山吹

兼明親王

> 小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける

> 七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。
あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。
山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、
三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。
普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。
太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。

宗武と在満と馬淵

修身の教科書には「松坂の一夜」というのがあって、戦前は、賀茂真淵と本居宣長は理想的な師弟関係ということにされていた。
賀茂真淵は、本居宣長の師だというので、やはり権威付けされた。

田安宗武もまた賀茂真淵を師としたので、戦前の権威付けの中で批判しにくいされにくい位置に居たわけだ。
本居宣長と田安宗武は、共通点を探す方が難しいくらいなのだが。

それで、田安宗武の死後、「天降言」が遺臣等によって編まれ、さらにそれが「悠然院様御詠草」にまとめられた。
ちらと読ませてもらったが、そんなに分量のあるものではない。
最初の辺りに秀歌らしきものがまとめてあり、後は時系列の詠草のようだが、まさに「詠草」と言うのにふさわしいレベルだと思う。

窪田空穂は田安宗武を西行にたとえたというが、窪田空穂はほんとうに西行がわかっていたのか。

> 山里はまだ消えやらぬ雪のうちにうぐひすのみぞ春を知らする

> 山里に春や遅くもたちにけむむらむら残る去年のしら雪

> 五月雨の空なつかしくたちばなの匂ひをさそふ軒の夕かぜ

> 千代ふべき君がかざしのためとてやさかり久しきにはの白菊

> うすくこく色づくにはのもみぢばはしぐれもことに心あるらし

> こと草はうつろひかはる庭のおもに秋をぞ残すしらぎくの花

などはまあまあだ。
ただ、少しオリジナリティがあるようにも見えるが、よく見ると典型の範疇に収まっていて、すごくすごいわけではない。
田安宗武という人がほんとにまっとうな歌人であったならば、万葉調の歌以外にも、
これらの比較的典雅な歌も、生涯にもう少し残っていてもよかろう。
というか、残ってないとおかしい。
まっとうな歌人ならばそのくらいは詠みわけられるし、
理屈として詠みわけできるくらい理解しているはずだからだ。

宗武は吉宗の次男で家重の弟、宗武、家重ともに側室の子であるから、
どちらというのでもなかったが、家光の時に家督相続でもめたから、文武に秀でた宗武でなく、
長男の家重を将軍にしたのだろう。
家重の名は家康の一字を採っているが宗武、宗尹は、吉宗の一字を採っている。
吉宗が宗武をどのくらい気に入っていたか、宗武がどのくらい文芸の才能があったのか、
わかりにくいが、しかし、上に挙げた歌にしても、数がごく少ないということは、
いくらでも疑うことができる。
つまり何かのはずみで将軍にもなる人であるから、周りの学者たちが徹底的に、
少なくとも初心の頃は、添削するだろう。もともと大した歌ではなくとも、うまく添削すれば良い歌になるかもしれん。
で、一見、天衣無縫だが、割と整っているというのは、実はそうした事情ではなかろうかと、つまり師との合作の疑いもあるかと、
思ってしまうのである。

宗武が二十代後半になると万葉調の歌をどんどん詠み始めるのだが、
なぜいきなりそんな歌を詠み始めたか。
わけがわからない。
師の荷田在満は当時としてはごく普通の芸術至上主義者で新古今的な人、つまり、二条派の人だった。
しかし宗武がだんだん自分のやりたいようにやり始め、
在満とは違う方向へ突っ走りたくなったのかもしれない。
もしかするとその時期からすでに賀茂真淵の影響下にあったのかもしれない。

賀茂真淵は京都で荷田春満(在満の叔父にあたり、在満は春満の養子になる)に学び、
春満が死去すると江戸に移って歌を教え始める。1736年くらいだ。
宗武が万葉調の歌を読み始めたのは、在満との論争が起きた1742年くらいからだ。
宗武は在満の養父春満の門人である馬淵とは何らかの形で接触があったに違いない。
春満は父吉宗の臣下でもあった。

宗武は在満的耽美的世界に閉塞感を感じていたのだろう。
武士による武士の歌が詠んでみたい。そこで、馬淵から学んで、万葉調の歌を詠み始めたのではなかろうか。

そもそも万葉調の歌というのは実朝の頃からあり、後鳥羽院や定家も、初心者は真似るべきではないが、
だんだんわかってきたら万葉集も学ぶべきだ、などと言っている。
万葉調の歌を詠んだから特段珍しいわけではない。
が、しだいに、武士も和歌を詠むようになり、尊氏のころはそれほど顕著ではなかったが、
やがて公家とはまったく違う武士らしい歌というものがだんだん芽生えてきて、
宗武において一気に開花した。
というのは、宗武は、誰に憚ることもなく歌を詠めたはずであり、
それが多少珍妙でも、誰も批判できなかった。
馬淵はむしろそれを褒めたのにちがいない。
そうするとそういうふうな歌が東国にはあってもいいじゃないかとか、
いや、新しくて良いではないかなどという話になり、
幕末維新、明治以降になるとますます影響力を持つようになったのではなかろうか。

で、実朝や尊氏などはまったく公家文化に浸りきったところで和歌を詠んでいる。
実朝は万葉、尊氏は新古今という違いはあるが。
それはそれで、あやうく体裁を保っている。
が、宗武の歌というのは、はなはだしく常軌を逸している。

> 洲崎辺に漕ぎ出でて見れば安房の山の雲居なしつつ遥けく見ゆも

> 真帆ひきて寄せ来る船に月照れり楽しくぞあらむその舟人は

なんというか、人麻呂とか赤人とか素戔嗚尊などの歌がごちゃまぜになっていて、
まるで神話時代のコスプレか何かを見ているようだ。
或いは万葉時代のテーマパークというか。
テーマパークやコスプレがなぜいかんかという人もいるかもしれんが。
現代人にとって神話時代や万葉時代というのは所詮ファンタジーとしてしか体験できないものだから、
積極的にファンタジー化してしまえばよい、という発想。
しかし、それは私は好かん。

後鳥羽院が

> まだしきほどに万葉集みたるおりは、百首の歌なかば万葉集の詞よまれ、源氏等のものがたり見たる頃は、またそのようになるを、
よくよく心得て詠むべきなり。

などと言っているが、まさに宗武はその通りだと思う。
そして誰も諫めるものとてなく、死後、詠草まで一切合切が出版されてしまった。
そういうことではないかと思うのだが。

なんというか、万葉調の勉強をしましたと言って、それをそのまま出すのではなく、長い和歌の時間軸の上で、
違和感のないように、自分なりにアレンジして出さなくてはならんのではないかと思うのよね。
定家や俊成や西行や後鳥羽院は、巧まずに(いや、もちろん巧んだとは思うが)できたかしれんが、
そうでなければ手の内が丸見えの手品みたいに面白くないんじゃないのか。

俊成

まあなんというか、俊成というのは、
[五社百首](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i046.html)とか、
実にわかりやすい、平明な歌を詠むよね、定家と違って実にわかりやすい。
しかし文章がどうしてあんなに長くてわかりにくいのかなあ。
家隆もそうだな。この二人は近いとみて良いのかもしれん。

たとえば、

> 手弱女の夜戸出の姿思ほえて眉より青き玉柳かな

「眉より青き柳」というのがすごいね。
柳眉という言葉がこの当時からあった証拠なのだろうが、用例がよくわからん。

> 一木だににほひは遠しもろこしの梅咲く嶺を思ひこそやれ

遠く唐の嶺に咲く梅を思いやるという、陳腐だがなかなか詠めない歌だな。

> さらねども難波の春はあやしきを我知り顔に鴬の鳴く

俊成は、初句が軽いのが多いね。七五七七だけで十分意味が通るのが多いと思う。
文脈的にこの「あやし」は、
自分には理解できず「あや」と思う気持ち、
知りがたいがなんとなく心牽かれる気持ち、という意味だろうな。
夫木抄には、

> さらねども難波の春はあやしきに我告げ顔に鴬の鳴く

となっている。

> いざや子ら若菜摘みてむねせり生ふる朝沢小野は里遠くとも

「あささはをの」がよくわからんが、たぶん朝沢小野だろうと思う。

なんか良い歌が多すぎて調べきれんね。
てか、定家の歌がどれもひねりすぎて理屈っぽいのに比べると、
軽くさらっと詠んだのが多い。家隆もそう。
その辺が好感もてるのだけど。

俊成はあまりに有名な歌人で勅撰集に幾つも取り上げられているから、
それがかえってつまみ食いみたいになって俊成の歌の全体的な傾向がつかめないのだな。
そういう意味ではこの五社百首はなかなか良いよ。
西行の歌も山家集をいっき読みした方がわかりやすい。
有名な、というか他人に取り上げられた歌ばかり見ていても本人の姿は見えてこない。

あとね、定家は勅撰集にほとんど取り尽くされているけど、俊成にはまだまだとりこぼしがあるんだなと、
少し嬉しくなった。西行もかな。

中世歌論集

最近、岩波文庫「中世歌論集」というのが復刻されたので、新宿アルコットのジュンク堂が閉店するとき買ったのだが、最初に出てくる俊成の古来風体抄、長くて何言ってるのかわかんない。定家の毎月抄、これは短いのだが、やはり何言ってるのかよくわかんない。頭にすっと入っていかない。後鳥羽院御口伝、すげえわかりやすい。なんでみんな後鳥羽院みたいに言いたいことをすかっと言わないのかな。

為兼和歌抄。期待に胸ときめかせて読んでみたが、うーん、さっぱりわかんない。やまと歌も漢詩も同じだとか、理屈は仏法と共通だとか、なんか観念的なことばかり書いてあって、で結局何が言いたいのかよくわからんのだ。天照大神、八幡、賀茂、本地垂迹、仏、菩薩、権現、仁徳、聖武、聖徳太子、みなよろしなどと書いてある。で、最初に挙げられている例がよりによって釈教歌。もちろん、釈教歌がすばらしいと言ってるのではない。和歌も漢詩も仏教もその本質はみな同じだと言いたいのだ。治世にも道徳にも幸福にも役立つなどという。要するに万病に効く御利益のある薬か、八百万の神々みなよろしという論法。なんという大風呂敷。なんといういんちき(笑)。同じことは俊成も言っているから、こういう論法が当時の流行だったのだろう。

で、同語反復、或いは「先達のよまぬ詞」を詠む例として俊成、定家、西行、慈鎮などをあげ、俊成の

見てもまた思へば夢ぞあはれなる憂き世ばかりの迷ひと思へば

今日くれぬ夏の暦を巻き返しなほ春ぞとも思ひなさばや

を挙げている。一つ目の例は「思へば」を二度使っていて、二つ目は「暦」が先達よまぬ詞なのだろう。それはそうと正しくは「今日暮れぬる」ではなかろうか。終止形で一旦切れてるともよめるが。
ああそうか、暮れたのは春なんだ。だから終止形で切れてて良いわけだが。

家隆

あふとみてことぞともなくあけぬなりはかなの夢のわすれがたみや

これも「なし」が同語反復となっているが新古今に採られた、と言っている。他にもいろいろ書いているのだが、よくわからん。最後に

浅香山かげさへみゆる山の井のあさくは人をおもふものかは(あさき心をわれ思はなくに)

の「さへ」が余計だという人がいるが、いややはり必要だ、などと書いているのだが、やはり理屈がよくわからない。作者とされる采女は人妻だから人前に出るのがはばかれてうんぬん。なんじゃそりゃ。

それはそうとこの歌、浅香山の姿さえ映るほど浅い井戸と解釈する人もいるんだな。それから、姿が映ってみえるくらいにきれいな山の井と解釈する人もいる。

思うに明治神宮に清正井というのがあるが、あれは井戸というよりはわき水だ。わき水だから水面はごく浅い。浅くて水があとからあとから湧き出している。だから水は清い。「ゐ」というのは、もともと水くみ場という程度の意味であり、泉にも掘った井戸にも使われていたようだ。いずれにせよ、浅い井戸だから水鏡としても使われているのであろうし、そんな浅い井戸のような浅い心で思っているのではない、浅香山は単なる「アサ」のリフレインと山の井の山のイメージ、と解釈すれば良いだけだと思うのだが、どうも歌論というのは、そういう「ひさかたの」とか「あしびきの」とか「かげさへみゆる」だとか、そういうどうでも良い語句の解釈にああだこうだとこだわるところがある。

岩波古語辞典によれば「あしひきの」とは「足がひきつる」とか「足がなえる」というような意味ではないかという。もしかすると「びっこ」も同語源かもしれんな。「びっこをひく」とも言うし。山を上り下りすると足が疲れるからね。

アルムおじさん一家の謎

アルムおじさんがドムレシュクに帰郷したときのことだが、
ハイジの日本語訳は割とまともなようだが gutenberg の英訳はあまり役に立たない。
それで(わからんなりに)ドイツ語を当たってみるのだが、

> Dann auf einmal erschien er wieder im Domleschg mit einem halb erwachsenen Buben und wollte diesen in der Verwandtschaft unterzubringen suchen.

halb erwachsenen Bub とは「半ば大人の男の子」というのだから、小学校高学年くらいか。
この子供を親戚(Verwandtschaft)に unterbringen (宿泊させる、収容する)、というのだから、親戚に住まわせる、一時的に預かってもらう、
養育してもらうという意味であり、手放して親戚の養子にしてもらう、という意味ではあるまい。
そもそもそんな大きな、もうじき働ける子供を養子に出す理由がない。
子供のない家庭が跡継ぎに(或いは婿養子に)引き取りたがるならともかく。
大きくなって自分で働けるようになったら引き取ろう、それまでの報いは、後に金銭か何かでする、
というつもりだったのではないか。
高校生くらいになれば、立派に自分で働けるから、やはり、トビアスは、せいぜい13、14才くらい、
数年間だけ親戚のところに住まわせてもらおうくらいの感じではなかろうか。

ちうわけで、ニュアンスを少し変えてみた。
つまり、アルムおじさんはハイジやトビアスをやたらと親戚に預けたり手放したりする癖がある、
という見方をやめた。やはり、トビアスやハイジが可愛くて、できれば手元に置いておきたかった、
イタリアからトビアスだけ連れてもどったのも、妻とは別れても子供と別れたくなかった、
ということだろうと解釈してみる。
デーテがハイジを連れてきたときにもあれは一種のツンデレであって、孫はやはり可愛い。
一緒に住んでいるうちに愛着もわく。トビアスの時もだいたいそうだったのに違いない。
トビアスは帰郷時に12才ということにしてみた。
12才というと記憶も自我もはっきりしているから、もし母親と生き別れならば、
母親をよく覚えてもいたろうし、悲しかっただろうし、別れたくはなかっただろう。

アルムおじさんは二人兄弟の長男で次男は失踪してしまった。父母はなくなった。
ドムレシュクの親戚とはおそらく従兄弟(従姉妹)であろう。
何人くらいいたかわからぬが、全部に断られた。
もしかしたら弟が先に戻ってきていたかもしれん。
まあ、嫌われて当然だわな。

> Die Frau muss eine Bündnerin gewesen sein, die er dort unten getroffen und dann bald wieder verloren hatte.

アルムおじさんの妻も同郷、つまりグラウビュンデン州の出身だったに違いない、unten というのはライン川の下流というのではあるまい。マイエンフェルトはグラウビュンデン州では一番北の外れで川下に当たるからだ。
unten は南の方、つまり上流のドムレシュクの方と考えるべきだが、
12年も15年も放浪していて、いきなりドムレシュクに帰ってきて、子供はでかいのに、妻がグラウビュンデンの人で、
素性もしれないとははて、どういうことだろうか。
しかもトビアスを産んですぐ死んだと言っているが、
仮にトビアスが12才だとして、その間息子と二人でどこをどうほっつき歩いていたというのか。
なんか設定が矛盾している気がする。

親子泣き別れの場面

アルプスの少女デーテをまた少しいじった。

アルムおじさんはナポリで事業に失敗して妻と息子のトビアスを連れて、イタリア半島を北へ北へと放浪しはじめる。傭兵時代に知り合ったイタリア人たちを頼りながら。しかし、どこも長くは滞在できず、ミラノまでくる。アルムおじさんは妻とトビアスをイタリアに残して自分だけスイスに戻ろうとする。妻もトビアスと一緒にイタリアに残りたいと思った。スイスには行きたくなかった。

アルムおじさんはトビアスに、自分と一緒にスイスに行くか、母と共にイタリアに残るかどっちかにしろと言った。トビアスは親子が離ればなれになるのは嫌だと言った。どちらも選べなかった。翌朝、母は行方をくらましてしまい、トビアスは仕方なくアルムおじさんと一緒にスイスに戻ることにした。

まあちょっとした愁嘆場を付け足してみたくなったというわけだ。

もともとは、トビアスがまだ幼い頃、ナポリに居たころにアルムおじさんは妻と別れて、それから何年かトビアスと一緒にイタリア各地を放浪した、だからトビアスは母の面影を知らない、という話だった。

なんかこの話なかなか収束しないな。

中島敦の日記と書簡

改めて中島敦の日記を読んでみたが、南洋の見聞と途中で日米開戦の話が挟まる程度であり、
肝心の、パラオに行く直前からパラオに滞在している間に、なぜあれほど著作を残したのか、
という部分は書いてない。
著作活動時期と完全に重なっているのに、残念なことである。
書簡の方が出版社とのやりとりがあったりして、まだましだが、それでもやはり肝心なことは書いてない。
病気や貧乏で小説で多少稼ごうかと思ったのだろうか。

中島敦生誕百年

2009年が中島敦生誕100周年だったせいでこの年に中島敦に関するいろんな出版物が出ているようだ。
まったく知らんかった。

小谷野敦[中島敦殺人事件](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E9%87%8E-%E6%95%A6/dp/4846009084)

> 中島敦生誕百年で賑わう文藝ジャーナリズムに対して、あんなに寡作でしかも元ネタのある小説をいくつか書いただけの中島敦がそれほど偉い作家なのかという疑問を小説の形で書いたもの。

まったくその通りだ。
寡作とまでは言えないと思うが(実際の活動期間を考えれば、たとえば綿矢りさのほうがずっと少ない。
むしろ中島敦は死ぬ直前のごく短い期間に大量の作品群を執筆している、といえる)、
冷静に世の中に知られている作品だけで言えば、
「元ネタのある小説をいくつか書いただけ」なのであって、
こんなへんてこりんなことはない。
もっといろんな人が指摘すべきだと思う。

[中島敦 生誕100年 永遠に越境する文学](http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E6%95%A6-KAWADE%E9%81%93%E3%81%AE%E6%89%8B%E5%B8%96/dp/4309740235/)
図書館でチラ見しただけなのだが、一番最初に書いてた人が、
中島敦の作品が最初に載ったのは国語の教科書ではなくて漢文の教科書であり、
「弟子」が「論語」の日本語訳として採録されていた、これは私の発見だ、などと書いている。
当時、GHQ的には漢文教育自体は悪くない、論語なら問題ないと判断し(そりゃそうだ、何しろ戦勝国の中には中国がいたのだから)、
戦前の教材が軒並みやられた中で中島敦だけがGHQチェックを通った、ということのようだ。
だいたい、私の予測通りだな。

問題は、GHQが居なくなってもずーっと高校の国語教師が中島敦の漢文調の小説「だけ」を愛好し、
そのため教科書会社がなかなか彼の作品の掲載をやめられなかった、と言ってることで、
おそらく国語教師は、中島敦の小説をバーンと高校生にぶつけて、生徒が皆ショックを受けるのが面白くてしかたなかったのであろう。
そこで教師が得意げに解説すると、ははあ、やっぱり高校の先生ってすごいんだなあ、と思うわけだ。
はっきり言って、わかってない。中島敦のことがわかってない。
そういうちゃらい目的に使われては中島敦がかわいそう。

もし中島敦の霊が今の国語教育を見たとしたら半ば嬉しくもあり、しかし半ば落胆するだろう。

さらに深読みすると、中島敦は、南洋庁の役人として、現地人の教科書を作るためにパラオに赴任している。
それと、一連の小説を書いている時期がぴたりと一致している。
もしかして、「弟子」「山月記」「李陵」などの、漢籍に由来する作品群は、もともと、教科書に載せる教材として書いたものなのではないか。
パラオの人々に日本語や漢文を学ばせる、初等国語はともかくとして、やや高等な国語を学ばせる。
たとえばパラオ人の中から内地でも働けるような高級官僚を育てようと。日本とパラオの橋渡しができるような。
それには古典の教養が必要だ。
しかし、いきなり古典を読ませてもわからんから、かみ砕いた現代語に直してみよう。
そういうつもりで書いたのではなかろうか、そんな気がしてならない。
それが戦後、そのまま日本人の国語教育に使われたのではあるまいか。

しかし、中島敦は言っている、「戦時中で、食料も満足に調達できなくなってきているのに、教科書だけ多少立派にしてもなんにもならない。
むしろ、昔どおりの生活のままにほうっておいた方が彼らはどれだけ幸せかわからない。」
そして中島敦は教科書作りにだんだんと興味を失ってしまう。

でまあ、そう仮定すると、文章だけやたらと立派で、大してオリジナリティのない短編作品をなぜいきなり彼が書き始めたのか、
すとんと腑に落ちるのである。

新井白石

新井白石は面白い人だとは思うんだけどね。

ヨワン・シローテも面白い人だから、新井白石と一緒に吉原にお忍びで遊びに行った、そこでやはりお忍びで来てた将軍家宣とばったりでくわした、なんて話を書きたいなと思ったんだが、キリスト教徒の世界では彼は殉教者か聖人のように扱われているらしいんだな。だからどうにもいじりにくい。ああいう世界とへんに関わりもって文句言われるのはやだ。

新井白石もいろんな人がもう書いてしまってるから、普通に書いてもうまみはないのよね。

後は、まったく架空の殉教者と架空の為政者とまったく架空の国をでっちあげてそこでファンタジーものにするとか。ファンタジーもそういう目的であれば書いてみたいよね。だが、新井白石とヨワンの話はできれば実名で書きたいよなあ。ファンタジー仕立てにしておもしろみが却って益す場合と、全然そこなわれてしまう場合とあると思うんだ。

メディアリテラシー

まあこんなことをぶつぶつ書いてもしょうがないのだろうが、NHKのニュースで、
手術前に点滴を打たなくても同じ成分の生理食塩水的なものを口から摂取してもよくなりましたというのをやっていた。
まあそれはよい。しかし、病院というところはたいていのばあい手術前だけでなくて、三日とか七日とかぶっとおしで点滴を打つものだ。
たまたま手術前に絶食して点滴する、それをしなくてよくなりましたというのは、
そうだな、一部の外科の患者だけのことであり(たとえば痔の手術などがその典型だろうか)、
それ以外の場合、長い長い闘病生活の中の一部に過ぎない。
むしろ、手術前は、食事を抜いて点滴を打って、
気持ちの切り替えをしたくらいでちょうど良いと思う。
手術というのはつまり電気メスなんかで体を切りひらくのであろう。
点滴の針を打つのとはわけが違う。

手術前に点滴を打つか打たないかというのは要するにそのくらい些細なことにすぎない。
まあお暇なら私の書いたもの([安藤レイ](http://p.booklog.jp/book/39448))でも読んでください。
闘病生活に関してはだいたい実話だから(笑)。

しかしそんなどうでも良いことをわざわざ大げさにものすごく画期的なことのようにデフォルメしてニュースにする。
なぜそんなことをするのか。だれがうれしいのか、そんなことをして。

たぶんこれを作ったプロデューサーは自分が入院したことがないのだろう。
私がインタビューを受けたら、きっと「そんな一度点滴をさすかささないかなんて誤差に過ぎませんよ。」
とでも答えるだろう。
しかし、そういう答えはニュース構成を破綻させるから没になり、私はめでたくテレビには映らないことになるだろう。

以前もなんか、癌か何かを早期発見するかしないかとかそんな話題があった。
見てる感じでは、まだ実験段階で、実用化されるには十年以上はかかりそうな話で、
しかも適用範囲がとても狭い。
そんなものをまるでプロジェクトXか何かのように報道していいのか。

NHKというのは国会で予算が組まれる国営放送なのだから、
他の民放などが利益のためにはやらせくらいは当たり前なのとは違って、
きちんと国民に対してメディアリテラシー教育を行う義務がある。
Aという「個人の感想」があればAとは反対のBという「個人の感想」を伝えねばならない。
しかし、報道に都合の良いAという意見だけを、皆同じ意見であるかのように作る。
そんな番組を作ってはいけない。

それから最近NHKは電波塔の話ばかり流しているが、地デジなんてものはそもそも不要であり、
電波なんて競売にして、それでも必要なやつが勝手に自分の金で電波塔を建てればよいのだ。
それをまるで国家プロジェクトでもあるかのように毎日のように報道しやがる。
やれ花見だやれ地域活性化だとか。
たかが電波塔に大騒ぎするなという意見、特に携帯電話などの業界の意見も採りあげるんならまだバランスが取れるかもしれんが、
まるで地デジや電波塔は国是でもあるかのような錯覚を起こさせる、プロパガンダ放送はやめるべきだ。

NHKがきちんと教育放送でメディアリテラシーの番組も流すならほめてやろう。
それも大学生向けとかではなく小学生くらいからばんばん教育するのだ。
そうすりゃ民放もずいぶん迷惑するだろうし、NHKの株はさらに上がると思うのだが。
だいたい国家や営利企業の言うことを鵜呑みにするから戦争になるのだ。
そういう大衆を扇動しかねないメディアがいかに危険かということをきちんと教育するのが、
不幸な戦争や事故を二度と起こさないようにするほんとうの方法だ。

ところで一部で話題になっている、[受託開発を振り返って](http://1hawk.blog13.fc2.com/blog-entry-116.html)
というネタだが、
思うに、
「コンシューマゲーム開発におけるモラル」(なんだそりゃ)というものがどんなものかは知らないが、

> 上司の機嫌一つでころころ指示内容は変わるし、実際スケジュールも容量も当初の契約の倍以上に膨れ上がりましたし、果てはそれを「フレキシブルな裁量」と胸を張る始末。

上司が仕様変更を認めちゃうんだから仕方ないよなあ。
自分ところの上司のせいだなそれは。
仕様変更を認めてあげるのもサービスのうちだと思ってるんだなその上司は。
じゃあ仕方ない。
商売の一つのやり方としてそんなサービスを提供するのは有りだ。
私はもちろん嫌だが。

> ライターにもよると思いますが、私は何百枚、何千枚という原稿を書いても、「この一言を伝えたかった」という一瞬のために物語を書いています。けれどその一言(どころかシーン丸々)、小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪されている箇所が多々ありました。

それは、ライターなんだからしょうがないんじゃないの。
「小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪」というのはしょせん主観に過ぎないし。
ていうか、プロのライターのくせにそんなくらいの妥協・打算も経験したことがないのか、
そのほうが不思議だ。

> 評価は気にする必要ありません。売れた本数が全てです」と豪語されて

それは、「豪語」ではないよな。
小学生みたいな文体にした方が受けるとプロデューサーが判断したまでではないのか。

いずれにしても、多少クリエイティブな業界にシンパシーを感じている人間にとっても、
共感は得られない話だなあと思った。
そんな話はいくらでもあるし。
こちとら毎日NHKのニュース見ててもいらいらしてんのに。
もうニュースすら見ない方がいいのかな精神の平安のためには。
まして民放のバラエティなんて見ようもんなら発狂しそうになる。

中島敦ですらあの程度の扱われ方しかしてない。
まして普通のライターや作家がどんな目にあってもおかしくないわな。