陸奥宗光の父は伊達宗広、宗広は紀州藩藩士。本居大平に学ぶとある。
大平は本居宣長の養子。
本居家は宣長の後、実子の春庭の家系と養子の大平の家系に分かれる。
松坂に住んだのが春庭、和歌山に住んだのが大平だったらしい。
だから、大平はずっと和歌山城下に住んでいて、
というより紀州徳川家に仕え、侍講などしていたので、
宗広はその教えを受けられた、ということのようだ。
なるほどそんなつながりがあったとは。
大平は1756年生まれ、宗広は1802年生まれ、宗光は1844年生まれ。
宗広はだから宣長が没した頃に生まれたわけだな。
松坂というか伊勢はもともと紀州領だったようだ。
徳川家直轄としたのは伊勢神宮があったからだろうか。
藩主治宝(はるとみ)は22才で宣長に五人扶持を与えている。
もっとも仕官したわけではなさそうだ。
というより宣長はいろんな藩からの仕官の申し出をすべて断っている。
ただし養子縁組のためにしばしば和歌山に旅行している。
岡崎久彦「陸奥宗光」を読んでいて、伊達宗広の和歌がなかなかさまになってるなと、
感心していたのだが、宣長の子の弟子だったわけだなあ。
で、肝心のその歌だが、
> 葦原の中つ国原うちかすみみどりつのぐむ春は来にけり
なんかこう、古事記の世界を屏風に描いて添えた歌のようだよなあ。
祇園の花柳界を詠んだ歌:
> もののふのたけき心もなぐさむるうまし花園今盛りなり
どうなんだかなあ。
> 春来れど籠にこめられしうぐひすは古巣恋しと音をや鳴くらむ
> ふるさとにとすれば通ふ夢路のみうき世の外か関守もなし
> 夢さめてわが影のみぞ残りけるあひみし人はいづき行きけむ
> 月見れば人ぞ恋しきその人も同じおもひに月や見るらむ
> 乗り捨てし水際の小ぶね朽ちもせでなににつながる命なるらむ
> 惜しまれて花も散る世に惜しからぬ身をなど風のさそはざるらむ
> 玉の緒の絶えねとばかりいのる身につれなきものは命なりけり
桜の花を
> 思ひ出の多かる花よ花だにもあはれと見ずやわれも昔は
> 咲けば花散れば塵とぞはらひけるあはれ桜も人の世の中
自分の子供を
> まさるべくなほいのるかな竹の子の親と言はむもはつる身にして
仏道にはげむ
> 西山や月のみかげをしたひあへずくらきに学ぶ身となりにけり
> 西に入る月のみかげをあふぎても今は仏につかへこそせめ
> しじまこそ今はわが身のつとめなれ幾重もとぢよ庭のよもぎふ
> 鞭打ちし心の駒をひきかへてのりの林につなぎとめつつ
> やまもりは名のみなりけりさくら花散るも散らぬも風のまにまに
> おほかたは定めなき世にさだめありてしぐれは冬を忘れざりけり
> なにごともなすともなくてけふもへぬただあめつちの順々にして
> うしといふうき世のことも慣れぬればあやなくものはおもはざりけり
> 色にこそ名の数もあれ菊の花香はただ同じ香に匂ひつつ
> 春ごとにつもるよはひは老いぬれどひとり老いせぬものもありけり
嵐山で
> もののふのやそ氏人のつどひ来るみよの盛りも花にこそ見れ
> あらし山花の盛りを来てみればわれはむなしく老いせざりけり
少し面白いのは
> ことわりはことわりとしてことわりの外行くものは世にこそありけれ
> 何をよし何をあしとか定むべきときとところに変はりゆく世は
たいていは明治になってから詠んだもののようだが、
> 大殿の深きそのふに咲く花もゆきかふ袖にかをる春かぜ
悪くはないんだが、維新の頃にはこのくらいの歌を詠める人はたくさんいたと思うんだよね。
ともかくももう少しあさってみようかな。
伊達自得翁全集、および補遺だが、東京都都立図書館には置いているようだ。ふーむ。