今更ギリシャ語の勉強をするのかと思うとおっくうになるが、
ギリシャの古典を学ぼうとすると日本語の本だけじゃあ到底足りなくて、
英語の辞書とか英訳とかを読まないわけにはいかない。
英語がある程度読めるようにならないと、
英語の他にもたとえばドイツ語なんかも多少はたしなんでおかないと、
ギリシャ語なんて読んでもつまらんし、続かないのだと思う。
とすれば50過ぎてからギリシャ語を始めるというのもある程度理には適ってそうだ。
65くらいまでは頭もぼけないだろうから、あと10年か15年あまり、
一生懸命勉強してみるのも悪くないかもしれない。

ギリシャ語の研究は、新約聖書は非常に進んでいるが、
ローマが関わってくる前の、プラトンやクセノフォンあたりはかなりぞんざいな感じがする。
未だに、プラトンがアカデメイアで、アリストテレスがリュケイオンで講義した講義ノートというオリジナルのテキストがあって、それを弟子たちがまとめたのだという仮説に基づいている。

私の場合『エウメネス』がそこそこ売れているというのもあり、
完結させてみたいが、そのためには膨大な勉強が要る。
アリストテレス、プラトン、ソクラテス、クセノフォン。
少なくとも英訳、できればギリシャ語の原文を一通り読みたい。
ドイツ語であれほど苦労しておきながら、また、英語も大してできないくせに無謀といえば無謀なのだが、
どうかんがえても和訳されたものを読んでいては何も新しいもの、隠されたものは見えてこないように思う。
ヘレニズムの遺産というのはローマだけに受け継がれたのではなく、ペルシャにも同じくらいに残ったはずだし、イスラムにも遺ったはずなのである。
インドでは仏典にも残っている。
ところが我々はローマの末裔である西欧に伝わり解釈されたギリシャしか知らない。
これがギリシャ理解を阻んでいると私は思っている。
しかしいまさらアラビア語やトルコ語やペルシャ語なんか手を出していられない。
それが悔しい。

ギリシャ語の研究者というのは、海外でも日本でも、ほぼキリスト教徒だろう。
聖書はそれなりに批判にさらされているが、
ギリシャの古典はキリスト教神学に都合の良いように解釈されていて、
また原文に当たる研究者もオックスフォードかケンブリッジ、海外だとハーバードくらいの、
小さなコミュニティにしかいない。
もっといろんなひとがわーっと研究すればだいぶ新しいことがわかるに違いないのである。
今年で52だが、これまでの人生を無駄にしてきたつもりはないが、
もう少しどうにかならなかったのかと思う。

そもそも伊勢物語に手を付けてまだ全然進んでない。
伊勢物語すら終わらせられないのにギリシャ語なんてやってどうするのか。

日本外史も完訳してみたいと考えていた。
不可能ではないと思うが、時間が無限にあるわけではなく、なんでもかんでもやれるわけではないのだ。

私としてはまず古今和歌集を調べた。
その後、藤原定家に寄り道した。
もいっぺん古今和歌集に戻って、古今和歌集と密接な関係にある伊勢物語を調べ始めた。
どうも伊勢物語は、紀有常から在原棟梁に伝わり、紀貫之に伝わり、紀貫之が亡くなったあと、
村上天皇の時代にまとめられたように思う。
この時代には後撰集と古今和歌六帖があり、伊勢物語に良く似た業平集というものもある。
古今和歌六帖の成立は非常に興味ぶかい。
菅原道真は万葉集を知っていたから、新撰万葉集という名の歌集を編んだのだろうが、
古今和歌六帖は万葉集を知らずに、奈良時代の古い和歌も収集したように思われる。
この時代の史書には続日本紀、日本後紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録などがあって、
これらも読まないわけにはいかない。
さらに言えば、竹取物語もこの時期に成立したはずであり、
合わせて土佐日記や貫之集、その他の私家集なども読まないわけにはいかない。
江戸時代、特に本居宣長もやりたいし。
和文の研究だけでもこんなにやりたいことがある。困ったものである。

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