徳川正記徳川氏

日本外史の中でも徳川正記徳川氏は異様に長くて切れが悪くてつまらんと思っていたが、
最近は結構楽しく読める。
日本外史を楽しく読んでいるというだけで病気なのに、その中でも一番つまらん徳川氏を面白く感じるとは、病膏肓に入ったというべきだな。
だんだん普通の人間の感覚というものがわからなくなってくる。

最初の辺りに、

> 頼氏、教氏を生み、教氏、家持を生み、家持、満義を生み、満義、政義を生み、政義、親季を生む。

という件があるが、これは文語訳マタイ福音書の

> アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生み、ユダ、タマルによりてパレスとザラを生み、・・・

という記述に良く似ている。つまり、ただ単に似ているというよりも、明治時代に福音書を訳すときに、たぶん訳者は日本外史の記述を参考にしたのだろう。或いは漢訳聖書の影響もあるのかもしれない。
そして筒井康隆はそれのパロディ・パブリング創世記を書いたというわけだ。
旧約聖書創世記にはマタイ福音書のような記述はないのだから、本来は創世記というのはおかしい。

新共同訳では

> アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、・・・

となっていて、より自然でなめらかな口語になっている。まあ、戦後だし、日本外史っぽい口調は嫌われたということだ。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、
白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。
つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、
御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。
神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。
御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、
白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、
江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。
ネットで検索しても何もわからんのだが。
このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。
案外何もわかってないのだなあ。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、
昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、
湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。
今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、
神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。
つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、
日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。
危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。
両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、
これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。
ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、
おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。
だから、この展望台の下が台所口であり、
中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。
中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。
表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。
祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、
その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。
しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。
だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、
ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、
雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。
竹橋を経由したとは考えにくい。
平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、
おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、
そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。
甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。

柳沢吉保

wikipedia 柳沢吉保に

> 延宝3年(1675年)7月12日に家督を相続し小姓組番衆となり、同年12月18日には曽雌盛定の娘定子を室に迎える。

とある。当時17才。
小姓組番衆とは小姓集団の一番下っ端の役とでも言う意味だろう。
綱吉はこのときすでに29才。
うーん。まあそんなものかな。

wikipedia 小姓組などには、主君の身辺警護に当たる純然たる戦闘部隊、とある。

間部詮房

間部詮房は綱豊の小姓だったというが、wikipedia には

> 貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。

とある。1684年だと間部は18、綱豊22。
しかし、小姓というのは普通もっと若くしてなるものであり、
用人となる前に小姓の時期があったと考えるのが自然ではなかろうか。
新井白石が綱豊に仕官したのは1693年だから、10年近く後だが、
実際にはもっと前から間部は綱豊の側にいたのではなかろうか。
用人というのは正式な役職名だろうから、役職をもらう前から、
プライベートな小姓、あるいは見習いとして近侍していたとか。

綱豊が17のとき(1678)父綱重が死んでいるがその前からいたか、その後だったのか、
でも意味合いがだいぶ変わってくるわな。

間部の寵愛のされ方は、おそらく間部が綱豊の竹馬の友だったからではなかろうか。
やはり一番可能姓が高いのは綱重が死んだ年に13才くらいで小姓になったのではないか。
だとすると、
1712年に家宣が死ぬから、白石は19年、間部は34年仕えたことになる。

正徳

新井白石「折り焚く柴の記」を再び読む。
最初読んだときはなんと退屈な本かと思ったが、コツをつかむとわりとさらさら読める。

非常に頻繁に引っ越ししている。
堀田家を致仕した後はまず浅草に住んでいるが、
もはや家臣ではないのだけど、堀田から本所に屋敷をもらっている。
綱豊(のちの将軍家宣)に仕えるようになると湯島天神下に屋敷をもらう。
甲府藩主ではあるが勤務は江戸の藩邸だったということだろう。
綱豊自身あまり甲府には居着かなかったのではなかろうか。
その後元禄の大地震というものがあり火事があると雉子橋門外に屋敷をもらう。
しかし、飯田村にも屋敷があったという。
おそらく武家屋敷町にはもともと正式名称がなくて、
飯田村に行くには江戸城を雉子橋門を出るのが一番近いからそう言ったのだと思われる。
そのあとこんどは一ツ橋門外に転居している。
神田小川町という記述もあるが、これまた城から神田小川町にいくには一ツ橋門を出るのが一番近いからだと思われる。
これが、もとは六百坪余りだったが家宣の死後は隣の敷地を加えて八百坪になったのだという。
だから、家宣が生きていた頃の話ではまだ六百坪でなくてはならない。危ない危ない。

正確には新井白石の日記を読むべきだと思うが、ちとめんどうだな。

ちなみに、御家人や旗本の屋敷は三百坪とか六百坪というのが多いような気がするが、これは、
一反が三百坪だからと思われる。
大阪町奉行与力は wikipedia によれば五百坪だという。
秋葉原の小学校の隣にあるなんとか公園というのが旗本屋敷跡らしいのだが、およそ三百坪。

綱吉が死んだ直後に中御門天皇が即位して元号が正徳に変わった。
wikipedia には

> 朝廷が提示した案から、幕府が新井白石に命じて選択させたのが「正徳」であったといわれている。

などと書かれているのだが、
「折り焚く柴の記」を読むとそういう風には読めない。
元号に「正」の字を使うのは宜しくないから早く変えろと言われてそれにくどくど反論している。
決めたのは自分ではないが変える必要はないので反論するというのだ。
だから、白石は決めてないのではないか。
白石は確かに上洛して中御門天皇の即位の儀式や元服の儀式には参列しているが、
殿上人ではないので見物席を与えられただけである。
その後で朝鮮通信使の接待をする都合で、殿上人となるために官位官職をもらったと思われる。
だから、正徳という元号を決める時点ではまだ関与してなかったと考える方があたってると思う。

たとえば日本でも正慶に北条氏が滅び、天正に足利将軍が絶えている。
だがおそらく一番の問題だったのは、これは大塩平八郎を調べていて気付いたのだが、
正徳というまったく同じ元号が明にもあって、
そのとき寧王の乱という皇族の叛乱があり、王陽明がそれを鎮圧するという事件があった。
王陽明の活躍を当時の儒学者が知らぬはずがない。
確かに不吉と言えば不吉だ。
ただまあそうやって不吉な事があった時代の元号に使われた文字を次々に使えなくすると、
そのうち使える字はなくなってしまうわな。
特に正とか文とかそんなよく使われる字から先に使えなくなってしまうだろう。
ちなみに明の正統年間には土木の変が起きている。

大塩平八郎

パブーで[大塩平八郎](http://p.booklog.jp/book/50924)
というのを公開した。
これは、もともとは将軍放浪記(現在非公開。鋭意加筆訂正中)と同じ頃に書いたものであり、
私の小説の中でも最古のものの一つだ。
今まで公開しなかったのは、後半部分の完成度がいまいちだと、自分でも思うからだが、
とりあえず、前半部分だけ公開することにした。
というのは、ネットで検索して上位に上がってくるのに一年くらい時間がかかるのである。

ネットに公開する以上はできるだけ途中段階からでもさらした方がよいようだ。
それから、この小説はもともとは「巨鐘を撞く者」というタイトルだった。
新人賞に応募するときにはそのくらい思わせぶりなタイトルの方が良いのかも知れないが、
ネットでそんなタイトルつけてもそのタイトルを知っている人でなければそもそも検索かけてこない。
そこでずばり「大塩平八郎」というタイトルにしたのである。
「巨鐘を撞く者」はサブタイトルとして表紙だけに残した。

「大塩平八郎」で検索する人はたくさんいるから、もし検索上位に上がればそれで見にくる人もいるにちがいない。

「セルジューク戦記」「超ヒモ理論」などが割合PVがあるのも同じ理由だろうと思う。
たとえば物理系の人が超ヒモ理論で検索してたまたま私の小説を読んで面白いと思えば他も読んでくれるだろう。
歴史の勉強をしていてセルジュークトルコを調べようと検索した人がなんだ小説かと思って読んでもらって、
やはり面白ければ他も読んでくれるだろう。

それで、「棟梁三代記」というのもあるのだが、これを「鎌倉将軍三代記」に変えてみた。
「鎌倉将軍」で検索かける人はたくさんいるから、というのが理由だ。
こちらはタイトルを変えると意味合いもだいぶ変わってくるのだがやむをえない。
ネットでより目立つためだ。
たったこれだけでばんばん読者が増えればありがたいのだが。
効果が見えてくるのに一年はかかるようだ。

「大塩平八郎」は暫く塩漬けにしていて久しぶりに読んだが、
やはり自分で書いた小説が一番(自分にとっては)面白いなあ。
そりゃそうだな。自分の趣味に100%シンクロしているんだから。
たぶん女性の読者は少ないだろうと思う。
女性のシンクロ率は1%くらいではなかろうか。

それからいままでいちいちルビをふるためにrubyタグをhtml編集モードで書いていたのだが、
wordからコピペするだけで良いことがわかった。
そのほうが楽でよいと思う。

さらにネタばらしをすればこの「大塩平八郎」は子母沢寛の「新撰組始末記」と「父子鷹(勝海舟とその父の話)」に影響をうけたものである。どうしても江戸弁っぽい口調になる。本来なら大阪弁で書くべきかもしれんが、それは私には不可能なので、適当に標準語っぽく書いてみた。

源氏長者

源氏長者というのは虚構なわけだが、
日本外史には家康が征夷大将軍宣下と同時に源氏長者に補されたとあるから、
なんらかの形でこの頃には源氏長者という名称が権威付けに利用されていた、制度化されていたと考えられる。

で、Wikipedia など読んでいると、つまるところ、
源氏の長者とは、もともと奨学院という貴族のための学校の校長(別当)のことを言うらしい。
それは、奨学院別当が源氏全体の祭祀を司ったからだという。

しかし、すべての源氏の祭祀を司る人間、源氏全体の長者などいるはずもない。
たとえば嵯峨源氏の長者とか村上源氏の長者とか清和源氏の長者ならばいただろう。
そういう一族の長老という意味での長者はいたに違いない。
しかしそれぞれの源氏は単に天皇家から分かれたというだけで全然違う一族だから、
共同で祭祀を行っていたはずがない。
いつかの時代に誰かがそういうことを行ったことがあったとしてもそれが「源氏全体」というものの実体をさしているはずがない。
というか「源氏全体」という実体があるはずがない以上、「源氏長者」に実体があるはずがない。

たとえば、ある時期には嵯峨源氏の長者が奨学院別当をやり、別の時期には村上源氏の長者が別当をやる、ということはあっただろう。
そりゃそうだ。単に仕事としてやっただけのことだろう。
それだけのことだ。
なぜ、学校の校長が源氏の長者だと言い張れるのか。
タイムマシンがあったら校長先生に是非聞いてみたいものだ。

奨学院というものの実体が存在しなくなり、従って別当というものが単なる名誉職となり、
従って「別当に補される」ということが完全なアイコンとなってしまっても、
その名誉職に就きたがるひとはいたのだろう。
欲しがる人がいる以上は天皇もそれを叙任し続ける。
その方が収入が増えて都合が良いからだが。典型的な官職売買のための官職。
いや、令外官だから正式には官職とは言わないのかもしれない。
どうでも良いことだが、公務員でもないのに面接官とか退官とか教官とかいうのはおかしい。いつも違和感おぼえまくる。

別当職に固執したのが村上源氏の長者だったと言われる(たぶん、村上源氏の中で他に俺が長者だと手を挙げる人がいなかったせいだと思うが)
北畠親房であろう。彼が、俺は奨学院別当職に補されたから俺が源氏の長者だ、
などと主張した、ということは大いにあり得る。
その職に就くために大いに活動しただろうことは想像できる。
そして神皇正統記の影響から、後に「俺は源氏の長者だ」と名乗りたいものが、
奨学院別当という名誉職に価値を見いだしたということだろうと思われる。

律令制そのものが完全に名誉職化しても権威付けに利用されたのと同じで奨学院別当というのが征夷大将軍と同義、
もしくは征夷大将軍が源氏固有のものであるという虚構を補強するための口実として用いられた。
更に言えば、頼朝由来の征夷大将軍の権威と、北畠親房由来の奨学院別当の権威を一つに統合したのが足利義満なのであろう。
もしかすると南北朝統一と関係するのかもしれん。

北畠親房は謎の多い人だ。どんな思想信条を持っていたのか、ちんぷんかんぷんだ。
かなり屈折した精神の持ち主だったのではなかろうか。
頼朝とか尊氏とか義満ならまだわかる気がするのだが。

征夷大将軍も別当も令外官であるのには変わりない。
だが一応天皇の勅令もしくは上皇の院宣によって就任する職ではある。
もちろん律令的な官位官職ももらって権威付けをより強固にしているわけだ。
こういうことを千年近く続けてきたわけだから、
法律とか官位とか官職とかは権威付けに使われる実体の無い虚構であるという観念が日本人に深くしみこんでいるのだろうなと思う。
現実に即して法律は作り変えていくという発想が出てきにくい。
その発想を妨げている。
日本国憲法が改正されないのも同じだろう。

古今伝授にしてもそうだが、どうしてこういう奇怪な論理が通用していたのか現代人には理解に苦しむものがあるが、
日本国憲法改正に反対している人たちを見ていると、
そういう精神というか血がいまだに日本人に受け継がれていて、
どういう連中がそういうものを信じたがるのかがわかるよな。

おそらく、家康は、源氏長者などというものが虚構であることを承知の上で、それをも利用したかったのに過ぎないだろう。
彼は現実主義者だったはずだ。
こういうプロセスで虚構の上に築かれた権威も、
とりあえず、徳川政権を支えていく上である程度役にたったわけで、
「徳川の中の人」たちはそれをわかった上で利用していたはずだ。
わかった上でしらを切っている人たちはそれで良いが、
中には本物の権威だと思い始める人たちもいて、それが実に厄介だ。
自分を自分でだませるのは精神的に楽で良いわな。
やはり虚構に基づく権威というものは、後世の人間にとっては負の遺産以外の何物でも無い。

アプリ

思うにかつて新風営法でアーケードゲームが殺されて、
かたやパチンコは換金とかより悪質なのに未だに野放しなのは、
要するにパチンコが好きなおじさんおばさんたちの方が、
アーケードゲーム好きなにいちゃんねえちゃんよりも政治力を持っていた、という、
ただそれだけのような気がする。
つまり偉い政治家や財界人にパチンコ愛好家が大勢いるということだ。
ただそれだけだ。

コンテンツ的にパチンコが面白いはずがない。
もし、換金できればビデオゲームの方が数億倍面白いに違いない。
ただ、博打というのは丁半とかちんちろりんと同じで別にルールが複雑である必要はない。

今のソーシャルゲームの課金にしても、まあ、
あれは携帯の通話料金にいつの間にか加算されてしまうのがいけないのであり、
それを経済力のないこどもでも安易に、無意識のうちにできてしまうのがいけないのであり、
あれをダメだといえばゲームセンターもダメということになろう。
良質のゲームに金を払うのは当たり前だし。

ソーシャルゲームは世界中に開発者や顧客がいるわけだから、無料でも結構クオリティが高い。
それは広く薄く、アップグレード課金とかアイテム課金で金を払いたい人から徴収しているからだ。
開発費が集まれば集まるほど良いコンテンツができる。
良いコンテンツが生き残る。
このシステムは決して間違っていない。
それを、ソーシャルゲームの課金は何でもダメみたいな風にするのは、
かつての新風営法と同じだ。
無限(?)の発展姓を秘めていたアーケードゲームを殺し、
総量規制でバブルを殺したのと同じで政治的誤りだと思う。

たぶん、雰囲気的に言えば、
昔のインベーダーハウス的な扱われ方だよな、ソーシャルゲームは。

忠臣二君に事へず

ドコモがシニア向けスマホを出したというのを、NHK などが報道しているのだが、
相変わらずのガラパゴスっぷりであきれる。
というか、docomo 的に iphone はやだから何か独自路線はないかと苦肉の策でこうなったのだろう。

もしシニア向けスマホに需要があるのならば、
nokia といわず apple といわず、すでにどこか海外の企業が手を付けているのではなかろうか。
docomo が世界に先駆けて新機軸を出してくるとは、誰も期待してないと思う。
老人がスマホを好むだろうか。それがどのくらい需要があるのか。
重役会議の面々の顔が思い浮かぶよな。そしてそれを報道しようというマスコミの重役。
そしてそれらの重役どうしはつながってる。
コネだよなコネ。

ていうか、あきらかに、スマホって老人層を切り捨てて若者に特化したから出てきた発想だよね。
古い物をぶっちぎって新しいことをやろうという姿勢なんじゃないのか。
古い物も新しい物もよく、老若男女だれからも受け入れられる、そういう発想から生まれたものではないよね。
水と油な気がする。
いや水と油を混ぜようという努力はあっても良いと思うが。

個人的には水は水油は油路線の方が気持ちいいんだが。

ていうか、そうやって、docomo が新製品だしたからってマスコミがいちいち取り上げるから、
いつまでも docomo は docomo なんじゃないの。
docomo ほど知名度があれば、そしてほんとに世界が必要としているのであれば、
マスコミがほっといても世界がほっとかないんじゃないの。

むしろ日本固有のガラパゴス現象の事例としてドキュメンタリー仕立てにすると、
マスコミ的におもしろいんじゃねーのか。
そういうことはできないんだよなー。

それはそうと忠臣二君にまみえず、は間違いなんだな。まみえるのは貞女で、
忠臣は事えずというらしい。

まみえるは、大和言葉的には男女どちらでも使えるが、漢籍由来しばりがあるということだな。

最近のCMではホンダの「負けるもんか」が好感度高かった。
さすがホンダだなと思った。