宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

シチリアとロシア

Expedition of the Thousand

Britain was worried by the approaches of the Neapolitans towards the Russian Empire in the latter’s attempt to open its way to the Mediterranean Sea; the strategic importance of the Sicilian ports was also to be dramatically increased by the opening of the Suez Canal.

面白い話だが、シチリアとロシアの関係がいまいち裏付けが取れない。

まあ、おもしろけりゃ嘘でもかまわんが。

アルプス猟兵隊

アルプス猟兵隊 (Hunters of the Alps) というものがある。これはガリバルディが編成したフランス・サルディーニャ連合軍の別働隊であり、ソルフォリーノ戦と並行してスイスに近いミラノ北部でオーストリア軍と戦い、撃破。これがのちのシチリア上陸の際の赤シャツ隊となった。名前が紛らわしいが、しかし、明らかにこれはスイス傭兵ではない。

宮家

[今日の産経抄](http://sankei.jp.msn.com/life/news/111126/imp11112602500001-n1.htm)に、

> 当時の皇室は、財政難もあって天皇の子供でも皇位継承の可能性が高い親王を除き出家させるのが普通だった。承応3(1654)年に後光明天皇が若くして崩御した際には、皇族男子はほとんど出家しており、綱渡りの状態で後西天皇が即位した。

> 事態を憂えた白石は、徳川家に御三家があるように、皇室にも皇統断絶を防ぐため新たな宮家が必要だと論じた。白石が偉かったのは、宮家が増えるのは武家にとって不利ではないか、という慎重論を一蹴、「ただ、武家政治の良否のみに関係する」(折りたく柴の記・桑原武夫訳)と幕府の枠を超えた判断を示したことだ。

などとあって、これを読むだけだと、先に徳川氏の御三家があって、それを参考にして宮家が創設されたように思えるが、
wikipedia で宮家など読むと、宮家というものが、北条氏による鎌倉時代の両統迭立の頃まで遡ることができるのがわかる。

持明院統と大覚寺統に分かれた両統迭立というものは南北朝の原因になったと批判され、
新井白石の宮家創設は皇統断絶を防いだ名案だった、というのは後付けの理屈にすぎないのではないか。

徳川氏の御三家とか御三卿というのは、本家と分家の関係であり、本家が途絶えたときに分家が代わりに血統を継ぐというものであろう。
両統迭立というのは、持明院統と大覚寺統が対等で、そのために継承争いが激化した、とみなされているのかもしれない。
両統迭立の実態はそんなに簡単なものではなかったし、宮家が併存する場合でも(皇位継承順が明確に定められていない場合)、
決して問題がおきないとは言えないのではないか。

結局、新井白石の処置は事後的に適切だったといえるだけではなかろうか。

しかし、後西天皇とは紛らわしい名前である。
「後」が頭に付くのだから「西天皇」という天皇が前にいなくてはなるまい。
調べてみると、第53代淳和天皇の別名「西院天皇」にちなむという。
それで後西院と追号されたが、後西院が院号のようだというので、大正時代に後西天皇と呼ばれるようになったという。
明治以前には院号だけがあり、天皇号が存在しない天皇もいたために、明治時代には後西院天皇と呼ばれていたそうだ。
ややこしい。
最初から後淳和天皇などという名前にしておけばよかったのに。

鉤月

道元の山居という漢詩は日本の文芸史の中では割と有名な詩らしく、少なくとも決して珍しい詩のたぐいではなくて、北川博邦『墨場必携日本漢詩選』、猪口篤志『日本漢詩鑑賞辞典』などに掲載されている。「墨場」というのは初めて知ったが、文人たちが集まる場所、という意味だという。で、長いこと、「釣月耕雲慕古風」というフレーズで、僧侶である道元が、魚釣りをしたりするのだろうか、と疑問に思っていたのだが、原文は「鉤月」であって、「鉤」は「釣り針」の他にも一般に「鉄製のかぎ爪」という意味であり、「農作業に使う鎌」の意味もある。それで『墨場』では「鉤月」を月明かりの下で刈り取りをする、と解釈している。「鉤月耕雲」は従って、空には月がかかり、雲海を見下ろしながら、山の中の畑で、作物を刈り取ったり、耕したりしている、という情景を詠んだものとなる。真夜中というよりは、夕暮れか早朝が似つかわしいのではないか。季節は同じ詩の中で冬と記されている。いかにも修験者、禅僧の日常生活らしい。

道元であるから、居場所は永平寺であろう。福井県の山の中である。禅宗と共に渡来した食べ物といえば、蕎麦か豆腐であろうから、山畑で刈り取っていた作物は蕎麦か大豆などである可能性が高いのではなかろうか。或いは茶かもしれぬ。「鉤月耕雲慕古風」をそのように解釈すると、ちょうど我々の気分にしっくりくる。

ただまあ、「鉤月」とは実に曖昧な表現であるから、ほんとにその解釈で必ずあっていると言うのは難しいと思う。或いは、「鉤」や「鈎」とは『日本外史』などでは「鉄製の熊手」のことで、弁慶など山伏などが武器の一種として携帯していたという。となると、「鉤」は、落ち葉を集めるのに使ったのかもしれんし、畑を耕すのに使ったのかもしれない。

裏柳生口伝

小池一夫原作の漫画「子連れ狼」(1970-1976)には主人公・拝一刀の

仏に逢うては仏を殺し、父母に逢うてはこれを殺し、祖に逢うては祖を殺し、しかして、何の感情も抱かぬ、無字の境地に至れぬものか!

というセリフがある。こちらのサイトにはその英訳も掲載されている。

Meet the Buddha, kill the Buddha. Meet your parents, kill your parents. Meet your ancestors, kill your ancestors.

などと訳されているのがわかる。映画「子連れ狼」(1972-1974)にも同様のセリフが出る。いくらおにぎりブログ

阿弥陀如来に申し上げる。我ら親子、六道四生順逆の境に立つもの。父母に会うては父母を殺し、仏に会うては仏を殺す。喝!

深作欣二監督の映画『柳生一族の陰謀』(1978年)では、柳生宗矩役の萬屋錦之介が

親に会うては親を殺し、仏に会うては仏を殺す。

と言い、同年テレビドラマ版『柳生一族の陰謀』では、柳生十兵衛役千葉真一の冒頭のナレーションで、

裏柳生口伝に曰く、戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。
人としての情けを断ちて、神に逢うては神を斬り、仏に逢うては仏を斬り、然る後、初めて極意を得ん。
斯くの如くんば、行く手を阻む者、悪鬼羅刹の化身なりとも、豈に遅れを取る可けんや。

とある。テレビドラマで「親に会うては親を殺し」は刺激が強すぎるのかもしれん。「神に逢うては神を斬り」はこれが初出か。いかにも日本的な言い回しではある。

『魔界転生』(1981年)では

神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。

という言い回しがあり、『キル・ビル』ではやはり千葉真一がハットリハンゾウ役で

自惚れではなく、これは私の最高傑作。

旅の途上で、神が立ちはだかれば、神をも斬れるであろう。

などと言っている。これの源流は、臨済宗の祖、臨済の言葉を記した『臨済録』の中に出てくる以下のくだりであると思われる。

爾、如法の見解を得んと欲せば、但、人惑を受くること莫れ。
裏に向かい、外に向かひて、逢著せば、便(すなは)ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん・親族)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず、透脱自在なり。

道流、爾欲得如法見解、但莫受人惑。向裏向外、逢著便殺。逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷、始得解脱、不與物拘、透脱自在。

臨済という人はずいぶん過激な人だったようだが、禅宗由来と言われればたしかにそんな気がしてくる。

戦えば必ず勝つ。此れ兵法の第一義なり。

ここは深作欣二のオリジナルらしいが、孫子の兵法形篇

勝兵先勝而後求戦、敗兵先戦而後求勝。

「勝兵は先づ勝ちて而る後に戦ひを求め、敗兵は先づ戦ひて而る後に勝ちを求む」が出どころであろう。

ところで頼山陽には「兵児の謡」という詩があって、前後に分かれているが、その前半は

衣至骭 袖至腕
腰間秋水鉄可断
人触斬人 馬触斬馬
十八結交健児社
北客能来何以酬
弾丸硝薬是膳羞
客猶不属饜 好以宝刀加渠頭

衣は骭(すね)に至り 袖腕に至る
腰間の秋水 鉄断つ可し
人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を斬る
十八交を結ぶ健児の社
北客能く来らば何を以って酬いん
弾丸硝薬是れ膳羞
客猶ほ属饜(しょくえん)せずんば 好(かう)するに宝刀を以て渠(かれ)が頭に加えん

  • 秋水 よく切れる剣。日本刀の美称
  • 健児の社 薩摩藩が青年藩士のために設けた教育機関。
  • 膳羞 ごちそう
  • 属饜 飽きる

薩摩男子は、裾は脛まで、袖は腕までの短い粗末な服装だが、腰に差した剣は鉄も切れるほどに鋭利である。立ち向かってくるものがあれば、人だろうと馬だろうと何でもかまわず斬る。十八歳になると健児の社に加わって同志と交わる。薩摩の北から客が訪れれば、何をもって応対しようか。弾丸や硝薬、これごちそう。客がそれでも飽き足りないときには、頭に宝刀を加えて引き出物としよう。

ここで、人でも馬でも斬る、という形になっている。もともと薩摩の民謡を漢詩に翻案したもので、そのオリジナルは

裾は脛まで 袖は腕 腰の剣は鉄も断つ

人が触れば 人を斬り 馬が触れば 馬を斬る
若さを誓ふ 兵児仲間

肥後の加藤が来るならば 煙硝(えんしょう)肴に弾丸(たま)会釈

それでお客に足らぬなら 首に刀の引き出物

というようなものであったらしい。

「兵児の謡」の後半は、しかし、

蕉衫如雪不愛塵
長袖緩帯学都人
怪来健児語音好
一操南音官長瞋
蜂黄落 蝶粉褪
倡優巧 鉄剣鈍
以馬換妾髀生肉
眉斧解剖壮士腹

蕉衫雪の如く塵をとどめず
長袖緩帯都人を学ぶ
怪しみ来る健児語音の好きを
一たび南音を操れば官長瞋る
蜂黄落ち蝶粉褪す
倡優巧みにして鉄剣鈍し
馬を以て妾に換え髀肉を生ず
眉斧解剖す壮士の腹

  • 蕉衫 芭蕉布の服
  • 蜂黄落蝶粉褪 蜂の黄色い色は落ち、蝶の粉は色褪せてしまった。女色に退廃したようす。
  • 倡優 芸能
  • 眉斧 美人

衣服は真っ白で一点のちりも無く、袖は長く、帯は緩く、都人の流行を真似ている。健児らの言葉遣いも都びていて、薩摩弁で話しかけると官長が怒り出すしまつ。女色に溺れ、芸事は旨くなったが鉄剣は鈍い。馬を妾に換えて股に贅肉が付く。美人が壮士の腹を割いてしまった。

頼山陽は1818年、37歳頃に九州各地を漫遊している。長崎から雲仙、熊本、薩摩と移動したようだ。諸国を観察して、詩を作ったり、それを揮毫して小遣い稼ぎしたり、歴史を学んだりしたかったのだろう。「肥後の加藤」とは清正のことだろうから、秀吉の時代の歌であったのが、山陽が薩摩を訪れた江戸半ばすぎには、島津家中の武士ですら、贅沢に馴れていた、というふうに鑑賞すべきである。

時に薩摩藩は島津重豪の時代で、開明的だが浪費家で、死後大赤字を残したことで有名だ。鎌倉宮の謎参照。

入院してた2

最初行った病院は自宅最寄り駅の駅前の病院で、かりにA病院とすると、ここは入院患者は老人ばかりで、それ以外は外来。私はなんか利尿剤か何かを処方されて外来で通院するものとばかり思っていたので、とりあえずここへ来たのだが、CTとったり心電図とったりしたら、とにかくもう心房細動が出まくっていて、心拍も速く、CTには水が一杯たまっていて、今から紹介状書くからすぐ入院した方が良いといわれた。明日の朝か来週からでも良いかと聞いてはみたが、あなたはとても重症なので、すぐ入院すべきだ、ということを言われる。

そんで、タクシーで次の病院へ行き、B病院に入院する。ここでは超音波エコー診断などしたのだが、やはり、心臓の収縮率がとても悪い、心臓がほとんど動いてない、などとおどされる。あとやはり心房細動・心拍数がやばいといわれる。

尿道カテーテルを刺され、利尿薬を注射される。水は一日に500mlまでしか飲んでいけないといわれる。何かあったら言ってくださいと看護師に言われるが、言われると同時に異様な渇水感が高まってきて、とにかく水が飲みたくて飲みたくてたまらなくなる。何かとてつもなく純粋な、水に対する離脱症状のようなものが襲ってきて、気が狂いそうになって、まったく我慢できない。きっと拷問に利用すれば効果的だろうと思う。それで水を飲ませてもらうのだが、のどはからからに乾くし、うとうとしていると何か痰のようなものがのどにつまって息ができなくなるし、水を飲みたいのも全然おさまらない。

どういう状況だったのかよくわからんが、仮に血中アルブミンが不足した状態で利尿薬を大量に注射すると、腹水はそのままで、血中の水分が腎臓から尿として出てしまい、急性の脱水状態になってしまうのではないか。

ただ、だんだん体が利尿薬になれてきたのか、次第に尿が出てものどが乾いたり水が飲みたくなることもなくなり、腹水やらがびゅんびゅんカテーテルから出てくるようになる。B病院では手作業で利尿薬を注射していたのだが、B病院は2泊でC病院に転院。B病院では循環器系の精密検査ができないという理由。とにかく超音波の結果でも判明したけどあなたは特に重症だからという理由で転院を勧められる。

C病院ではシリンジポンプというものを使って時間当たり一定量を輸液する。点滴というのは、重力を利用して輸液するのだが、シリンジポンプは注射器のピストンを一定の割合で動かすことによって、薬を一定時間の間、一定のきまった量を体内に送り込めるのだ。うーんと、普通の生理食塩水を普通のやり方で点滴して、それが本線で、それに合流する形で一つないし二つくらいのシリンジポンプからの輸液がつながれる。

C病院では24時間連続で利尿薬を輸液された。そうするともうものすごい勢いで尿が出る。一日で6リットル、全部で10リットルは出たはず。10リットルとは10kgですよ。体重も一気にそのくらい減った。入院前に82.4kgだったのが、退院時には70.2kgになった。

それだけたくさん水が出ても特にのどの渇きは感じなかった。たんたんと腹水や肺の水が抜けていったのだろう。同時に足のむくみもなくなった。

ある程度抜け切ったのをレントゲンで確かめると、今度は利尿薬を錠剤で、一日一回、朝食後に飲むだけとなった。たぶんこれはあまり効果はないし持続もしない。すでに水は抜けていたのだから、これ以上水がたまらないようにという予防だろう。また、血液の量が増えると心臓に負担がかかるので、脱水状態に近いくらいにしておいたほうが良いというのが医師の説明。血液が濃くなるので、さらさらになるような薬を同時に飲む。

C病院でそうやって大量に利尿薬を輸液された、最初のとき、手足がつって痛くなった。体液を急に抜いたためカリウムが足りなくなったせいだという。そこでカリウムも輸液することになったのだが、これがまた、血管に非常に負担のかかる薬らしく、点滴の針を刺したあたりが非常に痛む。三時間たったら終わると言われたのだが、実に長い難行苦行であった。基本的に薬物治療だけだから、入院したら安眠できると思ったが実はまったくそんなことはなかった。とにかくいろんな薬を次々に打たれ非常に苦しんだ。

氷枕気持ちいいなとか思っていると、意識が無くなるように寝てしまって、はっと気付くとま夜中だったりする。熟睡しているのか意識を失ったのかよくわからない眠り方がよくあった。

入院してた。

7月5日から17日まで入院していた。12泊13日。

心臓の超音波エコー、カテーテル検査、MRI、X線CTなどさまざまな検査を受けたのだが、病名は「拡張型心筋症」「アルコール性心筋症」の二つに絞り込まれた。この二つは、初期段階ではきわめて類似していて、いまどちらかと特定するのは難しい。

「拡張型心筋症」は心臓が肥大することなく、心室内部が拡張して、心筋が薄くなっていく病気であり、原因不明の進行性で、治ることはない。薬物治療で延命するか、最悪心臓移植くらいしか治療法がない。

「アルコール性心筋症」の原因はずばり酒の飲みすぎ。10年以上にわたり、大量の酒を飲み続けると発症する。断酒すると3ヶ月くらいでほぼ完治するそうだ。

医師の話を聞いたり、カテーテル検査などを見せてもらうと、私の心臓は肥大しているらしい。肥大するということは、弱った心臓の力をおぎなうために心臓が大きくなる「代償」という現象で、「拡張型心筋症」には見られない。なので、肥大があるということは「アルコール性心筋症」である可能性を大きくするが、まだ初期段階なので、なんとも言えない。

ともかく数ヶ月以内に「拡張型」なのか「アルコール性」なのかは明らかになるわけだ。
状況的には「アルコール性」である可能性が高い。何しろ、だいたい20年間くらいは毎晩のように酒を飲んでいたし、近頃はすべての小遣いを飲み歩きだけに使ってきたし、それもほとんど一日も空けず、毎日、ビール中瓶換算で4、5本以上確実に飲み続けてきたのだから。だが、「拡張型」ではないと現時点で断言することはできない。

「拡張型」だと今以上に良くなることはありえない。じわじわと悪化していくだけ。それを薬で抑えてなんとかしのぐしかない。幸いにして、今のところ日常生活に困るほどではない。みんながすぐ死んじゃうような病気ではない。だけど「アルコール性」なら完治するわけで、私としてはできるだけそちらであってほしい。

今回、肺だけでなく腹や胸などにも水がたまっており、とくに、肝臓の周りや下腹部などにも水があった。足もむくんでいた。ということは、私の場合、体全体で同時多発的に、水漏れが起きたということである。これは、体全体で静脈内の圧力がある一定水準を超えたことを意味する。動脈はもともと圧力が高いけれども、心臓のポンプとしての力が弱ると静脈の圧力も上がるらしい。そうすると静脈の毛細血管から体液として水が漏れ始める。というより、静脈内の圧力が高いために、体液が静脈に戻っていけなくなる。

ところで、腹水がたまる理由としては、肝臓の機能が低下して、アルブミンという血漿タンパクが生成されないこともありえる。アルブミンは血液中にあって、血液の水分が不足すると、それを毛細血管を通じて体液から水分を補って、血中水分を増やそうとする。

利尿薬を飲むと、腎臓から血の中の水が尿となってどんどん出ていくので、アルブミンが作用して腹水や肺の水などを抜いて血管に戻してくれるというわけだ。心臓の機能は短期間の療養では簡単に回復しないらしく、私が退院する時点でも、まだ静脈圧力は高いままだった。私の心臓はかなり以前から弱っていて、静脈圧力も高い状態だったように思われる。それが急に水漏れし始めたのは、別の、複合的な要因もあったのではないかと疑われる。

たとえば、酒の飲みすぎか何かで、肝臓の機能が落ち、アルブミンの生産が不足したとする。静脈圧力が高いところにアルブミンが不足すると、一気に腹水がたまり始めるだろう。

そもそも「アルコール性」心筋症というのは、酒の飲みすぎで肝臓がへたった結果、心筋に何らかの、原因不明な、悪影響を与えて発症するものではなかろうか(そういう学説があるらしい)。アルコールが直接心筋を痩せさせるとは考えにくい。アルコールによって疲れた肝臓が、心筋に必要な何かを不足させたり、心筋を弱める毒素か何かを分泌するのかもしれない。

と考えると、「アルコール性心筋症」を治すにはまず肝機能を回復させなくてはならないということになる。飲酒習慣のある者がアルコールを断つと肝臓の機能は、少なくとも肝硬変よりずっと手前の初期の段階では、かなりすみやかに回復する。肝臓が元気になれば、心筋も元気を取り戻す。「アルコール性心筋症」の回復に三ヶ月程度を要するという理屈をうまく説明できる。

まあ、私の場合、自他共に認める大酒飲みであったから、「アルコール性心筋症」である可能性がかなり高いが、今はまだ予断を許さない状況だ。

そろそろ病院にいくしかないと思っている。

今月頭くらいから肺に水がーなどと言っていたのだが、治るかと見せかけて治らなかったりして、とりあえず今週末は酒を抜いて自宅で養生してみて、それでもやはり肺に水が入ってくるようであれば、観念して医者へ行こうと思う。

心臓がばくばくしたりとか、息苦しいということはもはやないのだが、とにかく腹がはる。腹がはると苦しくて身動きとれない。

傾向としてだが、朝方の方が夕方よりも腹がはる。夕方、さらに、酒を飲んだりすると割と楽になるので、治ったかのような気分になるが、たぶんこれが良くない。反動で次の日の朝、かなり水がたまる。

水は安静にしているときにたまる。つまり夜中寝て居るときとか。昼間も横になっているとたまるので、逆に昼間は、ずっと軽作業などしている方が楽。

運動を始めると腹が張り始めるのだが、これは、運動によって新たに水がしみてきたというよりは、呼吸と水がまざって肺の中でふくらむのだと思う。肺を圧迫することによってある程度は肺から水が抜けることはある。

食欲は普通にある。

タフマンの車内広告だらけだったので栄養ドリンクでも飲んでみるかとコンビニに行ったがタフマンはなくて、リポビタンDを飲んでみたのだが、少し元気になる気がした。

尊観

尊観という人を、ざっとネットに落ちてる情報だけで調べると、およそ二人いる。

一人は、1239-1316。名越朝時の子で浄土宗の僧侶。

もう一人は、1349-1400。時宗の遊行上人12世。時宗中興の祖。

この二人目の尊観は亀山天皇の孫で、亀山天皇が生前最後に西園寺家の娘に生ませた恒明親王の王子の深勝法親王と同一人物であるという説があるという。Wikipedia もこれに従う。

しかしながら『日本外史』では、尊観は南朝後村上天皇の子であると言っている。つまり、後村上天皇は最初皇子がなかったので、亀山天皇の孫(深勝法親王。外史では誤ってこれを恒明と呼んでいる)を養子としたが、後に実子が生まれたので、養子を僧侶とした。これが尊観であるという。

たぶんいずれも伝説なのだろう。高名な僧侶はこのようにして皇族のご落胤とされている可能性が高いとみなくてはならない。

尊観は、上野国祝人(はふり)村に隠れていた家康の遠い祖先で新田氏の末裔の有親(ありちか)を得阿弥という僧侶とし、連れていた二人の男子のうち長男を長阿弥とし、もう一人はまだ幼かったので僧侶とはならず、徳寿と呼んで、三河に逃れたのだという。徳寿は松平氏に養われてのちに松平泰親となり、これが三河の徳川家の遠祖となったというのだ。また長阿弥は後に親氏と名乗り、その子・広親は徳川譜代の酒井氏となったという。

Wikipedia によれば「徳阿弥」と名乗ったのは有親の長男の親氏の方であって、彼が松平家の祖だとなっている。

これらは、いずれにせよ、松平家と酒井家が清和源氏の血を引いているということをいうために作られた伝説に違いないわけだが。

Wikipedia では、松平泰親は長氏の嫡男であるともし、またやはり弟でもあると書いている。

以前にも似たようなことをうだうだ書いた。

徳川氏の歴史を読んでいると「上野」という地名が出てくる。これは「三河国碧海郡上ノ庄」もしくは明治以後の「三河国碧海郡上野村」のことらしい。紛らわしい。

また、「伊奈」という地名も出てくるがこれも信濃の天竜川の伊奈谷と紛らわしい。豊川市伊奈町(旧宝飯郡小坂井町伊奈)、本多氏の居城・伊奈城というものがあった。