なぜ勅撰和歌集は江戸時代には無くなってしまったのだろうか。
なるほど、応仁の乱で途絶えたわけか。
しかしまあ、「室町時代は政治が貧困で文化が栄えた」的な言い方をすれば、 勅撰和歌集が途絶えたのは文化的には衰退なんじゃないのか。ねえ。和歌を詠む伝統は無くならなかったが、勅撰和歌集というものだけが消えてしまったのだろうか。あるいは宮中の歌合などもか。
なぜ勅撰和歌集は江戸時代には無くなってしまったのだろうか。
なるほど、応仁の乱で途絶えたわけか。
しかしまあ、「室町時代は政治が貧困で文化が栄えた」的な言い方をすれば、 勅撰和歌集が途絶えたのは文化的には衰退なんじゃないのか。ねえ。和歌を詠む伝統は無くならなかったが、勅撰和歌集というものだけが消えてしまったのだろうか。あるいは宮中の歌合などもか。
勉強の苦し紛れにしるしなき歌の一つも詠みてみむかな
これといふしるしもなしに遅くまで起きて思ふはほかのことかな
このごろは部屋の窓にもカーテンをひきこもりてぞ暮らしつるかな
やとはれのおきなをうなら熊手もて落ち葉あつむるしはすなりけり
寝るのにも起きてレポート書くのにもどうしようもなく蒸し暑い夜
対数が逆さまだった最初から書き直しだよ頭に来るな
ひさしぶりにこたつを出してあたりつつ松本伊代の歌など聴けり
金のない学生なればやきそばの三食分を晩飯にすれ
ここちよきものにこそあれひろびろとひとりこたつにうたたねするは
ここちよききはみにぞある血を吐きて床に伏したる祖父を思はで
電話引き初めて受けし連絡は故郷の祖父の血を吐きぬとぞ
わが家はいかにあるらむことしげきをりは人手も足らざるらむを
朝の日に窓は白みてあまだれの音にまじりて鳥のねもする
ひねもすに雪のふりても冬のごといとど寒くはあらぬよはかな
春来むとけはひはすれどたれこめてけふまたのべに雪ぞふりつむ
雪降れば壁にむかひて日のささぬ窓もひときは白き朝かな
大君のあとをしたひてつとめてに代々木の杜にまゐる人々
つとめての雪白きのべにつどひきてひごとにすらしラジオ体操
さくらばな咲きそむらむと岡の上にひごと登れど今日もふふめり
寝てもよし日に当たりてもよしスロープの芝生の若芽おひいでにけり
大根をまるごともとからしっぽまでおでんの素で煮てくひにけり
大根を輪に切るひまの広ければなかなか芯まで煮えきらざるなり
安ければ一度におほく買ひけるが鰯ばかりをただ食はなくに
春休みまだあけざれば図書館にふみよむ人も少なかりけり
安しとは書かれたれども我が目にはいとど安くは見えぬ品かな
春休みバイトなき日はつれづれに長きいとまをもてあましけり
春されどいまだこたつをしまはねば夜の寝床はこたつなりけり
あれこれと買はまほしきはありけれど先立つものは今あらなくに
ラジオにて冨田靖子が物語りするコーナーはおはりけるにや
朝イチにあきつるコマも三年の講義をとりて埋めてしまはむ
いとまなく散る花みればことのはのしげき夏こそやすらはれけれ
藤棚も銀杏並木ももとろもに緑いだしてながめ変へけり
あしびきの山手線にひさしくも乗らずすごせり引っ越しければ
奥山に踏み入りしかばいとまなきこととはなれりちぢにまよひて
新しき品々買ひて部屋の中にいかに置かむと思ふころかな
それとなき ひと日なりとも かへりみて ふみに残して ためしとはせむ
引っ越しの をりにいでたる ふるきふみを しまふついでに よみかへすかな
引っ越して ふつかみかへて けふもまた もののならびを すゑかへにけり
梅咲きて 桜はいまだ 咲かぬまに グリーンピースと めばる食ひけり
引っ越して うれしきことは 朝の日の 明るきことと シャワーなりけり
新聞の 勧誘の来て 三枚の タヲルもらひて 六ヶ月なり
いとしもは 悪くはあらぬ 新聞と 思へばをれて またも取るなり
あたらしき ことと思ひて することは おのれに先に 飽きの来るなり
窓の上に うつる光は ガレージに はいる車の 照らすなりけり
ときをりに 思ふごとくに 冷蔵庫の しづけき夜に 音うなるなり
暖かき 春の朝なり ストーブや こたつつけでも いと寒からず
道の上 車の上と わかたずに ふりしく花に みなおほはれつ
花にのみ 馴れにし目には もろもろの 木々の若芽も うれしかりけり
なつかしき かほもみまほし 過ぎし日に 見てしおもかげ おぼろなるゆゑ
野のつたの 軒の網戸に 伸びたるが 窓を開くれば ほとけ落ちたり
夏の間に かび覆ひたる 皮バンド 針のめぐりは 狂はざれども
くちぶえの うそぶかれけり ほほづゑを つきてつくゑに むかひゐたれば
ひとのめに いかにうつりて あるわれぞ われひとりのみ あらじとおもふに