『日本外史』によれば、いわゆる「五摂家」(近衛・九条・二条・一条・鷹司)というのは北条時頼(第5代執権1246-1256)が定めたのだという。
両統迭立というシステム、つまり持明院統と大覚寺統で、一方に天皇を立てるとき、同時に他方に皇太子を立て、
十年おきに交代するというシステムは、この「五摂家」にならって北条貞時(第9代執権1284-1301)が考案したのだという。
実にシステマティックで合理的な考え方だし、
また、北条氏が、天皇家は二家、公家は五家で十分で、それらが代わる代わる、天皇を出し、摂政関白をだせば良かろうという程度しか、
考えてなかったことがわかる。というかそういう発想が少なくとも江戸時代の武家の間にはあった。
北条氏はたぶんものすごいリアリストでどちらかと言えば理系な考え方の人たちだったのではないか。
北条氏から見れば、天皇家も摂関家も、国政という実務をほったらかして、統治すべき国家や人民の実情から乖離し、
何の原則もなく皇位継承戦争やら権力争いをしているように見えたのではないか。
両統迭立が伊勢神宮の式年遷宮にヒントを得たものではないかということは、[このブログでかつて書いた](/?p=7364)。
北条氏はかつて、承久の乱のときに、立てるべき皇太子が居なくてこまったことがあった。
だから天皇家は二つに分かれて牽制しあっているくらいでちょうど良いと思ったのだろう。
徳川家の御三家とか御三卿も似たような発想かもしれん。
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