの商売仲間であり、
ヴィトはモーがラスヴェガスでホテルやカジノを経営するための資金を提供し、
その代りできの悪い息子のフレドをモーに預けている。
モーは一作目で死に、ロスは二作目から出てくる。
モーはイタリア系マフィアのナンバーツーでコルレオーネ家に敵対する黒幕の[Emilio Barzini](http://en.wikipedia.org/wiki/Emilio_Barzini)と親しかった。
バルジーニは麻薬に手を出さず、政治家を独占しているヴィトの勢力を切り崩そうとしていた。
それは割と映画の中で丁寧に説明されている。
マイケルは父ヴィトと相談の上でラスヴェガスのモーを圧迫し、ヴィトの死後モーやバルジーニを殺害する。
ロスはハバナでヴィトと商売をした仲であったが、
やはりヴィトの死後、友人モーの件を遺恨に持って、マイケルを殺そうとする。
だがそのモーとロスの関係がいまいち弱い気がするんだよなあ。

上院議員の[Pat Geary](http://en.wikipedia.org/wiki/Pat_Geary)はものすごく緻密に描かれているのに対して、ロスはいまいちとってつけたようだ。
コッポラという人はよほど政治家(政治、戦争、革命etc)に興味があるように思える。