有権者の意識

[選挙ネタ](/?p=11347)
に関しては昔書いたことと今思うことは何も変わってないから、繰り返さないが、

山本太郎とかワタミについてもどうかなとは思うんだが、撰ばれたのは仕方ない。

ようは支持者が多い。

あと東京は定員多いから、実質小選挙区ではなく中選挙区になっている。
そうすると昔ながらの左翼がわきやすい。
繰り返さないといっておきながらなんだが、
小選挙区でかつ政権が短い周期で振動しないのがよい、
というのが私の考えだ。
政策というのは、民意を反映して政治システムが作り出すものだと思うから、
いちいちこういう候補者がいるから落としたいとか当選させたいとか言っても無駄じゃないの。

ワタミだって客が入っているからもうかっているわけで、
儲かってるということは、あんまり声は聞こえてこないが支持する人がいるということだろう。

私はだいたい個人経営の居酒屋にしかいかない。
チェーンだと、養老の滝か天狗にいくくらいだ。
ワタミにも行ったことあるが若者が群れている。彼らもまた有権者なわけだが。
もしかしたら中年もいたかもしれん。よく覚えてない。

でまあ、某アパレル小売りの社長とワタミの社長とどのくらい違うのだろうかと思うが、
どっちも価格破壊でワンマンなのは同じなのに、
某アパレルのほうは安いからと喜んで利用するくせに、
ワタミのほうはさんざんにこき下ろす、というのは、自己矛盾してると思うんですけど、
そういう認識がないのが有権者というものなのだろうなと思った。

平忠盛

鳥羽院は、和歌だけでなく、芸能全般に興味がなかったっぽいな。

待賢門院は、芸者そのものであったから、鳥羽天皇は困っただろう。

> 白河院の寵妃・祇園女御に鮮鳥を献上し、父に続いてこの女御に仕えた。

平正盛、忠盛が親子で祇園女御に仕えたと。

> 鳥羽天皇に入内した藤原璋子(待賢門院)の政所別当となる。

璋子は祇園女御の養女で、しかも清盛は祇園女御の妹の子、とある。

祇園女御の妹、といっても、遊女であれば、実の妹ではないかもしれない。
祇園女御に仕えつつ、その妹分の女を妾にもった、というような意味か。

待賢門院・藤原璋子

待賢門院・藤原璋子だが、この人はかなりおかしい。

父・藤原公実が七歳の時に亡くなって、
白河天皇と祇園女御の養女になる。
なぜ?
なぜ公家の娘が天皇と愛妾の養子にならねばならぬ。

母は左中弁・藤原隆方の女で堀河・鳥羽両代の乳母・光子。
どうも白河院と光子の関係があやしい。
璋子は白河院と光子の子ではないのか。

だが、待賢門院を鳥羽天皇に入内させると、二人は兄妹どうしの結婚となる。
いくらなんでもそんなことはしないだろう、親として。
とすれば、
璋子は公実と祇園女御の間の子だったのではなかろうか、と思えてくる。
1107年、公実が死んだあと公実の愛人だった祇園女御を白河院がひきとった、と。

> 長治2年(1105年)、祇園社の南東に堂を建立して、丈六阿弥陀仏を安置し金銀珠玉で飾り立てるなど「天下美麗過差」の様は人々の耳目を驚かせたという(『中右記』)

うーん。
公実が死ぬまえから、白河院の愛人だったっぽくもあるな、祇園女御。
まあ、どちらでもよい。
丈六は一丈六尺、約4.85メートルというからかなりでかい阿弥陀如来像だわな。
どこからそんな金が。
パトロンがいたわけだが、それは誰であったか。

待賢門院のサロンにはたくさん女流歌人がいる。
女流歌人と言えば聞こえはいいが、父は公家でも母が不詳。
つまりは公家の妾、おそらくは祇園の遊女。

待賢門院と鳥羽天皇の子が上西門院。
彼女は母親のサロンをそのまま引き継いだ。
やはり女流歌人が多い。

後白河天皇が今様狂いなのは、まず間違いなく母・待賢門院の影響だろう。
後白河天皇が特別変異なのではない。
崇徳院も待賢門院の子だが、早い時期に天皇に即位して母と別居したから、影響が少ないのだろうと思う。
後白河は部屋住みのまま待賢門院の影響を受け続けた。
スーパー英才教育を受けた。
待賢門院もまた七歳から祇園女御の元でスーパー英才教育を受けた。

鳥羽天皇は父・白河院と違い、割とかたぶつだったと思う。
高陽院も美福門院もたぶんかたぶつだったと思う。
父親も公家、母親も公家、息子も娘も公家、というようなちゃんとした家庭に生まれ育った連中を好んだと思う。
というより、そういう摂関家の連中に好かれた人なのだと思う、鳥羽院は。
白河院は、もっと自由人で遊び人だった。遊ぶときは尊卑を問わず的な。

待賢門院と美福門院はまったく両極端の女性であった、と思う。

鳥羽天皇は、父白河院のような、うわっついた、ちゃらちゃらした宮廷が嫌いだったのだろう。
だれが父親でだれが母親かもわからんような世界。きもちわるい。
だから、全とっかえしたかった。
それで美福門院の子・近衛天皇をかわいがった。
のではなかろうか。

保元新政

[姝子内親王](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9D%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B)に

> 7月2日、鳥羽法皇が崩御する。直後に起こった保元の乱で崇徳上皇は配流となり、後白河帝・守仁親王の体制が確立した。信西が政治の主導権を握り、保元新制・記録所の設置・内裏再建などの国政改革を推進する。

とある。
保元の乱の後、信西が、荘園整理、内裏再建などの政策を行ったことになっているのだが、
これは守仁親王が即位して二条天皇となり、後白河院の院政を停止して、親政を開始してから、
本格的に行われるようになったものだと思っていたのだが、
鳥羽院崩御後、
ただちに動き出したということは、
白河・鳥羽院政時代の政治を否定しようという動きが、公卿の中であった、という証拠なのではなかろうか。

また、

> 保元2年(1157年)正月23日、姝子内親王は准三宮となり、10月8日、再建された大内裏に後白河帝・守仁親王・忻子・統子内親王とともに移った。

とあるが、この大内裏というのは、のちに二条天皇が内裏とした土御門東洞院殿のことなのではなかろうか。

土御門東洞院殿は藤原泰子の所領であったが、1156年に死んだあと、
藤原邦綱の邸宅となった、とあり、時系列的にうまく説明ができるのである。
藤原邦綱の娘は六条院の乳母となったとあり、
ということは二条天皇が同居していた可能性が高い。

つまり、信西と藤原邦綱は、里内裏とか荘園などに基づく白河院や鳥羽院の中世的院政を否定して、
律令的な天皇親政を目指そうとしたということであり、
それは後三条天皇時代の政治に回帰しようとしたことを意味しよう。

信西は1159年の平治の乱で失脚したが、
保元新政は二条天皇の閣僚となって継承されることになったのだろう。

西行秘伝

『西行秘伝』そろそろ無料キャンペーンでもやろうかと思うのだが、
なかなかfixしない。
調べてみるといろんなことがわかってきて、
筋書きもどんどん変わってしまう。

二条天皇の養母・美福門院が1160年に死んだとき、二条天皇はまだ満で17歳だったから、
美福門院の娘、八条院暲子内親王が准母となって世話をした。
というよりか、二条天皇は美福門院の八条邸で元服し、そのままここを御所として、
美福門院が死んでからも八条邸に住み続けたから、そこの持ち主である八条院が二条天皇の保護者となった、ということだ。

八条院は今の京都駅南口辺りにあったようだ。

清盛の西八条第はそのすぐ近くにある。

鬼が住むと言われた羅城門は九条にある。すぐ近くだったはずだ。

ここらがどのくらい洛内であったのかが謎だ。

白河院から鳥羽院へ相続された所領のほとんどは美福門院が相続してしまい、それを八条院がまるごと相続した。
八条院領の興りであるが、
これはつまり、白河院に始まり美福門院が完成させた、国家の私物化、その象徴のようなものだろう。

日本社会が複雑になってくると天皇が公卿や武家からなる官僚組織を操縦することがむずかしくなる。
舵を切ろうとしても舵が重すぎて動かない。
後三条天皇の頃までは力尽くで舵取りをしようとしていたが、
白河院の代であきらめた。
藤原氏は肥大化していたが、官僚組織は社会構造に比べて相対的に非力化し、腐敗もしていった。
それを補完したのが武家だ。
寺社勢力はようやく国家の桎梏になりつつあった。

白河院は国家というものを貴族らとともに山分けして、
その中で一番大きな取り分をとった。
だから、白河院は平安王朝時代で一番最後に一番権力を持ち得たのだろう。

以後、日本は国家元首と官僚組織が中央集権的に統治する国ではなくなり、
地方の領主に徴税や軍役などのほとんどすべての行政が委任された。
天皇は相続・寄進によって得られる財産で生きていく存在となった。

全国的な警察・治安組織がないからどうしても幕府のようなものが必要になる。
そんな感じか。

二条天皇は八条院の6歳年下に過ぎない。
准母になった年24歳。
あんまり母という感じではないな。
高松院姝子内親王は八条院の同母妹で、二条天皇の中宮。二歳年上。
二条天皇は、まあだから、八条院にがしっと取り囲まれてしまったわけだな。

kindleランキング

半年ばかりkindleを観察してきたわけだが。

人は皆自分に足りないものを補おうとする。しかもできるだけ楽に。
だから、風俗嬢の話と、我が輩は猫であるが、同列に売れるのだ。
その辺りのテクニックが分かっていれば売れる本が書けるのかもしれん。

実際に読者に足りてないものを供給しても仕方ない。
読者が自分に「足りてない」と今まさに思っているものを供給しなくてはならない。

たとえばそれは知性であったり教養であったりする。
しばしばそれらが読書に求められる。
知性や教養を身につければ他人より優位に立てると思っているからだ。
知識欲によるものとは違うだろう。

お金の稼ぎ方、のようなものもやはり読書に求められるものだが、
やはり理由は同じ。

平凡な日常を送っている人々には非日常が求められる。
バイオレンスとセックス。ヒーロー。挫折と勝利、など。

それにしても、おかしな連中がわらわら出版しだしたのは誰かがそそのかしたせいか。
まあ自分もそのおかしな連中の一人なわけだが。

自分の書いたものの中で、ほんとうに読む価値があるのは、
『将軍放浪記』『将軍家の仲人』『巨鐘を撞く者』あたりではなかろうか、と思っている。
『エウメネス』が一番売れているが、これも悪くないんだけど、
少し短いんだよね。
ただまあ『将軍放浪記』『将軍家の仲人』『巨鐘を撞く者』を読んで分かる人というのはすごく少ないから、
私がこういうのを書いたということに気付かない可能性が大きい。
木炭にはいきなり火が付かないから着火剤を使うようなもんで、
木炭みたいのとは別に着火剤みたいな読みやすくてわかりやすい小説をいくらか書く必要がある。
そんなことは世の中の作家連中はみんなわかっていて、
自分やりたいことととは別に売れるための作品をまずは書く。作る。
夏目漱石で言えば『坊ちゃん』や『我が輩は猫である』『三四郎』なんかがそうだろう。

自然とそういうものが書ければいいんだろうが、
私には計算しないと書けないと思う。
なんかうまい方法はないかね。

いろいろ計算してると何も書けなくなってしまうんだよね。
逆に、なんも計算せずにたくさん書いてみて、そのうちどれか当たるかに賭けるとか。

ランゴバルド族

[この図](http://en.wikipedia.org/wiki/File:Lombard_Migration.jpg)のように、
ランゴバルド族はわざわざスカンジナビアからイタリアまで移動してきたのだという。
まあ、普通に考えると、ゲルマン民族の移動というのは、ノルマン人による南イタリア征服と同様に、
中央アジアの遊牧民族に圧迫されたローマ人とかフランク人が、
ヨーロッパ辺境の種族を傭兵として雇って連れてきたのが自立したのだろう。

[この地図](http://en.wikipedia.org/wiki/File:Italien_zur_Langobardenzeit.jpg)で、oströmische reich
とあるのは東ローマ帝国。
Reich des Franken はフランク王国。
Burgundia はブルグンド王国。
その他、Liguria、教皇領、Neapolis などが、ランゴバルド族の国からは除外されている。

ランゴバルド族の国としては、
Neustria、
Austria、
Tuscia、
Spoleto、
Benevento がある。
Neustria はフランク人の故地 Austrasia に対する新しい土地、という意味で、
[この地図](http://en.wikipedia.org/wiki/File:Frankish_Empire_481_to_814-en.svg)
ではパリの辺りをいうらしいが、
なぜかランゴバルド族が支配するミラノ、トリノ辺りの国の名になっている。

[複合弓](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E5%90%88%E5%BC%93)
は北宋の発明だと思っていたが、フン族も使い、トルコ弓とも言われるという。
北宋以前から素朴な複合弓は使われていたということだろうか。
東方から伝わった新しい弓や騎射の技術が、古代ローマ社会を変えた、と考えてよいか。

Regnum Italicum

カール大帝のフランク王国から遺産分割でイタリア王国というのができたが、
イタリア王の血統が絶え、東フランク王オットー1世がイタリア王を兼ねることとなり、
オットーが神聖ローマ皇帝を称することによって、
神聖ローマ帝国となった。

この時期、Kingdom of Lombardy と言う言い方は間違いであり、
Kingdom of Italy という言い方は正しいが、
神聖ローマ皇帝がイタリア王を兼ねているから、実質イタリア王国というものはないのに等しい。

ノルマンコンクエストが始まる直前の南イタリアやシチリアは一部がアラブ人、
一部がギリシャ人の領地であり、
残りのカプア、サレルモ、ベネヴェントは神聖ローマ帝国外のイタリア人(ランゴバルド族)の国だった。

南イタリアのノルマン人による征服は、おそらくは、神聖ローマ皇帝がノルマン人を雇って行わせたものだろう。
神聖ローマ皇帝はローマ帝国の後継を標榜しているから、イタリアに干渉するのが好きなのだ。
ノルマン人はノルマンディから神聖ローマ皇帝の保護の元、陸路でイタリアに向かったと考えるのが自然だろう。

オットー1世がイタリア王となっても、住民や領主はランゴバルド族だったのに違いない。
オットーは、フランク王国の騎士やらに、ランゴバルド族やギリシャ人やアラブ人が支配する土地を占領するように命じた。
そう考えるのが一番つじつまがあいそうだ。

マルセイユからローヌ川上流、スイスの西半分はブルグント(ブルゴーニュ)王国と言ったのだが、
ここがいかにしてサヴォイア辺境伯の国に変わっていったのか。
それがまたよくわからない。
とにかくもう複雑すぎてよくわからない。

kindle

紙の本と違い kindle では斜め読みや飛ばし読みがしにくい。
無意識的に昔私は紙の本をかなりざっと読んでいたらしい。
適当にとばして、一番最後の解説や後書きを先に読んだり、
真ん中辺りを拾い読みしたりしてたらしい。

それで一冊読んだ気になっていたらしいのである。

kindle ではそういう雑な読み方はできない。
1ページずつ読んでいくしかない。
そうすると私はすぐに眠くなるか読む気がなくなるらしい。

逆に文章を校正するにはkindleは向いている。
丁寧に読んでいくしかないからだ。
今まではワープロで打って紙に印刷して赤ペンとか緑ペンなんかで校正していたが、
その作業を完全にkindleでやるようになった。
少なくとも、紙とトナーの節約にはなる。
誤字脱字などものすごく気付く。

kindleはどんな長編でもかさばらず重くならないから、
長編小説を読むのには適した媒体ではあるんだろうが、
紙の本よりも長い文章を読むのが疲れる。

私のkindle本でも長いやつはレビューを書かれない傾向がある。
レビューというのは一気に読んだ勢いで書くものだろうと思う。
中編くらいの、さっと読みやすい分量の小説、
もしくはマンガのようなものが、
結局は kindle には向いているのかもしれんなあと、
少なくとも売れやすいのではないかと思う。

Manfred del Vasto

Manfred del Vasto は Adelaide del Vasto の父、というしかほとんど知られてないのであるが、

Manfred という名は Man + Fried (平和な男)という意味であるから、
ラテン系ではなくゲルマン系の名前であることは確かである。

del Vasto の Vasto は南イタリアの地名であり、
ノルマンコンクエストの結果、ノルマン人が獲得した土地の領主になったということであり、
それまで彼は
marquess of Western Liguria
であったはずだ。
当時のリグリア(今のジェノヴァ地方)は、
Obertenga (東)、Arduinica (西)、Aleramica (真ん中)の三つの辺境伯国に分かれていたとあるから、
マンフレッドはおそらく
Manfred del Arduinica
などと呼ばれていたはずだ。

彼は
[Aleramici](http://en.wikipedia.org/wiki/Aleramici)
というフランク王国に由来する、リグリアやピエモンテを治めていた一族に属するらしい。
生粋のイタリア人、というわけではない。
当然 Aleramica という地名と同源だろう。

ジェノヴァは、リグリアのほぼ中央だから、
Aleramica に生まれた自治都市国家、のようなものだったと思われる。
リグリアが三つの辺境伯国になる以前はアラブ人(の海賊)に支配されていたという。
彼らを駆逐するためにノルマン人(の海賊)が傭兵としてイタリアまですでに大勢来ていたと思われる。

ジェノヴァはやがてノルマン人による南イタリア征服の拠点となり、
十字軍の騎士を送り出す港となり、
繁栄していくのだが、それ以前は、おそらく、
いろんな海賊たちが入れ替わり立ち替わりする「辺境」そのものであったと思われる。

ていうか、
[Manfred I of Turin](http://en.wikipedia.org/wiki/Manfred_I_of_Turin)
によれば、
Arduinica というのはトリノ辺りのことを言うらしく、

> the marca extended from the Alps to the Ligurian Sea and the Po Valley. Under him, Pavia became a mercantile city.He also controlled the road between Genoa and Marseilles.

つまりアルプス(Susa Valleyとあるから、フランス国境付近のことか)からトリノ、
地中海地方のマルセイユやジェノヴァまで領有していたという。
この Manfred I of Turin が Manfred del Vasto の直系の祖先かどうかまではわからんが、
一族であるのは間違いなかろうと思う。

[Arduinici](http://en.wikipedia.org/wiki/Arduinici)
というのもAleramiciとほぼ同様らしい。
ここにも Manfred や Adelaide という名前の人がいる。
サヴォイア公の祖先にあたる、という。
ふむ。300年くらい間が空くようだが。

Adelaide は英語名で実際には Adalheidis などと言っていただろう。
スイスや南ドイツ由来の女性名。