幕下

慈円の『拾玉集』に頼朝の歌が載っているというので、近所の図書館に新編国歌大観を読みに行った。
歩いて通えるところに新編国歌大観があるのは便利なのだが。
国歌と聞いて和歌だとわかる人がどれくらいいるだろうか。
普通の人は世界中の国の国歌が集めてある本だと思うのではなかろうか。

『拾玉集』は私家集の中にある。初めて読んだが異様に長い。
ぱっと見どれが頼朝の歌かさっぱりわからない。
『拾玉集』を何度も何度も読んでいると、将軍とか幕下と呼ばれているのがどうも頼朝くさい。
幕下というは陛下・殿下・閣下などと同じで将軍に対する尊称のようである。
[吾妻鏡](http://adumakagami.web.fc2.com/aduma17c-09.htm)を見るに、
幕下将軍とは(死後の)頼朝個人を指す固有名詞のように使われている。
これに対して二代将軍・頼家のこと(というよりは当代の将軍のこと)はただ将軍家と呼んでいる。

幕府というのは[史記 李将軍列伝](http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7109)
が初出で、要するに将軍が戦場に野営しているその本営のことを言う。
李将軍とはここでは李広のことで、李陵はその孫である。

まあ幕下というのが『拾玉集』における頼朝のことだというのは間違いないとして、
確かにたくさん頼朝の歌が載っているのだが、
別段大して面白い歌でもなさそうだ。
慈円と頼朝が歌をやりとりしているのだが「あれより返し」などと書いてあるだけのやつは、
たぶん自分に対して「あれ」なので頼朝の歌だろうとわからなくもないが、
非常に紛らわしい。
心を落ち着けてきちんと読まにゃわからん。
『拾玉集』は五巻もあって目次がついてるかと思うと必ずしもそういう章立てにはなってないし、
とにかくいろいろだらだら書いてある感じ。
全然「玉を拾」ってる感じではない。むしろ玉石混淆(笑)

CD-ROM 版の新編国歌大観というのは、決して使いやすいとは言えない。
どの歌を誰が歌ったかという情報がない。
単に歌か歌以外の詞書きの文字列検索しかできない。
頼朝で検索かけると俊頼朝臣というのが大量にひっかかってきてうざい。
頼朝だけだと源平盛衰記くらいしか検索に引っかからない。
この源平盛衰記に出てくる頼朝の歌というのが梶原景時との連歌になってて、
連歌はもっと後の時代に一般化したものだろう。
源平合戦というのは平安時代末期なわけだから、おそらく贋作だろうと思われる。
梶原景時の歌というのが武家百人一首に載っているそうだが、
彼に和歌のたしなみがあったことすらあやしい。
新編国歌大観は、必ずしもデータベースとしてきちんとしてないし、
古代から近世までの和歌をすべて網羅しているわけでもない。
だがあまり需要がないからこれ以上編集に金かけても仕方ないということなのに違いない。

頼朝はいろんな呼ばれ方をされた。兵衛佐とか佐殿とか鎌倉殿とか二位とか右大将とか。
勅撰集では「右大将」という呼ばれ方が一番一般的ではなかろうか。
新古今集では「前右大将頼朝」と書かれている。割と親切だ。

頼朝の歌は『拾玉集』以外ほとんど残ってないのだが、
たぶん残ってないだけで子供の頃から大量に歌を詠んだものと思われる。

江戸の街道

別の地図を見ると、
小山から日光、宇都宮、水戸の三方向に街道が分岐している。
宇都宮から日光へ至るのが正式な日光街道であり、小山から日光に至るのは脇街道と見なせばよいか。
思うのだが、江戸から小山を経て日光へ至るのが一番自然な道筋だと思う。
いやそれよりも、そもそも江戸から日光へ至るには日光御成道を通るのが一番自然だ。
よくわからん、もっと正確な地図が欲しい。
宇都宮から大田原、鳥山、日光などに至る道が極めて適当に描かれている。
奥州街道を整備するにあたって宇都宮をその主要な中継地点にしたというような事情ではなかろうか。

小山から水戸へ至るのもやはり脇街道だろう。

千住から船橋を経て佐倉まで佐倉街道が延びているが、
これは町人が成田山詣でに利用したために成田まで延びて成田街道などとも呼ばれる。

大山街道というのは複数あって紛らわしいのだが、世田谷を起点として矢倉沢往還を記入してみた。
大山道というのも要するに江戸で大山詣でが流行ったからそういう呼び名が定着したのにすぎない。
ついでに中原街道も記入してみる。

東海道五十三次というが江戸と京都は含まれてない。
品川から大津までだ。
歌川広重の絵は五十五枚ある。
これの影響で、江戸の起点を日本橋としたのではなかろうか。
あまり根拠のあるものとは思えない。
東海道の京都側の終点を三条大橋だなどとはあまり言わないのではないか。
広重は幕末の絵師なのでまあそのへんは適当で。

江戸から行徳、船橋などへは直接街道が延びてない。
みな千住方面に迂回しているが、つまり、江戸初期にここらは低湿地であったためだろう。

江戸の四宿と街道

元禄六年の江戸地図を見ていると、中山道は単に板橋道と書かれている。
板橋道は本郷追分で岩渕道と分かれている。
岩渕道というのは岩槻街道もしくは日光御成道(おなりみち)のことであり、
荒川を挟んで手前が岩渕宿、向こう岸が川口宿。
日光御成道は日光街道の脇街道となっているのだが、これがまた紛らわしい。
日光御成道と日光街道は幸手(さって)追分で合流する。
追分とは街道の分岐点のこと。
本街道と脇街道が分かれたり合流するところなど。

同じ地図で奥州街道は「千種海道」と書かれているがどうやらこれは千住街道という意味らしい。
[こちらの地図](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/Edo101a7.pdf)
では、千住街道は千住大橋を渡った先の千住宿(今の北千住)で日光道と奥州道と水戸道に分かれている。
が、wikipedia では奥州街道と日光街道は宇都宮までは共通だなどと書かれている。
おそらくここで日光道と呼ばれているのは厳密に言えば日光御成道のことなのだろう。

ついでに江戸四宿の内藤新宿、板橋宿、千住宿、品川宿も描き込んでみる。

こうしてみると、どう考えても、日本橋がすべての街道の起点になっている、
などとは言えないのである。
江戸城をぐるりと取り囲む門や見附がそれぞれの街道の起点となっている、
と考える方が自然であるし、
特に江戸城下では中山道や日光街道や水戸街道などという明確な認識はなくて、
岩渕道とか板橋道とか大山道とか甲州街道とか青梅街道などがあっただけなのだろう。
従って、青梅街道や甲州街道の起点は内藤新宿であり、
奥州街道や水戸街道の起点は千住であり、
東海道の起点は品川であり、
中山道や川越街道の起点は板橋である、
と考えるのもわかりやすいと思う。
なんでもかんでも日本橋を出発点にするという考え方はどこから出てきたのだろうかとふと疑問を持つ。