還暦

[ちきりん](http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120401)が還暦とは、もうそんな年なんだと思ったが、
しかし、四月一日のエントリなので嘘かもしれない。

あ、やっぱり最後にネタバレが書いてある。

西洋紀聞

新井白石「西洋紀聞」は大して面白くなかった。
最初面白いかと思ったが、イタリア人(ローマ教皇領の人らしいから当時はローマ人、か)と新井白石が、
日本人のオランダ語の通訳を通して意思疎通をしているというところからして、まあむちゃだな。
しかも、オランダとローマは日本で言えば長崎と陸奥くらいだからなんとかこうとか通じるとか、まあ、
無茶だ罠。
オランダ人とドイツ人でも書き言葉くらいでしか通じないだろうし、
イタリア語とオランダ語では、よほど教養がある人じゃないと通じないだろうし
(両方ともラテン語でしゃべれるとかならわからんでもないが)、
しかも片方はオランダ語を学んだ日本人というにすぎない。

たぶん新井白石的には本人から聞いたというよりはいろいろ知識を日本人からも中国・朝鮮人からも聞いて補完したのだろうと思う。

「折りたく柴の記」の方は最初の方は自分の親や祖先の話ばかりで死ぬほどつまんなかったが、後半はやや面白いように思えた。
ゆっくりと、辛抱強く読むことは可能かも知れん。
「藩翰譜」もちらっとみたが、これは電話帳みたいなもんだから、何か目的を持って読まないと読めないだろう。
こういうのを読むくらいならば、「徳川実記」でも読んだほうがまだ面白いのではなかろうか。
「三河物語」を面白く読める人なら素質はあるかもしれん。

そういう意味では新井白石の書いたものの中では今も入手が容易な岩波文庫の「読史余論」が一番面白いと思われる。
が、これを面白いと思える人というのは頼山陽の「日本外史」と「日本政記」を読んで、
たとえば後三条天皇について新井白石はどう考えているかとかそれについて頼山陽はどう評価しているかとか、
そんなことに興味を持つひとくらいだろうなと思う。
「日本外史」はそれなりに面白い読み物(軍記物に近い)だが、「日本政記」と「読史余論」は純粋な「史論」
なので、それも江戸時代の儒学者が書いた史論だから、ま、人によるだろうな。

切支丹屋敷に幽閉され新井白石が吟味したイタリア人の名は、ヨワン・バッテイスタ・シローテ (ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(Giovanni Battista Sidotti)と言い、ローマン、パライルモ人とあるが、
パライルモというのはパレルモのことのようだ。
パレルモはローマンに隷する地名、とあるが、当時のパレルモはシチリア王国の一部のはずであり、
シチリア王はスペイン・ハプスブルク家だったから、スペイン領だったはずだが、
スペイン・ハプスブルク家はまもなく断絶し継承戦争の結果スペイン・ブルボン家になるが、
シチリアはサヴォア家が領有することになった。ややこしい。
シローテが日本で捕まったときはスペイン継承戦争の真っ最中であり、シチリアの帰属ははっきりしてない。
少なくともローマ教皇領ではない。
その後サヴォア家はシチリアとサルディーニャをスペイン・ブルボン家と交換する。
以来、シチリアは両シチリア王国が滅びるまでスペイン・ブルボン家の分家が治めることになる。

シチリア王国の公用語はラテン語とシチリア語であり、シチリア語はイタリア語の方言というよりは、
ロマンス系の姉妹言語という位置づけらしい。
イタリア語で「ジョヴァンニ」と言い、ラテン語ではおそらく「ヨハネス」とかで、
シチリア語では「ヨワン (Jovan?)」と言った可能性はあるだろう。
新井白石の聞き違いではあるまい。
「ウォアン」「ギョワン」などとも聞こえると書いてある。
「ギョワン」が一番イタリア語の「ジョヴァンニ」に近いなあ。
パレルモはシチリア語では「パレルム」または「パリエンム」などと言うらしい。

思うに、本人が「ヨワン・シローテ」と名乗っているのだから、彼が現在から見ればイタリア人だからという理由で、
イタリア語で「ジョヴァンニ・シドッチ」と言う名前で呼ぶのはどうかと思う。
当時はそもそもイタリアという国はなかったのだし。
同じことで、シチリア王国の始祖をルッジェーロなどと言うが、彼はもともとノルマン人なのだから、
ノルド語風に、ロジェール、などと呼ぶのが正しいのではないのか。
同じことは、バルドヴィンをフランス語風にボードワンと呼ぶのも同じ。
ヨーロッパの国々がそれぞれの国の呼び名で呼ぶのは間違いではないとして、
日本人がたまたま今のヨーロッパのそれぞれの国の言葉に合わせるのはおかしい。

ガス抜きとしての中島敦

中島敦は難解だと言われている。
山月記、名人伝、弟子、李陵。
確かに漢文調で、難しい。少なくとも高校の国語教科書で初めて読まされると、
とてつもなく高度で高次元な文学のようにみえる。
中島敦はしかし戦争中のごく短い期間しか小説を書かなかった。
しかも、中島敦の作品は上の四つ以外はほとんど読まれることがない。
なぜかというに、上記四作品は戦後の国語教科書で好んで採録されたからだ。

私自身中島敦は大好きだった。
高校のとき、夏休みの読書感想文の宿題は毎年「李陵」を書いたくらいだ。
今五十近くになって読み返すと確かに面白いが、しかしめちゃくちゃ面白いというわけではない。
中島敦がこの小説を書いたのは三十三だ。
錯覚かもしれないがそう思える年になったことを素直に喜ぶべきなのだろう。

思うに、私はもともと(今そうであるように)本居宣長や頼山陽のような、江戸の学者が書くようなものが好きだったのだろう。
だが、本居宣長や頼山陽などは、戦後民主主義教育ではほとんど完璧に隠蔽された。
何かものすごいものが隠蔽されているのを感じる。
オーラが漏れ出てくるからだ。
しかしその実態は、大人たちが懸命に隠しているので子供の目には触れない。
プラトンのイデア論ではないが、私はそのオーラの発信源が何か、その実像は何かについて知りたいと思った。
たとえば小室直樹に惹かれたのはそのためだったと思う。

戦前の右翼教育を完全に封じ込めた日教組は、しかし、そこに不自然な細工が残るのが気に入らなかった。
戦前の文学でも、戦時中の文学でも、良い物はよい。漢文教育にも良いものはある。
戦前教育を完全に葬り去ると漢文教育自体が成り立たなくなる。それは困る。
そこで、比較的人畜無害な中島敦の小説が選ばれた。
中国の歴史書や伝奇小説を素材にして、そのまま現代小説に仕立てたたぐいのものだ。
子供たちに容赦のない漢文調の文章を学ばせるために。
つまりもっと露骨な言い方をすれば、戦後の教科書に掲載されている中島敦の小説というのは、
戦前の日本外史や太平記などの代用なのだ。
私自身中島敦の作品に親しまなければ日本外史や太平記にたどり着くのにもっと時間を要しただろう。
しかし、中島敦を経ずにいきなり日本外史や太平記を学んだ方が、話はずっと速かったはずだ。
もし中島敦の作品がそれ以外の意味においても優れているのであれば、
かの教科書の作品以外のいろいろな小説も好まれたはずだ。

中島敦の小説は戦争の真っ最中に書かれたものであるが、その時代精神は、「山月記」などでは極めて希釈されてはいて、ほとんど感じ取ることができない。

彼の作品がなぜ「教科書にある」のか、なぜ「古典として学ばねばならない」のか、その真の意味が教師から説明されることはない。
多くの教師も、そもそもそんな意味を知りもしなかっただろう。
そして今日、単なる惰性で中島敦は読み続けられている。
かつてそんな企てが教科書出版業界であったことも忘れられてしまったのだろう。

「墨攻」で中島敦賞をもらった酒見賢一が中島敦について書いていた。
群ようこも書いていた。
中島敦はよくわからんと。全集を読むとますますわからなくなると。
いったい中島敦という人はなんなのかと。
つまり中島敦はその全著作の中のたまたま漢文調の堅苦しい小説だけに需要があった。
ほかのほんわかとしたエッセイみたいな小説や、スチーブンソンの宝島みたいなのや、
エジプトやメソポタミアのファンタジー小説みたいなのや、そんなのは無視された。

それが中島敦の謎の真相だ。

中國哲學書電子化計劃

> 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

教育勅語だが、
たとえば中文版wikipedia に
[教育敕語](http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E6%95%95%E8%AA%9E)
なるものがあり、漢文訓読文を漢文に戻しているのだが、

> 朕惟我皇祖皇宗,肇國宏遠,樹德深厚,我臣民克忠克孝,億兆一心,世濟其美。此我國體之精華,而教育之淵源,亦實存乎此。爾臣民孝于父母,友于兄弟,夫婦相和,朋友相信,恭儉持己,博愛及衆,修學習業,以啓發智能,成就德器,進廣公益,開世務,常重國憲、遵國法,一旦緩急,則義勇奉公,以扶翼天壤無窮之皇運。如是者,不獨為朕忠良臣民,又足以顯彰爾祖先之遺風矣。斯道也,實我皇祖皇宗之遺訓,而子孫臣民之所當遵守,通諸古今而不謬,施諸中外而不悖。朕與爾臣民。俱拳拳服膺。庶幾咸一其德。

これの「孝于父母、友于兄弟」なんて言い方があるんかいなと思い、
[中國哲學書電子化計劃](http://ctext.org/zh)
で調べてみる。
すると、劉向という前漢の学者が著した「說苑」の中の「談叢」という項目で

> 孝於父母,信於交友,十步之澤,必有香草;十室之邑,必有忠士。

などと言ってることがわかる。おそらくこの「孝於父母,信於交友」が「孝于父母,朋友相信」の原型なんだろうなとわかる。ここで驚くべきことは「孝於父母」と「孝于父母」は助字が微妙に違うのに検索できているということだ。また、董仲舒が

> 君者將使民以孝於父母,順於長老,守丘墓,承宗廟,世世祀其先。

などと言っている。これも教育勅語的なフレーズだ。最後の部分など「世世厥ノ美ヲ濟セルハ」を思わせる。

というわけで、なんて便利なんだろうなと思ってしまった。「友于兄弟」についても、論語で

> 或謂孔子曰:「子奚不為政?」子曰:「云:『孝乎惟孝、友于兄弟,施於有政。』是亦為政,奚其為為政?

と出てくることがわかる。

軍人勅諭などは日本外史から来ているようだが。

いやいや、調べてみたくなったのは「亦實存乎此」の箇所だった。
漢文的には「実在此処」とかではないのだろうか。

雅葉和歌集

玉風和歌集というのをやっていたが、
[雅葉和歌集](/?page_id=4504)という名前に改めた。

玉風和歌集というのは玉葉和歌集と風雅和歌集を合わせた名前なのだが、あまりに露骨なので、
それから、できれば万葉集にちなんで「*葉和歌集」という名前にしたいと思い始めた。

それで「雅びな言の葉を集めた和歌集」という意味で「雅葉和歌集」という名前にしたのだが、
幸いまだこの名前は使われてないように思われる。
順序は逆になるがまたもや風雅集と玉葉集を合わせた名前になってしまったが、まあいいか。
なにしろ室町末期から江戸末期までの歌というのは、めちゃくちゃたくさんあって困るが、
とりあえず、いいやつは全部入れる勢いでやってみる。

古文漢文

現代日本では古文漢文は相当に衰えてしまっており、受験産業以外にこの分野を支える社会的需要がない、という状況だ。
しかし、あまりにも長い間注目されなかったせいかもしれないが、調べれば調べるほど、
最新の研究による定説の刷新が待たれている分野であると、考えざるをえない。

思うに、江戸時代の漢詩などを読むに、必ずしも、唐宋やそれ以前の古典の用例ではなくて、
むしろ、現代中国語で解釈した方がわかりよいものが、だいぶ含まれていることを感じる。
そりゃそうで、江戸時代といえど、清や朝鮮との交流は、それなりに活発に行われていたのだ。
漢学者や儒学者らは、訓詁学や古文辞学や詩文などばかりもてあそんでいたのではなく、
外交官として、「生の中国語」を駆使して海外事情を学んでいた、はずだ。

詩文がもてあそばれているように思われるのは単に詩文のほうが教材としておもしろみがあったからだろう。
わざわざつまらない勉強をするよりは面白く学んだ方が身につくに決まっている。
それは今の学問となんら変わらない。
詩文や古代の聖賢の話ばかりに没入してしまうのは、儒官としては本末転倒だっただろう。
民間の儒学者にしても、できるだけたくさん弟子は欲しいから、できるだけおもしろおかしい授業をしたのに違いない。
江戸時代は浮き世離れしてたから古文漢文などを学んでいた、はずがない。
実際旗本や与力らの仕事など調べてみると彼らの定員は少なく仕事は多い。
徴税や取締、警備、訴訟、その他さまざまな行政、江戸時代のお役人だからのんびりしてたなどという観念はまったく間違っている。

江戸時代を通じて関東の沼沢地のほとんどは干拓されてしまった。
これらの治水工事にも膨大な労力を要しただろう。
桑や茶などの換金作物が栽培されるようになり、これらが維新時の産業革命の立ち上げに大きく寄与した。
日本には多くはなかったが資本の原始蓄積があったし、高度に発達した職能組織や都市生活環境、貨幣経済もすでに用意されていた。
それを用意したのが徳川三百年の太平だ。
学問も大いに発展した。

現代日本だってもう七十年近く戦争をせず太平を謳歌しているのだ。
もし江戸時代を平和と停滞の期間とするなら戦後日本だって同じことだ。
たまたま学園紛争の真っ最中に書かれた文章を読むと、今は江戸時代と違って、
時代が極めて急速に変化していて、江戸時代の某らのようにゆったりとした時間の中で学問のできる時代ではない、
などと書いているが、それは大嘘だ。
学園紛争など社会変化全体の中でどれほどのものだというのだ。
江戸時代にだってそのくらいの変革は日常茶飯事的に起きていただろう。
浮き世離れしているのは戦後の学者のほうだろう。

江戸時代というのはとかく水戸黄門シリーズのようにおんなじことを飽きもせず三百年間繰り返してきたのだ、
永遠の過去だと思われがちだが、それは極めてよろしくない見方だ。
だが、古典文学の解釈というのはとかくそうなりがちで、
古典の用例によって古典を解釈しようとする。
聖賢を学ぶものもやはり聖賢であろうと思いたがる。
実際にはいつの時代にも聖賢などというものはいなかった。
酒は飲むし吉原で遊びもする。
金も権力もほしがる。
そういうふうにみなければ古文漢文などわかるはずがない。

江戸時代には共通語がなかったからいきおい古文が共通語というか書き言葉代わりになった。
しかし、新しい思想は新しい単語で表されたのであって、それは、比較的保守的な詩文にも、
徐々に浸透していったはずだ。
古いものがいつまでも古いままでいるのではない。
たとえば明治天皇の御製など今読むと古めかしいが当時としては非常に斬新なものだったのだろう。

むろん、学問とは道徳教育のため、という側面もあっただろう。
しかし、人間道徳ばかりじゃない。それは今も昔も同じはずだ。

白石詩草

日本古典文学大系に新井白石の詩がのっている。もとは「白石詩草」に収められている。
[早稲田大学](http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_a1191/bunko11_a1191.pdf)
でJPEGとPDFが公開されている。
楷書できちんと書いてあるので読むのは容易だが、意味はわかりにくい。

彼が吉原を詠んだらしい詩がある。吉原だろうと思うが確信できない。
「紀使君園中八首」の中の一つ、「芳草原」という詩で、

春入芳原上
青青襯歩鞋
佳人来闘草
応賭鳳凰釵

吉原に春が来る。素足に青々とした草履を履いた美しい女性がきて草合わせで遊ぶ。鳳凰のかんざしを賭けよう。
まあ、そんな意味であって、吉原だろうなと思う。
題の「芳草原」だが、これは、八首の題を三字にそろえるためであり、意味は「芳原」だろうと思う。
「春入芳原上」だが、「春が吉原の上に入る」というのはわかりにくい。「上」は「ほとり」というような意味かもしれん。
「學步鞋」とは「学童のスリッパ」のことらしい。
「歩鞋ヲ襯ス」と朱筆で訓点がついてたので、「歩鞋」という単語があるのだろうと思う。
「青青歩鞋」だが、新しい若草で編んだ草履、という意味だろうか。
だとするといかにも春らしいが。
「紀使君園」というのがよくわからん。朱筆が入っていて「紀」「使君」「園中」と切れる。紀州の使君の庭園か。
「紀使君」という人が詠んだ詩なのか。
あるいは、そういう名前の吉原の店があったのか。

新井白石が吉原で遊んだことがあるとすれば、また彼自身の用例からして「芳洲」が「吉原」を指すと判断できるだろう。
たとえば頼山陽は出島のことを「扇洲」と呼んでいる。「富士山」を「富嶽」と言い換えたり、
「隅田川」を「墨水」と表現したり、江戸時代の漢詩ではこのように、日本名を漢語風に言い換えるのが当たり前だった。

日本古典文学大系では「芳洲」を謝眺や李白などの中国の詩人の用例から「良い香りのする中洲」と訳している。
果たしてそうだろうか。

そもそもこんな楽しげな詩はまったく収められてない。
こむつかしい詩ばかりだ。

思うに江戸時代の文人にとって漢文・漢語というのは中国語そのものであり、
中国の歴史でもあり、実学だったと思う。
だから、学ぶだけの価値があった。
遊びではなかった。
漢文・漢語は、明治に入ってから語学や中国語会話という役目を失い、
戦後もずっとそうだった。
しかし、これから中国語を学ぶ必要性や機会が増えると、
漢文を学ぶ意味も変わってくる。
そして、いったん、たんなる古文古典となってしまった漢文教育を、
一から見直す必要に迫られるだろう。

鈴屋集巻三

宣長の「鈴屋集」を読む。宣長には「石上稿」というものが別にあった。
思うのだが、「鈴屋集」と「石上稿」はもともと重複のない別の歌集だったのではないか。
「石上稿」は日々の歌道の鍛錬の記録として、時系列に書かれている。
「鈴屋集」はもともと二十首とか五十とか百くらいの比較的短い歌集の集まりであって、
詞書きもなしに、ただ興の向いたときに一気に書いたものだったのではないか。
このようなものとしてはたとえば「吉野百首」などの例が残っている。

最晩年になって子供たちに家集を残してくれと頼まれて、
「鈴屋集」という名前もつけて、
題の無いものについては改めて題をつけて、
題の種類で整理をして、「石上稿」の中でも比較的良いものもその中に含めた。
成立過程はそんなところではなかろうか。

なんでそう思うかと言えば、「鈴屋集」には、「石上稿」的なつまらぬ歌もだいぶ混じっている、
また、おもしろい歌とおもしろくない歌が混ざっている。
おもしろい歌は、だいたい、題の最初に来ていることが多い。
つまりこれは題詠という形で、整理した時に、
面白い歌と面白くない歌が混ざってしまったことを意味すると思う。
孝明天皇の「此花集」など見るに、やはり、
面白い歌というのはある一時期にまとまって詠まれるものであって、
私個人の体験も、それに近い。
それを題で序列して配置換えしてしまうと、わけがわからんようになってしまう。

「石上稿」をもって宣長の歌はつまらんと言ってしまうのはかわいそうだと思う。
「鈴屋集」の中で特に良いのは最初の三巻、つまり巻一は「春・夏」、巻二は「秋冬」、
巻三は「恋雑」となっていて、ここまででいったん自費出版されている。
巻七までが宣長の存命中に刊行されたが、その後巻九までがでている。
今改めて読んでみると、巻一から巻三までは非常に優れた歌がいくつか含まれている。
特に巻三には、宣長の青春時代に詠んだと思われる恋歌が見いだせる。
人は宣長の歌を陳腐で退屈で月並みだという。しかし、
これらを宣長の歌だと見破れる人がどのくらいいるだろうか。

> たをりても見せばやいかで忍ぶ山心の奥に染めしもみぢを

> 何をかくいとはれぬべき身のほども思ひはからで思ひそめけむ

> ふくるまで人にも人を待たせばや来ぬ夜の憂さを思ひ知るべく

> 見し夢よ誰に問はましうつつとも定めもやらぬ中の契りは

> 見せばやなちしほのもみぢたをり来て心の色は知るやいかにと

> 惜しまずよいとはるる身を変へてだに巡りあはむと思ふ命は

> この春は花をも知らで過ぐすかなうつろふ中のながめのみして

同じ巻三の雑歌には

> いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて

> 思ひ出づるみそぢの春もみそとせのかすみへだたる花の面影

などといった年寄り臭い歌も載っているのだが、
恋歌の方は、明らかに、全然違うときに詠んだものと思われる。
ちなみに「三十の春も三十年のかすみへだたる」とあるが、これは、
恩師の死去で一時松坂に帰ったけれども、再び、医者の婿養子になって京都に戻ろうと運動をしていた頃であろう。
翌年にはあきらめて地元の名士の娘と結婚している。
従って、宣長にとって何か忘れがたいことが三十の頃にあったのは、ほぼ間違いないだろう。
何があったのか、非常に気になる。

現実逃避

小説というのは、だいたいが現実逃避なんだなと思う。
現実逃避と言って悪ければ、非日常を描くのが小説。

漢詩や和歌などが、比較的、日常的な感情をそのまま形にするものであるのに対して、
小説の本質は非現実であることが多い。

短い詩形のもの、和歌や五言絶句、七言絶句、ルバイなどは、
表現をそぎ落として、感情をありのままに現したものなので、逃避や欺瞞、作為などの要素が入りにくい
(「白髪三千丈」などの誇張表現や技巧は使われるかもしれんが)。
ただし、俳句は短すぎて、感情の表現にはもはや用い得ない、と思う。

ファンタジーは現実逃避だ。
ただしごくまれに、SFなどには、現実よりもはるかに過酷な仮想世界を作り出して、
現実よりもはるかに過酷な仮想実験を行おうとする人もいる。
たとえばスタニスワフ・レムのような。
だが多くの場合、現実をそのまま受け入れられない人が自分の都合の良い世界、
都合の良い世界観の中に没入するためにある。
宗教のようなものかもしれない。
仏陀の教えは、もとは辛い現実に直接向き合うものだったが、次第に、
世の中に負けてもいいじゃん、仮想世界に逃げてもいいじゃん、みたいな方向へいった。
つまりはファンタジー化していった。
大乗仏教なんかまさにそうだ。

時代小説は、現代社会の愚痴みたいなもんを、江戸時代みたいな、割と現代に似た社会に投影して、
しかしそれはやはり仮想世界であって、現代社会をそのまま描くとぎすぎすするから、
つまり現代社会を江戸時代に置き換えることで仮想化している。
そうすることで精神の安らぎを得ている。
戦国時代や幕末維新なども、比較的現代社会や近代社会を投影しやすいから用いられるが、
たとえば南北朝時代などは投影のしようがない。
いや、巧めば投影できるが、ほとんどの人にはわけのわからんものになってしまう。
それでは時代小説にはならない。

歴史小説もまたそうだ。
ほとんどすべての歴史小説は平家物語や太平記などの軍記物のたぐいで、
受け入れがたい現実・そしてその現実をもたらした歴史を自分の都合の良いように解釈して、
精神的ななぐさめとするものだ。
司馬遼太郎の歴史小説の構造はほぼそれだ。
ドキュメンタリー番組の多くがやらせというフィクションであるのと同じ程度に、
司馬遼太郎の歴史小説は嘘だし、
彼が小説を書かなくなってからいろいろと書いていたことはもはや小説でないというだけで、
やはりフィクションだった。
歴史をありのままに掘り返してもそれを歴史小説として読んでくれるような読者は存在しない。

恋愛小説というのも、単なる体験記・私小説みたいなのはともかくとして、
恋愛というものはこうあると良いなという願望が書かれたものであり、明らかにフィクションだ。
現実逃避の最たるものと言って良い。

こうしてみていくと、小説というのは、現実逃避でなければ世の中に受け入れられない、もしくは、
現実逃避であるほうが受け入れられやすい。
世の中の大半の人は、現実から逃避したい。そういう需要がある。

論文や論説が世の中に受け入れられにくいのは、内容が難しいからというよりは、
事実をありのまま記述しようとするからではなかろうか。
内容を簡単にしよう面白くしようといくら努力しても、
それが現実をそのまま描写したものであれば、
結局は現実から積極的に逃避しようとする文学に勝てないのではなかろうか。
そんな気がしてきた。
少なくともオタク文学(?)はそうだ。
そして世の中はオタク文学の方へは容易に変容しやすい。

戦隊物とかロボット物などがそうだ。
どんどんパターン化ステレオタイプ化していく。
最初は多少現実世界を反映したものが、
そのリアリティを薄めて、紋切り型のフィクションの方向へ変わっていく。
ようするに漫画化・幼稚化である。
脳に余計な負担がかからずに誰でも楽しめるようなものになっていく。
時代劇も長寿番組となってマンネリ化すると自然とそうなる。