西園寺公重

定家を調べていて、ついでに西園寺家についてもずいぶん調べたのだが、そうすると南北朝の頃の西園寺家について、いろいろ疑問がわいてきた。
西園寺家は関東申次であり、公家ではあるが、北条得宗家との関係が深い。
北条氏が滅んでも当時の当主の公宗は北条高時の弟の泰家を擁立し、後醍醐天皇を討って、幕府を復興しようとした。
ところが公宗の弟の公重は公宗を後醍醐天皇に密告し、公宗は処刑される。建武の新政の最中、1335年のことである。
同じ年、高時の息子の時行(当時は元服前で長寿丸)を擁立した中先代の乱が起きるのだが、泰家と時行はおそらく連絡を取り合い同時に蹶起しようとしたはずだ。

公重は後醍醐天皇の信任を得るが、そもそも建武の新政で西園寺が鎌倉時代ほど優遇されるということはあり得ないのである。
足利尊氏は1335年にクーデターを起こす。
1336年に尊氏はいったん九州に落ちるが、湊川の戦いで盛り返し、京都を制圧し、後醍醐天皇は吉野に逃れる。
しかし公重は1353年まで北朝にいたことになっている。

風雅和歌集が1346年になるがこれには公重の歌も入っているので、公重は北朝の公卿であったことになる。
その後、新葉和歌集にも歌が採られるがこのときにはすでに南朝の公卿になっていたことになる。

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