関東

司馬遼太郎全集第50巻評論随筆集「歴史と視点」の中の「石鳥居の垢」あるいは「私の関東地図」という文章で、彼が戦車部隊に居たときのことを書いている。
彼らの部隊は満州に居たが、戦争末期、ソ連との不可侵条約を「わらをもつかむ気でソ連の信義というものを信じざるを得なくなって」、新潟に引き揚げてきた。
新潟から群馬の前橋まで来て、榛名山の入り口の箕輪というところに徒歩で移動して、
そのあと栃木の佐野に移ってここでソ連の参戦を知り、北関東にしばらく駐屯していた。
関東に米軍が上陸してきたときの「邀撃」に備えるためだった。
厚木の相模川沿いの「深田」で戦車の渡河実験などもした。
それで、司馬遼太郎は関東平野というものをある程度は知っているはずなのだが、
どうもまったく曖昧模糊としたことしか書いてない。
ただ単に「こんな広いところが日本にもあったんですねえ」とか
「こんなところ、空と桑畑があるだけじゃないか」とか、
そんなことばかり書いている。

思うに「燃えよ険」に出てくる府中から八王子にかけての雰囲気は、戦時中の記憶によるところが大きいのではないか。
もちろん小説を書くにあたって大国魂神社などを取材したに違いないのだが。
だから、関東と言っても鎌倉や小田原や、あるいは伊豆など相模湾のあたりがピンと来ないのではないかと思う。

甲州街道

「街道を行く」の「甲州街道」で、いきなり冒頭

> 「武蔵の国」というのは、いうまでもなく今の東京都のことである。

などというぼけをかましている。
なぜ編集者も注意しないのだろうか。
「武蔵国」とはいうまでもなくおおよそ今の東京都と埼玉県を合わせた地域であり、面積で言えば埼玉の方がずっと広い。
司馬遼太郎の文章を読んでいると随所に、関東の土地勘のなさが見える。

次に太田道灌と後土御門天皇のエピソードが紹介されるが、以前[宗尊親王](/?p=3212)にも書いたように、
私もころっとだまされたのだが、この話自体が300年も後に書かれたもので、
実話である可能性はきわめて低い。
それはそうと、誰が詠んだ歌かは知れないが、武蔵野の広さをうまく詠んだ

> 露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

という感じは、
東京というよりは埼玉の景色、
東京から埼玉の方にずーっと続いている平原をイメージしたものに違いない。
それはつまり、だいたい新田義貞が鎌倉攻めしたルートに当たる。

埼玉というのは、東西で言えば秩父から川越、大宮、春日部まであるわけで、実に広い。
それがほとんど平地なのだから。
川越街道を描いたと思われる夏目漱石の[坑夫](http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html)の

> さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩いたって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっ子をしている方が増しだ。

> 東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇の神楽堂へ上ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精がない。

なども、関東平野の広さをよく表している。
明治天皇御製の

> かぎりなき野辺の桑原小松ばらおなじところをゆくここちせり

もそうだ。

埼玉の東、渡瀬遊水池の先はひろびろとした茨城の水田地帯、
霞ヶ関の水郷でこれまた真っ平らに広い。
実際、板橋あたりから北を見ると、筑波山や日光の山が遠くにかすんで見えるだけで、
ほとんど何も山らしいものがない。
世田谷や府中の当たりでも多少広さは感じるが、北関東の方がずっと広さを感じると思う。
東京都心や神奈川などは山ばかりなんで、どちらかと言えば関東という感じじゃないんだよな。
こういう狭苦しい坂ばかりの町は日本中にある。
ただまあ東京というところはほんとに晴れたときに遠くに富士山が見えるくらいで、
山の近い田舎に育ったものには寂しく感じるものだ。

あと、埼玉あたりだと、人がいなくて道がまっすぐだから二車線以上の一般道だと平気で100kmくらいで車が走っている。
東京当たりから行くととても怖い気がする。

> 北条氏なども、結局はいくじがない。関東平野の真ん中にその首府を置かず、西のすみのそれも箱根大山塊を後ろ楯にして城を堅固に設け、その天険にかくれつつ、へっぴり腰で関東に手をのばしては経営していたような印象がある。

いやあ。
これまたひどい言い方だな。
だいたいにおいて司馬遼太郎は関東に良い印象を持ってないのだが、
こういう言い方をしなくても良さそうなものだ。

中央と地方 いわゆる都鄙意識について

文藝春秋に昭和57年に掲載された司馬遼太郎の文章で、
「中央と地方 いわゆる都鄙意識について」というものがある。
これが司馬遼太郎の文章かというくらいずさんな論理で書かれている。
たとえば、

> そのおそるべき習風は、いまの若い人にも(にもどころかいよいよ本卦がえりも濃厚に)ありますなあ。短大など、どんな山間僻地にもあるのに、わざわざ東京の短大に出ていきたがる。目的は、原宿などで群れたい。もうそれで都の手振りになり、東京人そのものになる。

恥ずかしい。実に恥ずかしい文章だ。
確かに昭和の終わり頃、長渕剛が「とんぼ」とか歌ってたころの世相はそうだったかもしれん。
しかしいまや地方の大学の方がもてはやされる時代だ。
地方の女子は、わざわざ東京に出さず親元の大学に行かせている。
たまたま自分が生きていた時代の風俗が太古の日本にも当てはまるという発想をするのはあまりに貧しい。

思うに、司馬遼太郎は、平安初期の地方の日本人は、中央の文化や芸術に目がくらんで、いくらでも反乱を起こそうと思えば起こせたのに、
中央の権威に盲目的に従ってきた。
中央政府はろくな軍事力も権力ももっていなかったのに、そうやって天皇制というものが作られてきた。
要するに天皇制というのは権威とか文化とか華やかな都の手振りとかそういうもんなのだ。
そういうふうに言いたいのだろう。

実際にはそうではなかったはずだ。日本全国至るところで、反乱や武力衝突のようなものは起きていた。
しかしそれはいわゆる私闘に類するものであり、中央政府は訴訟処理能力も警察力もないから、
とにかく部族ごとに勝手に武力闘争で解決するしかなかった。
たまたま一方が国府を味方につけ、ために他方が国府を攻撃すると、私闘から公然とした反乱というレッテルを貼られる。
それが将門・純友の乱のようなものに発展する。

奥羽地方の反乱など、平安朝では介入する気すらない。
介入すれば軍事費を公費から出さなくてはならず、官軍には褒賞や官位などを与えねばならない。
だからできるだけ私闘ということにしておきたかった。
前九年の役、後三年の役などがそうだ。
そうやって朝廷はみずから軍事権や徴税権、統治権を放棄し、地方政治を放任してきた。
そのために関東以北では源氏の棟梁が事実上の統治者として仰がれるようになり、その結果頼朝による鎌倉幕府ができたのだ
(これは典型的な日本外史史観であり、八幡太郎義家の後世に作られた伝説に基づくものではあるが、私はおそらくかなり真実に近いと思う)。

部族どうしの私闘でも詔勅を得た方は官軍として、敵を賊軍として討伐できるし、
討伐に成功すれば官位ももらえる。
だから武士たちは中央政府を利用しただけともいえる。
バブルの絶頂のころ、原宿や六本木にあこがれる女子短大生と同じ理屈で片付けられる問題ではない。

また、司馬遼太郎は後醍醐天皇一人を悪者にしようとしている。彼の悪い癖だ。
後醍醐天皇は宋学イデオロギーに凝り固まって天皇を中国的な独裁皇帝にしようとした、などと言っているのだが、
そんな事実があるのか。
むしろ宋学をかなり正確に理解していたのは北条氏だっただろう。
後醍醐天皇は後鳥羽天皇がいたから出てきた。
後鳥羽天皇は保元の乱、平治の乱、寿永の乱(源平合戦)を経て、
天皇の大権が鎌倉幕府に移ったから出てきた。
後醍醐天皇がいきなり出てきたわけではない。歴史の必然として出てきたのだ。
天皇家から武家政権に次第に権力が移っていくその過程にたまたま後醍醐天皇が位置しているだけだ。
司馬遼太郎にはそういう発想がまったくない。
突然、変なイデオロギーにかぶれた天皇が出てきたから悪い、そういう風にしか考えられない。
大いに問題だ。

> (反乱を)起こしても、すぐ中央から命令が行くと、地方の豪族から現地採用の官吏(在庁官人)が恐れ畏んで、その辺の兵をかき集めると、みな源平藤橘と名乗っているのですから、朝廷のためだと思って、反乱者をやっつけてしまう。

あまりにも浅薄な理解と言わねばならない。たぶん司馬遼太郎は、将門の乱も前九年後三年の役も、何も知らないのだろう。
少し調べればわかることなのに。
反乱というものがわざわざ自分と何の関係もなく遠くへだたった朝廷に対して起こされると思っているのがまず間違いだし、
反乱が起きたら朝廷のために戦うというのも間違い。
前提条件のすべてが間違っている。
頼朝の挙兵も最初は将門の乱と同種だと思われていた。しかしそうはならなかった。
将門の乱がわからなければ、頼朝の挙兵の意義もまるでわからんのに違いない。

> 彼女たちは、平安期の板東武者たちが京にのぼりたがったようにして、「とにかく短大は東京ですごしたい」と思っています。

> 板東武者が都でけちな官位をもらって板東に帰り、近隣に誇示するように、夏休みなどに帰省して土着の同窓生に「やっぱり違うわね」といわせたいというのがのぞみなのでしょうか。
・・・日本における地方のはかなさを思わざるをえません。

> だから島根大学及び松江市の短大は、もっと力を持つべきだし、それを育てるために、島根県人がもっと意識を高めるべきだ。

いや、なんでこんなへんてこなことを言っているのか。
島根県の人口は70万人しかない。
相模原市の人口と同じだ。
仮に島根県の人たちが意識を高めても、相模原市と同じくらいの力しか持てないはずだ。
それはたかが知れている。
どうしろというのだろうか。

板東武者で都に行きたがったのはもっと時代がくだって源実朝あたりからだろう。
実朝はほんとに変な人だった。
板東武者が都に頻繁にのぼったのは訴訟のためだ。
自分が開拓した土地の所有権を保証してもらうため。
源氏や平氏などの武士団に分かれたのも、京都の藤原氏など有力者とのコネを作るのもみんなそう。
要するに、朝廷が設置したオフィシャルな出張所である国府と国の役人である国司がなんの役にもたたないからだ。
それがどうして都にあこがれてとかいう話になるのか。
もし国府に訴え出ればきちんと訴訟を処理し裁判してくれて土地を確保できたとしたら、
どうして都なぞに行く必要があろうか。
行きたがったのは実朝のような変人だけだ。
実際、鎌倉幕府ができて訴訟が鎌倉で解決するようになると、
鎌倉武士はまったく京都には行かなくなったはずだ。
板東武者がうんぬんというのはようするに平安朝のときのことを言っているのだろう。
仮に京都が文化と権威の中心であるなら、
鎌倉幕府が出来たあとも武士はみな京都に行きたがったに違いない。
だがそんなことはない。

いやさらには。
承久の乱以後は北条氏が京都に六波羅探題を作って西国の訴訟まで裁くようになった。
警察は頼朝の時に全国に守護・地頭をおいた。
ようするに鎌倉幕府が出来るまでは仕方なく京都まで訴訟にいくしかなく、
しかもその訴訟もろくに裁いてもらえず、仕方なく私兵を自費で動員して解決するしかなかったということだよ。
そういう状況でも、当時の日本人が京都に何かあこがれを抱いていたなどと言うか。

朝廷が軍隊も警察も司法も持たない(というか持っているはずなのにサボタージュした)から、
次第しだいに武家に政権が移った、ということだ。
具体的には、天皇の外戚で官職を独占した藤原氏の怠慢ということだ。
藤原氏政権が腐敗し、国を統治するという当然なすべき義務を怠った。
司馬遼太郎が言うように、天皇が最初から権威しかもっていなかったのではない。

島根大学にしても、別に悪口を言いたくはないが、戦後作られた地方国立大学の一つに過ぎぬ。
せいぜい戦前の島根高等学校までしかさかのぼれない。大和朝廷が地方に作った国府とどれくらいの違いがあるのか。
司馬遼太郎はいったい何が言いたかったのか。
奈良平安の国府にできなかったことをなぜ地方国立大学に要求するのか。
司馬遼太郎という人はほんとに矛盾の総合商社だ。

国造

司馬遼太郎の「歴史と風土」という文章(昭和46年)に、
大化の改新があっても地方の豪族、国造が残った。
だから天皇というのは最初から権力ではなくて権威だった、と言っているのだが、これはおかしな結論だ。
彼は、大化の改新の頃も、平安朝も、その後の武家政権もずっと天皇は権威であって権力ではなかったと言いたいらしい。

しかし、普通は、大化の改新の頃には天皇の権力もまだ完全には浸透しておらず、
地方豪族らを国造という形で中央集権の枠組みに取り込まなくてはならなかったということを言っているだけ、そう解釈するのではないか。
そもそも、大化の改新というのは単なるクーデターと律令制の導入に過ぎない。
それだけで地方豪族が服従するはずがない。

だが、土佐日記の頃になると、国司、つまり守や介らが中央から派遣されて、
国造らもはや存在しない状態になる。
だから大化の改新に始まった律令制というものは次第に地方にも浸透していって、
初期には国造らの地方豪族が残っていたが次第に国府、国司らによる中央集権的支配が確立していった、と解釈するのが普通だろう。

司馬遼太郎のように「だから天皇は最初から権力ではなく権威だった」などという結論が導かれてくるのはおかしい。
wikipedia にも、
国造は律令制が導入される以前のヤマト王権の地方支配形態の一つ。6世紀代のヤマト王権が任命する地方官、とある。
その通りで、律令制以前のなごりがしばらく残ったと言うにすぎない。
律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗る、とあるように、
例外的に「地方官」として勅令によって残っていた出雲国造も798年にはなくなっている。

大義名分論

昔の人は大義名分論というものに、真剣に悩んだのだ。

天皇はなぜあんなにまずい政治をするのか。
逆賊と思える身分の低い連中がなぜあんなに良い政治をするのか。
良い政治をする逆臣と、悪い政治をする天皇と、どちらが正しいのか。
そもそも天皇とは何か。日本とは何か。
なぜ逆臣は結局皇位を簒奪しなかったのか。
なぜ日本だけでそうなのか。
ということについて真剣に悩んだ。
そこで儒学や宋学や朱子学や陽明学や、あるいは国学で説明しようとした。
それでもわからん。
西洋の歴史との比較でなんとか説明しようとした。
たとえばイギリス型の君主とかローマ法王とか。
でもうまくいかない。

今の日本史教育ではそんなことで悩むなどということはないだろう。
世界史でもそうだが。

ある意味、そういう問題をスルーするのに適した思想は司馬史観だといえる。
天皇はお公家さんです、神主さんです、実権を持たないのが正常な姿です。
象徴天皇です。
みごとなスルーだわな。
一方で、天皇制廃止論者もいるのだが、どちらかより無責任だろうか。
大差ないような気もする。

身分の低い苦労人ほど良い政治をする。
天皇の政治は失敗だらけだった。
でもなぜ日本には天皇がいるのか。
誰か説明してみよ。
今の日本人は、生まれてから大学受験まで、そのような思考実験をしたことがない。

義経

司馬遼太郎の「義経」をさくっと読んだ。
まず、一番の大きな問題は、一ノ谷の戦いを、司馬遼太郎は歴史的事実とみなしているらしいのだが、
たぶん一ノ谷の合戦は平家物語のフィクションなのだ。
なぜなら当時の公家の日記にはまったく記録がないからだ。
平家物語が言うほどの「義経の奇襲」による圧倒的勝利であればそれなりの一次資料が残ってなくてはなるまい。
しかし何もない。
頼朝がわざと義経の戦績を黙殺したというよりは、もともと何もなかったと考えるほうがずっと自然だ。

そして、司馬遼太郎の悪い癖は、頼朝と義経の間の骨肉の戦いを書いてないということだ。
そこが彼の嫌らしいくせ、見たくないものは見ない、書きたくないものは書かない、
好きなものだけ空想でどんどんふくらませて書く。
ロジックに一貫性もなければ普遍性もない。
ということではないか。

もし、義経が、数十騎、数百騎の奇襲戦法で何万という敵に奇跡的な勝利を得た天才だとすれば、
頼朝追討軍に対しても同じように勝利したはずではないか。
頼朝との戦争に勝っていればそれこそ何万何十万という軍勢が義経の下に集まって、頼朝を凌駕したはずだ。
しかし彼はあっという間に滅亡した。
おそらく義経はほんとうの戦争の天才ではなかったのだ。
少なくとも、ハンニバルや真田幸村やナポレオンや楠木正成レベルの天才ではない。
おそらく木曾義仲の方がずっと戦争はうまかったと思う。
私は、平家物語を読んでみて、保元物語や平治物語、吾妻鏡などとくらべてはるかに信頼できない、
単なるおとぎ話だと感じている。保元物語も脚色がひどすぎる。特に為朝とか。
吾妻鏡は歪曲ばかりだ。
しかし平家物語はもっとひどい。

義経と龍馬は同じようなものだ。
そして、乃木希典や頼朝は司馬遼太郎が嫌うタイプの人間だということだ。
司馬遼太郎は義経や龍馬などの、なんといえばよいか、バーチャルな、虚構の英雄を好む性癖がある、としか思えない。
歴史的事実はたぶんそれとはまったく違うと思う。

象徴天皇

司馬史観の中でも、
空気のように当たり前と思われているのが、
天皇は今のように権力を持たず権威だけを持っている状態が「正常」であり、
後鳥羽上皇や後醍醐天皇や明治天皇のように実権を持っている状態が「異常」なのだ、
という説だ。
司馬遼太郎は天皇さんは神主さんだと言っている。
神主は、政治のどろどろとしたものに関わってはならない、浮世離れしてなくてはならない、という。

また、信長は天皇を担ごうとしたのではなくて足利将軍を担ごうとしたのだが、途中でじゃまになったので捨てて、
しようがなく天皇を担いだのだという。
秀吉は出自が賤しいので最初から天皇の権威で箔付けしようとした。
家康はそれを踏襲した。
そのように司馬遼太郎は言うわけだ。

よくわからん理論ではある。
一種の政教分離論。
俗と聖の分離。
わかりやすく聞こえるが、個々の事例に当てはめようとするとうまく説明できない。
天皇とは何かということ自体、一言で説明できるわけがない。

たとえば、司馬天皇論が、保元平治の乱や後白河院政に当てはまるか。否。
北条氏による承久の乱の戦後処理に当てはまるか。南北朝の動乱をうまく説明できるか。否。
後水尾天皇や孝明天皇のような江戸期の天皇をうまく説明できるか。否。
徳川幕府と天皇家の関係や、足利幕府と天皇家の関係を説明できるか。できないだろう。
足利義政は応仁の乱で御所が焼失したとき天皇を自分の屋敷に住まわせて一緒に寝起きし茶の湯や能楽を楽しんだ。
なるほど、御所が焼けたときに女御の里に天皇が住んでそこが御所として機能したことはある。
が、足利氏は藤原氏とは違う。天皇家は外戚関係にはないのだ。
あり得ないことだ。
このような関係をどう説明するのか。

今日まで一貫して日本の正統は天皇家にある。
しかも天皇は生身の人間であって、神主の性格も持っているがそれ以外の「俗」な属性も持っている。
独自の皇位継承ルールも持っている。

正統とは具体的には軍事・立法・司法・外交・税・所有権などすべてのことであり、
宗教的・象徴的権威だけを言うのではない。
天皇家の本質はそれが日本の正統の担い手であってそれ以外に担い手がいないということだ。
そうでなければ承久の乱のあとあれほど北条氏はトリッキーな苦労をしたろうか。
南北朝時代に足利尊氏は苦労したろうか。
天皇家が分かれたり消滅したりすれば日本中に天皇の子孫を称する人間が現れて、
それぞれが皇位の正当性を主張し始めて、
結果的にそれは無政府状態を作り出す。
明治天皇が南朝を正統としたためにわらわら天皇家の子孫が名乗り出てきたのと同じだ。
南北朝時代が長引けば日本中に後醍醐天皇の子孫が天皇を称したかもしれん。
そうなれば日本の分裂だ。
北海道に渡って独自王朝を作ろうとしたかもしれん。
以仁王が奥羽まで逃げていたらほんとにそうなったかもしれないし、
後村上天皇だってそのくらいのことはしかねなかった。
九州にも南朝の皇子は居て勝手に中国と貿易していた。自立したら独立国になってしまっただろう。
というか、後醍醐天皇が都を吉野ではなくて鎌倉に移したら確実に日本は二つに分裂していただろう。
長州だって天皇か皇子を長州まで連れて行こうとしたわけだし。
高氏の北朝だって本質的には同じこと。

いったん無政府状態を経なければ天皇家の代わりとなる日本の正統は創造できないのだが、
日本にはそのような状態は今まで一度もなかった。推古朝以前は知りようもないが。
北条氏も足利氏も要するにそのような完全な無政府状態が発生するのを恐れたのだと思う。
そんなものを作り出す当事者になるのを拒否したのだ。たとえ日本国王になれたとしてもだ。
もっと言えば、日本国王になんかなりたくなかったのだ。
彼らがほしかったものは日本国を統治する権力であって国王の地位ではなかった、と言えば良いか。
だからどんな屁理屈をこしらえてでも皇位を継承してきたのだ。

そうして考えてくると「象徴天皇」が正常だとか後鳥羽上皇が異常だとかいう分類が、
本質的な意味などないことがわかろう。

徳川家康による「終戦」も非常に面白い。
天皇を残し諸侯も残し、かなり純粋な形の、しかも安定した封建制度を作り出した。
もし、天皇家を滅ぼし、諸侯も滅ぼし、中国皇帝的な独裁君主になろうとしたら、
あと何十年も戦争を継続しなくてはならなかっただろう。
しかし家康ははやく戦争をやめてしまいたかったし、
自分の子孫の代までその事業を継続したいとも思わなかったに違いない。
だからあんなふうになったのだ。
有史以来最大の軍事力を持てた徳川家ですら、そこでやめてしまったということだろう。
家光がちょっと脅しをかけたようだが、本気ではなかったのではないか。

そう考えてくると、中国では、数百年おきに完全な無政府状態が起きる。
そこで易姓革命が起きる。
ヨーロッパではたとえ国ごとに革命が起きても、ヨーロッパ全土で完全に無政府状態になることもないし、
貴族が根絶やしになることもなかった。
だから封建制度が持続したわけだ。
日本でも、関ヶ原や大阪の陣によって無政府状態が生まれたわけではない。
諸侯も天皇も居たし、徳川家は最大の諸侯だったというに過ぎない。
秩序は保たれつつ戦争状態にあったわけだ。

諸侯を残すというのは家康の独創ではなく、秀吉がやったことを家康が継承しただけと言える。
秀吉は諸侯を滅ぼすほどの自前の軍事力など持ってなかったから、そんなことはそもそもできなかった。
律令制度もそのまま残した。天皇の権威も利用した。
徳川幕府は結局秀吉のやったことを何も変更しなかったし、
外征などは消極的だったわけだから、縮小すらした。
さらにおそらくは藤原氏や北条氏や足利氏を研究して、有職故事を復活させさえした。
天皇家の外戚になろうとさえした。
独創性や破壊性というものはほとんどなかったと言える。だからこそ封建制度が完成した。
ヨーロッパでもおそらく貴族の爵位や騎士などというものはカール大帝の時代までさかのぼれるのではないか。

伊達宗広の歌

陸奥宗光の父は伊達宗広、宗広は紀州藩藩士。本居大平に学ぶとある。
大平は本居宣長の養子。
本居家は宣長の後、実子の春庭の家系と養子の大平の家系に分かれる。
松坂に住んだのが春庭、和歌山に住んだのが大平だったらしい。
だから、大平はずっと和歌山城下に住んでいて、
というより紀州徳川家に仕え、侍講などしていたので、
宗広はその教えを受けられた、ということのようだ。
なるほどそんなつながりがあったとは。
大平は1756年生まれ、宗広は1802年生まれ、宗光は1844年生まれ。
宗広はだから宣長が没した頃に生まれたわけだな。

松坂というか伊勢はもともと紀州領だったようだ。
徳川家直轄としたのは伊勢神宮があったからだろうか。
藩主治宝(はるとみ)は22才で宣長に五人扶持を与えている。
もっとも仕官したわけではなさそうだ。
というより宣長はいろんな藩からの仕官の申し出をすべて断っている。
ただし養子縁組のためにしばしば和歌山に旅行している。

岡崎久彦「陸奥宗光」を読んでいて、伊達宗広の和歌がなかなかさまになってるなと、
感心していたのだが、宣長の子の弟子だったわけだなあ。
で、肝心のその歌だが、

> 葦原の中つ国原うちかすみみどりつのぐむ春は来にけり

なんかこう、古事記の世界を屏風に描いて添えた歌のようだよなあ。
祇園の花柳界を詠んだ歌:

> もののふのたけき心もなぐさむるうまし花園今盛りなり

どうなんだかなあ。

> 春来れど籠にこめられしうぐひすは古巣恋しと音をや鳴くらむ

> ふるさとにとすれば通ふ夢路のみうき世の外か関守もなし

> 夢さめてわが影のみぞ残りけるあひみし人はいづき行きけむ

> 月見れば人ぞ恋しきその人も同じおもひに月や見るらむ

> 乗り捨てし水際の小ぶね朽ちもせでなににつながる命なるらむ

> 惜しまれて花も散る世に惜しからぬ身をなど風のさそはざるらむ

> 玉の緒の絶えねとばかりいのる身につれなきものは命なりけり

桜の花を

> 思ひ出の多かる花よ花だにもあはれと見ずやわれも昔は

> 咲けば花散れば塵とぞはらひけるあはれ桜も人の世の中

自分の子供を

> まさるべくなほいのるかな竹の子の親と言はむもはつる身にして

仏道にはげむ

> 西山や月のみかげをしたひあへずくらきに学ぶ身となりにけり

> 西に入る月のみかげをあふぎても今は仏につかへこそせめ

> しじまこそ今はわが身のつとめなれ幾重もとぢよ庭のよもぎふ

> 鞭打ちし心の駒をひきかへてのりの林につなぎとめつつ

> やまもりは名のみなりけりさくら花散るも散らぬも風のまにまに

> おほかたは定めなき世にさだめありてしぐれは冬を忘れざりけり

> なにごともなすともなくてけふもへぬただあめつちの順々にして

> うしといふうき世のことも慣れぬればあやなくものはおもはざりけり

> 色にこそ名の数もあれ菊の花香はただ同じ香に匂ひつつ

> 春ごとにつもるよはひは老いぬれどひとり老いせぬものもありけり

嵐山で

> もののふのやそ氏人のつどひ来るみよの盛りも花にこそ見れ

> あらし山花の盛りを来てみればわれはむなしく老いせざりけり

少し面白いのは

> ことわりはことわりとしてことわりの外行くものは世にこそありけれ

> 何をよし何をあしとか定むべきときとところに変はりゆく世は

たいていは明治になってから詠んだもののようだが、

> 大殿の深きそのふに咲く花もゆきかふ袖にかをる春かぜ

悪くはないんだが、維新の頃にはこのくらいの歌を詠める人はたくさんいたと思うんだよね。
ともかくももう少しあさってみようかな。
伊達自得翁全集、および補遺だが、東京都都立図書館には置いているようだ。ふーむ。

カピタン

カピタンはポルトガル語のCapitão だと wikipedia にはある。英語だと head とか chief とか boss という意味だろう。
こないだ出島のカピタン屋敷に行った。
畳敷きにテーブルと椅子を並べて西洋風の晩餐をやったらしい。
赤ワイン。
こういうところで酒を飲めると楽しいだろうな。そういうレストランか居酒屋をやりゃあ流行るだろうに。
ていうか、私なら行く。
大村益次郎の

> あさがほのはなのやうなるコップにてけふもさけさけあすもさけさけ

を思わず思い出す。彼も長崎に来たことがあるのだろう。
そうとしか思えない。

卓袱料理も食べた。まあ、たぶん原型は普通の中華料理だわな。
しかしそれを個別の小皿にわけて懐石料理かなにかのようにアレンジしている。
よけいなお世話だよな。
ていうか、日本由来の懐石料理と中華を無理矢理統合しようとするとこんなことになるんだなと思った。

北条早雲

司馬遼太郎の「歴史と風土」を読んでいるのだが、「せまってこない風景」という文で、
北条早雲、後北条氏の祖、について

> 小田原から伊豆の山河が、たとえばこれを書こうというとき、どうしてもピンとこないんです。

とか言っている。
そりゃまあ司馬遼太郎の勝手な感性だと思うんだな。
伊豆・小田原がピンとこなければ多分鎌倉もピンとはこないはずで、頼朝も書けなきゃ北条氏も書けないだろうと思う。
事実彼はこの時代のものは義経しか書いてないはず。
関東に土地勘がたぶんあまりない。
伊豆は温泉が出て太陽が明るくてオリーブの花がきらきら光ってて、なんていうふうにしか見えてない。
吾妻鏡もろくに読んでないんじゃなかろうか。
或いは、日本外史の後北条氏など読むと実にいきいきと楽しそうに書いてあるのだが、
だからこそかもしれんが、司馬遼太郎にはつまらなく感じるのだろうな。

> 観光地として私も好きなところです。しかしそこから歴史を動かす力が出てきたという雰囲気がどうしてもわたしには感じられない。
なんとなくそらぞらしくて、印象が希薄なんです。
つまり人間のあぶらぎった、人間の血とか汗とかがこびりついた、そういう生命感みたいなものが伊豆の山をみていてもなにか薄い感じがするんです。
これはどういうことでしょうか。
越後や土佐へいくとせまってくるものがあるのですが ― これがよくわからない。

ふーん。
「オリーブの花」なんていったい誰にどこに連れていかれたんだろう。そんなもの見たこともないが。
そんな「そらぞらしい」ところには私は一度も行ったことないのだが。
たぶん、修善寺に行くにしても、ただの温泉場と思えばそうしか見えないし、
稲村ヶ崎から由比ヶ浜まで歩いても、ただのサーフィンと海水浴場の町にしか見えんだろうし、
腰越辺りをとおってもここで義経が追い返されて宗盛だけが鎌倉に送られたってことを知らなきゃただ江ノ電が路面走ってる町にしか見えんわな。
たぶん、関心のないことには徹底的に無関心なだけじゃないのかな。
小林秀雄だと長いこと鎌倉に住んだだけあってそのへんの描写はすごみがあるんだがなあ。

ああ、もしかして川端康成の「伊豆の踊子」のイメージで見ているとかかな。
読んだことないからわからんが。

関東でも、調布や府中の辺りはよく調べて新撰組など書いたりしている。
大国魂神社の暗闇祭りの描き方など実にうまいんだが。
ちょっと売れっ子になるとおかしな取材旅行に連れ回されて、
変な印象しか残らなかった、そういうことじゃないのか。

北条早雲は宋学好きだったから、司馬遼太郎にはピンとこなかったんだろうと思うよ。
彼は、宋学は水戸学、水戸学は戦前史観だと思っている。
宋学の影響を受けた武将はたくさんいるのだが、おそらく司馬遼太郎はそのすべてが理解できてないと思う。

ていうかまあ、司馬遼太郎は大阪の人だから、
たとえば子母沢寛みたいな江戸気質な作家のような歴史小説は絶対書けないと思うよ。
ある意味、そういう深みのなさ、軽さが司馬遼太郎が受けるとこなんだろうな。
彼の発言はすべてが軽すぎる。

追記: オリーブはともかくとして、伊豆にはミカン畑はたくさんある。
レモンもたまにある。
佐奈田与一が討ち死にしたのもそういうなんの変哲もないミカン畑だった。
司馬遼太郎にはミカン畑と合戦がイメージとして結びつかないのだろう。
むろん頼朝の時代にミカン畑なんかあるわけがない。
だが伊豆の山を歩いてみればよかったのだ。
頼朝の気持ちになって。
自分の足で歩いてみればだんだんにわかる。