なんだかもうドラえもんかサザエさんみたいに話を一ミリも進めずに作者が死ぬまで、いや、死んだ後も延々、権利者たちが話をひっぱるために作られたような作品だった。
実に水戸黄門的だった。
アレをアニメで見ればまあそれなりに楽しめるのだろうが、アレを文字で読まされて面白い人がいるのだろうか。まあ、中にはいるのだろう。それがラノベファンというものかもしれない。
ていうかハルヒシリーズのアニメみて原作読むとアニメの原作再現度が非常に高い。原作読めば多少は細かなニュアンスが伝わってきてそれはなるほどなと思うのだが、意外性がほとんどない。おそろしく忠実だ。これはなんだろう。原作者とアニメ制作者の関係がものすごく良好なのだろうか。映像化する人が原作者をものすごくリスペクトしているのだろうか。そういう意味では、映像研なんかも漫画をほぼそのままアニメ化している感じ。最近の傾向なのだろうか。
2Dのイラストをトレスしながら3Dのモデル作るような、そういう原作重視な風潮が強まっているような気がする。
昔のトリトンみたいに原作とアニメが全然違うみたいなことはもう今では無いのかもしれない。
しかしあれかもしれん。いったん作品が当たると、それを商品化したりグッズ化する業者や二次創作者やファンからの要望が原作者にものすごいいきおいで逆流してきて、一次創作がかなり早い段階で二次創作化しシリーズ化し、がんじがらめにされてしまい、ディズニーにスターウォーズを売ったルーカスみたいにもうどうにでもなれという状態になっていわれるがままに書いているのかもしれない。或いは、もう本人は書いてすらいないのかもしれない。
そういえば涼宮ハルヒの消失は「原作の再現としては失敗している」と熱く語っているアニメ評論家(?)を見かけたが、私にはどこが違うのかほとんどまったくわからなかった。そりゃ多少違うところはあるだろう、映像演出が誇張されるということもあったのかもしれないが、少なくともストーリー展開はまったく同じと言ってよかった。私の把握している限りにおいては。
多少違っているくらいが、たぶん、両方見ている人には面白いのだ。ソラリスなんて、原作はポーランド語らしいんで読めないのだが、日本語訳と(それも複数ある)、英訳と、タルコフスキー版と、ソダーバーグ版を見比べているだけでけっこう楽しめる。
1984にしてもそうだ。原作と、日本語訳と、映画版を見比べるのが、少なくとも私には楽しかった。今は 1984 も u-next でも見れるし、ブルーレイも出てる。
何がいいたいかというと今のように原作の小説と映画がほとんど同じだと、原作を読むという面白みがほとんどないってことなんだよな。原作はもっと原作者のひねくれた描写が読みたいんだよなあ。それを商業的にヒットさせるためにいろいろ削ったりあざとくしたりするところがみたいのにさ。
つまり今の小説はどれも、あわよくば映像化されることを想定して、最初から書かれているってことだよな。のぼうの城とかあんなのも全部そうだろうな。ある意味すげーつまんないよな。ジョージ・オーウェルが最初から映画化されることを想定して 1984 を書いたはずがないし、スチーブンソンがアニメ化されることを期待して宝島を書いたはずがない。
というか「涼宮ハルヒの憂鬱」にしても作者の処女作というわけではなく、「電撃萌王」という雑誌に「電撃イージス」という作品を連載したということは、もう雑誌に連載される以前から編集者がついていろいろ企画会議などやっていたに違いない。とっくに小説家が勝手に小説を書ける時代ではなくなっているのだろう。