勅撰集の成立

白河天皇の時代に、後拾遺集と金葉集という二つの和歌集が出たこと、かつ、白河天皇の時代に、古今集、後撰集、拾遺集が整備されたことは大きな意味があった。
これらの、白河天皇の時代の事業によって、
初めて勅撰集というものが定期的に刊行されることになったからである。

伊勢神宮が定期的に建て替えられるようになったのも、
最初からそのように決まっていたからではなく、
何かの理由で反復されることになったのだと思う。

古今集・後撰集・拾遺集のあと、後拾遺集まで長いブランクがあった、
などと書いている人は、
要するに、勅撰集というものは、定期的に作られるものだという固定観念で言っている。
また、三代集というものが、後世言う意味での勅撰集と同質のものであり、
かつ、勅撰集というものが古今集ですでに完成されたものだと思っているのである。
その幻想を産んだのは白河天皇のせいでもある。
彼が、或いは彼の時代の歌人たちが、古今集までさかのぼり、
古今集を理想形とした、勅撰集という形式を確立したのだ。

もしかすると、古今集・後撰集・拾遺集という三部構成になったのも、
後拾遺集が出たあとかもしれない。
どこまでが古今集で、どこまでが後撰集で、どこからが拾遺集なのか。
もとの古今集というのはもっと短くて、
四部構成や五部構成になっていたかもしれない。
その可能性は否定できない。

ともかく、白河天皇の、というより白河院の時代に、
勅撰集とはこうしたものである。
その初めは古今集でその内容はこうである、
その次とその次はここまでである、
そして後拾遺集はこんなんだから、次は誰かが作ろうや、
ということになり、金葉集を作ることになったが、
これがまたすったもんだした。
後拾遺集が案外きれいにまとまったもんだから、
金葉集はどうしようかというので、いろいろ試行錯誤することになる。
難産だったというのと、選者にセンスがなかったのと、両方だろう。

白河院はたぶん途中であきれてあきらめた。
二奏本ができた段階でもう飽きていて、
三奏本を持ってきたときには、あっそうみたいな感じで受け取っただけだった。
嘉納とかありえんと思う。
白河院の執念であんなに時間をかけたのではないはず。

こうして金葉集が不完全燃焼な形で終わってしまったので、
次の世代の人、
つまり崇徳上皇だが、
彼が詞花集を作る。
詞花集によってやっとある一定の形で、継続して勅撰集が作られていく、
という合意が形成されたと思う。
詞花集はコンパクトによくまとまっていて、
ゆえにその次の千載集までくると、割と作りやすかっただろうと思う。

よく似た有名な議論がある。
さっきの伊勢神宮の話もそうだが、
神武天皇から雄略天皇の手前まで、天皇は実在しないとか、
さかのぼって捏造されたのだというもの。
実在したかしなかったかなんてことは今更わかりようもない。

古今集から後拾遺集までの勅撰集の成立に関しては、
しかしほとんど誰もが疑っていない。
定説にあるごとくあったとする。
俊成の古来風体抄についてもほとんど誰も疑わない。
あのような完全な形の歌論がいきなりできた、
そう信じているらしい。
そうではない。
捏造でもなければいきなり完成したのでもない。
どうしてそう両極端に考えようとするのか。
最初に原初的なものが生まれ、不完全なものが次第に完成されていったのに決まっているではないか。
しかし人間はどうしてもそういう過渡的で曖昧な状態というのを認識しにくい。
あったかなかったかの二元論で片付けてしまいがちなのだ。
そして後世の人が必ず最初からきちんと完成されてましたとさかのぼって説明しようとする。
よせばいいのに適当に証拠を捏造する。
そしてもっと後世の人がそれは実は捏造でしたといいだす。
実は何もなかったんだ、と言い出す。
どっちもどっちだ。
時代が古かろうと新しかろうと、どうしてもそんなふうにゼロか一かという議論をしたがるのだ。

議論とはそうしたものなのだろう。
創造説とはそうしたものだ。
あるとき急に世界は作られた。
或いは大昔から今のとおりに存在した。
神が作った。
開祖様が決めた。
温泉は弘法大師が見つけた。いや、役行者がみつけた。

そんなわけはない。
進化論というものが受け入れられたのはごく最近になってからだ。
状況証拠の積み重ねによってはじめて、
人間の思考や直感に基づかず、
おそらくこのへんであったろうということが、
結論づけられるようになってきたのだ。

安本美典だって神武天皇が実在したと主張しているわけではない。
神武天皇以後の天皇がみな実在していたとして、
その頃の在位期間の平均は十年くらいだと仮定できるから、
神武天皇が即位したのはこのくらいの時だっただろうと言っているだけである。
で神話の通りに天孫というのが続いたのなら天照大神はこのくらいの時代にいたことになるだろう。そう言っているだけだ。
そういう状況証拠的、統計学的なアプローチしかできない。
或いは考古学的な事実を積み重ねていくしかない。
それでいいのである。

和歌や歌論はそういう議論に比べるとはるかに遅れている。
戦前の佐佐木信綱でだいたい終わっている。
戦後だと丸谷才一と大野晋くらい。
ほとんど議論されないから話が全然古いままで止まってる。

詞花集

> 萌えいづる 草葉のみかは 小笠原 駒のけしきも 春めきにけり

小笠原は小笠原氏発祥の地であり、甲斐国巨摩郡にある地名。
巨摩郡と書くが駒郡という意味であろう。
広大な馬牧場があったか。

富士や白根山などの連峰の谷間の牧草地に春が来ると、
新緑だけでなく、馬のようすも春めいてくる。
そんな春の牧場を詠んだ歌。

なんとすばらしい歌だろうか。
もう少しこの歌は評価されて良いと思う。
新風とはまさにこのような歌を言うべき。
定家はこういう歌にはまったく冷淡だった。

> 春くれば花のこずゑに誘はれていたらぬ里のなかりつるかな

白河院御製。なかなかよい。

> さくらばな手ごとに折りて帰るをば春の行くとや人は見るらむ

素性法師の、見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせむ、にちなむのであろう。なかなか良い。

> 春ごとにみる花なれど今年より咲きはじめたるここちこそすれ

これも素直な良いうた。

> ふるさとの花のにほひやまさるらむしづ心なく帰る雁かな

なかなか良い。

> 年をへて燃ゆてふ富士の山よりもあはぬ思ひは我ぞまされる

詠み人しらず。
民間歌謡か。

全体的にレベル高い。

金葉集三奏本と詞花集

ざっと見ただけだが、
詞花集には、和泉式部や赤染右衛門が復活していた。
少しおもしろくなってる。

金葉集三奏本にも和泉式部や赤染右衛門が復活してる(笑)。
まあ白河院の指示だわな。
そりゃそうだと思うよ。
なんか選者が怒られてるのが目に浮かぶわな。

しかし三奏本に新たに採られた歌は詞花集にも入っていたりするので、
三奏本はまともな勅撰集とはみなされてなかった可能性があるわな。

ようするに金葉集二奏本は駄作。
金葉集三奏本はまあみれる。
詞花集は比較的まとも。

詞花集にはすでに待賢門院堀川とかいて、少しにやっとする。
待賢門院って祇園の女御の娘だよな。
うんうん。

> 初めて奏覧した(初度本)は、紀貫之の歌を巻頭歌として伝統的な勅撰原則に従ったが、古めかしすぎて白河院の不興を被る。天治二年四月頃、改訂本を再度奏覧(二度本)し、これが藤原顕季の歌を巻頭に置いて当代歌人の歌を主軸に置いた斬新すぎる歌集であったためにまた却下され、大治元年(1126)または翌年、三度奏覧してようやく嘉納(三奏本)された。三奏本は源重之の歌を巻頭に置いて、伝統と当世風を調和させたものだったが、実は下書き状態で奏覧されたため世に流布されなかった。

斬新すぎるとか。
つまんなすぎるんだよ。
斬新だけどつまんないのを前衛とかダダイズムっていうんだよ。
斬新ですらないからダダイズムですらないがな。

言ってることがとんちんかんだな。
みんな巻頭歌しか見てないんじゃないの。
中身も全部読めよ。
紀貫之が頭にこようがこまいがそんなこまけーこと気にしてんじゃないよ。

で、三奏本は少し古典に戻したとかじゃあないんだよ。
白河院に怒られたけど選者が無能で、
当代でおもしろい歌を見つけられなかったから古歌で補填しただけだよ。
笑えるな。

いったい誰がこんな文章書いてるんだ。

新奇とか斬新というなら具体的にどの歌がどんなふうに新しくておもしろいのか言ってみろよ。

三奏本は白河院の意志を反映したほんとうの勅撰集だか言うやつもいるが、
ただの妥協の産物だと思うね。
白河院もあきれただろうね。
三度もやってこのありさまかとね。

当代歌人の歌を主体に構成するのが革新的なら古今集だって後拾遺集だって革新的だろ。
何がいいたのか。

金葉集

ざっと読んでみたが、これはつまらん。
実際読んでみれば、金葉集三奏の謎というのは明らかだ。
白河院は、つまらんから二度も作り直させたのだ。
三度目は仕方ないから終わりにした。
三奏目で満足して嘉納したというのは嘘だろう。

つまり、後拾遺集には、
和泉式部、相模、赤染右衛門なんかが良い味出してたわけです。
公任、能因法師もたしかにすばらしい。
その他にもおもしろい歌がたくさんある。

あと、だじゃれがつまらん。
巻頭歌なんてのは、後拾遺集はどうでもよいだじゃれをきかすものだが、
金葉集のはくすりともこない。
ユーモアのかけらも無い。

後拾遺集は恋部が一から五まであって実に圧巻だ。
春の部も梅や桜が非常に充実している。
金葉集にはそれがない。
なんなんだこいつらはと思う。
ものすごくつまらない連中があつまってつまらない歌集を作ったって感じ。

恋部下に詠み人知らずの歌がずらっと並ぶところがあるが、
普通、詠み人知らずの恋の歌はおもしろいものが多いのだが、
なんかつまらん歌がただ羅列してあるだけ。
なんなのかこれは。

> 古今以来の伝統にとらわれず、同時代の歌人による新奇な作風な歌を多く取り入れ、誹諧趣向が目立つ。

はあ。新奇な作風ね。つまんないんだよね。

> これが当時の歌壇に新風を吹き入れたのは確かだが、のち藤原俊成に批判される通り、「戯れの様」が過ぎて格調を欠く歌もあった。

これで戯れているのか。
なら古今集や後拾遺集はもっとふざけまくってると思うが。
俊成がほんとにそんなこといったのか。
あれだろ、「古来風体抄」にたまたまそう書いてあっただけだろ。
俊成ならただ「つまらん」と言っただけだと思うが。

確実にいえるのは、金葉集の選者は、
和泉式部とか紫式部とかそういう女性歌人が大嫌いだっただろうということだね。
それが全体的に金葉集にめりはりをなくして単調にしてる。
ユーモアのセンスもなく恋も知らぬ。
花鳥風月に感じる心もない。
こんな和歌誰がなんのために詠んでだれが楽しむのか。
白河院みたいな遊び好きな人には堪えられなかったろうね。

なんでこんな簡単なことがわからんのか。
今まで指摘されなかったのか。

だいたいどんな時代にもねじのぶっとんだおもしろい女流歌人というのはいるものだろう。
昭和に中島みゆきや谷山浩子がいるようなもん。
古今集のころには小町と伊勢がいた。
後拾遺集のときは和泉式部、相模、赤染右衛門、ほかにももう少しいるようだ。
新古今だと式子内親王だとか待賢門院なんとかとか上西門院なんとかとか、とにかくたくさんいた。
金葉集のころだけいなかったわけがない。そんなわきゃない。
いたけどそういう歌人を発掘するという義務を怠ったのだ。
情趣を解さぬ男たちばかりが自分たちの歌ばかり集めて、
下級役人の娘とか庶民の歌なんかは調査すらしなかった。
だから金葉集のようなものができた。

実にもったいない。
別の人が選者になっていれば、和泉式部レベルの女流歌人が今日まで伝わっていたかもしれない。

後の勅撰集もまた、同時代の歌人を発掘するという手間を惜しんだ。
だもんだから、伊勢とか和泉式部とか大昔の女流歌人の歌をわざわざ拾ってきて載せたりした。
あほかと思う。
自分で調達しろ。

安堂ロイド

別に文句を言いたいわけではないが、『安藤レイ』の宣伝も兼ねて少しだけ。

未来からアンドロイドがタイムマシンで来る話なのよね。
だからまあターミネーターかドラえもんみたいな話なので、
メディカルアートを博士課程で研究した女性が、
日本のロボットメーカーに入社して米軍と協力しつつ開発した救急看護アンドロイドっていう
『安藤レイ』の設定とはまったくかすってない。
1ミリもかすってない。
ただ、タイトルが微妙に似てるだけ。

ていうか私の場合は世間一般のアンドロイドの常識から外れたアンドロイドを描きたかったわけ。
アンドロイドのイメージを壊したい、というよりアンドロイドネタで実はどろどろした人間関係を書きたいわけ。
でも、テレビドラマというのは、既存のアンドロイドに対するステレオタイプもまた可能な限り活かそうとする。商品化できるものはなんでも使う、そういうやり方なんだと思う。

私のようなひねくれものじゃないんだなと思った。

kdpの年

まあ、おもうに、今年の最初のころは kdp 始まったばかりでみんなおもしろがって書評かいてくれたりしてたけど、今は一応無料キャンペーンで数は出るが、たぶんもうみんないろんなうぞうむぞうな本が出てくるから疲れちゃって、チェックしてらんない、読んでらんない、ていうか疲れたていうか、飽きちゃった状態なんじゃないかと思う。

私自身最初のころはわくわくしながらランキングを毎日眺めてたが、なんかもう最近は見るのもいやんなった。ていうか慣れたというか疲れたっていうか。

でまあこれが本来な姿なわけでみんながみんな好き勝手自分の本を出すから、なんか新しい仕組みが出てこないとみんな疲れ果ててしまうと思うのよね。

それと、超ヒモ理論出して感じたのだが、ツイッター界がだんだん kdp に適応してきて、いきなりアマゾンをリツイートしたりするんだが、ただのリツイートばかりがあふれて、感想も書評もないからこっちとしてはなんなんだこれはというしかない。

あと、超ヒモ理論は理系の人たちにタイトルとあらすじだけ受けて、理系の人って中身はたぶん読まないから、それ以上のリアクションない。小説読む人はたぶんなんじゃこりゃと思って、気に入ってもらえたら二度くらい読んで、だいたい二度読みすると書評を書く気がなくなる、たぶん。つか、慎重になって書けなくなってしまう。

書評書くってのはふつうは一気に読み終えてなんか一言いわずにおれないから書くわけで、あとで冷静になってから書くってのは、そりゃ、仕事でならかくかも知れないが、一円にもならんのにわざわざ他人の書評を書いてあげる親切な人はいないと思う。

書評を書くってのは本を執筆するのと同じくらい大変な仕事なわけで、実名ならなおさらで、匿名のカスタマーレビューにしても、もの書きの人ならなおさら、うかつには書けんわな。

あとですね、タイトルと内容紹介だけ読んで本文読まない人ってのは、キンドルもってないから読まないんでしょうね。アマゾンランキングで目立ってそのままウェブで読めれば読んでくれてると思う。しかしそれでは胴元のアマゾンがもうからんしな。わざわざキンドルに落として読むってのは、めんどい。いくら無料でも。いくらタブレットもっててキンドルアプリ入れてても。普段からキンドル読む人なら別として。

内容紹介に最初の数ページ分を抜き書きしておくってのもありかもしれん。どういう文体のどんな雰囲気の小説かってのはそれでわかるし。キンドルもってれば体験版落とせるわけだが、ウェブで見れた方がてっとりばやいわな。

そんで無料キャンペーンやってカスタマーレビューかいてもらって有料でも買ってもらうというビジネスモデルってんですか。それがまああんまりうまくいかない気がしてきた。パブーと大差ない感じもしてきた。全然別の仕組みがいると思う。悩む。だいたい個人出版というのはこの辺まではみんなやってる。こっからさき伸びるのかどうかが kdp の未知の可能性なわけよね。

あと、アマゾンの分類に怒っている人とかいて、「毬恵って誰だよ」とか言ってて、それは「司書夢譚」の主人公の名前なんだが、「司書夢譚」は日本史に分類されているんだが、「司書夢譚」は実を言うとこれは日本史です。読んでみればわかります。一番詳しいのは護良親王の話なんで、明らかにこれは小説仕立ての日本史の話なんだけど、カテゴリー分けはたまたまこれは間違ってないのだが、どんなアルゴリズム使ってるか知らないけど、ひどいよな。超ヒモ理論なんて絵本に分類されていたのだが、
どこが絵本ですか。まえまえからそれは気になっていた。なんで出版するときジャンルを書かせているのにカテゴリー間違ってるのかわけわかんない。

後拾遺集

結構百人一首に採られてるな。

> 43 心あらん 人にみせばや 津の國の 難波わたりの 春のけしきを

能因法師。ジャストシステム様、能因法師を一発変換できるようにして欲しいです。

> 46 立はなれ 澤べになるゝ 春駒は おのがかげをや 友とみるらん

着眼点がおもしろい。公任。

> 52 春の夜の やみにしなれば 匂ひくる 梅より外の 花なかりけり

これも公任

> 55 我やどの 垣根のうめの うつり香に 獨ねもせぬ 心地こそすれ

詠み人知らず

> 57 春はたゞ 我宿にのみ 梅さかば かれにし人も 見にときなまし

和泉式部の歌。すばらしい。

> 62 我宿に うゑぬばかりぞ 梅花 あるじなりとも かばかりぞみん

主でさえこれほどに見るだろうか。

> 89 いづれをか わきてをらまし 山櫻 心うつらぬ えだしなければ

> 93 白河院にて、花を見てよみ侍りける 民部卿長家
> あづまぢの 人にとはばや 白川の 關にもかくや 花はにほふと

これはおもしろい。感動した。

> 160 聲絶ず さへづれ野べの 百千鳥 殘りすくなき 春にやはあらぬ

> 165 四月ついたちの日、よめる 和泉式部
> さくら色に そめし衣を ぬぎかへて やま郭公 けふよりぞまつ

> 214 さみだれの 空なつかしく にほふ哉 花たちばなに 風や吹らん

相模。さらりと。

> 216 おともせで おもひにもゆる 螢こそ なく虫よりも 哀なりけれ

重之

> 217 宇治前太政大臣卅講の後、歌合し侍りけるに、螢をよめる 藤原良經朝臣
> 澤水に 空なる星の うつるかと みゆるは夜はの ほたる也けり

> 229 夏の夜凉しき心をよみ侍りける 堀河右大臣
> ほどもなく 夏の凉しく 成ぬるは 人にしられで 秋やきぬらん

> 265 秋も秋こよひもこよひ月も月ところもところ見る君も君

詠み人しらず。

> 379 大井川ふるき流れをたづね来て嵐の山のもみぢをぞ見る

白河天皇御製。
宇多上皇が御幸した大井川(大堰川)とはやはり嵐山あたりの桂川のことを言うわけだ。

> 390 さびしさに煙をだにもたたじとて柴折りくぶる冬の山里

和泉式部。

> 404 いづかたと甲斐の白根はしらねども雪ふるごとに思ひこそやれ

> 539 立ちのぼる煙につけて思ふかないつまた我を人のかく見む

和泉式部

> 607 かくなむと海人のいさり火ほのめかせ磯べの波のをりもよからば

源頼光。これは珍しい。
頼光が歌を詠むというのが珍しいし、「なむ」が歌に使われるのが珍しい。

> 611 おぼめくなたれともなくてよひよひに夢に見えけむわれぞその人

和泉式部。これも珍しい。「おぼめくな」などという口語的な言い方をするとは。

> 624 こほりとも人の心を思はばやけさ立つ春の風にとくべく

能因法師。貫之の、袖ひちて結びし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ、が本歌であろうが、
うまくひねってある。

> 625 満つ潮の干るまだになき浦なれやかよふ千鳥の跡も見えぬは

> 635 したきゆる雪間の草のめづらしくわが思ふ人に逢ひみてしがな

和泉式部。序詞がうまく効いてる。

> 646 つれもなき人もあはれといひてまし恋するほどを知らせだにせば

赤染右衛門。どうかこれは。

> 657 恋死なむいのちはことの数ならでつれなき人のはてぞゆかしき

> 658 つれなくてやみぬる人にいまはただ恋死ぬとだに聞かせてしがな

陳腐ではあるがなかなかおもしろい。

> 664 ほどもなく恋ふる心はなになれや知らでだにこそ年はへにしか

> 678 たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせん

相模。期待させるあなたに期待はしないが待つとはなしに待つかもしれません。
なんかな。

> 708 風の音の身にしむばかりきこゆるは我が身に秋やちかくなるらむ

詠み人知らず

> 712 明日ならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな

赤染右衛門。
忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな、の本歌か。
赤染右衛門のやけくそな感じがおもしろい。
君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな、の真逆を言っているのがおもしろい。

> 753 来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし

相模。
もう来ないといって来なくなった人へ。
来ないとすら言わず来なくなったなら、つらい人の本心をどうやって知ることができよう
(来ないと言い残したので本心は知っている)。
なんかもうね。

> 754 たが袖に君重ぬらむからころもよなよな我に片敷かせつつ

これも相模。すごい歌だな。
中島みゆきみたいだな。

> 755 黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき。

和泉式部。
これ有名。これ知ってる。

> 779 こひすとも涙の色のなかりせばしばしは人に知られざらまし

良い歌だなこれ。弁乳母。

> 790 世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける

これも和泉式部。さらっと。でも良い歌。
「恋てふ色」なかなか詠めそうで詠めぬよなあ。

> 796 荒磯海の浜のまさごをみなもがなひとり寝る夜の数にとるべく

相模。荒磯海の浜の真砂を全部欲しいと。

> 797 かぞふれば空なる星も知るものをなにをつらさの数にとらまし

藤原長能。星の数は数えられても、つらさの数をどうやってはかればよいのか。

> 798 つれづれと思へば長き春の日にたのむこととはながめをぞする

眺めているしかない。つまり期待できることはない。

> 801 君こふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬものにぞありける

和泉式部。

> 810 君がためおつる涙の玉ならばつらぬきかけて見せましものを

ありがち。

> 811 契りあらば思ふがごとぞ思はましあやしや何のむくいなるらむ

> 812 けふ死なばあすまでものは思はじと思ふにだにもかなはぬぞうき

> 816 神無月よはのしぐれにことよせて片敷く袖をほしぞわづらふ

相模

> 820 人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ

和泉式部。夏の虫が燃えて死ぬように、
人の身も恋に燃やして代えてしまおう。

> 826 うしとてもさらに思ひぞかへされぬ恋は裏なきものにぞありける

> 831 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり

和泉式部。これもなんか知ってるな。

とりあえずこのへんにしとく。

後拾遺集はやっぱすごいわ。とくに和泉式部。
相模もすごい。
選者に共感するところがある。

でね、後世まあ定家とかがつまみぐいした百人一首が流行ったおかげで、
定家的に解釈される傾向があるのだが、
つまみぐあいによれば後拾遺集は写実的な歌ばかりのようにもみえ、
定家みたいにつまめば幽玄有情みたいにみえなくもない。
どちらともとりえる。

少なくとも後拾遺集は古今集の影響はそれほど無いとみた。
もちろんだじゃれや掛詞だけのうたもあるからそれが貫之の二番煎じだというようにピックアップすることもできるのだが、それはあまりにも後拾遺集というものをゆがめてみすぎだと思う。

陽成天皇暴君説

陽成天皇が暴君だったかどうか、判断するのは難しい。同時代資料としては『日本三代実録』があるが、これには大したことは書かれてないようだ。ぼかして記述してあるというが、陽成天皇に不利な部分がぼかしてあるのか、有利なことがぼかされているのか、どちらとも解釈できる。

私はおそらく、『日本三代実録』は、宇多上皇が編纂させたものであり、藤原時平の関与はさほどなかったように思う。つまり事実が淡々と書かれているだけであって、暴君というのは隠されたというよりは、もともとなかっただけじゃないかと思う。

それでまあ、状況証拠だけから言えば、清和天皇を子供の頃から面倒見てきたのは藤原基経・高子兄妹なわけだが、清和天皇の皇子・皇女の数というのは、成人してから死ぬまでの間がほんの短いことを考えると、異常なまでに多い。子供が生まれてないケースを考えれば、そうとう多くの女性に手をつけているはずである。天皇の場合、養育費や扶養の費用を天皇自身が負担するわけではなく、女性の親族が負担するわけだが、それにしてもあれだけ遊ぶには膨大な金がかかっただろうと思う。どうように膨大な時間もかかった。政治なんかやってらんない。

天皇のお小遣いを出したのは当然基経なわけだが、すべては、基経・高子としては清和天皇が子供を産んで高子が国母つまり皇太后になるための投資なわけである。つまり皇太子貞明が即位してくれないことには、元手が回収できない。大損なわけである。おそらく実務は摂政である基経がこなしたのだろう。どういう実務だったかは知らないが、律令国家というものが今の法治国家のように法律だけ決めれば官僚組織によって自動的に動く、はずもない。いまの法治国家ですら裏で賄賂が横行するのだから、平安時代に理想的な律令国家があったとするほうがおかしい。となると、全権を委任された基経はありとあらゆる手段を使って日本全国から税金を集め、官僚を搾取し、私有地を開墾し、寄進を募る。そのお金で主君を養い、その遊興費を捻出し、面倒みてあげて、その代わりに自分の懐にもしこたま金を入れる。すべては必要経費に計上。そうやってひたすら金と権力の日々を送る。一方、天皇は外を出歩いてひたすら愛人を作ってきままにくらしている。

ある日とつぜん、清和天皇は言ったかもしれない、基経、おまえもういいわ、俺成人したから全部自分でやる。あるいはこういったかもしれない。高子、俺兄さん(惟喬親王)に譲位して隠居するわ。俺の子供、まだ若すぎるから、後は兄さんに頼む。

いずれにしても基経・高子には許されない話である。これまで一生けんめいにがんばってきたことがすべて無駄になる。特に高子としては、自分の息子を即位させる、ただそれだけのためにしんぼうしてきたのに、今更他人に譲位されちゃこまると。

ま、そんなわけで清和天皇に非があったかどうかしらんが、彼はひどい死に方をした。
兄の惟喬親王もまた、悲惨な末路に。

ところが高子の子・陽成天皇も基経・高子をないがしろにしただろうね。もう成人したから摂政いらんわ、とか、藤原氏の女御なんかいらんわ。そう言った可能性が高い。基経出仕拒否の時期が元服以後で、また女御・后に基経の関係者がいない。陽成天皇ってもしかするとけっこう男気あふれる名君だったのかもしれんが、それは基経・高子には許容できないことだった。今までいくらおまえに金貢いできたと思っているの。どうしてもそうなる。

言い方はいろいろできるがだいたいそういうことだったろうと思う。

嵯峨天皇、清和天皇、陽成天皇と、コントロール不可能な天皇が続いたのだろうと思う。天皇何もしない。陽成天皇が藤原氏を切って親政をしていたら。外戚の紀氏とかがうまく仕事をした可能性もあるが、どっちかと言えば、いきなり国家破綻したかもしれん。しかしまあ、藤原氏に任せても遅かれ早かれ律令制は崩壊したんだけどね。

誰かが何かしないといけないのだが、その仕事を一手に引き受けたのが藤原冬嗣、良房、基経。ある意味、頼朝、頼家、実朝のころの北条氏に似たような立場だっただろう。うまみがなくちゃやってられないという気持ちはあったと思う。

仁明天皇、文徳天皇なんかは割とまとも、コントロールしやすい天皇だったと思う。
そういう系統で光孝天皇が選ばれたのではなかろうか。

ネタのかぶり

『墨西綺譚』を今読み返すと失敗したなと思うよ。とにかく、登場人物が多すぎる。書く方は最初から頭の中に登場人物もストーリーもできあがってから書くわけじゃないですか。だから、書き残しても自分は脳内補間できちゃう。自分ではどこが説明不足か気づかない。必要十分に書いていても、読者はたいてい一度しか読まないから、もっと冗長に書いてあげないといけない。くどいくらいに。何十回も読めばたぶんわかるんだが、そんなことふつう読者はしない。一度さらっと読んで残った印象で判断する。

しかし、くどく書きすぎたらストーリー展開がだらけるんじゃないかと心配で、つい話をはしょりすぎてしまう。逆に自分では気づかないところでくどくど書いてしまう。

私の場合愛読書が『日本外史』だったから登場人物が多すぎるのはむしろ当たり前なんだが、ああいうのは小説にはあり得ないわけだよね。

『墨西綺譚』だけでなくて他の私の書いたやつも読むと、部分的にキャラかぶってたりネタかぶってたりするから、なんとなしにどんな人がモデルだったのかとか、どんな体験に基づくのかとか見えてくると思うが、そこまで読んでくれる人も滅多にいない。私自身はできるだけネタかぶらないようにしているが、どうしてもかぶる。以前はここかぶってるねと指摘されるのが怖かったが、実はそこまで読んでくれるひとはめったにいないってことがわかってきた。今は、そこまで読んでくれましたかと逆に感謝するかもしれない。そのうちわざとかぶらせといて、これは昔のここで使ったネタでしてとかネタばらししたりとか。ある程度はね、自分のネタなんだから、使い回しても誰も怒らないと思うのよね。
少なくともなんだ同じネタじゃないか金返せとは言わないと思う。そんなこといったらバロック音楽とかどうするんだということになる。

だいたい作家って、ネタかぶってるよね。夏目漱石とかね。いや、そうじゃない。良く研究された作家はネタがかぶっていて、あまり注目されてない作家は研究されないからネタがかぶったかどうかも知られてない。

『紫峰軒』は最近書いたものだから、そのへんのバランスはだいぶ改善されていると思う。しかし『紫峰軒』みたいなのを量産するのは難しい。ネタばらしするとあれに出てくるおばちゃんはだいたい三人くらいの女性がメインのモデルになっているのだが、一人のヒロインに三人のモデルを使うとなると、どんだけ知り合いがいなきゃならんかしれん。もちろん赤の他人を取材してもいいんだが。とにかくたいへんなのですよ。すごく贅沢なネタの使い方してるんです。おいしいところだけ残して組み合わせて足りないところはうまく補完する。ただのフィクションでもないし、かといって私小説でもないんですから。そこは察してください。一人の人間に書ける量はその人の人生経験で決まるわな。そんなには書けないよ。

たぶん絶対に気づかないネタばらしを一つだけすると、『墨西綺譚』のヒロイン乾桜子と『西行秘伝』のヒロイン源懿子はもともとは同じ女性がモデルなんだが、私自身の頭の中では同一人物なんだが、読んだ人にはさっぱりわかるまい。ていうか、ほとんどの人は『墨西綺譚』のヒロインが桜子だと気づかないかもしれない。桐子がヒロインかと思うとあれ違うな、じゃあだれだろうくらいだろうか。そう、『墨西綺譚』は最後まで読まないと誰が主人公かわからない。実は主人公が誰かを当てる推理小説なのです(笑)。

『特務内親王遼子』の遼子と『エウメネス』のアマストリナと『将軍家の仲人』の喜世は、だいぶキャラかぶってるわな。でも、どのくらい読者は気づいてるんだろう?