[雲居に紛ふ沖つ白波](/?p=17719)再説
高橋睦郎「百人一首」p.152
> わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通。
詞花集「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」
保延元(1135)年4月の内裏歌合で詠まれたものであるらしい。
新院とはここでは詞花集の勅撰を命じた崇徳院で、位におはしましし時とは在位中(1123-1142)という意味。
ま、ともかく 1135年のことと考えてよいだろう。
忠通は藤原忠実の長男。
忠実の次男が頼長。
この三人と、
本院(白河)、新院(鳥羽)、天皇(崇徳)が絡んだ複雑な政争を詠んだものだと高橋睦郎は言う。
はてそうだろうか。
1135年当時、白河院はすでに崩御(1129)している。
なので、崇徳天皇が在位中で、鳥羽院が院政を敷いていた状態。
崇徳天皇が鳥羽院によって近衛天皇に譲位させられるのは1142年のこと。
しかし近衛天皇が生まれるのは1139年だし、
頼長は1120年生まれ、1135年でまだ15才にすぎない。
でまあ、1135年当時どのような政争があったかといえば、
鳥羽院は(祖父の白河院から押し付けられた中宮待賢門院藤原璋子を嫌っていて?)
1133年に忠実の要望をいれて忠実の娘(つまり忠通と頼長の姉)高陽院藤原泰子を入内させる。
泰子は当時すでに39歳でのちに皇后になっている。
まあこういう例は珍しくない。
皇子を産んでもらうというのでなしにただ形だけ有力者の家から皇后を立てる。
また1134年から美福門院藤原得子(近衛天皇の生母)が鳥羽院の寵愛を受けるようになっているが、
この時点で美福門院の影響は考えなくてよかろう(得子の父・長実は生前は正三位・権中納言だから大した公家ではない。藤原定家くらい)。
つまり、この時期は鳥羽院と忠実の全盛期であって、
忠通が崇徳天皇になにやら怪しげな、諫言めいた歌を奉るなどということに、
ほとんど何の意味もない。
のちに頼長と崇徳院が組み、忠通が後白河天皇と組んで保元の乱が起きたが、
それは1156年、21年後のことなのである。
その保元の乱のイメージでこの歌を鑑賞するというのは、
後代の人にありがちなこじつけというしかない。
同著の中で、
> 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
の「来ぬ人」は後鳥羽院、待つ海女は定家だとみなしているのだが、
これもひどいこじつけだ。
また
> 待賢門院璋子と北面武士佐藤義清(西行)の十七歳違いの例もあり、
式子内親王の忍ぶ恋の相手は定家ということも、「考えられないことではない」とする。
そのほかあげればきりがない。
また高橋睦郎という人がそういう人だから仕方ないのかもしれないが、
ギリシャやローマやそのほか西洋の話にいちいち絡めてくるのが邪魔というよりない。
またこの人も「王朝を埋葬」したい人らしい。
確かに定家は朝廷から幕府に実権が移った時代に生きた人だから、
定家や百人一首を王朝の鎮魂歌とみなしたい気持ちはわからんでもないし、
実際そのように後世考えられるようになった。
後鳥羽院と順徳院の歌が末尾に付加されたのはその意味にちがいない。
しかしそれは定家とは直接関係ないことだ。