デザインうざい

広告が過剰だと疲れるのだが、たとえば香港の看板みたいにただ無秩序に羅列されているものはさほど疲れない。
むしろ心地よさすら感じる。
だが、今時のテレビにしろマンガにしろ何にしろ、疲れて仕方ない。
良いコンテンツを作って流す、というより、いかにしてよりデザインするかとか、より訴求するかとか、
より収益をあげるかとか、そんなことが露骨に見えて気持ち悪くなる。
都心だとさらに黒塗りの車などが走っていて気持ち悪さ倍増。
たぶんデザインアレルギーの一種だろうと思う。
普通の人がテレビを見ていても平気で、むしろもっとがんがんコンテンツを作り込んで欲しいと思っているからこそ、
制作側もエスカレートとするのだろう。
見ている方が気持ち悪いからもうめてくれといわないからこうなっているのに違いない。
まあ、アレルギーにかかった人間には周りの人間が不感症にみえるだけなのかもしれん。
あまりにもデザイン過剰な中にいたから、まったくデザインのない世界に行きたいと思うだけかも知れん。
それは AppleやMacのない世界に行きたいというのと、今日的にはほぼ同義であると思う。

ニュースもニュースだけ流してくれりゃいいのに、芸人にコメントさせたりするからとたんに気持ち悪い。
ドキュメンタリーもそう。
別に芸人が嫌いというわけではない。
談志の落語とかよくBGM代わりにかけている。
ああいう芸は全然うざくない。
コメントというより、いわゆるポジショントークってやつ?
いらいらして仕方ない。

マンガも、なんちゅうの、どれだけ連載を続けるか、読者の関心をもたせるかということが至上命題になっていて、
もう一切読まなくなった。

古来風体抄

中世歌論集でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。

引っ越し断念

共用サーバーというのは ftp か phpmyadmin とかしか使えず、ログインして作業できない。
そんで phpmyadmin で sql をインポートしようとしたらファイルサイズの上限に引っかかる。
UploadDir というのを設定すればローカルファイルをインポートできるというが、サーバ上のほんとうのディレクトリがわからんので、
アップロードしたい場所に phpinfo(); を仕込んでなんとかインポートしようとしたのだが、
途中でサーバーエラーがでてしまう。

で、共用サーバーではなくてVPSにすりゃいいらしいんだが、
月々のコストが三倍近くに跳ね上がる。
で、とりあえず凍結ということにした。

サーバ引っ越し

tanaka0903.net のドメイン更新にあわせてサーバをお名前.comに引っ越すことにする。

httpd を初めて走らせたのは 1994年だった。それは職場のサーバーだったのだが、
その後 1997年9月に geocities に日記を書き始めた。
インターネット接続は ISDN でプロバイダは AIF(アスキーインターネットフリーウェイ)
というものだったようだ。
すっかり忘れていた。

その後リムネットに引っ越したのだった。
すっかり忘れていた。

独自ドメイン取ったのは 2000年頃、自宅サーバを始めたのは、2001年くらいだったようだ。
最初は固定IPじゃなかったので No-ip の動的DNSを使っていたはずだ。
光ではなくてフレッツISDNというものだった。すっかり忘れていた。
というか、昔の日記を読んでもどうやってサーバ立てて運用してたかよくわからない。
ここに載せているのはそれら膨大な過去日記の一部だ。
昔は実名ばんばんさらしてたから(笑)。
今は公開できんね。

それから、bflets にして Asahi-net の固定IPサービスというのを使ったはずだ。
以来ずっと自宅サーバで遊んできたのだが、
いい加減疲れたので自宅サーバを維持していくのはやめようと思う。

たぶん一時的に休止すると思うが、そのうち復活する予定。
DNS設定変更が広がるまでしばらくかかる。
んで、今はwordpressしかやってないのだが、
みんなやってるみたいなんで、たぶん問題あるまい。
ていうか、wordpress 以外の php や mysql やっても良いということだわな。

ていうか、独自ドメインにこだわらなきゃ、hatena でもなんでも引っ越せばいいんだわな。独自ドメインにする必要あるかといわれればあんまないわな、もう自宅サーバはやめるわけだから。うーん。だけどまあ、はてなより wordpress の方が好きといえばいえる。せいぜい広告でも貼って小遣い稼ぎするか。

藤の長者

藤原氏全体の長者を藤氏長者とか藤の長者などというようだ。
藤原氏は中臣鎌足から次第に分家が枝分かれしたのだから、
その氏の長者というものにも実体があっただろう。
長者は摂政か関白か太政大臣になるのが普通だっただろう。

そのアナロジーとして、というか公家への対抗意識で、将軍家が源氏長者などと言い出したのに違いない。源氏全体の長者などいるはずもないのだが。清和源氏の長者というのであれば、頼朝の子孫となるところだが血統が絶えたので、足利氏は八幡太郎義家の子孫というので源氏長者などと言い、足利将軍家も絶えたので、こんどは徳川氏が新田氏までさかのぼって源氏の長者と言い始めたのだろう。律令国家の朝臣は氏や姓がなきゃいけないからそうして家系を捏造しなくてはならなかった。

そうか、豊臣秀吉は藤原氏の養子になったのか。ふーん。

徳川正記徳川氏

日本外史の中でも徳川正記徳川氏は異様に長くて切れが悪くてつまらんと思っていたが、
最近は結構楽しく読める。
日本外史を楽しく読んでいるというだけで病気なのに、その中でも一番つまらん徳川氏を面白く感じるとは、病膏肓に入ったというべきだな。
だんだん普通の人間の感覚というものがわからなくなってくる。

最初の辺りに、

> 頼氏、教氏を生み、教氏、家持を生み、家持、満義を生み、満義、政義を生み、政義、親季を生む。

という件があるが、これは文語訳マタイ福音書の

> アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、・・・

という記述に良く似ている。つまり、ただ単に似ているというよりも、明治時代に福音書を訳すときに、たぶん訳者は日本外史の記述を参考にしたのだろう。或いは漢訳聖書の影響もあるのかもしれない。
そして筒井康隆はそれのパロディ・パブリング創世記を書いたというわけだ。
旧約聖書創世記にはマタイ福音書のような記述はないのだから、本来は創世記というのはおかしい。

新共同訳では

> アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・・

となっていて、より自然でなめらかな口語になっている。まあ、戦後だし、日本外史っぽい口調は嫌われたということだ。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、
白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。
つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、
御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。
神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。
御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、
白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、
江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。
ネットで検索しても何もわからんのだが。
このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。
案外何もわかってないのだなあ。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、
昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、
湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。
今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、
神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。
つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、
日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。
危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。
両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、
これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。
ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、
おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。
だから、この展望台の下が台所口であり、
中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。
中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。
表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。
祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、
その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。
しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。
だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、
ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、
雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。
竹橋を経由したとは考えにくい。
平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、
おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、
そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。
甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

柳沢吉保

wikipedia 柳沢吉保に

> 延宝3年(1675年)7月12日に家督を相続し小姓組番衆となり、同年12月18日には曽雌盛定の娘定子を室に迎える。

とある。当時17才。
小姓組番衆とは小姓集団の一番下っ端の役とでも言う意味だろう。
綱吉はこのときすでに29才。
うーん。まあそんなものかな。

wikipedia 小姓組などには、主君の身辺警護に当たる純然たる戦闘部隊、とある。

間部詮房

間部詮房は綱豊の小姓だったというが、wikipedia には

> 貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。

とある。1684年だと間部は18、綱豊22。
しかし、小姓というのは普通もっと若くしてなるものであり、
用人となる前に小姓の時期があったと考えるのが自然ではなかろうか。
新井白石が綱豊に仕官したのは1693年だから、10年近く後だが、
実際にはもっと前から間部は綱豊の側にいたのではなかろうか。
用人というのは正式な役職名だろうから、役職をもらう前から、
プライベートな小姓、あるいは見習いとして近侍していたとか。

綱豊が17のとき(1678)父綱重が死んでいるがその前からいたか、その後だったのか、
でも意味合いがだいぶ変わってくるわな。

間部の寵愛のされ方は、おそらく間部が綱豊の竹馬の友だったからではなかろうか。
やはり一番可能姓が高いのは綱重が死んだ年に13才くらいで小姓になったのではないか。
だとすると、
1712年に家宣が死ぬから、白石は19年、間部は34年仕えたことになる。