年を取ると楽しみが減るということ

もう10年くらい前から本屋に行っても本を買いたいという気にならない。今はこんな本が流行ってるのかーとか、こいつずいぶん書き散らかして売り散らかしてるんだなーとか、出版界の市場調査しているような気分になるだけで、本を買ってそれを自分の所有物にしようという気がおこらない。呉智英も本を買うと家が狭くなるから買わない、図書館で借りてくる、などというようなことを言っていたと思うが、もちろんそれもそうで、あーこの本欲しいなと思っても、その本を読んでいる自分を想像して、でもこれ国会図書館デジタルコレクションにあるからわざわざ買う必要ないよなとかまず思ってしまう。

デジタルコレクションにないような今の一番新しい本で買っておこうという本がない。あるとしてもすでに買ってしまっていたりするんだよね。

年度末には予算消化で多少無理して本を買ったりもしていたが今はそれすらない。

街の本屋で本を買うということは、自分の意志と判断で本を選んで買っているようで実は単にコマーシャリズムに負けて、出版社や本屋の営業の力に負けて、本の対価を支払わされているだけなのだ。実際本屋に並んでいない、市場に流通していない本をあえて入手して読もうと思うととたんに、ただ本を入手するというだけでとんでもない労力とコストが発生してしまう。街中の本屋に並んでいる本のどれかを適当に買うってのはとても受け身で楽なことで、コンビニでなにかものを買うのと本質的に何も違わない。テレビに勝手に流れてくる映像を見ているのと何も変わらない。

地方自治体の図書館だってそうだよ。利用客が減ると税金の無駄遣い呼ばわりされるからあれこれ工夫して本を読ませようとしているが、人から読まされる本なんてたいてい価値はない。そんなことを司書が知らないわけがない。

若いうちはまだ良い。知識や経験が足りないからお仕着せの本を読んでもまだ身になる。商業資本に毒されていようが、なんでも手当たり次第に読むというのも一つの手だ。

年をとると本屋に行っても時計を見ても、茶碗を見ても、あーもうこういうの持ってるし、服にせよ靴にせよなんにせよこれ以上買うとおんなじのばっかり家にたまっていくから買わない、となる。若い頃はそんなことはなかった。とりあえず、あ、これほしいと思えば買っていた。買うことができた。品物をそろえることで生活を豊かにしていくことができた。今はもう、何も買わなくてもなんとかなる。食べ物や酒にしてもそうで、別に今日酒飲まなくてもいいやと思いつつ、夕方になるとほかにすることもないので惰性で酒を飲んでしまいこれじゃいかんなと思う。浅草に部屋借りてしばらくは店を新規開拓して、それなりに楽しかったのだが、それが落ち着くと逆に、千束通りあたりで適当に買った惣菜で済まして、何もせず部屋でぼーっとしてようかな、などと思う。

ともかくものを買う楽しみというものがない。観光地に行っても土産物を買おうという気にならない。最近はちょっと梅干しとか沢庵に凝ってたがそれももうマイブームは去った。入院手術も終わって、新しい役職に就いて一年経ったからとりあえずルーチンワークは落ち着いたし、本の執筆も終わったし、正直何をやれば良いかわからん状態。人生デジャブだらけ既視感だらけになって、それもうやったことあるよな、やる必要ないよなってことばかり。みんなよく生きるのに飽きないよな。ここにこんなことをうだうだ書いているのも、ほかにやることないっていう証拠だ。

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