[USBフットペダル](http://akiba-pc.watch.impress.co.jp/hotline/20100220/etc_scythe.html)か。
値段もそれほど高くない。
五つか七つくらいあればFPSで武器の切り替えにちょうど便利な気がする。
あとはグラフィックス系の、たとえばペンタブ作業などでツール切り替えとか、どうよ。
投稿者: kelvint
徳川慶喜と勝海舟
引き続き、氷川清話。
明治31年3月2日、徳川慶喜が宮中に参内した。
つまりかつて自分があるじだった場所で臣下として明治天皇に拝謁した。
日清戦争も終わり、明治政府も安定してきてやっと実現したということだろう。
翌日、慶喜は勝海舟宅を訪れ、そのときのことを詠んだ歌:
> 鎌倉にもとゐ開きしその末をまろかにむすぶ今日にもあるかな
説明も要らぬくらいだが、頼朝から慶喜までの長きにわたった武家政権が、
確かにこの日に円満に決着がついたのだった。
> 結ぶうへにいやはりつめし厚氷春のめぐみに融けて跡なき
歌のできはまあ良いとも悪いともいいようのない勝海舟らしいものだが、
実に重みがある。
やまとのつち
和歌にはまだ何千年の寿命があるかもしれぬのに、
王朝時代までに和歌を封印しようとした丸谷才一は、やはり許せぬ、と思った。
明治の歌人たちの実験など笑って許せば良いのだ。
やまとうたは、日本という国の連続性の象徴なのである。
大和の土を詠める:
> 日の本のやまとの国のあらがねのわが生ひ出でしうぶすなのつち
幕末百人一首
菊池明「幕末百人一首」を読む。
なかなか面白い。
土方歳三は司馬遼太郎の「燃えよ剣」では下手の横好きの俳句詠みとして描かれているが、
> よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君や守らむ
とあってこれはどうにもこうにも、吉田松陰の辞世の歌
> 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂
のもじりにしか見えない。
坂本龍馬の
> 世の中の人は何とも言はば言へ我がなすことは我のみぞ知る
だが、これもどうも松陰の
> 世の人はよしあしごともいはばいへ賤が心は神ぞ知るらむ
と似てる。というか、定家の基準から言えば完全に本歌取りのレベル。
「我のみぞ知る」は聖書の文句「神のみぞ知る」のもじりだろう。
また明智光秀の
> 心知らぬ人は何とも言はば言へ身をも惜しまじ名をも惜しまじ
とも似ている。
普通の武士や浪人ならこの程度で上出来か。
そういう意味では松陰の本歌はなかなかすぐれている。
いろんな影響を受けつつも「我がなすことは我のみぞ知る」の部分はまあ良い。
かなりまともな方としては、徳川慶喜
> 踏み分けて尋ぬる人のあとをこそ若菜の雪も下に待つらめ
あるいは林忠崇
> 真心のあるかなきかは屠りだす腹の血潮の色にこそ知れ
などだろうか。
他にも良いのがあるが、もう一つ挙げるならば、清水次郎長の辞世の歌
> 六でなき四五とも今はあきはててさきだつさいに逢ふぞうれしき
がなかなか博徒らしくて面白い。
四五六がチンチロリンを思わせる。
「さい」は妻と同時にサイコロをかけているのだろう。
だが、清水の次郎長時代にはたして丁半はあったとしてチンチロリンがあっただろうか。
あまりに良くできているので、後世の偽作もあり得ると思うのだが。
しかし今のところ確かめようもない。
なんと内村鑑三がこの清水次郎長の歌をほめているらしい。
> 私は近ごろ東海道の侠客、次郎長の辞世の歌が目に触れました。博徒の長の作ったものでありますから、歌人の目から見ましたならば何の価値もないものでありましょうが、しかし、もしワーズワースのような大詩人にこれを見せましたならば、実に天真ありのままの歌である、と言って大いに賞賛するであろうと思います。
> 多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望にあふれたる思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。彼、次郎長は侠客の名に恥じません。彼はこの世にありて多少の善事をなした報いとして、死に臨んで、このうるわしき死後の希望をいだくことができたと見えます。
ほんとかいな。
[山岡鉄舟研究会](http://www.tessyuu.jp/archives/2007/11/index.html)
参照。
氷川清話
今更だが、「氷川きよし話」、ではない。
江藤淳・松浦玲編「氷川清話」を読み返すと、
いろいろ読み飛ばしていることに気づく。
頼山陽について、二箇所ばかりでてくる。
一つは、自作の川柳だか俳句だかとくらべて山陽の詩
「泊天草洋」を「まだまだ小さいヨ」などと評しているところだが、
これはどうだか・・・。むしろ山陽の詩のすぐれているのを再確認したくらい。
天草灘に沈む西日はさぞかし雄大でうつくしかろうなと思った。
> 三囲(みめぐり)の社に続く干割れ田を神はあはれとみそなはさずや
これもどうもなんとも言いようがない、というか、
良いとも悪いとも言いようがない雨乞いの歌だが、
「おれも歌も天地を動かし鬼神を哭かしむるほどの妙がある。大野小町や室井其角にも決して負けない」
などと言っている。
小野小町の歌とはつまり
> ことはりや日の本ならば照りもせめさりとてはまた天が下とは
だろう。
筒井康隆の初期の短編SFに出てきたような。
本人の作じゃないよね?
其角の雨乞いというのは
> 夕立や田を三囲の神ならば
この俳句らしいのだが、ますますわからん。
もう一箇所は、北条義時をほめて「頼山陽などは、まだ眼光が小さいワイ。おれも幕府瓦解のときには、
せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ」などと言っている。
こちらもどうも頼山陽の誤読のような気がしなくもない。
陸奥宗光が死んだときに詠んだ歌として
> 愚かなる女もたけきもののふもつひにくさむす屍なりけり
というのがあるが、これはどう見てもひどい。
元勲を詠むといって
> 時ぞとて咲きいでそめしかへり咲き咲くと見しまにはやも散りなむ
これもどうにもこうにも。まあこういう調子。
私小説のすすめ
小谷野敦「私小説のすすめ」を読む。
比較的最近の本。
特に異論はない。さらっと読めた。
というか私はそもそもあまり小説というのは読んでないのだな。
いろんなものをつまみ食いはするが。
いや、読んでないわけでもないか。
小説で一番まじめに読んだのは中島敦かな。
なんとも言い難い。
ちなみに田山花袋「蒲団」は読んだことがあった。
ちなみに敢えて「蒲団」の感想を書けば、なんか嫌ぁな気分になる読後感の悪い小説、
しかも私小説となると余計に気持ち悪い感じといえば良いか
(しかし、三島由紀夫の虚構に盛られた私的世界の方が気持ち悪さという意味ではずっと強い)。
丸谷才一が代表的な反私小説的作家とあって、確かにそんな感じはする。
いきなり「エホバの顔を避けて」だし(その後のは概要しか知らないが明らかに私の嫌いな、読みたくないタイプの小説)。
たぶん自分の内面をさらすのが嫌なのだろうし、
作品と自分自身の実体験を極力切り離して、少なくとも悟られないようにしようと努力するのだろう。
絵画であれ文章であれ、
ほっとくとどんどん自分の主観が表れて、
それを見ると自己嫌悪に陥ってしまう。
そうなるとそういう私小説的な文章やら絵はかけまい。
さらにそこから進むと批評しか書けなくなるのではないか。
いつもこの人の文章をブログで読んでいるので、
新書で読むとなんか一瞬何かぐらっと変な感覚がした。
それはそうと書籍名を「」でなくて『』で囲むのには何か意味あるのか。
Wikipedia でもそういう書き方をする人がいるようだが。
ところで丸谷才一がいきなり「後鳥羽院」を書いた理由が未だにわからない。
当の「後鳥羽院」を読めばわかるのかもしれんが。
思うに丸谷才一という人は、
懲役忌避やら現代における封建時代の残滓などをテーマとしたような小説を書いたそうだから、
戦前の軍国主義につながるようなものは一切受け付けないのかもしれない。
となると、丸谷才一にとって日本文学の中で拒絶反応を示さず、
純粋にその世界の中に浸れるのは、悠久の昔からたどってきて、
完全に軍事放棄し軍事音痴と化した平安王朝と、武士らに滅ぼされた後鳥羽院までの文学なのかもしれん。
王朝が破局したあと、
武家のたしなみとしてそれなりに継承され、再発見され、
発達した和歌とか、軍国主義を無批判に礼讃したような和歌などは、
丸谷才一は大嫌いだろうと思う。
だが、丸谷才一はたぶん自分の本当に言いたいことは隠す人だから、
いろいろ読んでもすぐにはわからない仕組みになっているに違いない。
順徳院
ひきつつぎ新々百人一首。
> 蝉の羽のうすくれなゐの遅ざくら折るとはすれど花もたまらず
これはまあまあ良い歌。
紀貫之
ひきつつぎ新々百人一首。
> 秋の山もみぢを幣と手向くれば住むわれさへぞ旅心地する
面白いかといわれればそんな面白くないかもしれんが、書き留めておく。
やはり「旅心地する」の辺りが良く効いている。
後鳥羽院
ひきつつぎ新々百人一首。
> 今はとてそむきはてぬる世の中に何とかたらむ山ほとどきす
和泉式部
ひきつつぎ新々百人一首。
つゆばかり逢ひそめたる男のもとにつかはしける (和泉式部)
> しら露も夢もこの世もまぼろしもたとへていはば久しかりけり
すごいなぁ。
この誇張表現。
なるほど、丸谷才一は「はしがき」に言う:
> これは簡単に言ってしまへば、「アララギ」ふうの史観に対する拒否である。
つまり「万葉集」が屹然と聳えたのち、勅撰和歌集という無視して差し支へないものが二十一もつづき、
その時代では源実朝だけが推奨するに足り、やがて平賀元義その他があって、うんぬん
> 打ち割って言へばわたしはいはゆる近世和歌にも現代短歌にもあまり親身な者ではない。
悠久の昔にはじまって応仁の乱の頃に終焉を告げた王朝和歌といふこの文学形式を明確に意識してなつかしむことが、わたしと和歌との重要な関係なのである。
と。
なるほど。
平賀元義という人は初めて知ったが(なんかえたいのしれない擬古文臭い和歌を詠む人なのね)、
要するに正岡子規や斎藤茂吉らが流行らせた明治以降の短歌が好きではない、ということなのだろう。
だとすれば丸谷才一が自らは一切歌を詠まないという姿勢もわからなくもない。
実際、正岡子規は、俳句はともかくとして、和歌はまったく大したことがない。
良いのは一つか二つあるかどうか。
斎藤茂吉も全然よろしくない。
古今集の頃はみな話し言葉でそのまま和歌を詠めたのだろう。
万葉集や古今集、後撰集、拾遺集までは、自然と世の中で流行した歌を集めていればそれで事足りた。
中には紀貫之のような宮廷歌人や職業歌人と呼ばれる人も居ただろうが。
しかしだんだんに、おそらくは言葉自体が、あるいは歌というものが変化していき、
古い形を保ち続ける和歌というものはもはや民間ではおこなわれなくなり、
歌人とは宮廷歌人つまり公家しかいないという時代がまずは来た。
これが新古今時代。
和歌というのは、節回しも抑揚もなしにのっぺらぼうに歌うものだが、
だんだんに世の中が進化してくると、楽器に合わせたり舞にあわせたりして歌われるようになる。
つまり歌から音楽や舞踊や演劇というものが分かれてくる。
また、連歌とか歌合などといった娯楽競技として行われるようになる。
ルールや技巧が細分化していく。
応仁の乱以降、宮廷が消滅してしまったわけだが、しかし、
今日の多くの日本文化が室町時代までさかのぼれるように、
和歌も一部は武家のたしなみとして存続していた。
そうして考えれば、勅撰和歌集の終焉とともにすっぱり和歌の寿命が絶えたと考えるのはいかにも乱暴だし、
おそらくは不可能な議論だ。
かといって、古今集の時代はそうだったかもしれんが、
明治になっていきなり、粗雑な会話文でもって短歌などというものを作り出すのも無茶だ。