「過」には平仄で言うと「箇」と「歌」の二種類があり、
「箇」の方は過ぎる、の他に誤りとか罪の意味がある。
「歌」の方は過ぎる、の他に立ち寄る、訪れるの意味がある。
「百代の過客」などと言うが、この「過客」は、通り過ぎるとも訪れるとも解される。
ややこしい。
しかしいずれにしても「旅人」という意味になる。
レジ袋
最近、レジ袋ってなんて便利なんだろうと思い、バッグには欠かさず入れて携帯する。
レジ袋を大事に使うと、レジ袋を消費したい人たち(レジ袋生産者)にも、
レジ袋を撲滅したい人(マイバッグ生産者、ゴミ袋生産者)にも、
環境保護団体(環境保護を飯の種にしている人たち)にも嫌がられるから、
ほとんどマスコミで報道されない。
普通の人には便利この上なくてもマスコミにとって報道価値がなければ報道されない。
積極的に認知されることも称賛されることもない。
しかし、レジ袋ほど薄くて軽くてかさばらなくて金のかからないものはない。
マイバッグを千円も二千円も出して買うなど何かの陰謀だろうと思う。
第一、マイバッグを持ち歩こうなんて思わないけれど、レジ袋なら自らすすんでバッグに常備したくなる。
レジ袋をもらわなくて代わりに2円もらうよりは、2円でレジ袋を買うと考えた方がずっとお得だ。
タダでくれるならなお良い。
レジ袋を10円で売るところもあるが、そういうところでは、持参したレジ袋を使えばよい。
使い捨て傘も最近は安くてものすごく品質がよくなっている。
思うに、使い捨て傘やレジ袋の存在を社会が積極的に認知すれば世の中もっと良くなるはず。
レジ袋をなくそうという運動こそ現代社会における最大の陰謀の一つだ。
同じ意味で wordpress ってとても便利だと思うが、マスコミでそんな話が出たためしがない。
wordpress をほめたって誰ももうからないからだ。
病気のために酒を飲まなくなってから、酒以外に趣味がなかったもんで、
ほとんど支出しなくなった。
今こそ日本経済に貢献したいとは思うが、無趣味なのでしかたない。
金はたまるし健康にはなるし、余暇に使える時間も増えた。
しかし、金を使わないから世の中のためにはなってないだろうなと思う。
だが申し訳ない気持ちにはなれない。
レジ袋をやめて高価な買い物袋を買うとかそんなことにわざわざ金を使いたくない。
こういう方がまっとうな暮らし方のはずだと思うようになったから。
大塩平八郎と王陽明
大塩平八郎の詩に
春暁城中春睡衆
遶檐燕雀声虚哢
非上高楼撞巨鐘
桑楡日暮猶昏夢
というのがあるが、これは王陽明の「睡起偶成」という詩
四十餘年睡夢中
而今醒眼始朦朧
不知日已過卓午
起向高樓撞曉鐘
にちなむのであろうと今気付いた。
大塩平八郎は「小陽明」と自称していた。
甲陽
洛陽とか漢陽などと言う。
洛陽は洛水という川の北にあるからである。
武漢の漢陽は漢水の北にあるからだし、ソウルを漢陽とも言うのは、漢江が南に流れている都市だからだ。
「陽」とは本来は、北が高く南が低い土地のことで、南に川が流れていて北に山があれば自然とそういう地形になる。
日当たりが良い土地のことを「陽」と言う。
中国では昔からそのような地形の場所に王城を築くことが多かった。
で、甲陽だが、この地名は神戸にある。
要するに、六甲山の南麓にあるという意味だろう。
「甲陽軍鑑」の「甲陽」も、おそらく同じような理屈で名付けたのではないか、
甲府盆地の北側の辺りを言うのではなかろうかと思うが、そのような説を見かけない。
実際、武田信玄の居城である「躑躅ヶ崎館」というのは、甲府盆地の北側、県庁舎や山梨大学よりもさらに北のあたりにあった。
荻生徂徠の詩に「還館口号」というのがあり、
甲陽美酒緑葡萄
霜露三更湿客袍
須識良宵天下少
芙蓉峰上一輪高
やはり、葡萄畑というのは、日当たりのよい「甲陽」にあるのではなかろうか。
緑色の葡萄酒というのは、おそらくは白ワインのことではなかろうか。
白ワインはやや黄色味を帯びているので、緑と表現しても良いかもしれん。
「芙蓉峰」は富士山のこと。
新井白石の「春日作」という詩でも、
楊柳花飛江水流
王孫草色遍芳洲
金罍美酒葡萄緑
不酔青春不解愁
とある。「金罍」は黄金の酒壺という意味。
「楊柳花」は柳の花で、「王孫草」はツクバネソウのこと。
「江水」はおそらくは隅田川だと思うが自信がない。
「芳洲」はおそらくは吉原、もしくは芳町(元吉原)ではなかろうか。「洲」には島とか中州の意味がある。
吉原の地形はお歯黒どぶに囲まれていてまさに「洲」である。「芳」と「吉」は通じる。
となると、おそらく吉原の情景を詠んだのではなかろうか、と思われてくるのである。
でまあ、この「春日作」は詩吟で有名らしいのだが、
私の解釈で訳してみると、
「山谷堀を通って川船で吉原へ向かうと、岸の柳並木の花が飛んで隅田川に流れていく。日本堤はツクバネソウで緑一色だ。郭に登って黄金の酒壺に入った緑色の葡萄酒を飲む。春に酔わねば、憂さを晴らせない。」となってずいぶん違う。
「緑ワイン」で検索すると、Vihno Verde というポルトガルのワインがあるそうだ。
英語版の wikipedia によれば、熟成させたワインに対して新酒のワイン。
樽に詰めて一年以内、赤、白、ロゼもあり得て、若干発泡性であるようだ。
科挙に関する誤解
八股文と五言排律の続きだが、
明代初期の八股文についてに非常に詳しく述べてあるが、ごく概略を言えば、明末清初の学者・顧炎武は、
経義の文、流俗、之を八股と言う。蓋し成化以後に始まる。天順以前は経義の文、伝注を敷衍するに過ぎず。或いは対にし、或いは散にし、初めは定式無し。
と明確に記している。つまり、明初には、そもそも八股文などというものはなかった。
しかし、wikipedia 「八股文」には、
洪武帝は軍師の劉基とはかって、科挙には朱子の解説による四書を主眼とした。これは洪武帝や劉基が朱子学を奉じており、この学派が四書を重視していたためである。こうして宋代と代わって難解な教典である五経は二の次とされた。そして明朝期の受験生は答案の書き方として、八股文が指定された。
などと書かれている。これでは、明の高祖朱元璋が軍師劉基と計って朱子学に基づいて四書を八股文で課したと読める。まったく意味が違ってくる。
四書を科挙に用いたのは、朱元璋も劉基も、おそらく朱子も、四書が初等テクストだからであり、出題範囲を初等教育の範囲に限定するためである。それを韻文で書こうと対句で書こうと散文で書こうと明初では自由であった。つまり当初の意図としては、何か形式張った文章題を出したわけではない。ごく妥当な、まっとうな問題が出されたのに過ぎない。
日本でも試験問題というものは、だんだん受験テクニックを駆使しないと解けないような難解なものになりやすく、その弊害をのぞくために「ゆとり教育」というものが生まれ、「ゆとり教育」ではダメだというのでまた難しくなる。同じようなことが王朝交替のたびに科挙でも起きたのは当然だ。
劉基という人の漢詩も少し読んでみたが、どちらかと言えば学者というより、自由な文人という感じを受ける。八股文というものを考案して受験生に課したというのは、まずあり得ないだろう。
またwikipedia「科挙」には
「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」(万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。科挙官僚は、詩作や作文の知識を持つ事を最大の条件として、経済や治山治水など実務や国民生活には無能・無関心である事を自慢する始末であった。こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となって来た。
中国が植民地化を避けるために近代化を欲するならば、直接は役に立たない古典の暗記と解釈に偏る科挙は廃止されねばならなかったのである。
などと書いてある。しかし、「儒林外史」などを読んだだけで明らかなように、「詩作や作文」にばかりうつつを抜かすような官僚がそんなにいただろうか。むしろそれは、科挙に合格できなかった遁世文人たちの戯画に近いのではないか。普通に科挙に合格して、普通に国政に腐心した政治家たちもたくさんいた。それは清朝の歴史を調べれば、明らかだ。
科挙が有害であったことは間違いないが、あまりにも多くの責任を科挙に負わせるのも、
やはり責任逃れに過ぎない。おそらく多くは清朝を不当におとしめようとした近代中国や、日本の左翼学者たちの決めつけなのではなかろうか。そのようなステレオタイプが wikipedia にも溢れているとすれば、非常に憂うことである。
受験テクニックの加熱は、往々にして、受験産業や受験生や教師や父母らによって助長されるものだ。必ずしも大学教員や国の官僚が意図してそうなっているのではない。日本の現状を観察しただけでもわかるだろう。五言排律という格式張った中世の形式が、清朝末期に、本来は自由な作文題だった四書題にいつの間にか潜り込んで、定型化していき、それが八股文となったのだ。つまり責任の多くは民衆の側にあるに違いない。
白河天皇
白河天皇と金葉集を調べていたのだが、調べれば調べるほど興味深い。
まず、勅撰集の初めは古今集となっているのだが、これは、
おそらく紀友則が中心となって数名が当時の流行歌を蒐集し、
友則が途中死去したので従兄弟の紀貫之が後を継いで、醍醐天皇の勅命という体裁で公に流布したのだろう。
勅命というよりは、おそらくは、編纂事業を公に援助してもらったとか、
その程度のものではなかろうか。
そういう意味では、万葉集の成立に近いものではないか。
古今集に続く後撰集と拾遺集は、それぞれ村上天皇、花山天皇の勅命によるものとされているが、
ほんとうに勅撰集であったかも疑わしい。
古今集の補遺というのに近いだろう。
少なくともこの三代集は天皇が直接関与したのではなく、できたものを天皇がオーソライズした、
という形だ。
その後しばらく勅撰集というものは途絶えた。
ところがいきなり白河天皇がまず後拾遺集編纂を命じた。
1075年から1086年までかかっている。
白河天皇の在位期間にほぼ匹敵し、おそらく、
白河天皇自らの強い意志によって作られたものと思われる。
つまり、歌人らが自発的に編纂して天皇のお墨付きをもらったというのでなしに、
天皇自らが編纂したという意味で、事実上最初の勅撰集と言えるものだ。
古今集・後撰集・拾遺集とつづいた和歌編纂事業を発展させて、
天皇が自らプロデュースした初めての勅撰集、と言える。
白河天皇による権威付けがなければ、
後世和歌と皇室はこれほどまで強い関係を持たなかっただろうし、
明治までの連続性を保ち得なかったと思う。
白河天皇は上皇になって再び院宣によって勅撰集の編纂を命じている。
上皇による編纂というのはこれが初めてのことになる。
金葉和歌集だが、これは二度も書き直しを命じられている。
つまり白河上皇は、非常にねちっこい性格であり、おそらくは気まぐれな性格でもあり、
成立までになかなか許可を与えなかったのだ。
後拾遺集も、途中経過は不明だが、同じように何度も書き直しを経て成立したのじゃなかろうかと推測できるし、金葉集も、おそらく、後拾遺集が成立した直後から計画され、
上皇が死期を察してようやく完成したのではなかろうか、と思われるフシがある
(金葉集は1126年成立、白河上皇の崩御は1129年、76歳)。
つまり、白河上皇という人は、勅撰集を一つ作っても飽きたらず、さらにもう一つ作り、
しかしそれにもなかなか満足せず、死の直前までこだわり続けた人なのだ。
なぜか。わからん。
そこをつっこんでいる人もなかなかいない。
次の詞花集は崇徳上皇によるが、金葉集三奏本との重複が多いことや、
構成が金葉集に似ていることからも、大きな影響があったことがうかがえる。
また崇徳上皇と白河上皇の孫で自分の親の鳥羽天皇とは仲がとても悪かったことでも知られる。
崇徳上皇としては、鳥羽天皇や近衛天皇ではなく、自分が白河天皇の正統な後継者だと、
言いたかったのではなかろうか。
ま、ともかく、白河天皇は、勅撰集を二つも作ったこと、
事実上、後に室町末期まで続く勅撰集を創始したということ、
編纂に異様に執着したということ、
その他、歴代天皇の中でも、最も典型的な院政を行ったこと、
おそらく最も大きな経済力と権力を握り、
専制君主として一番最後の天皇だったこと、
などからして、非常に興味深い人だ。
勅撰集にこだわった天皇としては後鳥羽天皇もいるが、
どちらもあくの強そうな人だな。
だが、勅撰集の中でも、金葉集はあまり人気がある方ではない。
言及している人もほとんどいないし認知度も低い。
そこがまた面白い。
是
「是」は難しい。
漢和辞典を見ると、「是」は「これ」「この」という指示代名詞であると書いてある。または「ただす」という意味だと。
しかし中日辞典では、たしかに書き言葉として「是日(この日)」という使い方もあるにはある。
たとえば李白の詩に「疑是地上霜」というのがある。
また杜牧「無人知是荔枝來」とあり、伊達政宗に「不楽是如何」などがあって、これらはいずれも「これ」と訳すことができる。
「ただしい」「ただす」という意味では「是古非今」という例が挙げられているが、これもマイナーである。
これはほとんど例がない。
「是」は主に「である」という意味に使われる。
いわゆる英語の be動詞にあたる。
我是日本人
とか。あるいは、
他不是老師
とか。あるいは、
誰是友
とか。このように人称代名詞 + 是 + 補語、という場合が一般的、使って間違いない。
しかし思うに、「我不是日本人」を「我非日本人」と言ってはならないのか。いいのか。よく分からない。
或いは「我是日本人」を「我日本人」と言ってはいけないのか。あるいはありなのか。これもよくわからない。
良寛の詩に「我詩非是詩」とあるが、これは明らかに文法的に間違っているだろう。
「不是」とは言っても、「非是」と言う言い方はしない、と中日辞典には書いてある。
たぶん「我が詩はこれ詩にあらず」と読ませたいのだろうが、
「我詩不是詩」と書いて「我が詩は詩ではない」と解釈させるのが無難だ。
毛沢東の詩に「人間正道是滄桑」とある。
「世の中のうつりかわりは激しいものだ」という意味になる。これも be動詞的。
「疑是地上霜」も「月光是地上霜」というように be動詞的にも解釈可。
「江上客不是故郷人」「西北是融州」などというのもある。
思うに、「是」を漢詩で「これ」とか「この」という意味に使うのはさけた方がよい。
というか、そういうふうに解釈しないことが多い。
「是」を「A is B」の意味に、「誰是」を「who is X」の意味に、「不是」を「A is not B」の意味に使うのは良い。
「非」はあまり使われない。使わない方がよい。「非」を使うくらいなら「不是」を使った方がよい。
「非」には咎めるような意味合いが込められているのだろう。陶淵明の「富貴非我願」、くらいか。
これも「富貴不是我願」と書いて特に問題はあるまい。
王安石の「遥知不是雪」も、明らかに、「是は雪ではない」ではなく単に「雪ではない」と解すべき。
これを「遥知非雪」とすると、なんだか雪であることが悪いことのように思えるのだろう。
八股文と五言排律
岩波文庫の「唐詩選(中)」を読んでいて気付いたのだが、
四書題(八股文)と五言排律とはその文書構造が酷似している。
どちらも科挙に出題される。
偶然の一致とは思えない。
というわけで、
[帝都春暦](http://p.booklog.jp/book/34939/page/589832)
に少し加筆した。
wikipedia [八股文](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%82%A1%E6%96%87) に
> 三田村泰助(1976)は、詩人である劉基が官僚に必要な最低限の文学的素養としてこの律詩に似た形式を採用したのではないか
とあるように、律詩に似ているという見方はすでにあったものと思われる。
ただ、劉基というのは明初の朱元璋の軍使であり、そんなに早期から八股文の形式が定まっていたとは考えにくい。
明の四書題を参考に、清が似たような出題をして、それに対する受験対策として、八股文がだんだんと成立していき、
清末にようやく定型化された、と考えるべきだろう。
西行の歌
身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。
そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。
「西行物語」では
世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。
そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。
やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。
ナポレオン三世と愉快な仲間たち
[アルプスの少女デーテ](http://p.booklog.jp/book/27196)は一度非公開にして徹底的に書き直そうかとも思ったのだが、割とアクセスもあってもったいないので、そのままだらだら書き直す。
ナポレオン三世の話を詳しくした。
変な人だな。
それから、アルムおじさんだが、もとはスイスからリヨンに行きここでフランスの傭兵になり、
リヨンからアルプスを越えてスーザ、トリノ、アレッサンドリアへ移動した、
という設定になっていたのだが、
ナポレオン三世の動きがあまりにもせわしなくそれじゃあ間に合わない。
で、
グラウビュンデン州からアルプスを越えてティチーノ州(スイス領だがアルプスの南麓で住民の母語はイタリア語)へ下りて、そこからピエモンテに入り、
ヴェルチェッリでセージア川の決壊工作をしたあとカザーレへ入り、そこでセメントこね仕事をしたあと、ティチーノ川を越えてマジェンタの戦いに参戦し、ナポレオン三世とはミラノで初めて合流した、という設定にした。
ま、その方がばたばたしてておもしろいかな。
かなり書き替えたな。
教科書的な記述はだいぶ減らしたつもりだが、でもまだ残っている。