難易度高い

平安神宮発行「孝明天皇御製集」を借りてきたがこれがまた難易度高い。
「序」によれば7000首以上が収められている。
せいぜい千首くらいのうすい冊子かと思ってたのであてがはずれた。
あまりにも膨大なので、「御幼年稽古歌」とか「御詠草案」などはどんどん飛ばし、
できるだけ幕末に近づいたあたり、
「此花集万延元年」などを読んでみるのだが、

> 今よりは春の心に成に鳧うくひすの音をしるへにはして「鶯告春」

> 枝の雪花ともみはやうくひすのはる知そむる声を聞にも「鶯知春」

> 鶯よ朝日と共に鳴いてゝ月待かほの夕はへの声「夕鶯」

これらなどは、

> 今よりは春の心になりにけりうぐひすの音をしるべにはして

> 枝の雪花ともみばやうぐひすのはる知りそむる声を聞くにも

> 鶯よ朝日と共に鳴き出でて月待ちがほの夕映えの声

とかまあ送りがなやら濁点を補うわけだが、
「鳧」は場合によって「けり」「ける」「けれ」などいろいろ読むようだ。
「実」は「げに」と読み、
「詠」は「ながめ」と読むようだ。
凡例に書かれている「勾点」「見せ消符」などの記号の意味も良くわからん。

で、ついでに「新輯明治天皇御集」も借りてきたのだが、こちらは完全に題によって分類されており、
しかも恋の歌は省略。
丸谷才一によれば明治天皇の恋の歌は佐佐木信綱によって封印されたそうだ(笑)。

孝明天皇御製集

丸谷才一の「日本文学早わかり」とかあとはネットをいろいろ検索していると、
孝明天皇はかなりの御製を詠んでいるらしく、
平安神宮が1990年に「孝明天皇御製集」というものを発刊しているようだ。
東京都立中央図書館と神奈川県立図書館には所蔵しているようなので、
今度見てみるか。

その歌風から察するに、明治天皇は孝明天皇から直接影響を受けている可能性が高いと思う。
頼朝と実朝にも類似するように思う。

柴折り焚く

> わびぬれば煙をだにも絶たじとて柴折りたける冬の山里

和泉式部集(正集)。

> さびしさにけぶりをだにもたてんとて柴折りくぶる冬の山里

(震翰)和泉式部集。

> さびしさに煙をだにも絶たじとて柴折りくぶる冬の山里

後拾遺集。

微妙な異同があるのだが、和泉式部が詠んだという歌。
真ん中のが一番やけっぱち感が出ていて、上または下はやや整った感じ。
この和泉式部の歌から派生して、

> 山里の柴をりをりにたつ煙人まれなりとそらにしるかな (肥後)

> いとなみに柴折りかくる仮の庵の軒に引き干す旅の衣か (隆季)

> 旅人の仮のふせ屋は風寒み柴折りくべて明かしつるかな (上西門院兵衛)

> 岩が根にま柴折りしき明けにけり吉野の奥の花のしたふし (守覚法親王)

> 雪埋む山路のそこの夕煙柴折りくぶるたれがすまひぞ (隆信)

> 寂しさに柴折りくぶる山里も身より思ひの煙やは立つ (範宗)

> 寂しさに柴折りくぶる夕煙心細くや空に見ゆらむ (藻壁門院但馬)

> 思ひかね柴をりくぶる山里を猶さびしとやひたきなくなり (寂蓮)

> 朝夕に柴をりくぶるけぶりさへ猶ぞさびしき冬の山里 (慈円)

> 雪の中に柴をりくぶる夕煙さびしき色の空にみえぬる (慈円)

> さびしさに柴をりくぶる山ざとにおもひしりける小野の炭やき (藤原家隆)

> さびしさに柴折りくぶる夕煙さとのしるべとみやはとがめぬ (飛鳥井雅有)

などが出てきて(まだまだある)さらに後鳥羽院が

> 思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に (後鳥羽院)

と詠み、慈円が返して

> 思ひ出づる折りたく柴と聞くからにたぐひまれなる夕煙かな (慈円)

ここから新井白石が「折りたく柴の記」
という題で本を書いた。

ふうう。ものすごい連鎖だな。
和泉式部より前にはさかのぼれないのかな。
後鳥羽院は最初の歌から連想しているように思える。

やや似ている歌:

> 難波女か小屋に折りおりたくしほれ芦の忍びにもゆる物をこそ思へ (殷富門院大輔)

> さぞとだにほのめかさばや難波人折たく小屋のあしの忍びに (前大納言為氏)

いずれも和泉式部よりは後の人。

思うに、和泉式部は実際に山里だかどこかで、自分で芝を折り折り、
いろりにくべて煙をたてたりしたのだろうが、他の人たちというのはどうなのだろうか。
単に本歌取りしただけなのか。

返歌

本歌取りや返歌に文句を言っても仕方ないなと思った。
返歌はどうせ説明されないとわからんし、
定家の歌は本歌取りばかりなんだから、わからんで当たり前なんだなと。

ていうかガチンコで歌を読もうと思うと、まずは取材をしないといけない。
写生するなり観察するなり。
で、その気分が残っているうちに詠まないといかん。
昔はみんなそうして歌を読んでいたが(たとえば和泉式部など)、
そのうち本歌取りというゲームが流行りだして、
定家なんかがそのルールを明文化して、
ひたすら三代集とか八代集とかの歌を丸暗記して、
題詠+本歌取り+歌合というもう完全にバーチャルな遊技の世界になってしまい、
そういう場で競い合ってそこからそのまま勅撰集に取られるようになって、
とてつもなく狭い宮中遊技の中に閉じてしまって、
あんなふうになってしまったんだろうなと思う。

一方で実朝やら、あるいは南朝の後村上天皇などは実際に山野を踏み歩いて、
その場その場の写生というかガチンコで詠んでいるとしか思えない歌が多い。

古今集の頃は本歌取りするような歌がまだあまりなかったから(しかし紀貫之も本歌取りしたらしいが)、
遊びとしてはだじゃれみたいなのが流行ったんだろうな。
宮中でも民間でもみんながみんな和歌を詠んでいたのってやっぱ古今集時代、
遅くて和泉式部くらいまでなんだろうな。

藤原定家

> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ

定家にしてはめずらしく写生的な歌なのだが、
実際には存在しない情景を詠んでいる。何かはぐらかされたような気分になる。

つまり、「駒とめて袖うちはらふ」人影すらないただもう一面の雪景色というわけで、
しかもおそらくは定家は佐野の渡し場の光景を実際に見て歌を詠んだわけではあるまい。
ありありと目の前に情景が浮かんでくるようで、それをいきなり否定されて、
まったくの架空の絵空事でしたという結論。
定家はやはりよくわからん。
一種の禅問答だと言われた方がわかる気がする。

> 苦しくも降り来る雨か神の崎狭野の渡りに家もあらなくに

こちらが本歌らしい。

本歌取りのお手本とされる有名な歌らしいのだが、
こんなものが本歌取りなら取らぬ方がましだと思うのだが。
なんか解釈間違ってるか。

本居宣長

丸谷才一が、本居宣長は歌が下手だというので、すこし調べてみたが、うまくはないが、
そんな下手とも言えないなと思った。

ひとつ例を挙げれば

> 水無月に風に当つとてとり出ればやがて読ままくほしき書ども

とりいだせば、ではなかろうか。

> 朝夕に物食ふほどもかたはらにひろげおきてぞ書はよむべき

わろす。
返歌:

> ものを食ひ酒を飲むとてかたはらに文をよみてぞたのしかりける

ふと思ったのだが、

仕事がランダムにばらばら降ってくると予定が立てられないわけですよ。
どんな仕事があるかあらかじめ知らせて欲しいわけです。
すると仕事する順番とか休みを取る日とか最適化できる。
最適化によってある程度仕事量を減らすことができる。

予定の立てられない仕事というものはもちろんあるが、
そういう不測の事態に対応するといった高度な判断力を要求する仕事ならばまだ諦めがつく。
というか仕事としてのやりがいはある。
どうでも良い仕事で、おもに他人がだらだらやってるせいで、
予定を立てさせてくれないのが一番腹が立つ。

頼家

源頼光の子に頼家というのが居て、
和歌六人党の一人と言われたらしい。
たしかに頼家が朝臣と呼ばれるのは変だ。
これはだまされた。

実朝と頼朝

「吾妻鏡」。

> 元久二年・九月二日

> 乙酉 藤兵衛尉朝親、自京都下著。持參新古今和歌集、是通具、有家、定家、々隆、雅經等朝臣、奉勅定、於和歌所、去三月十六日撰進之。
同四月奏覽。
未被行竟宴。又無披露之儀。而將軍家、令好和語給之上、故右大將軍御詠、被撰入之由、就聞食、頻雖有御覽之志、態不及被尋申。
而朝親、適属定家朝臣、嗜當道。即列此集作者〈讀人不知〉之間、廻計略可書進之由、被仰含之處、依朝雅、重忠等事。
都鄙不靜之故、于今遅引〈云云〉

正確な現代語訳はよくわからんのだが、
源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経らが勅定を奉じて和歌所において、1206年3月26日に新古今和歌集を選進し、
4月に後鳥羽上皇に奏覽したが、未だに披露されてなかった。
しかし実朝は、和歌を好む上に、頼朝の歌が選ばれているとのことを聞いて、しきりにみたいと思っていたが、
見ることができずにいた。
そこで実朝の家臣で、藤原定家の弟子・内藤知親に頼んで京都から新古今和歌集をもってこさせ、9月2日に到着した。
とまあそんなところか。

実朝14才。
将軍になって2年目。
頼朝の死後7年目。
ここで、注目すべきは、実朝は父頼朝の歌が新古今集に採られているから読みたいといったというところで、
実朝が頼朝から何かの形で和歌の影響を受けていたのではないかと思わせる。

うーむ。
やはり実朝は二所詣以外どこにも出かけなかったわけだな。
鎌倉から箱根、三嶋、熱海まで。

太宰治「右大臣実朝」:

> この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪気にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東国武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはしに御注意申し上げたものでございましたが、この頃にいたつては、まづ入道広元さま、相州さまの御弟君武州時房さま、御長子泰時さま、それから三浦の義村さま、結城の三郎朝光さま、和田の朝盛さま、内藤知親さま、東の重胤さまなどといふ猛将お武骨の面々が、いつのまにやらいつぱしのお歌人になり澄まし、仔細らしく三十一文字を案じて、赤焼けた太いお首をひねりながら御廊下をお歩きになつて居られるお姿などわけもなく微笑しい感じがいたしました。なんでもかでもお歌さへ作れば、よほどの過失があつても、おゆるし下さるさうだなどといふ物欲しげなお気持から、三十一文字を習ひはじめる御家人衆も多く出て来て、御ところのお歌会はお盛んになる一方で、またこのとしには非常に大がかりの絵合せも興行され、お奥の女房、近習にまじつて、れいの猛将御歌人連もそろつて御参加なされ、かへつて武骨の朝光さまのお絵が抜群の御勝利を得られたなどの大番狂せもございまして、さうして数日後にはその絵合せに負けたお方たちから御馳走が出まして御酒宴になり、遊女を御ところにお召しになつて舞へ歌への大陽気で末座の私たちまで芸を強ひられ、真に駘蕩たるものがございました。

建暦二年は実朝ちょうど二十歳。
いったい、吾妻鏡のどこをどう読めばこう解釈できるかは知らんが、まあそういうこともあったのかもしれん。

SUICA

箱根を越えるとPASMOが使えなくなるので、
SUICAも残しておいたほうが良いかねえ。
しかしまあ、
小田原、箱根湯本あたりまでなら良いが、伊豆まで出かけると万札がどんどん飛んでいくんだわな。