藤原淑子。長良の娘、基経・高子の異母兄弟。
臣籍に下った定省王(源定省、後の宇多天皇)を猶子とする。
淑子さんも宇多天皇の即位に運動したかもしれんね。
でもそれは弱い気がする。
[菅原道真公](http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7722/772205.htm)
> 光孝天皇が崩じたとき,尚侍の淑子は直ちに皇位の印の剣璽を奉持し,脱兎のような素早さで麗景殿に参入し,定省親王に奉呈した
> 宇多天皇は,践祚の翌日に内裏の宣耀殿を出て,内裏の東に在った雅院に移りました。それから三年半後,基経が死去した翌月,
道真公を蔵人頭に任ずる直前に,天皇は漸く内裏の清涼殿に移って日常の居所とされました。
践祚の儀式の時は内裏にいたが、その後雅院、つまり東宮御所に移り、基経が死去してやっと清涼殿に入った、というのは、
ずいぶん異様な話である。
なんでそんなことをしたのか。
その頃清涼殿には誰が住んでいたのか。
基経死去は891年だな。
清涼殿にいたのはたぶん基経の妹で皇太后(清和天皇女御で陽成天皇生母)の高子だろう。
光孝天皇はどこに居たのだろう。
まさか、黒戸御所か。
話ができすぎてるな。
高子は896年に皇太后を剥奪されているから、徐々に排除されていったわけだな。
陽成上皇は冷然院に住んだんだな。
ていうか、基経が死ぬまで内裏には陽成院が住んでいた可能性すらあるわな。
うわーわけわかんねえ。
剣璽というのは三種の神器のうちの剣と曲玉とされる。
それでは、二種の神器なのではないか。
もひとつは鏡か。
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