### 冠詞(男性, 女性, 中性)
        
#### 単数

* 主 ὁ, ἡ, το
* 属 του, της, του
* 与 τω, τη, τω
* 対 τον, την, το
* 呼 ω, ω, ω

#### 双数

* 主・対 τω, τω, τω
* 属・与 τοιν, τοιν, τοιν

#### 複数

* 主 ὁι, αι, τα
* 属 των, των, των
* 与 τοις, ταις, τοις
* 対 τους, τας, τα
* 呼 ω, ω, ω

### 人称代名詞(I, II, III)

#### 単数

* 主 εγω, συ, –
* 属 εμου/μου, σου, οὑ
* 与 εμοι/μοι, σοι, οἱ
* 対 εμε/με, σε, ἑ

#### 双数

* 主・対 νω, σφω, –
* 属・与 νων, σφων

#### 複数

* 主 ἡμεις, ὑ-μεις, σφεις
* 属 ἡμων, ὑ-μων, σφων
* 与 ἡμῖν, ὑ-μῖν, σφισιν
* 対 ἡμᾶς, ὑ-μᾶς, σφᾶς

必死剣鳥刺し

『必死剣鳥刺し』を見たのだが、美しい映画だが、おそらくは脚色に問題がある。
原作がこんなに間抜けなはずはない、と思うのだ。

まず、お家騒動というものはこのように起こるものではない。
家老の帯屋が主君を隠居させて世嗣を立てようとしたとして、
いくら帯屋が剣客であろうが、一人で城に日本刀をひっさげて乗り込むはずがない。
死ぬ気で諫めるというのならともかく、本気で主君を斬ろうとしているようにしか見えない。
あり得ないことだ。

また、お家騒動というものは頻繁に起きたことで、家老レベルならともかく、
徒党も組まずに、主人公の兼見三左エ門が義憤で側室を殺害するなどというのはかなり苦しい筋書きだと思う。
たとえ妻を亡くして死に所を探していたとしてもだ。
側室連子の横暴ぶりが殺害動機のように演出しているのはどうかと思う。
いずれにしても、兼美はごくまじめな目立たない武士だという設定では違和感がある。
かなり奇矯な性格だった、とするならばまだわかる。

それから、やくざの出入りであっても槍や長刀は使う。
まともな考証をしたやくざ映画ならそうする。
武士だからといって全員が日本刀で斬り合うということはあり得ないし、
大名ならば鉄砲ぐらいもっているだろう。
乱心者が出るとわかっているのであれば、鉄砲と槍を用意しておけば足りる話であり、
これもまた、日本刀どうしで斬り合いを演出するための間違いだ。

藤沢周平の原作を読んだわけではないので推測するしかないのだが、原作はこんなではなかっただろう。
ああいう派手な殺陣のシーンで盛り上げるためにこんなふうになったのに違いない。
里尾という亡き妻の姪との交情というのも、たぶん後付けのものだろう(まあ別に入れたけりゃ入れてもいいが)。

たとえば吉良邸討ち入りだって、ほんとに討ちとろうとするならばああいうふうに用意周到にやるものだ。

テレビドラマならともかく、キルビルじゃあるまいし、
まっとうな映画なら、日本刀だけの殺陣のシーンなんてものは作らないものだ。

私ならば、帯屋は、少数の手勢をつれて深夜に屋敷に侵入しようとすることにするだろう。
帯屋は家老なのだから、一部の内通者が手引きして、主君の寝所まで帯剣のまま入り込めるかもしれない。
それを察した兼美と帯屋の間で斬り合いが起きる、という筋立てなら無理がない。

そういう、映画にするため付け足したと思われる部分が気になってしかたない作品だ。
たぶん、売れる映画を作るためにそうしたのではない。
どうみても売れる映画を作ったようには見えない。
おそらく役者と、役者のファンのためにこのようなことをしたのだろう。
どうも今の日本映画は、どれもこれもそんなふうに、
芸能プロダクションと一部のファンが牛耳っているようなな気がしてならない。

兼美が帯屋を殺すとわかっていて、兼美をいかしておいたという設定も、かなり苦しい。
都合がよすぎる。
兼美を用心棒として飼っておいて、たまたま帯屋が乗り込んできて、彼を討ち取らせたあと、
兼美の乱心だと見せかけるために、兼美を殺した、
という手を思いついたというならまだ良い。
お家騒動はかならず幕府の処分を受けるので、隠そうとするのはわかる。

思うに、プラトンやクセノフォン(が書いたとされる著作)は論語とかせいぜい史記くらいのものであり(論語だって孔子が自分で書いたわけじゃない)、
古典ギリシャ語がやっかいだということは置いておいて、書いてあることはシンプルであり、
書いてあるとおりに理解すればよいのだと思う。

ところがプラトンの後、アリストテレスの時代から、ヘレニズムの時代が始まり、ギリシャはペルシャ世界まで膨張する。その西半分はローマに飲み込まれる。
最初はギリシャからローマに一方的に文化が流れ、
ギリシャ語がラテン語に影響を与えたが、次第に融合していき、
ラテン語からギリシャ語にも影響するようになり、
東ローマ時代にはたとえば Eudokia のようにギリシャ語とラテン語の複合語などが使われるようになる。

ローマではラテン語が公用語であり、東ローマではバシレウス2世あたりからギリシャ語が復活した、
などと言われているが、そうではなく、東ローマ、つまりかつてのヘレニズム世界では、
少なくとも民衆の間では、ずっとギリシャ語が使われていたと考えるのが自然ではないか。

それで、東洋では論語の後に孟子が出て、朱子学ができたわけだが、
これは西洋ではギリシャ文芸、特に新約聖書の、ラテン語世界における再解釈に相当する。
宗教改革以降ではこれがさらにドイツ語や英語にとってかわられるのだが、
さらに独自解釈が加えられ、古典ギリシャ文芸のシンプルさが失われ、特に哲学といわれる部分の解釈が、
どうしようもなくゆがんできた。

どうゆがんだかといえばこれも朱子学とだいたい同じであって、
春秋時代の孔子から発祥したいわばボトムアップな儒学の上に道というものを作り、道の上に天というものを作った。
逆に天から道ができ道から儒教ができた、というようにトップダウンに作りかえてしまった。
頭でっかちに抽象的になってしまった。

西欧でも、まずキリスト教神学があって、その下に哲学があって、その下にアリストテレスの百科事典があって、
その下にプラトンらの初期の著作がある、という構図にしてしまった。
だからプラトンがわけのわからないことになってしまったし、
イソクラテスなんてもっとわけがわからない。
西欧は神学が学問の最上位に君臨して支配していた時代があまりにも長いのでどうしてもそうなる。
現代でもだ。

日本の、或いは中国の、近世における古文辞学的手法と、
西洋で起きた聖書から「史的イエス」を文献学的に復元する作業というものは、同時並行して起きた動きだ。
「史的イエス」研究はものすごく発達している。
当然「史的イエス」に対して「キリスト教的イエス」「イスラム教的イエス」「形而上学的イエス」などが副産物として分離され明らかになっている。
本居宣長や契沖の国学、荻生徂徠の古文辞学も相当に高度なものだ。
しかし「史的プラトン」や「史的クセノフォン」「史的アリストテレス」を復元しようという試みはまだまったく不十分としかいいようがない。
一部の研究者はそれに気づいているが、一般にはまったく知られていないようだ。

「賢い」は σοφος。
σοφιστης は「賢人」。

φιλοσοφεω は「賢さを好む」。

φιλοσοφιᾱ は「賢さを好むこと」。philosophy。

φιλοσοφος は「賢さを好む」という形容詞。

ὁ φιλοσοφος は「賢さを好む」という形容詞に冠詞がついて名詞化して、「賢さを好む人」。
いわゆる philosopher。

πολιτης は「市民」。
ὁ πολιτικος は「市民の人」という意味だが、プラトンの『ソフィステース』と『ポリティコス』では対義的に使われていて、おそらくソフィステースは(ポリスにおける市民活動を行わない純粋な)学者という意味であり、
これに対してポリティコスは(学問や著述というよりは公の場で活動する)市民という意味であり、
さらには政治家と訳される。

なぜプラトンはソフィステースとポリティコスを対比したがったのか?
ソクラテスは、市民であり、賢者であり、政治活動家でもあり、宗教家でもあった。
一人の人間がそれらの要素を合わせ持つほうが自然だ。
イソクラテスはソフィステースの親玉と見なされたが、彼もソクラテスと同じタイプのキャラクターだ。

なぜプラトンはソフィステースとポリテースを対義させなかったのか?

そもそもこの時代ソフィステースとフィロソフォスには区別があったのか?
というよりもフィロソフォス、哲学者、などという呼称がすでにあったのか。

政治活動を行わないソフィステース、つまり、
ポリス郊外のアカデメイアやリュケイオンなどの学舎で学問だけ行う人のことをフィロソフォスというのだろうか。
何もかも謎だ。

-ικος という語尾だが、これはラテン語の語尾 -ic と同じなのだが、どちらが先なのだろうか。

今更ギリシャ語の勉強をするのかと思うとおっくうになるが、
ギリシャの古典を学ぼうとすると日本語の本だけじゃあ到底足りなくて、
英語の辞書とか英訳とかを読まないわけにはいかない。
英語がある程度読めるようにならないと、
英語の他にもたとえばドイツ語なんかも多少はたしなんでおかないと、
ギリシャ語なんて読んでもつまらんし、続かないのだと思う。
とすれば50過ぎてからギリシャ語を始めるというのもある程度理には適ってそうだ。
65くらいまでは頭もぼけないだろうから、あと10年か15年あまり、
一生懸命勉強してみるのも悪くないかもしれない。

ギリシャ語の研究は、新約聖書は非常に進んでいるが、
ローマが関わってくる前の、プラトンやクセノフォンあたりはかなりぞんざいな感じがする。
未だに、プラトンがアカデメイアで、アリストテレスがリュケイオンで講義した講義ノートというオリジナルのテキストがあって、それを弟子たちがまとめたのだという仮説に基づいている。

私の場合『エウメネス』がそこそこ売れているというのもあり、
完結させてみたいが、そのためには膨大な勉強が要る。
アリストテレス、プラトン、ソクラテス、クセノフォン。
少なくとも英訳、できればギリシャ語の原文を一通り読みたい。
ドイツ語であれほど苦労しておきながら、また、英語も大してできないくせに無謀といえば無謀なのだが、
どうかんがえても和訳されたものを読んでいては何も新しいもの、隠されたものは見えてこないように思う。
ヘレニズムの遺産というのはローマだけに受け継がれたのではなく、ペルシャにも同じくらいに残ったはずだし、イスラムにも遺ったはずなのである。
インドでは仏典にも残っている。
ところが我々はローマの末裔である西欧に伝わり解釈されたギリシャしか知らない。
これがギリシャ理解を阻んでいると私は思っている。
しかしいまさらアラビア語やトルコ語やペルシャ語なんか手を出していられない。
それが悔しい。

ギリシャ語の研究者というのは、海外でも日本でも、ほぼキリスト教徒だろう。
聖書はそれなりに批判にさらされているが、
ギリシャの古典はキリスト教神学に都合の良いように解釈されていて、
また原文に当たる研究者もオックスフォードかケンブリッジ、海外だとハーバードくらいの、
小さなコミュニティにしかいない。
もっといろんなひとがわーっと研究すればだいぶ新しいことがわかるに違いないのである。
今年で52だが、これまでの人生を無駄にしてきたつもりはないが、
もう少しどうにかならなかったのかと思う。

そもそも伊勢物語に手を付けてまだ全然進んでない。
伊勢物語すら終わらせられないのにギリシャ語なんてやってどうするのか。

日本外史も完訳してみたいと考えていた。
不可能ではないと思うが、時間が無限にあるわけではなく、なんでもかんでもやれるわけではないのだ。

私としてはまず古今和歌集を調べた。
その後、藤原定家に寄り道した。
もいっぺん古今和歌集に戻って、古今和歌集と密接な関係にある伊勢物語を調べ始めた。
どうも伊勢物語は、紀有常から在原棟梁に伝わり、紀貫之に伝わり、紀貫之が亡くなったあと、
村上天皇の時代にまとめられたように思う。
この時代には後撰集と古今和歌六帖があり、伊勢物語に良く似た業平集というものもある。
古今和歌六帖の成立は非常に興味ぶかい。
菅原道真は万葉集を知っていたから、新撰万葉集という名の歌集を編んだのだろうが、
古今和歌六帖は万葉集を知らずに、奈良時代の古い和歌も収集したように思われる。
この時代の史書には続日本紀、日本後紀、続日本後紀、文徳実録、三代実録などがあって、
これらも読まないわけにはいかない。
さらに言えば、竹取物語もこの時期に成立したはずであり、
合わせて土佐日記や貫之集、その他の私家集なども読まないわけにはいかない。
江戸時代、特に本居宣長もやりたいし。
和文の研究だけでもこんなにやりたいことがある。困ったものである。

酒を飲むと精神的に不安定になり、昔の嫌な記憶とか思い出したり、毒を吐いたりして、嫌な気分になる。
こういうメンヘラ的な気分というのは40代まではあまり感じなかったことで、
年を取って酒を飲むのが精神的に負担になってきているのかもしれない。

ともかく酒を飲んだとき、酒を飲んだ翌朝、などをのぞけばそれほど精神的に苦しむことはなさそうだから、
酒を飲まないというのが一番よさそうに思える。
寿命が来るまで、いやな思いをしないで生きるにはそれしかない気がしている。

家で飲んでもときどきいやな気分になるが、外で飲むのはもっと良くない。
外で飲み歩くというのがもう20年以上の習慣になっていて、
飲み仲間もいるし、急にやめるのは難しいが、これはもう断然やめるしかないと思っている。
家で少量飲んで、そのうちまったく飲まなくなれば良いと思う。

外で酒を飲まずに居酒屋巡りだけは続けるという手もなくはないが、まあ、不可能だろう。

酒の歌も詠んだし、酒を飲む話も書いてきたのだが、
今後はそれもやめようと思う。
ただまあ禁酒とか言ってやめたやつはあまり見たことがないので、
今酒をやめるといってほんとにやめるかどうかは自分でもわからない。

古典ギリシャ文字の入力の仕方

[ギリシャ語を入力する方法](http://masoyagi.exblog.jp/21678424/)

### 子音

* ς ← w
* ρ ← r
* τ ← t
* θ ← u
* π ← p
* σ ← s
* δ ← d
* φ ← f
* γ ← g
* ξ ← j
* κ ← j
* λ ← l
* ζ ← z
* χ ← x
* ψ ← c
* β ← b
* ν ← n
* μ ← m

### 母音

* α ← a
* ε ← e
* ι ← i
* ο ← o
* υ ← y
* η ← h
* ω ← v

### 長母音

* ᾱ ← -a
* ῑ ← -i
* ῡ ← -y

### 有気音

* ἁ ← *a
* ἑ ← *e
* ἱ ← *i
* ὁ ← *o
* ὑ ← *y
* ἡ ← *h
* ὡ ← *v
* ῥ ← *r

### 無気音

* ἀ ← :a
* ἐ ← :e
* ἰ ← :i
* ὀ ← 😮
* ὐ ← :y
* ἠ ← :h
* ὠ ← :v

### 重アクセント

* ὰ ← [a
* ὶ ← [i
* ὺ ← [y
* ὲ ← [e
* ὸ ← [o
* ὴ ← [h
* ὼ ← [v

### 鋭アクセント

* ά ← qa
* έ ← qe
* ί ← qi
* ό ← qo
* ύ ← qy
* ή ← qh
* ώ ← vh

### 曲アクセント

* ᾶ ← @a
* ῖ ← @i
* ῦ ← @y
* ῆ ← @h
* ῶ ← @v

### 下書きイオタ

* ᾳ ← `a
* ῃ ← `h
* ῳ ← `v

### 無気+鋭

* ἄ ← /a
* ἔ ← /e
* ἴ ← /i
* ὄ ← /o
* ὔ ← /y
* ἤ ← /h
* ὤ ← /v

### 無気+曲

* ἆ ← ^a
* ἶ ← ^i
* ὖ ← ^y
* ἦ ← ^h
* ὦ ← ^v

### 分離

* ϊ ← +i
* ϋ ← +y

ベーシックインカム

ベーシックインカムというのは、これまで以上に社会保障を厚くするとか社会福祉国家に突っ走るというよりは、逆に、
これまで政府がやってきたいろんな福祉やらなにやらの仕事を全部個人に丸投げするというやり方だわな。
だから社会主義というよりは自由主義と相性が良い。

最低賃金もなくしてよい。
国や自治体は医療費負担しなくてよい。
年金制度もいらない。
どうしてもそっちのほうへいく。

政府は外交と、治安と、国防と、収税。道路・治水などの社会インフラ。
ま、そういう必要最小限度の機能だけ持って、あとは個人に「基本的人権」を維持するのに足る最小限の金をばらまけば良い。
非常にコンパクトな政府になり得る。

で、ベーシックインカムがこれまでうまくいかなかった一番の理由は納税の問題だと思う。
国民なのか国民ではないのか。
税金払ってるのか払ってないのか。
それが曖昧なままではベーシックインカムはただの慈善事業になっちゃう。
全国民の収入と納税が完全にガラス張りになっていて初めてベーシックインカムが機能する。
日本もやっとマイナンバー制度が始まって、
まあほとんど100%所得が把握されちゃうことになったから、
ベーシックインカム始めてもいいかなくらいまできた。
でも、ベーシックインカムは寄こせ、年金は払いたくないがよこせ、医療費は自治体が負担しろ、でも税金は払いたくない、最低賃金は守れとか、
所得は知られたくないとか、そういうことを言ってくるうざい連中がまあたくさんいて、
弱者救済ビジネスとか政治団体とかがまだまだうじゃうじゃいる。
ベーシックインカムが必ずしも弱者救済ではなく、
かつ、
弱者を装った反社会勢力の救済には一切ならないこと。
ま、これが明らかになれば彼らは反対してくる。
こんなのほんとの福祉国家じゃないとか。社会主義とか共産主義の理想から逸脱してるとか。
誰が反対するかで、誰が反社会ビジネスに荷担しているかが見えてくるわな。

ベーシックインカムは機能し得る。
それは理想的な共産主義社会に非常に近いものだ。
今後ロボットや人工知能が普及すればさらに労働力は余ってくる。
労働者が余ると、労働市場というものが存在し、労働者が労働市場に依存する限りにおいて、
需要と供給のバランスで、労働者は困窮せざるを得ない。
社会がいくら豊かになっても、労働力に余剰がある限り、労働者は幸せにはなれないのだ。
だから働きたくない人、働けない人、働く必要のない人は積極的に、働かせないようにしなきゃいけない。
人間は働かなきゃいけないというのも近代の幻想にすぎない。
今の教育は将来子供たちを労働者にして労働市場に投入して、労働市場に依存させるためのものだ。
これじゃ労働力の過剰供給になる。
資本主義社会が悪いのではない。
労働市場が悪いのだ。
労働市場は社会主義国家にもあった。
だから結局社会主義国家は労働者を救えなかった。

食料は余りつつある。むしろ人類の多くにとって肥満のほうが問題だ。
戦争は減りつつある。むしろテロのほうが問題だ。
テロはベーシックインカムで防げる。
国家に属さない、税金を払わない無法者がテロリストになるが、
所得をガラス張りにすればベーシックインカムあげるよと言えば、
普通は嫌とはいわない。
そしてとりあえず彼らを飼い慣らすことができる。
国家の枠組みにいれちゃうことができる。
仲間がひよっても、自分一人だけでも戦い続けるぞなんてやつはまずいないからどんどん雪崩をうってごく当たり前の市民になっちゃう。
そうするとテロリストがそもそもいなくなる。
食料があまり、戦争もテロもなけりゃ、人間のやることはますます減る。
ただ遊んでいればいい。
そして働きたい人、高収入が得たい人、自分の才能を試したい人、趣味で働きたい人だけが働く。
そうなると、労働市場は自然と均衡してくる。
人間は生きているかぎり消費するし、消費があればビジネスは生まれる。
ビジネスがあればなんらかの形で税収がある。
税収があればそれをベーシックインカムに使えばよい。

ま、そういう社会の仕組み、お金の循環というものが、昔から人が夢想してきた、理想的な共産主義社会というものじゃないのかね。
マルクスの予言が成就した社会ということができるのではないか。

だからまあ、もともと政府が弱体で、人口が少ない、エストニアみたいな国が、
完全なマイナンバー制度の完全な電子政府を作って、
社会保障は全部ベーシックインカムで済ませちゃう。
そういうところがまず成功するだろうと思う。
日本みたいに政府が肥大するだけ肥大しちゃって、
弱者救済ビジネスが高度に発達してしまった社会の場合、
その余剰を削るのに一苦労だ。

私の書いたものの中で、
KENP が一番多いのは明らかに『潜入捜査官マリナ』だ。

売れているのは『エウメネス』シリーズだが、
KENP はそれほどでもない。

『妻が僕を選んだ理由』と『新歌物語』は無料配布なので、
この二冊は、長期的にサブジャンルのランキングに露出するためのものなので、
売れ方というのはよくわからない。

全然まったく読まれても買われてもいないのが
『特務内親王遼子』、『安藤レイ』、『アルプスの少女デーテ』、『司書夢譚』、『巨鐘を撞く者』あたりで、
『スース』、『西行秘伝』、『斎藤さんアラカルト』などもほとんど読まれない。
その他の歴史物はたまに読まれる。

『紫峰軒』もなぜかときどき読まれる。

なぜなのか。

『潜入捜査官マリナ』のKENPが多いというのは途中でやめずにわりと最後まで読んでくれたということなのだろう。
続編を書いてみようかなという気になる。

いろんなことがいわれているが、
ようするにタレント本はタレント本に過ぎず、
その本のマーケティングは、無名作家の我々とはまったくことなるわけで、
逆にうちらは、まったく無名なところから、その内容だけで、どこまでのし上がれるかとか、
どういうマーケティングをするかってところが醍醐味なわけなんじゃないのか。

タレントの「芸」というのは、目立ってあばれてふざけることであって、
文芸の「芸」とは異質なものであり、
彼は彼なりに忠実にタレントの芸を演じてみせただけだということだと思う。

でまあ、あれは有名人のネームバリューを借りたいわゆる「タレント本」(ほりえもんとか昔からあるパターン)に炎上商法という合わせ技をしてきて、そこにクラウドファンディングとかキャッチーな風味付けをしたものであった。
そこが少し目新しく、多くの人が釣られた。

名前が知られていたとかすごい肩書きもっていたら、ほんとうに自分の本が面白くて読まれているのかどうか、
証明できないではないか。
私は本が売りたいというよりは、私の本がほんとうに後世に残る価値があるかどうかを見てから死にたい。
しかし見て死ななくてもいい。
死んだ後に証明されればそれでもいい。
生きてるうちに変に人気がでて勘違いして死ぬくらいなら。
本がくそつまらなくても名前が売れていたら本も売れるわけで、
そんな本書いても時間の無駄だと思う。
人生はもっと有意義なことに使いたい。

もちろん多くの目に触れたほうがよいのには違いない。
誰の目にも触れずに埋没してしまえば、どんなに優れていても、評価を受ける機会さえない、ということになる。
だからマーケティングがいかんとは思わない。
三段ロケットの一段目の役割としてのマーケティングはもちろん必要だと思う。

某絵本が23万部売れたとして、ほんとうに内容が優れていて売れたのか、
その証明をしていない。
十分ではない。
メディアに露出し多くの人の目に触れてそこからどれほどの評価を受けるかということが重要ではなかろうか。

そのためには、一発屋でもありたくない。
私の作品のすべてを総合的に判断してもらい、
どこが優れているかということを分析した上で認められたい。

私にも、大したことはないが、そこそこの社会的な肩書きがないわけではない。
前にも書いたが、共著で本を書いたことならある。
だがその名前を出さずにどこまで売れるかってことを試したい気持ちもある。

今のところ、身内に借りを作ってまで広報したいとは思わない、ということもあるし、
たぶん身内がいくら頑張っても大して部数は増えないという計算もある。