BNP

BNPの値が6月急に252とかになって、
心房細動とか出たりとか心肥大だとか言われてあせったが、
毎日ちゃんと薬を飲んで今日の検査にのぞんだら、
4.2に下がっていてほっとした。
BNPは50超えると心不全とか言われてて、
アンカロンという薬が不整脈を抑えてくれると私の場合それが回復するらしい。

思うに、心房細動は30歳頃から出ていたから、
私の心臓というのは、昔から不整脈がでやすいたちだったのだろう。
不整脈のせいで心臓に負担がかかり、心不全となって、肺水腫となった。
さらに不整脈が進行して心室細動となった。

アンカロンを1日1錠では足りなかったが、
1日2錠飲むようになり、BNPが下がり、症状が改善した。
薬飲むのをさぼってアンカロンを1日に1錠かそれより少なく飲むようになってまた
BNPの値が高くなった。
1日2錠忘れずに飲むようにしたらまた治った。
ということだろうと思う。

世の中戦争かなんかになってアンカロンが入手できなくなったら、
私はたぶん数ヶ月で死ぬのだろうと思う。
だけど毎日薬飲まなきゃ死ぬ人なんてたくさんいるわけだし。
人工透析してる人もいるし。
まあ、よくいる病気持ちってことだわな。
国が認めた重病人。

宗教というのは、霊長類の脳があまりに肥大しすぎて、
特に人間の場合はそれが顕著で、
脳の産物が現実世界にあふれ出してできたものであろうと思う。
人間の最終目標というのは、脳の中の世界をそのまんま現実化することだろうと思う。
自我というものを永遠化することだと思う。
宗教というのはその不完全な段階に相当するのだろう。

暑いときを涼しくするとか、寒いときを暖かくするとか、
食べ物を安定供給するとか。
そういうことは、宗教ではないだろう。
しかし、精神を病んだときに心を救済するというのは宗教だろうと思う。
カウンセリングとか臨床心理学などという言い方もするのかもしれない。
心を救済するには事実や真実でなく、虚構であってもよいらしい。
そこが、エアコンを発明するとか、
農産物の収穫を増やすなどということと根本的に違うところだろうと思う。

肉も卵も食べなかったがコレステロール値が下がらない。
思うに、コレステロール値というのは体重に相関するのだろうと思う。
要するに、コレステロール値を下げるにはやせるしかない。
炭水化物であろうがなかろうが、
食べる量を減らすしかないようだ。

feedの整理

[前書いたこと](/?p=12966)と同じだが、
読んでるサイトのfeedがあまりに混沌としているので、
割とひまなんで(とりあえずモデリングくらいしかすることない)、
新たにdigg readerにアカウントを作り
(今までgoogleでログインしてたのをtwitterアカウントでログインし直しただけだが)、
そちらにどうしても読みたいものだけ移すことにした。

みんながまじめにウェブサイト作ってればフィードリーダーの時代は続いたのかもしれんが、
twitterとかfacebookとかに流れてしまって過疎ってしまった。
一番良いのはやっぱりみんながきちんとウェブを維持することだと思うが、
それがなかなかできないんだろうな、やっぱ。
しきいが高いってのかな。
フィードリーダーでサイトの更新チェックして読むというのは、
今から思えば新聞や雑誌の記事を購読しているのと一番近い。
記事の執筆にはそれなりに労力が必要で、誰もができるわけではない。
ということか。

twitter とかだと逆にアホな子がどんどん露出してきて、
それはそれで問題だ。
facebook は知り合いか知り合いじゃないのかわかんないやつから友達リクエストが来て、
誰だこいつとか考えるのが面倒なんでそろそろやめようかとも思う。

そんで田中久三というのは虚構の部分で、
リアルな自分というのもあるわけだが、
できるだけネット上の存在は田中久三の方に収束していったほうが幸せなんじゃないとか、
思わなくもない。
定年退職まであと20年切ってるわけで、
実世界では現状維持のままなんとかやりくりして、
よけいな冒険はしない。
こっちの世界でやりたいことやるというのでどうか。
できるだけ実世界から前倒しで引退してこっちの世界で遊びたい気持ちもある。

昔はだらだら実名で身内話とか書いてたわけで。
fj とかなら 1991年くらいからそう。
web だと 2000年くらいまではそんな書き方してた。
よく考えると今の twitter や facebook の使い方となんら違いない。

矯正視力は両目とも1.5以上と、たぶん生涯で今一番視力が良いのだが、
パソコンの画面が見づらくて仕方ない。
老眼鏡を買うべきなのだろう。
キンドルなんか読むときは裸眼で顔近づけて読めばよいが、
パソコン作業は画面全体を見なくちゃならぬ。
作業効率的にどうにもならん。

WP Social Bookmarking Light

このサイトは見ればすぐわかるが wordpress でできている。
wordpress を使い始めたのは tanaka0903 という名前を使い始めてだから、
2009年3月からだと思う。
それ以前は一時的にはてなダイアリーを使っていて、
それ以前のことはよく覚えてないが、たぶんHTMLじかうちだったと思う。
このサイトは1986年くらいまで補完されているが、
もちろんそんな昔からこのサイトがあったはずもない。
私は1994年からwebサーバーを立ち上げているんで、
おそらく日本でも最初期からずっーとwebに関わってる人間の一人だと思うんだが、
それ以前にはwebなんてものはかげも形もなかった。
ただ、1986年頃からすでに和歌を詠んでいたというのを見せびらかすために、
さかのぼって載せてある。

そんで当初は wordpress よりか movable type のほうが人気があったと思う。
周りでも wordpress よか movable type 使っている人が多かったように思うが、
wordpress にしといてよかった。
perl が嫌いという理由が一番大きい。
php も嫌いだったが知り合いに使ってる人がいて普通に使うようになった。
wikipedia だって php + mysql だしね。
趨勢は見えてたよな。
movable type で perl + postgresql とかでやってた人たちはそろそろ死滅したことだろう。

そんなことはどうでも良くて、
[WP Social Bookmarking Light](http://wordpress.org/plugins/wp-social-bookmarking-light/)
というのを使い始めたのはつい最近で、
twitter でつぶやけるようにしようと思ったらいろんなほかのSNSにも使える。
今まで、はてぶとツイッターで反応があったが、
検索してもよくわからん。
もしかすると非公開のはてぶとかツイッターで使われているのかもしれず、
単に検索に引っかからないのかもしれない。
facebook 反応ないんで削っておいた。
正直SNSをずらずら並べるのはうざい。
私自身ははてぶあんま使わないのだが使ってくれる人がいるようで、残しておく。
このプラグインの作者は日本人のようで、
ソーシャル・ブックマーキングという呼び名からしてやはりはてぶ関係者だろうと思われる。

ときどき過去記事を発作的に非公開にすることがあって、
それをツイートされているのを見つけた。
とくに非公開にするような内容ではなかったので公開に戻しておいた。
0903以前のものは当たり障りのないものだけが公開されているだけで、
実際にはもっといろんな雑記が残っている。

『特務内親王遼子2』はすでに減速しはじめていて前作『スース』には及ばないことはほぼ判明した。
『スース』はイラストを増やしてラノベ風にしたから読まれたのだろうかと思ったが、
単に女子大生がお酒を飲む話なので読まれたらしい。
てことはいくら pixiv とかと連携して cg 増やしても、
それだけでよそのラノベと同じくらいに注目されたり、
読まれたりするわけじゃない、ってことだ。

世の中、ラノベやミステリーが読まれる、
というより、kdp だろうが紙の業界だろうが、ラノベやミステリー以外は売れない、
というわけを、kdp やりながら我が身の上のこととして思い知っているところだ。

ある文学部出身の人がいて今彼はアーティスト兼デザイナーをやっているが、
彼は文章を子供の頃から書きまくっているが、自分のためだけに書いて、
人には決して読ませないという。
文学好きな人にはそういう人もいるのかもしれん。
私がキンドルで出版してあれやこれや売ろうとがんばっているという話をすると、
なんだか作家のようですねと言われる。

「文学」はともかくとして「文芸」というのは芸能の一種で、
落語や演芸のたぐいだと、最近は思っていて、
いかに人に読ませるか巧むところがたいへんでおもしろい。
だから世間一般のラノベやミステリーは確かに「文芸」だ。
せっかく書いたものは私の場合できるだけたくさんの人に読んでもらいたいし、
後世に遺したい。
後世に遺らぬものをいくらがんばって書いても死んだら終わりだと思う。
死んで終わりなら生きてるうちに楽しんだほうがましだ。
たくさんの人に読ませる技能の部分が「芸」だと思う。
ただその「芸」の部分にも何かの「アート」はあると思う。
「芸」と「アート」ね(笑)。

というか、読んでる人などいないと思ってたら意外といるらしいのでうかつなことは書けない。

ドアノッカー

一気に読んだ。
途中から、サスペンスの一種なんだろうなと思った。
最後まで読んで謎解きがなかったので少し困った。

後書きと[作者のツイッター](https://twitter.com/cowfieldtinysno)
も読んだが、
犯人は教えないとのこと。

勝手に推理したことを書くのは、
ネタばらしとは言わないと思うから書くが、
たぶんマモルクンは一種のトロイの木馬みたいなもので、
人が家にいるかどうかを犯人が確認しているのだろう。
マモルクンを買うということは独り暮らしだろうし、住所もわかる。
犯人が自分で宅配すればどんな住人か(性別、容姿)もわかる。
で、最初のほうに出てきたドアの営業の彼氏というのがマモルクンを通販している人物と同一、
というあたりかと思う。

で、さらにまあ余計なことを書くが(後で非公開にするかもしれない)、
こういう猟奇的な推理小説というのは、確かに一気に読ませるのには向いているのかもしれない。
私がイラストを入れラノベを偽装するのと同じで、なんとか読者に読ませよう、
読者を獲得しようという、営業の一種に思えてしまう。
だから純粋に物語の構築ということからは割り引いて評価してしまうとこが自分にはある
(作家の仕事とはなんだろう。読者へのサービスか。物語の構成か。それとも文章の巧みさか。全部か)。
最初の女性三人の会話がなかなかリアルで女性作家かと一瞬思わせたところもよくできてると思う。

私の場合、伏線を張るというのは推理小説の一種であり、
推理小説ですと看板を掲げるのは潔くないと思っている(つまり小説なんだから伏線くらいあって当たり前だという)。
で、伏線は必ず回収しないと気が済まないたちなんで、つまりそれが謎解きなわけだが、
謎解きくらいしてあげないと私の小説は難しすぎて読めないだろうという、
[強迫観念というか、不安](/?p=12926)みたいなのもある。

あと、男性作家なのに女性の表現がうまかったり、
女性作家なのに男性の表現がうまかったりとか。
若いのに年寄りの表現がうまいとかその逆とか。
現代人なのに昔のことをうまく書くなとか。
自分にはないものを一生懸命補完して書いてるところとか。
そういうのに加点してしまう傾向があるわな、自分には。
それはたぶん、私小説みたいなのは技術がなくても誰でも一発ネタで書けるってのと、
現代ドラマというものをテレビで見飽きていて反発を感じるせいだと思う。

feed reader

『特務内親王遼子2』だが反応はいまいち微妙。
ま、こんなもんか。
一冊ごとに、一喜一憂しても始まらんわな。
次に近々出す予定の『超ヒモ理論』は知人に手描きのイラスト描いてもらってて、
こちらの反応が気になる。
CGのが評判がいいか。
手描きのがいいか。
どっちも大して違わないか。
なんかいろいろ実験してるわけですね。

そんで google reader が死んでから結局 digg reader というを使うようにしているのだが、
いろいろフィードをまとめてまとめて、必ず読むのと、ひまつぶしに読むやつに分類して、
だいたいこのふたつのカテゴリーしかもう読んでない。
100あるかどうか。
で、必ず読むことにしたのが

* [カナ速](http://kanasoku.info/)
* [本の虫 江添亮のブログ](http://cpplover.blogspot.jp/)
* [ぼんのう](http://bonnoh.jugem.jp/)
* [カラパイア](http://karapaia.livedoor.biz/)
* [デイリー・ポータルZ](http://portal.nifty.com/)
* [ガベージニュース](http://www.garbagenews.net/)
* [Schuzak’s Blog](http://d.hatena.ne.jp/Schuzak/)
* [居酒屋礼賛](http://hamada.air-nifty.com/raisan/)

たったこれだけ。
カナ速は2chのまとめサイトとして読んでるというよりは、カナ速こみっくがカナ速に統合されたから読んでいるというのが99%。
本の虫は、過激な自由ソフトウェア主義者なので楽しく読んでる。
ぼんのうは、Andy山本という人が昔出したマエストロムジークというゲームがおもしろかったのと、最近心臓病で倒れたのが興味深くて読んでいる。
カラパイアは、ナショジオ的な気分で。
デイリー・ポータルはくだらない取材がおもしろい。
ガベージニュースは、まあ普通に興味深くおもしろい。ためになる。
Schuzak’s Blog は FPS 関連で。
居酒屋礼賛は飲み屋巡りの参考に。

特務内親王遼子2

CGをすべて clip studio と blender に移行して、 autodesk sdk 由来のプラグインとかも使わずに、
まあ完全商用利用可能な態勢が整ったんで、 せっせと続編書いてCGも描いて、 kindle で出すことにした。

同人出版のラノベに見た目は非常に近いが、 内容は全然ラノベではない。 「青春ラブコメ・ハーレムもの」に分類することも可能かもしれないが、 たぶん違うと思う。 どちらかと言えば近代アジアの軍事・政治ものというか。 『ジャッカルの日』とかそんな感じ?

遼子のモデルは川島芳子なんですけどね、 バレバレだけど。 安彦良和の『虹色のトロツキー』の影響を受けてないとも言いがたい。 タプイェンなんて麗花の丸ぱくりだと言われればそうかもしれん(麗花は李香蘭こと山口淑子がモデルであるという)。まあそこはオマージュってことで。いずれにせよ『虹色のトロツキー』なんてマイナーな漫画、一般人が読んでおもしろいともおもえんよなあ。

世の中に受け入れてもらえるのかどうかしらん。ていうか、変に狙い過ぎ、はりきり過ぎてて外してなきゃいいなと思う。

まだ続きがあるんで、実はストーリーはもうラストまでだいたい考えてある。勘の良い人(近代中国史に詳しい人)ならもしかすると部分的には予測つくかも。完全なフィクションですがね(一応のお断り)。『虹色のトロツキー』のオチとはだいぶ違うと思う。まあ、これまで書いてきた小説の同工異曲なんで、類推は可能なんだが、そこまで読んでくれている読者がいるとも思えん。

安彦良和はおもしろいよね。『王道の狗』『三河物語』『クルドの星』あたり。『麗島夢譚』は連載中だが、微妙。安彦良和はおもしろいのとおもしろくないのがあるから困る。日本神話ものはたいていおもしろくない。近代史がわりとよく、古代史や神話ほどつまらない傾向がある。『アリオン』も話としてはつまらない。『アレクサンドロス』は読んでみたいがつまらなかったらどうしようって感じ。外れなにおいがする。

産業革命はやはりすごい

アメリカ建国とかフランス革命なんてのは、産業革命より前だから、
実は単発の事件で終わる可能性があった。
実際フランスではなんども王政復古したり帝政になったりしている。
アメリカも南北戦争でどうなるかわからんかった。

しかし、産業革命があり赤色革命があって、
市民兵というものが貴族よりもはるかに戦争が強いというのが実証され、
それで国民国家ができていった。

ただ単に、権力のバランスが動いたのよね。
昔は王侯貴族による支配のほうが実際的だったし、
産業革命で人口爆発した後は市民による支配のほうが実際的になった。
けんかになったときだれが一番腕力が強いか。
それだけなのではなかろうか。
善政が悪政を倒した的なのはたぶん間違っている。

もし人口が産業革命より前に戻れば、単に、王侯貴族的社会に戻るのではなかろうか。

予定調和

読者の期待した方向へストーリーをもっていかないほうが意外性があってお得、
予定調和は罪悪、
手あかのついてない新しいストーリー展開にあえて挑戦、
という観念があるせいか、
ネットで感想を探し出して読んでみると、期待を裏切られたとか、
思ってたのと違ったとか、そういう反応を目にすることが多い。

予定調和的でないストーリー展開はざっくり切り捨てられ、
予定調和的な部分だけが読まれ、
かつ、
予定調和になってない部分はなってると(他の自分の知ってる類似作品を持ち寄って)勝手に脳内補完して読まれている可能性が極めて高い。
それはかつて知合いに「[安藤レイ](/?p=10614)」や「濹西綺譚」を読んでもらって感じたことでもある。
だんだんその漠然とした不安は確信に変わりつつある。

読者に逆らいわが道を行くのは難しい。
それは既存の出版業界に逆らうよりも難しいかもしれない。
kdpの時代になっても読者は昔のままだ。
読者は案外強い立場にいる。
圧倒的多数の読者は作者より強いのだろう。
いろんな意味でいろいろ難しい。

そう、記号と予定調和が支配する世界。
二次創作にされやすい、素人にやさしい世界。
だが空虚だ。
記号は記号に過ぎない。

ガンダムもそのままでは二次創作されえなかった。
何度もシリーズ化され、
準備されたのちに、
二次創作されるようになった。
オリジナルから二次創作へ変容していく過程はだいたいいつもこのようなものだ。
わらわらとたかってくるファンやスタッフによって意図は変えられていく。
大乗仏教もそうやって成立したのに違いない。

私としてはこれから3DCGを量産できる態勢にもっていく。
一年もすればどんどんイラストが描けるようになると思う。
もちろんキャラクターをたくさん出したりすれば破綻するが、
小さくまとまった短編ものならどんどんいけると思う。
とりあえずしばらくはそちらのほうで戦おうと思う。

夢を見てて思う、人間にとって創作文芸のルーツは夢にあるのかもしれん。
脳の中で勝手に作られるイメージを固定しただけでは作品にならぬが、
そういう夢物語のようなストーリー性の乏しい作品を作る素人はたくさんいる
(これは夢の話なのでストーリーがなくてよい、これはPVだからオチはなくてよい、etc)。
しかし、素人とプロの境界はあいまいだから、
そこから本格的な文芸が生まれてもおかしくない。

人の絵を描くときに筋肉や骨の構造を知らねば描けぬように、
脳の中で情報がどのように処理され、どのように間違われ、
どのように解釈されるのかということがわからないと、文芸作品は書けぬのかもしれんし、
わかってしまうと、いろんな可能性とともに制約が知られるのかもしれない。
つまり、人間の脳というものはこういうインプットには必ずこういう反応をするものである。
それに沿わぬストーリーを提示するのは無謀だ、とか。

kdpレビュー

『スース』はあっという間にレビューが終わるから、ああ、kdpのアルゴリズムが少し賢くなったのかなと思うと、
今度は『エウメネス』のレビューが全然終わらない。
中で何が起きているのかさっぱりわからない。

思うに、レビューというのはコピペルナーみたいなものでWeb検索と照合しているのだろう。
『スース』は類似した文章や固有名詞がほとんどネットにない。
『エウメネス』は、たとえば「エウメネス」「アレクサンドロス」などについて書いた小説は無限にあるから、
それらと照合してるとなかなか終わらない、ということなのだろうか。

映像化

私は、脚本家やライターが書くような文章は絶対書くまいと決めている。
そういうプロの仕事はプロの方々にお任せすればよい。
自分は原作者だと思っているのだ(プロの原作者もいるわけだが、原作というのは古典やらなんやら含めて広く、という意味で)。

普通は、原作、脚本という書き分けをしてないのではなかろうか。
現代のライターは原作即脚本という書き方をするのではないか。
脚本にしにくい原作をわざと書く、などという意地の悪いことはしないと思う。

わざと商業化しにくいような文章を書いている、と言ってもいいかもしれん。

映像には映像文法というものがあるし、アニメや漫画は明らかに「記号」によってできている。
様式化されたアニメやマンガ作品の多くは記号の羅列だけでできていて、いらいらする。
まあ、大勢の人が分業体制で大量生産していればどうしてもそうなる。

そういうビジュアルな文法や記号というものに、翻訳しやすいように文章を書くことはできる。
映画や漫画から逆アセンブルしてそういう記号を文章の中に埋め込んでおけば、
いつか自分の作品が映画化・漫画家されるときに好都合だろうと考える。
ラノベなんかまさにそうだろう。

しかし小説を書くひとというのは、わざと映像化しにくい文章を書いたりするものだと思う。
この延々と心理描写が続く部分、映像化できないから捨てるしかないよ、とか。
人間の精神活動のほとんどすべては映像と音声でできている。
したがってたいていは映像化できる。
しかし、残りの数パーセントくらいは、どうしてもできない。
できないものは概念化、記号化することによって映像表現するしかないが、
それは文法なので、学ばないとわからない。

既存の概念も文法もないものは映像化できない。
詩を外国語に翻訳できないように、映像化できない文章というものもある。
小説家はときどきそういうものをわざと書きたくなる人種だと思う。

紫式部の時代にもそういう葛藤はあったと思う。
この話、絵物語にしてもぜんぜん面白くならんだろうなとか。
もっと昔々、現生人類が生まれたときからあったと思う。

たとえば「手に持った箸の先端まで神経が通るような」という描写は映像化できないだろう。
匂いや触覚も翻訳しにくい。
無理に翻訳しようとすると漫画的な表現になってしまうだろう。
目線とか身震いのようなゼスチャーで表現するかもしれない。
役者が下手だと陳腐だし、うまい役者だと芝居がかる。
「今まで体験したことのない、言葉にならない感情が沸き起こってくる」
みたいなのもそうだ。
それを文章ならばいろいろと説明できるが、映像では無理だ。
それが時間的には一瞬のできごとであればなおさらそうだ。

もひとつ言えば「ような」「ように」を使うのは負けだと思っている。
「石像のように立ち尽くした」というのは陳腐だ。
「石像のように」とかつい書いてしまうが、実際には必要ない。なくてもいい。
イメージが濁るだけだ。
なんか具体的な石像の描写があって必然的にそう書くならばともかく、
唐突に陳腐なたとえを持ち出すのはよろしくない。

かといって「手に持った箸の先端まで神経が通った。」
みたいな表現もいやらしくてやる気にならん。それよか普通に「通ったようだ。」とか書いたほうがまし。

とりとめのない追憶、のように時系列になってないものも、小説ならかけるが映像化するときはさくっと時系列にせざるを得ないだろう。

一日だけの出来事ならば映像化しやすいが何百年・何千年にわたる歴史なんかだと映像化しにくい。
いきなり百年前や二百年前の歴史上の人物が比較対象として取り上げられるとすると、いちいち説明しなくてはならない。
できるだけ説明しようとは思うが、話の流れを断ち切るからあまりやりたくない。
頼朝とかカエサルとか楠木正成なんかだと説明せずに流す。
小説ならそれでいいかもしれんが、映像作品でそれやるとわけわかんなくなると思う。

あと、登場人物が五十人超えるともう映像では表現できなくなると思う(群衆とかを除いてだが)。
主観視点なのにその人物がいちいち切り替わるとか。
主人公が途中で死んじゃうとか。
神の視点で描写されていてだれが主人公かわからんとか。

場面転換が多すぎて世界中あちこち移動しまくるとか。どうやってロケするのかとか。
じゃCGでやるかというとそれも難しいとか。

セリフがまったくない箇所とかね。
私はできるだけ話の筋はセリフ化してキャラクターにしゃべらせるようにしているが、
わざと会話をなくしてみたい箇所もあったりする。

映像化しやすい記号化された文章というものがわかってくると、逆にわざと映像化できない作品を作ってみたくなるよな。

私の作品は論文や論説を兼ねていることが多いのだが、これもまた映像化しにくいだろう。
そのまんま映像化すると放送大学の講義みたいになってしまう。
それはそれで、文芸作品ではない。

それから歌物語。現代人が古語の和歌なんかわかるはずがない。
映像化しにくい。
ときどき書いていることだが、俳句は映像化しやすいが和歌は極めて難しい。
和歌は基本的に心理描写、俳句は情景描写だからだ。
その違いがわかってない人は多い。

あと漢詩。
漢詩を映像化できる人がいたら見てみたい。
解説はできるだろうが映像化はできない。
下手に描写すると漢詩が画賛みたいになってしまう。それじゃ駄目だ。
ちなみに私の場合漢詩の説明はほとんどしてない。しても無駄だと思うし。

漫画なんかで冒頭だけ場面の全景を描いてだんだんにキャラクターによっていくというコマの構成がある。
明らかに説明である。記号だ。
小説でもよく使う手口だ。
いちばん最初だけたいくつな自然描写が続いたりする。
文章によって逆に映像表現をしているわけだ。
しかしふつう小説というのはそんな親切じゃあないから、途中から映像表現は省略していく。
一種の読者サービスだったりもする。
絵コンテなんかだとそうはいかないわけで。
映画のシーンが連続するような手の込んだ小説もないわけではない。しかしそれでは脚本になってしまう。
小説でわざわざやる必要があるかと思ってしまう。

『スース』や『内親王遼子』なんかは逆に先に映像があってそれを膨らませて小説にしたもんなんで、
映像化は楽だろうと思う。

逆に映像制作するよっていってるのにどうやって映像化するつもりなんだろうという企画やシナリオを持ち込んでくるやつもいて、
絵コンテみてもそれじゃ意味伝わんないよみたいなので、
ようするにわかってないんだな、そういうやつは映像作品も作れないが小説も書けないだろうなと思う。
映像と非映像の間にある緊張関係が理解できてないわな。
それよか既存の陳腐な記号を並べたシナリオ書いてもらったほうがまし。
まずはそこからやればよくて、
そのうちだんだん記号に頼らない脚本かくようにしていけばいいんじゃないのか。