歌学

今の時代にも、西洋古典音楽の作曲家というのはいるわけで、
ピタゴラスがとかバロックとか楽典がとか和声とか対位法がとか学んだ上で、
それらを克服して、現代音楽、前衛音楽を作曲したりするわけだが、

和歌を詠むにも、
そういう古典から順々に積み重ねていき、
その精華として現代的前衛的な和歌を詠むということはあってしかるべきだが、
そういう歌人は現代には一人もいないように思われる。
そういう教育手法もなければ研究者もいない。
研究と実作ということを少なくとも宣長の時代までは普通にやっていた。
今はただ昔はこんな和歌がありましたという学者がいて、
歌人は歌人で好き勝手に詠んでいる。

後村上天皇の歌が京極派の影響を受けているのは間違いないと思うが、
南朝は京極派ではなく二条派だということになっている。
後村上天皇の周囲、というか、南朝の歌集には、京極派的な歌を詠む人は、
後村上天皇以外にいない。
彼がたまたま突然変異なのか、京極派を独学したかと思ったのだが、
何かミッシングリンクのようなものがあるんじゃないかと思う。

仁和寺

久しぶりに仁和寺を訪れたのだが、
明治の初めころにほとんど焼失してしまい、
明治42年頃に再建された建物がほとんどであるという。
明治42年というのは日露戦争の後だから、国力にもずいぶん余裕が出来た。

仁和寺というのは、
むろん大昔から続いているわけだが、
実質的には明治の建造物であって、明治維新と日露戦争を記念するモニュメントであって、
そういう意味では明治神宮や、戦前の明治宮殿に類するものだろう。
平安神宮や京都御所もそうだろう。
そう思ってみないとわけわからん。
仁和寺を、京都にあるあまたの寺の中の一つだと思って眺めても何も見えてはこない。
寺院なのに仏教色が非常に少ないのも明治という時代だからだ。
ただ歴代門跡の位牌が置いてある場所だけが仏教的聖域。
いわば、普通の住宅の中に一部屋だけある仏間のようなもの。
それ以外の場所は、たぶん皇族が京都に滞在するときに実際に利用した住居だったのではないか。

京都という町自体が、その多くが、日露戦争による国力伸長後に、
国家権力の象徴として整備されたのだと思う。
そういう意味では極めて人工的な都市だ。
天然自然に平安朝から続いたものではない。
もし明治という時代がなければ、京都は多くの地方都市の中の一つに過ぎなかったのではなかろうか。

これに対して知恩院などは完全に日本仏教の総本山的な存在なのよね。

二条城は、江戸城が失われた今、一般人も見学できるという意味で非常に貴重な建物だと思った。

愛国百人一首

[愛国百人一首](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96)
というものがあって、
斎藤茂吉が
[愛國百人一首評釋](http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/46880_40531.html)
というものを書いているのだが、
どう見ても、愛国の歌とは思えないものまで混ざっている。
たとえば香川景樹

> ひとかたに靡きそろひて花すすき風吹く時ぞみだれざりける

これは単に自然の情景を詠んだ写生の歌であり、どこが愛国なのかと。

> 作者は、かういふ光景に目を留めて、感動したことは一首の歌調によつてうかがふことが出來る。

ススキが風に一方に靡いた光景に、景樹は感動したんだろうな、と言っている。
たぶん、感動したから詠んだというより、目の前の光景をありのまま描写したかったのではなかろうか。

> 作者は專門歌人だから、あらはに寓意を出すといふやうなことはせぬが、この一首は、大事に當つて心みだれず、動搖せず、同心一體となるべき自然の道理を暗示し象徴するものとして、このたび百首の一つ選ばれたのであつた。

この解釈があまりにもおかしい。
なわけないだろうと思う。
別に国の機関がこれを愛国だと決めたからといって民間の歌人までそう解釈しなくて良いのではなかろうか。
ていうか、斎藤茂吉が国に頼まれて選んだとしたら、なんというアホだろうかと思う。
時代が時代だけに、彼個人の責任にするのは酷かもしれんが。

> 香川景樹は、すなはち桂園派の元祖で、天保十四年七十六歳で歿した有名な歌人である。生涯古今集を手本とし、貫之を目標として勉強した。多くの門下を養成し、著書に桂園一枝、同拾遺、古今集正義、新學異見、土佐日記創見等がある。この歌は、桂園一枝、秋歌に、「薄隨風」といふ題で載つてゐる。

まあ、通りいっぺんの紹介だわな。
ていうか、香川景樹ほど「愛国」な歌を詠まない人はないと思う。単に有名人だから挙げただけなんじゃあるまいか。

> 山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

この実朝の歌にしても、後鳥羽院に対して幕府と朝廷に二股かけてるわけじゃありません、誓っているだけであり、
実朝と後鳥羽院は親戚関係でもあるのだから、
これくらいのことは言うだろうし、
愛国というには少し違うのではないか。

> 大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び聲

これを

> まことに盛んでおめでたいことでございます、といふ意が言外にこもつてゐる

と解釈するのは、不可能ではないが、かなり強引だ。
江戸後期以降の愛国の歌ばかりではバランスが悪いからと愛国的な古歌などを見繕った、
それも万葉時代の武人が詠んだ露骨な歌というよりやや雅な歌を意図的に選んだのだろう、と思うが、
おかしすぎる。
まあ、戦時中の斎藤茂吉がおかしくてもなんの不思議もないのだが。

> 男山今日の行幸の畏きも命あればぞをろがみにける

これは江戸末期の大隈言道の歌。
孝明天皇が石清水八幡宮に行幸したときの歌だろう。明らかに北畠親房の

> 男山昔のみゆき思ふにもかざしし春の花ぞ忘れぬ

の本歌取りなわけだが、元の歌はまあまあとして、大隈言道の歌は、どうみても佳作とは言いがたい。
なんとかならなかったのか。
大隈言道最晩年七十歳くらいの歌だから「命あればぞ」となるのだろうが、
それはわかるが、だがそこまでの歌だと思うんだよなあ。

私ならもっと違う歌を百選ぶと思うがなあ。
幕末より前のでも、いくらでもあるのに、と思う。
たとえば上の北畠親房の歌は入れてもいい。
宗良親王の

> 君のため世のため何か惜しからむ捨てて甲斐ある命なりせば

は当然入れるべき。

なんかね、戦争で和歌が亡びたのではないと思うな。
こういう戦時中のお抱え歌人たちの歌の目利きがひどすぎた。
あと、民間人もそれに踊らされて盛んに愛国的な和歌を詠んだが、逆にそれがいけなかった。
民間人が世の中の流行に流され、熱病に罹ったように、わけもわからずそんな歌を詠んではいけない。

戦後、和歌は軍国主義といっしょくたにされ、プロパガンダとみなされ、
オーストリア人やドイツ人が作詞作曲した軍歌と同様な運命をたどった。
本来ならばドイツ音楽というのはそれなりに価値のあるものだと思うし、
今聞いてもそんな悪くない。
だが戦後封印されてしまった。

戦後の日本酒の運命にも似ているな。
まがい物が氾濫した結果、古き良きものまでいっしょくたに嫌われてしまう。

甲府勝手小普請

甲府藩藩主は家綱・綱吉時代には松平綱重と、その息子の綱豊であったが、
綱豊が綱吉の跡継ぎ家宣となったために甲府は没収されて綱吉の寵臣柳沢に与えられた。
家宣が将軍になり、柳沢吉保は失脚したが、そのまんま甲府藩主だったが、
吉宗の代、というより、吉保の子供の代に転封され、甲府藩十五万石は幕府直轄に戻された。
長男吉里は大和国郡山藩十五万石に移され、その弟らにも一万石が与えられたというから、
懲罰的な転封ではなく実質加増だった、とも言える。

いずれにしても江戸周辺は幕府直轄か旗本の料地になって、たいていは代官が治めていた。
司馬遼太郎『燃えよ剣』では、農民が武装して剣法の修業も勝手し放題だったために、
近藤勇や土方歳三のような農民上がりの武士が出てきた、と言っているが、
ともかく関東近辺は、国定忠治みたいな、武士階級ではないが長脇差しを指した、
農民なんだか無宿人なんだか渡世人なんだかのような連中の温床になっていた。
江戸後期の旗本というのは根っからの怠け者で、無為無能で事なかれ主義なので、ろくに取り締まりもしなかった、と思われる。

ウィキペディアの「甲府勤番」に「甲府勝手小普請」というのが出てくる。

> 老中松平定信が主導した寛政の改革においては不良幕臣対策として甲府勝手小普請が併設される。慶応2年(1868年)8月5日には甲府勤番支配の上位に甲府城代が設置され、同年12月15日には甲府町奉行が再び設置され、甲府勤番の機能は城代、小普請組、町奉行に分割された。

> 甲府勤番は元禄年間に増加し幕府財政を圧迫していた旗本・御家人対策として開始されているが、旗本日記などには不良旗本を懲罰的に左遷したとする「山流し」のイメージがあり、「勤番士日記」にも勤番士の不良旗本の処罰事件が散見されている。
勤番士の綱紀粛正のため半年に一度は武芸見分が実施されており、寛政8年(1796年)には勤番支配近藤政明(淡路守)、永見為貞(伊予守)により甲府学問所が創設され、享和3年(1803年)には林述斎から「徽典館」と命名され昌平坂学問所の分校となった。

でまあ、「山ながし」とか「勝手小普請」というのが「窓際族」とか「左遷」とかのイメージに結びついて、
一生懸命出世街道を目指して頑張ったのに田舎に左遷されたとか閑職に回されたとか、
そんな戦後日本のサラリーマン社会をそのまんま江戸時代の武家社会に投映したような時代小説(気持ち悪くてあまり好きなジャンルではない)に使われることが多いように思われるが、
事実はもっとやばいものだっただろう。
博打や借金踏み倒しでとうとう懲戒処分を受け、飼い殺しにされた不良浪人、という表現が当たっていよう。
江戸で手に負えない乱暴者を甲府なんてところに追いやったのだから、虎を野に放つ、という言い方の方が近かろう。
源為朝を九州に追放するようなもんだ。
甲府の治安はそうとう悪かったに違いない。
だからこそ「甲斐一国一揆(天保騒動)」のようなことが起きたのではないか。
関東の無宿人、渡世人らと、勝手小普請が主犯。
いわゆる百姓一揆とか、飢饉による打ち壊しというのとはかなり違ったんじゃないかと思う。

> 吟味では無宿人の頭取をはじめとする500人(130人あまりが無宿人)以上のが捕縛され、酒食や炊き出しを提供した有徳人や村々の騒動関与者も厳しく追及され、頭取ら9人が死罪、37人が遠島となり、関与者を出した村々には過料銭が科せられたほか、三分代官も処罰されている。

もし不良浪人が主犯であればそれは幕府の恥であるから、あまり表には出さず、無宿人のせいにする、
もしくは小普請であったがすでに処分されていたから無宿人か浪人だった、ということにしたのではなかろうか。

> 多摩地域では天保騒動を契機として、豪農層を中心に自衛手段としての農村剣術が活発化している。

これはねえ、順序が多少入れ違っているんじゃないのかなあ。
「勝手小普請」「無法地帯」「農村剣術」というものが流行していたので、
そいつらが臨界点に達して暴走し、
甲斐一国一揆が起き、甲斐一国一揆を参考にして大塩平八郎の乱が起きたんだよ。
幕府とか旗本が弛緩し腐敗してたのが根本的な原因だと思うな。

舞殿

『吾妻鏡』文治2年4月8日

> 二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。
これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。この事去る比仰せらるるの処、病痾の由を申し参らず。
身の不肖に於いては、左右に能わずと雖も、豫州の妾として、忽ち掲焉の砌に出るの條、
頗る恥辱の由、日来内々これを渋り申すと雖も、彼はすでに天下の名仁なり。
適々参向し、帰洛近くに在り。その芸を見ざれば無念の由、
御台所頻りに以て勧め申せしめ給うの間これを召さる。偏に大菩薩の冥感に備うべきの旨仰せらると。
近日ただ別緒の愁い有り。更に舞曲の業無きの由、座に臨み猶固辞す。
然れども貴命再三に及ぶの間、なまじいに白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す。
左衛門の尉祐経鼓たり。これ数代勇士の家に生まれ、楯戟の基を継ぐと雖も、一臈上日の職を歴て、
自ら歌吹曲に携わるが故なり。この役に候すか。畠山の次郎重忠銅拍子たり。
静先ず歌を吟じ出して云く、

> よしの山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそ恋しき

> 次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、

> しつやしつしつのをたまきくり返しむかしをいまになすよしもかな

> 誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、
八幡宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚らず、
反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。御台所報じ申されて云く、君流人として豆州に坐し給うの比、
吾に於いて芳契有りと雖も、北條殿時宣を怖れ、潜かにこれを引き籠めらる。
而るに猶君に和順し、暗夜に迷い深雨を凌ぎ君の所に到る。
また石橋の戦場に出で給うの時、独り伊豆山に残留す。君の存亡を知らず、日夜消魂す。
その愁いを論ずれば、今の静の心の如し、豫州多年の好を忘れ恋慕せざれば、貞女の姿に非ず。
形に外の風情を寄せ、動きに中の露膽を謝す。尤も幽玄と謂うべし。枉げて賞翫し給うべしと。
時に御憤りを休むと。小時御衣(卯花重)を簾外に押し出す。
これを纏頭せらると。

「静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲を施せしむべきに依ってなり。」
とあるが、廊下で踊ったわけはない。廊下跡に舞殿が作られたというのも変。
しかも今、鶴岡八幡宮には回廊らしきものはないのだから、
当時と今ではかなり構造が違っていたと考えなくてはならない。

回廊というのは普通、拝殿と正門の間にぐるりと巡らし中庭を囲った廊下であるはずだ。
「八幡宮の宝前に於いて芸を施す」とあるから、これは、明治神宮で横綱が土俵入りするように、
静御前は回廊の真ん中の広場で踊ったはずである。
頼朝に見せるために踊ったのではない。少なくとも、形式的には、神前で舞を奉納したのである。

石清水八幡宮は、回廊の中心の広場に仮設舞台が設けられることがあるようだ。
屋根は無い。
おそらくこういうところで、雅楽のような形で伴奏付で舞ったのではなかろうか。

今の鶴岡八幡宮の石段を上がったところにある本宮では、そのような広い中庭を作るような場所はない。
であれば、やはり、石段を下りたところに拝殿、門、回廊があったと考えるべきではないか。
つまり、昔は上宮と若宮(下宮)が直列になっていて、
下宮というのはつまり拝殿のことであり、
拝殿から石段が伸びた上に本殿、正殿、つまり上宮が位置していたのではないかと思う。

でまあなんでそんなことをうだうだ言うかといえば、
『将軍放浪記』で、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

などと書いてしまったからだ。
小説はフィクションであるから、舞殿というものも、作者の心象風景でかまわないと思うのだが、
いろいろ調べてみると、今、舞殿とか下拝殿などというものは、おおよそ参道を塞ぐ形であることが多いが、いかにも邪魔である。
昔からこんな配置であったはずはないのではないかと思う。
昔は仮設だったのではないか。
それがだんだんめんどくさいので常設になり、
一番目立つところにあるから華美にもなり、
スポンサーの提灯なんかをぶら下げるようにもなった。

だいたい舞殿の柱は四本というのは少ない。六本、十二本、もっとたくさん、というのもある。
四隅に一本ずつ、四本というのは相撲の土俵とか、能舞台のイメージだと思う。
薪能などは仮設舞台の四隅に柱を立ててしめ縄を引き回すようだが、
だいたいこういうイメージ。
神の依り代となる空間、みたいな。

でまあ、1333年、北条高時が鎌倉で死んだときに舞殿があったかと言えば、
たぶんなかったのだけど、
何度も言うがこれは作者の心象風景ってことでひとつよしなに。

京都

なぜか二泊三日で京都旅行してきた。

京都は、歩行者が散歩しやすい、歩きやすい町だなと思った。
電柱や電線が無いのも良い。
歩行喫煙者も割と少ない。
日本全国、京都のようになれば良いと思う。
もちろん京都が完璧とは言いがたいけど、モデルケースにはなるだろう。

新宿なんかも歩行者が歩きやすいようにできているんだよな。

逆に田舎の狭苦しい道の歩きにくさは異常だわな。
車道しかないから、交通量多いところはもう歩行者は歩かない前提。

鎌倉も少し似てるかもしれん。
でも鎌倉の人の多さは異常。
京都も日によって場所によってはそうかもしれんが、
鎌倉はもう、どこもかしこも混んでてやばい。

なぜか東山のあたりに泊まった。
地下鉄東西線東山駅出たすぐに古川町商店街という狭苦しいアーケードがあって、割と和めた。
地元の人しか飲みに来なさそうな雰囲気を醸し出していたのだが、知恩院から東山駅への抜け道になってるので、
観光客のほうがたくさん来ると言っていた。

祇園とか先斗町とか歩き回ったが、入りたいと思える店がなかったのだが、
鴨川沿いに、日本酒バーとドミトリー(バックパッカーとかが泊まるような相部屋の宿)を兼ねた店があって、
そこのマスターが「モヒカン娘」を知っててびっくりした。
中野にマチダヤという酒屋があるのだが、そこと知り合いだと言う。
世間は狭いものだなあと思った。
「モヒカン娘」というのはつまり、青森の三浦酒造という、
「豊盃」という銘柄の酒をつくっているところに作ってもらった、
マチダヤのオリジナルブランド、ということらしい。
「豊盃」もあったので飲ませてもらったが、だいたい同じ味だと思う。

最近やっと本醸造と純米の味の違いがわかってきたような気がする。
一口飲んでまずいなと思った本醸造でも飲んでるうちにうまく感じてくる。それが困る。