源氏長者

源氏長者というのは虚構なわけだが、
日本外史には家康が征夷大将軍宣下と同時に源氏長者に補されたとあるから、
なんらかの形でこの頃には源氏長者という名称が権威付けに利用されていた、制度化されていたと考えられる。

で、Wikipedia など読んでいると、つまるところ、
源氏の長者とは、もともと奨学院という貴族のための学校の校長(別当)のことを言うらしい。
それは、奨学院別当が源氏全体の祭祀を司ったからだという。

しかし、すべての源氏の祭祀を司る人間、源氏全体の長者などいるはずもない。
たとえば嵯峨源氏の長者とか村上源氏の長者とか清和源氏の長者ならばいただろう。
そういう一族の長老という意味での長者はいたに違いない。
しかしそれぞれの源氏は単に天皇家から分かれたというだけで全然違う一族だから、
共同で祭祀を行っていたはずがない。
いつかの時代に誰かがそういうことを行ったことがあったとしてもそれが「源氏全体」というものの実体をさしているはずがない。
というか「源氏全体」という実体があるはずがない以上、「源氏長者」に実体があるはずがない。

たとえば、ある時期には嵯峨源氏の長者が奨学院別当をやり、別の時期には村上源氏の長者が別当をやる、ということはあっただろう。
そりゃそうだ。単に仕事としてやっただけのことだろう。
それだけのことだ。
なぜ、学校の校長が源氏の長者だと言い張れるのか。
タイムマシンがあったら校長先生に是非聞いてみたいものだ。

奨学院というものの実体が存在しなくなり、従って別当というものが単なる名誉職となり、
従って「別当に補される」ということが完全なアイコンとなってしまっても、
その名誉職に就きたがるひとはいたのだろう。
欲しがる人がいる以上は天皇もそれを叙任し続ける。
その方が収入が増えて都合が良いからだが。典型的な官職売買のための官職。
いや、令外官だから正式には官職とは言わないのかもしれない。
どうでも良いことだが、公務員でもないのに面接官とか退官とか教官とかいうのはおかしい。いつも違和感おぼえまくる。

別当職に固執したのが村上源氏の長者だったと言われる(たぶん、村上源氏の中で他に俺が長者だと手を挙げる人がいなかったせいだと思うが)
北畠親房であろう。彼が、俺は奨学院別当職に補されたから俺が源氏の長者だ、
などと主張した、ということは大いにあり得る。
その職に就くために大いに活動しただろうことは想像できる。
そして神皇正統記の影響から、後に「俺は源氏の長者だ」と名乗りたいものが、
奨学院別当という名誉職に価値を見いだしたということだろうと思われる。

律令制そのものが完全に名誉職化しても権威付けに利用されたのと同じで奨学院別当というのが征夷大将軍と同義、
もしくは征夷大将軍が源氏固有のものであるという虚構を補強するための口実として用いられた。
更に言えば、頼朝由来の征夷大将軍の権威と、北畠親房由来の奨学院別当の権威を一つに統合したのが足利義満なのであろう。
もしかすると南北朝統一と関係するのかもしれん。

北畠親房は謎の多い人だ。どんな思想信条を持っていたのか、ちんぷんかんぷんだ。
かなり屈折した精神の持ち主だったのではなかろうか。
頼朝とか尊氏とか義満ならまだわかる気がするのだが。

征夷大将軍も別当も令外官であるのには変わりない。
だが一応天皇の勅令もしくは上皇の院宣によって就任する職ではある。
もちろん律令的な官位官職ももらって権威付けをより強固にしているわけだ。
こういうことを千年近く続けてきたわけだから、
法律とか官位とか官職とかは権威付けに使われる実体の無い虚構であるという観念が日本人に深くしみこんでいるのだろうなと思う。
現実に即して法律は作り変えていくという発想が出てきにくい。
その発想を妨げている。
日本国憲法が改正されないのも同じだろう。

古今伝授にしてもそうだが、どうしてこういう奇怪な論理が通用していたのか現代人には理解に苦しむものがあるが、
日本国憲法改正に反対している人たちを見ていると、
そういう精神というか血がいまだに日本人に受け継がれていて、
どういう連中がそういうものを信じたがるのかがわかるよな。

おそらく、家康は、源氏長者などというものが虚構であることを承知の上で、それをも利用したかったのに過ぎないだろう。
彼は現実主義者だったはずだ。
こういうプロセスで虚構の上に築かれた権威も、
とりあえず、徳川政権を支えていく上である程度役にたったわけで、
「徳川の中の人」たちはそれをわかった上で利用していたはずだ。
わかった上でしらを切っている人たちはそれで良いが、
中には本物の権威だと思い始める人たちもいて、それが実に厄介だ。
自分を自分でだませるのは精神的に楽で良いわな。
やはり虚構に基づく権威というものは、後世の人間にとっては負の遺産以外の何物でも無い。

アプリ

思うにかつて新風営法でアーケードゲームが殺されて、
かたやパチンコは換金とかより悪質なのに未だに野放しなのは、
要するにパチンコが好きなおじさんおばさんたちの方が、
アーケードゲーム好きなにいちゃんねえちゃんよりも政治力を持っていた、という、
ただそれだけのような気がする。
つまり偉い政治家や財界人にパチンコ愛好家が大勢いるということだ。
ただそれだけだ。

コンテンツ的にパチンコが面白いはずがない。
もし、換金できればビデオゲームの方が数億倍面白いに違いない。
ただ、博打というのは丁半とかちんちろりんと同じで別にルールが複雑である必要はない。

今のソーシャルゲームの課金にしても、まあ、
あれは携帯の通話料金にいつの間にか加算されてしまうのがいけないのであり、
それを経済力のないこどもでも安易に、無意識のうちにできてしまうのがいけないのであり、
あれをダメだといえばゲームセンターもダメということになろう。
良質のゲームに金を払うのは当たり前だし。

ソーシャルゲームは世界中に開発者や顧客がいるわけだから、無料でも結構クオリティが高い。
それは広く薄く、アップグレード課金とかアイテム課金で金を払いたい人から徴収しているからだ。
開発費が集まれば集まるほど良いコンテンツができる。
良いコンテンツが生き残る。
このシステムは決して間違っていない。
それを、ソーシャルゲームの課金は何でもダメみたいな風にするのは、
かつての新風営法と同じだ。
無限(?)の発展姓を秘めていたアーケードゲームを殺し、
総量規制でバブルを殺したのと同じで政治的誤りだと思う。

たぶん、雰囲気的に言えば、
昔のインベーダーハウス的な扱われ方だよな、ソーシャルゲームは。

忠臣二君に事へず

ドコモがシニア向けスマホを出したというのを、NHK などが報道しているのだが、
相変わらずのガラパゴスっぷりであきれる。
というか、docomo 的に iphone はやだから何か独自路線はないかと苦肉の策でこうなったのだろう。

もしシニア向けスマホに需要があるのならば、
nokia といわず apple といわず、すでにどこか海外の企業が手を付けているのではなかろうか。
docomo が世界に先駆けて新機軸を出してくるとは、誰も期待してないと思う。
老人がスマホを好むだろうか。それがどのくらい需要があるのか。
重役会議の面々の顔が思い浮かぶよな。そしてそれを報道しようというマスコミの重役。
そしてそれらの重役どうしはつながってる。
コネだよなコネ。

ていうか、あきらかに、スマホって老人層を切り捨てて若者に特化したから出てきた発想だよね。
古い物をぶっちぎって新しいことをやろうという姿勢なんじゃないのか。
古い物も新しい物もよく、老若男女だれからも受け入れられる、そういう発想から生まれたものではないよね。
水と油な気がする。
いや水と油を混ぜようという努力はあっても良いと思うが。

個人的には水は水油は油路線の方が気持ちいいんだが。

ていうか、そうやって、docomo が新製品だしたからってマスコミがいちいち取り上げるから、
いつまでも docomo は docomo なんじゃないの。
docomo ほど知名度があれば、そしてほんとに世界が必要としているのであれば、
マスコミがほっといても世界がほっとかないんじゃないの。

むしろ日本固有のガラパゴス現象の事例としてドキュメンタリー仕立てにすると、
マスコミ的におもしろいんじゃねーのか。
そういうことはできないんだよなー。

それはそうと忠臣二君にまみえず、は間違いなんだな。まみえるのは貞女で、
忠臣は事えずというらしい。

まみえるは、大和言葉的には男女どちらでも使えるが、漢籍由来しばりがあるということだな。

最近のCMではホンダの「負けるもんか」が好感度高かった。
さすがホンダだなと思った。

霊元院御製集

霊元院御製集を読んだのだが、
時代の順序がばらばらで、肝心の正徳年間の歌は七夕の歌が七つしかない。
歌の分量は多いけれども、おそらくは公式の場とか、あるいはたまたま書記がいて、
死後に残ったものをとりあえず一つにまとめたという感じだ。
ひとつの私家集を作ろうとした形跡は皆無だな。

歌はまあなんというか無難。
面白いものもある。

参考までに後水尾院御製集もちらっと見たが、こちらも似たり寄ったりで、しかもさらに量が多い。
思うに天皇とか院などは公式の場で和歌を詠む機会が多かっただろうから、自然とこのように蓄積したのではないか。
そう、特によくできた歌をえり抜いたとかそのような意図が感じられない。

鐘の音寒き浅草寺

今書いている小説はほぼできあがった。
主役は新井白石。
ヒロインは将軍家継の生母・お喜世の方。
たぶんこのパターンの話は今まで無いはず。
しばらく一人称の話ばかり書いてきたので、リハビリを兼ねて、今回は三人称で書いてみた。

どちらかと言えば短編。応募〆切が直近の新人賞に応募する予定。
余りこてこての歴史小説にしたくなかったのだが、加筆しているうちにやっぱり蘊蓄君がてんこ盛りになってしまった。
ていうかピュアな歴史小説書いたのは久しぶりではなかろうか。
現代小説ばかり書いていて疲れた。
やはり一番書きたい歴史小説でリベンジする。

清元節(?)を使おうと思うのだが、著作権的に問題があると困る(時代的には問題ないのだが、適当にネット検索で拾うと何が混じっているかわからん)のと、
ストーリーにぴったり歌詞をあわせるため、
一つでっちあげることにした。

浮かぶ釣り船 帆掛け船
行き交ふ人や 誰ならむ
むすべば消ゆる うたかたの
一夜うたげの 江戸湊
かなたこなたに 寄る波の
枕さだめぬ ちぎりもや

冴ゆる月夜の 浦風に
さやぐ岸辺の 芳原は
秋のなごりの あともなく
川面に落つる むら時雨
鐘の音寒き 浅草寺
いつしか雪に 降り変はる

ていうか、演歌だな。演歌の源流は浄瑠璃か歌舞伎だわな。
和歌が詠めれば苦も無く作れる。
ていうか、漢詩に比べれば全然楽。

似たような言い回しがあると嫌だなと思ってネットで検索しながらやってるが、
こういうのは案外無いのかもしれん。
一部孝明天皇御製など使わせてもらってる。

白石と家宣

白石は家宣将軍就任当時五百石の旗本だったそうだ。
町奉行の遠山金四郎とちょうど同じ知行だ。
低くもないが高くもない。
旗本だから将軍お目見えはできるが、老中らが執務するご用部屋には入ることができない。
つまり将軍の家臣として直接執務することはできない。
側用人間部詮房は一万石だから大名だ。
後に五万石。譜代で五万石ということは老中クラスということになる。
家宣から間部を通して白石に下命があった、ということだろう。
家宣と白石は、甲府時代はもちろん直接面会をしていたはずであり、
また、綱吉の養子となって江戸城に入った五年間も、白石とじかに会えたのだろうが、
綱吉が死んで家宣が将軍になってしまうと、そう簡単には、少なくとも形式的には会えなくなった、ということだろう。
いやいや、たぶん、白石が職務上正規の手続きを経るにはそのような形式を踏む必要があったが、
白石は家宣が将軍になった後も、直接相談に乗っていた、と考えるべきだろう。

白石はしかし、官位は筑後守従五位下であるから、殿上人であり、御所に昇殿が許されている。
決して低くない。藩主か大名クラスだろう。
浅野内匠頭と同じくらいだ。
つまりは、天皇や朝鮮通信使などの接待の仕事の都合そうなっているのだと思われる。
贈正四位というのは明治に入ってからのことらしい。

元猿楽師の間部ですら五万石の大名になったのに白石は千石の旗本止まり。
何かおかしい。おそらくは白石の希望だったのだろう。

家宣就任時に48才、白石は53才、当時としては、十分に高齢だったと言える。
わざわざ将軍になった後に読史余論などの講釈をしたはずがない。
甲府時代、家宣三十代頃におこなった講義を、家宣が将軍になったあとに清書したということであろう。

イギリス王位継承順位

イギリス王位継承順位。男系でも女系でも良く、継承順位の下位のほうには、よその国の王とかも含まれてしまう。だから、継承戦争で、王様がブルボンからハプスブルクになったりハプスブルクからブルボンになったりするわけだ。

その王位継承(領地などの財産相続)の法律の解釈で戦争がおきてそれが継承戦争。やれやれ。

王の姓名

現在のスウェーデン王の名前は、カール16世グスタフであり、その前はグスタフ6世アドルフだった。明らかにグスタフもアドルフも姓ではない。ベルナドッテ朝とのことだが、ベルナドッテも姓というわけではなさそうだ。北欧の王の名はこのように即位前は名A・名B・名C・・だったのが、即位すると名A・X世・名Bとなる例が多いようだ。

わけわからん。もしかすると、いや、たぶん確実に、西欧の人名には姓という概念が無いか、希薄なのだろう。姓がないから、親と同じ名前を子につけたがる。名が姓を兼ねる、もしくは名がどの親の子かを表している。ある意味、極めて原始的な名前の付け方だ。で、それでは紛らわしいから、息子の名前が父や祖父やご先祖様までずーっとくっつけて組み合わせたような長い名前になってしまうのだ。東ローマには姓(というか王朝名)というものが一応あったような気がするが、もしかすると過去にさかのぼって学術的に王朝名を決めたのかもしれん。

ああもう、わけわからん。

アラブ人の名前が、子の名 ビン(イブン、ベン等とも) 父親の名、となっている方がまだ整然としているわな。そういや、中国人には姓があるがそれは中国が典型的なエクソガミー(外婚)社会だからだ。というか、エクソガミーがないところには姓もないか、希薄なのかもしれんな。

そうかそうか、昔、中国には、姓だけがあり、姓は女系で、氏は官位だったと。姓をもってたのは貴族だけだったと。なるほど。しかし、トーテムとかエクソガミーは、その由来は宗教が発達する以前の禁忌(タブー)であり、未開社会に固有なものであるから、貴族か庶民かというのは関係ないはずだ。だから、最初、中国にトーテム(母系で継承され、同じトーテムに属する者どうしは性的に交われない byフロイト)の部族があって、それがなにかの理由で支配階級(貴族)となって、それがだんだんと一般化していったのかもしれんな。

日本のウジ・カバネも一種の官位だわな。官位が世襲されてウジとなり、ウジの下の階層がカバネ。後の世では、土地の領主となってその土地の名を姓にしたりとか。

たぶん、こういうことだ、最初のグスタフとかアドルフとかが王朝の中で何番目だったがで番号を付ける。しかし、たまには二番目の名前まで一致していることがある。たとえば、フランツ・ヨーゼフとかヴィットーリオ・エマヌエーレとか。そうすると、フランツ1世ヨーゼフとはせずにフランツ・ヨーゼフ1世となり、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世となる。カール16世グスタフというのも、もし仮に、昔、カール・グスタフという王がいたら、カール・グスタフ2世とかになったのじゃないかと思うが、カール・グスタフ16世になるやもしれん。

あああ、わけわからん。

関心の無い時代

南北朝や室町時代が面白くて料理の仕方によればとても良いものができるのは間違いないが、
現代日本人がこの時代に興味を失って実に久しい。
室町音痴になってしまっている。
北条氏はせいぜい時宗までであり、足利氏は尊氏、義満、義政、あと関心が高いのは義昭くらいだろう。
一度そういう状態になってしまうと、人の関心を呼び覚ますまでの労力が半端ないことになる。
剣豪将軍として義輝を掘り起こした人がいてその努力は敬服するに値する。

で、北条氏末期の状態だけど、必ずしも、足利氏宗家支族が北条氏得宗家および支族よりも優勢になったからだとか、
足利氏の方が新田氏よりも優勢だったとか、両統分立がどうしたこうしたとか、
なんかいろいろ理屈は付けられるけど、
やはりどれが決定的というのではない。
そうやって疑い出すと承久の乱で北条氏が圧勝したのもわからんような気になってくる。

やはり、北条氏の治世が長くなって、北条氏や足利氏などが大きく育ちすぎて、人間関係が複雑になりすぎて、
宗家と分家の関係がぎくしゃくしはじめて、
宗家による独裁体制がうまく機能しなくなってきた。
そこへ皇統分立というのが口実になって内乱に発展した、ということだろう。
承久の乱にしても、固定化した身分や社会というものがうざくなったから起こったことではあるまいか。
後鳥羽院と北条氏の力関係というよりも。
権威と権力が未分化な社会から、軍事行政統治機構というものだけで存続しえるようになった画期的な事件だわな。
社会が少し進歩した証拠だ。

たとえば、鎌倉攻めでは最初に新田義貞が稲村ヶ崎の切り通しを破ったことになっている。
龍神が助けたはずがない。
たまたま新田に内通した北条方の武将がいて、切り通しを通してやったか、由比ヶ浜を守備するはずの艦船が無抵抗だったか、
とか、そんな事情だったのではなかろうか。

鎌倉と福原は良く似ていたが、それは、比較的狭小な天然の要害になっていたからだと思う。
それ以前に日本には城らしき城はなかった。
福原遷都は日宋貿易の都合というよりは、保元・平治の乱の反省に基づくものだ。
鎌倉に幕府を開いた理由もまた同じだろう。
中国式に町全体を城壁で囲うような労働力もなければ技術もないので、
比較的それに近い地形の場所を城塞都市にしようと思ったのではなかろうか。

鎌倉と福原はしかし同じような弱点があった。
町全体を守備するのは広すぎて、たとえ守りが堅くても「内通者が出たとき」「政治的に弱みがあるとき」対処できないのだ。
ある程度、守備側の人間関係が良好でないと守り切れない。
しかし、戦争中に人間関係に頼るのは不確定要素が大きすぎる。
基本的には中国の春秋戦国時代の城塞の攻防戦に近いものであろう。
城が落ちるのは、単に城の土木建築上の問題ではない。

だから、次第に山城や、もっと労働集約的で機能的な平城などになっていったのではなかろうか。
一ノ谷の合戦や鎌倉攻めで防御が破られたのはおそらくそんな理由だと思うのだ。

足利氏内部でのまとまりもなかったし足利氏がとびぬけて優勢だったわけでもなく、新田もすごく大したことあるわけではなく、
北条氏の残党も全然力を持っていた、義満による南北朝統一とか日明貿易というのも、
なんかすごいことのように言われているが多少調整能力があった程度だったようにも思われる。

たとえて言えば、室町時代というのは、主従関係がどろどろに解けてしまって、古代天皇制の中央集権から、
地方分権に完全に移行した時代だと言える。
天皇がいなければ国家のていをなさなかっただろう。
政治が乱れたようにみえるのはそのせいで、実は単なる無政府状態だった。特に関東など地方では。
天皇(と公家)が居たから国とか都というものが、政治的な実体は伴わないが、存在したのではないか。
そうしてみると、室町幕府を手本に作られた徳川幕府というものも、実質的には、どろどろにとけた地方分権状態だった、
と言った方がより実体を言い得ているかもしれん。
国とか都などといった中央政府が存在しなくてもすんだ幸せな時代だったとも言える。

それから、皇国史観というものが消滅したあとで、天皇家をまともに主役として描ける作家や脚本家が絶滅してしまったと思う。
まして親王を主役で描ける人はいるまい。
以仁王や護良親王などはけっこう良いキャラなのに。
他にもサブキャラで内親王などに面白い人はいるが、では内親王をヒロインにドラマ作るかということはしない(せいぜい和宮くらいか)。
武士や民間人しか主人公で描けない体質になってしまった。
だもんだから、その反動で、韓国の疑似歴史ドラマが流行るのではなかろうか、とすらかんぐられる。
さらに、世の中は歴史蘊蓄ばかりが発達して、ますますフィクション仕立ての歴史というものが描きにくくなっているように思う。

歴史の連鎖

川越素描で、

> だいたい日本人の好きな日本史というのは戦国か幕末維新である ・・・ それから、神話時代から平安鎌倉まではロマンもあって好きな人も多い。江戸時代は時代劇に使われる機会が多くて親しみやすい。比較的人気がないのは南北朝、室町である。特に建武の新政から応仁の乱までのぐちゃぐちゃした辺りが好きだというのはよっぽどの物好きである。

> どうしても室町の時代背景を書かねばならぬ。特に応仁の乱の頃のひどく人間関係が複雑で、スターもヒーローもアイドルも居ない泥仕合の時代を書かねばならぬ。

> 菜摘自身は、足利将軍家や室町時代がさほど嫌いでもないのだが、一般人はそうではない。嫌いである以前に無知無関心である。そういう連中にくどくどと説明しなくてはならないのが億劫なのだ。先日も清水の「特論」の講義で菜摘がかちんときたことがあった。清水が言うには、「南北朝や室町時代は中世の暗黒時代」である。特に応仁の乱の頃は「政治が廃れた」一方で、逆に能や書院作りなどの日本特有の「文化が栄えた」時代であって、「今の平成の時代とよく似ている」のだそうだ。《だめだよそれじゃあ。財界人や、司馬遼太郎にかぶれた連中がそういうわかったようなことを言うことはあるかもしれないが、歴史の専門家が、室町時代を「政治が悪く文化が栄えた戦後日本に似た時代」などと乱暴に決めつけてしまっては、日本の歴史というものは、永久に理解できないだろう。できるはずがない。まるきり違うものなのだから。室町時代は典型的な地方分権の封建時代。分権しすぎて政治が乱れた。今の日本は東京一極集中の議会制民主主義の時代だ。どこをどう比べれば似ているのか。》

などと書いていたのだが、最近思うに、南北朝や室町が嫌いとか、平安から南北朝への連絡、また、
室町から戦国への連絡がよくわからん、というのは、実は戦後の傾向であって、戦前の日本人はそうは思ってなかったのだろう。
というか、戦前と、その60年後の今では、歴史認識にも相当な進歩があるから、現代人の方がより深く日本史というものを理解しているのには違いない。
しかし、戦前の日本人は日本史というものを比較的連続な現象として把握しており、
どこの時代は理解できるがどこの時代はわからん、などということは少なかったように思う。

平家物語や太平記は発禁になったわけじゃない。原典は読めるし、
戦後も吉川英治の「新・平家物語」とか「私本太平記」などのような形で普及している。
だが、平家物語も太平記も、ありのままの形で鑑賞されているとはいいがたい。
間に入っている教育業界や出版放送業界によっていかようにもその印象は操作できてしまうのだ。
南北朝は変な時代だとか南北朝はダメな時代だとかそういう教育、そういう空気が世に満ちると、
みんな自分で確かめもせず、よみもせず、だいたいそんなものなのだろうと思ってしまう。

しかし、虚心に原典を順番に読んでいくと、特に太平記が特別難しいわけではなく、平家物語が非常に簡単なわけでもない。
戦国時代などは資料が少なくてわからんことの方が多いし、
江戸時代とても、そんなにふんだんに文献が得られるわけでもない。
原典を読むのはだいたいどの時代でも難しい。
それを、わかりやすいよう、理解しやすいようにする連中が、ある種の意図でもって、
太平記は難しくて偏向してる、平家物語は面白くてわかりやすい、などと言っているにすぎない。

日本史を一つの連続体として解説した割とまともな著書としては新井白石の「読史余論」と頼山陽の「日本外史」がある。
戦後の日本ではそういう教え方はしない。
まず、「日本外史」と「太平記」は教えなくなった。「読史余論」をじかに読むやつなどいない。
そうするとどうしても南北朝や室町というのは、ぼんやりとぼけてしまってわからんようになる。
で、なんで山名と細川が内戦始めたの、なんで義政は将軍のくせにあんな無気力なの、わけわからん、
尊氏も後醍醐天皇もどっちもどっちだな、戦争なんかやるのが悪い、
とまあこのくらいの認識になってしまう。

新井白石は実に頭が良くて、なぜ天皇の時代が武士の時代に移り変わったかということを、おそらく日本で初めて、
理知的に解説してみせている(白石の他の著書なども合わせ読むと、彼がごく普通の常識人であり、現代人とほとんど違わない感覚をもっていることがわかる)。
頼山陽はそういう武家の通史的な発想を全面的に受け入れつつ、北畠親房的水戸学的方向、
つまり天皇家中心の方向へ修正し、かつ、読み物として面白くなるよう軍記物的エピソードをちりばめている。

昔は「太平記読み」などと言ったように「太平記」はかなりメジャーな読み物だったが、戦後は皇国史観の源泉とみなされ排斥された。
歴史を擁護しているようでその封殺曲解に一番貢献しているのは司馬遼太郎だ。
彼は室町・南北朝を描かないし、平安時代は義経しか書いてない。
戦前の史観を戦後民主主義史観で置き換えるためにいろんな無理をしているせいだと思う。
それはしかし戦前の軍国主義者がやったことと何ら変わりない。自分の主義主張のために演出を加えているだけだからだ。
そのため時代間の接続がぶつぶつにされて、良い時代と悪い時代があるとされた。
連続に変化してきたその、なんちうか、一連の変動としてとらえる目が失われた。
ああやって、自分の好みの時代だけを切り取って、自分の都合の良い解釈をすれば、
歴史全体の流れはまったくわからんようになる。白石が苦心したのはそこだ。日本史全体の整合性はどうなっているのか、と。

私は、新井白石「読史余論」、頼山陽「日本外史」的な史観をもう少し丁寧に修復すれば良いだけだと思う。
これらの史観に偏向がないとは言わないが、今よりはまだまともだろう。
江戸時代の著作だから今から見れば誤謬もあろうがしかし、もともと戦前はおおまかにどのような歴史観があり、
戦後の歴史観のよろしくないところに気付くには良いものだ。

日本外史の愛読者の一人だからそう思うだけかもしれんが。