後見

昔から、学歴が高いほど総理は長期政権で、低いと短いと言われている。
日本は結局は学閥社会なので、東大とかよりも、早稲田慶応の方が、力を持っていることがある。
安倍首相が短命だったのは、そのどれもないからだった。
経済界、マスコミ、政界、すべて結局は学閥で横につながっている。
日本はかなり極端な縦割り社会だが、そこをうまいぐあいに横につないでいるのが、学閥。
これがないともう機能しないのではないか。
政治家が叩かれるかどうかは、本人の能力ももちろんあるが、結局は学閥だろう。

過去の天皇にしても有力な左大臣か右大臣レベルの後見がないと力は発揮できない。
なので正室はだいたい左大臣か右大臣の娘。
ところが藤原氏がだんだんと世俗権力から乖離してきて、その代替として武士が台頭してくると、
幕府の将軍や執権などは、天皇家と姻戚関係は結ばないものの、
やはり天皇を後見することによって正統性を確保してきた。

いまの首相も同じだ。
安倍首相というのは、昔でいえば、藤原氏にも幕府にも後見を持たない、勝手に身分の低い女御を妃にしその子を東宮に立てた天皇のようなものだった。
世俗権力である、政財・マスコミの後見がないと機能しない。
それはつまり有力大学の人脈、ということになってしまう。

枕の山

なんかむしゃくしゃしたので、宣長の「枕の山 桜花三百首」をブログに書き写す。
300首きりではなくて、315首くらいあるようだ。
なんかwordpressではあまり長い文章は書けないようなので、三つに分けた。
[1-100](/?page_id=5429)、
[101-200](/?page_id=5431)、
[200-315](/?page_id=5433)。

思うに、この枕の山は、宣長の歌集の中では特殊で、あまり二条派らしくないのだ。
本人による跋文にもあるように、

> 歌のやうなることどもの、おのづからみそ一文字になりて

> いたくそぞろきたはぶれたるやうなること、はたをりをり混じれる

のであって、みずからこれらを「戯れ歌」のようなものと言っている。
単なる謙遜で書いているのではない。
詠むべきでないものを詠み、残すべきでないものを残した、と言っているのだと思う。
私には京極派の歌のようにすら見える。
それは、宣長にしてみれば、これまで「風雅」とか「詞の美麗さ」などの理性によって完全に押さえつけてきたものであって、

> ゆめかかるさまをまねばむとな思ひかけそ、あなものぐるほし

と、おもしろがる教え子たちを戒めている。
私にはやはりこの枕の山が、宣長の歌集の中では格別に面白いものに思える。
宣長らしくない、というより、宣長が確かに詠んだという証拠がなければ、宣長の歌だとは信じられないような、
そんな歌ばかりなのだ。

> さくら花 水の鏡も 我れながら はづかしからぬ かげと見るらむ

> 春雨に 落つるしづくも なつかしき さくらの花は 濡れてこそ見め

ここらの歌も宣長にしては「情緒的」「現代的」すぎて(たとえば「はづかしからぬ」「ぬれてこそみめ」など)、
かなりきわどいが、しかし宣長が詠んだというならそうかな、と思うけれども、

> 桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染むる 我が心かな

> 我が心 休む間もなく 疲れ果て 春は桜の 奴なりけり

> 桜花 散る間をだにと 思へども 涙にくれて 見えずもあるかな

> 散る花を 見れば涙に かきくれて 夜か昼間か 夢かうつつか

> はつしぐれ 降ればおもほゆ くれなゐの うす花桜 時ならねども

> 死ぬばかり 思はむ恋も さくらばな 見てはしばしは 忘れもやせむ

弟子たちも、まさか宣長がこんな歌を詠むとは思わなかったと思うんだよな。
その異常さを発見したのも、やはり小林秀雄なんだよな。

> さくら花 飽かぬこの世は 隔つとも 咲かば見に来む 天駆けりても

この歌も、ふだんの宣長の死生観から言って、かなり異様だ。
たとえ死んであの世に行ったとしても、飽きぬ桜のあるこの世には、
咲いたと聞いたならば、あの世とこの世が遠く隔たっていたとしても、天を駆けて見に行こう、
などと言っているのだ。
神道ならば人は死ねば黄泉の国に行くだけだ。あるいは浄土思想によるものだろうか。
ともかくも異様な歌だ。

> したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

たとえばこの歌を、宣長を良く知ってはいるが、この歌(というか枕の山の存在)をたまたま知らない人に見せて、
宣長の歌だということを当てられる人はいないのではなかろうか。

なんかネット調べたらすでに
[枕の山のデジタルデータ](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/shiryo/makuranotama.html)
があった。
わざわざ手入力した私の立場は(笑)。

雨 みぞれ 雪

> 春雨を家に籠もりてやり過ごし晴れなば明日はいづこへか行かむ

> ことしげきなりはひつづきあめふればたまの休みはやすらひにけり

> 春たけて春雨ならでさみだれはまだしき雨を何とか呼ばむ

> 我がやどに春のみぞれは降りにけり寒さも知らで籠もりゐたれば

> 風さえて寒き雨降る明くる日は尾上の雪も消えやかぬらむ

> 山の奥はいまだに春も知らぬらし里のさくらは葉もしげれども

スランプ。

> 遅く起きて雪は降りつと聞きにけり積もりたるとも見えぬけはひは

宣長安永二年

安永二年は1773年。
本居宣長は1730年6月21日生まれなので、
満年齢は43才か44才。

この前年、明和九年に吉野に花見に行き、菅笠日記を書いている。

石上稿安永二年

> 去年の春よし野の花見しことを思ひ出でて

> 春くれば花のおもかげたちかへり霞にしのぶみよし野の山

また、石上稿補遺安永二年に

> 安永二年花五十首のうち

> めづらしきこまもろこしの花よりもあかぬ色香は桜なりけり

同じ歌は鈴屋集一にも。また同年の自画像にも。

> 我心やすむまもなくつかれはて春はさくらの奴なりけり

> 此花になぞや心のまどふらむわれは桜のおやならなくに

> 桜花ふかきいろとも見えなくにちしほにそむるわがこころかな

この三首は「枕の山」の「桜花三百首」(寛永十二年、1800)から。最晩年の70才のときの歌。

宣長は初期の「あしわけをぶね」の頃から晩年の「うひ山ふみ」の頃まで、ほとんどその思想や嗜好に変化がないが、
桜を好きになったのはその途中からであって、やはり吉野に花見に行ったというのが一番のきっかけだろう。
そして晩年に近づくほどにその感情は強く激しくなっているようだ。

宝暦十年(1760)宣長の歌に、ある意味唐突に、

> もろこしの人にみせばや日の本の花のさかりのみよしのの山

とあるが、これは明らかに真淵の

> もろこしの人にみせばやみよしのの吉野の山の山桜花

のまねだと思うのだが、宣長と真淵が出会うのは宝暦13年(1763)のことである。
そもそも上の真淵の歌がいつ詠まれたかも不明。
しかも、浜口宗有という人が

> もろこしの人に見せばや大和なるよしのの山の花の盛りを

という歌を詠んだらしい。
ますます謎は深まった。

ふーむ。宣長は生涯に三度、吉野に行ったらしい。
宣長の父が吉野水分神社に祈願して授かった子が宣長で、13才のときにお礼参りに。
次に42才に花見に(菅笠日記)。
次に69才のとき(若山行日記、吉野百首)。
吉野百首に

> 命ありて 三たびまゐ来て をろがむも この水分の 神のみたまぞ

> まさきくて 三たび渡りし 吉野川 ももたび千たび またも渡らな

とあるので、間違いない。
こうしてみると、吉野と宣長とはもともと因縁があったわけだが、42才のときの花見で、
余計に吉野や山桜というものに、のめりこんでいったのかもしれん。

真淵の歌は、賀茂翁歌集拾遺に採られていて、
「よし野の花をみてよめる」という長歌の反歌として詠まれているものだった、というところまではつきとめた。
ただし、単独の和歌として採っている歌集もあるらしい。

宣長「手枕」

宣長が源氏物語に欠損する巻を補うために書いたという擬古文の「手枕」を読んでみようかと思ったが、それなりに難しいので、ネットで検索してみると、京都歴史研究会というところに 宣長「手枕」現代語訳 というものがある。これは労作だ。他にもいろいろ面白そうな読み物があるのでそのうち読んでみよう。

追記: こちらが移転先であると思われる。

で、六条御息所の年齢についてなど読むと、御息所の年齢に矛盾があるので、その夫、つまり前坊(先の東宮、つまり皇太子)は、皇太子だったのだけど早死にしたので即位しなかったのではなく、何らかの理由で皇太子を廃されたことになるらしいのである。宣長の手枕では

どのような御心情を御持ちになられたのでしょうか、世間をどうにもならず空しいものと御考えになり、常々、何とかしてこのような苦痛で気詰まりな身の上でなく、生きている限りは、心穏やかでのんびりと、思い残す事無く、好きなようにして、日を明かし暮らしていく方法がないものだろうか、とばかり御考えになり時を過ごしておられたが、とうとう御考えのように、東宮を辞退申し上げなさり、六条京極辺りに居住してらっしゃる。

として、東宮みずからその地位を辞して(おそらく臣籍降下というのでなく、ただの親王となって)、のちの御息所の住居である、六条京極辺りに移り住んだ、としているのである。宣長自身の註釈に

このふみは、源氏の物語に、六条の御息所の御事の、はじめの見えざなるを、かのものがたりの詞つきをまねびて、ものせるなり

とある(鈴屋集七・鈴屋文集下)。思うに、宣長がこの文を執筆したいと思った理由は、単に源氏物語風の擬古文を書いてみたかったとか、源氏物語に欠落した源氏と御息所のなれそめについての巻を補完したかったということもあるだろうが、源氏物語を研究していてわいてきた疑問点や不審点、特に御息所の年齢問題に、きちんとした解決を与えたかったのだろう。

全集

今読んでいる小林秀雄全集は、新潮社版昭和43年発行なのだが、小林秀雄は昭和58年まで生きていて、
たとえば「本居宣長」などは昭和40年から新潮に連載途中なのである。
だから、全集と言ってもすべての作品を網羅しているわけがないのだ。
なんかだまされたような気分だが普通なのか。
作家にしてみれば、死んでから全集出されても、自分にとっては(少なくとも収入的には)うれしくないからな。
全集がまた「本居宣長」の広告を兼ねており、「本居宣長」が全集の広告を兼ねていたのだろう。
なんだかもうなぁ。
だが、この全集の出た昭和43年=1968年という年には、小林秀雄はもうとっくに還暦を過ぎているから、
生前に出しておいてもおかしくない年ではあったかもしれない。

「栗の樹」(昭和29年11月17日「朝日新聞」)という小文があって

> 文学で生計を立てるようになってから、二十数年になるが、文学について得心したことと言ったら何であろうか。
それが、いかにもつらい不快な仕事であり、青年期には、そのつらい不快なことをやっているのが、自慢の種にもなっていたから、
よかったようなものの、自慢の種などというろくでもない意識が消滅すれば、後はもう労働だ。
得心尽くの労働には違いないが、時々、自分の血を売るようななりわいが、つくづくいやになることがある。

とあって、小林秀雄52才の時の文章なわけだが、確かに私も、若い頃はつらい苦しい修行めいた仕事をすること自体にやりがいや快感を感じもしたが、
今ではその意識も失われて、単なる労働となってしまっている。
そしてその労働を、定年までの数十年間続けなければならないという、ほとんど絶望に近いうっとうしさを毎年毎年感じている。

文士

先になくなった井上ひさしにしてもそうだが、
昭和とかそれ以前の文士たちは、性格的に破綻した人が多く、
それゆえに良い作品を残したなどと言う考えの人が多いように思うが、
実際には、昔の日本人というのはだいたいああいう性格のひとたちばかりであり、
その中の一部がたまたま文士となっただけなのではないか。
かつては警察も司法も非力で、国の統計能力も低く、ジャーナリズムも必ずしも今ほど全国を網羅し、把握し、報道する力がなかった。

江戸時代まではそれぞれの村落ごとに私的に成敗がされていたのが、その風習がまだ昭和までは残っていたはずだ。
犯罪率は今よりはるかに高く、事件のもみ消しや泣き寝入りなども日常茶飯事だったと思う。
それに、戦後のどさくさが加わり、
日本全体がかなり治安の悪い、すさんだ状態にあった。それが戦後の日本というものの実体だろう。
文士たちはたまたまその日常を、私生活にわたるまで、記録に残しただけなのではないか。
実生活が悲惨であればあるほど、そのすごみによって、作品が良くなり、
結果的に作家として生き残った可能性はあるかもしれんが。

小林秀雄によれば彼は戦前からずっと鎌倉にすんでいて、鎌倉は戦災を免れたそうだが、
鎌倉のあたりは、今はいたるところの谷戸まで住宅が密集しているが、これらも戦後の光景であり、
戦後のベビーブームと農村の機械化であふれたサラリーマンが都市部に集中したからだ。
戦後の繁栄の象徴と見るか、混乱の発展とみるか。

戦後の終身雇用・年功序列の会社組織を、小室直樹は生活共同体としての新しい「藩」と呼んだのだが、
確かに、日本全体が崩壊したのちに、戦前の比較的良好な人間関係は、松下・東芝・三菱などに代表される、
電機会社等の中に個別に隔離した形で、秩序を保ち得たのだろう。
そしてそれら会社組織を核として日本社会も秩序を回復していった。
しかしそれらの組織も今や再編成の時は来た。

ともあれ、平成に生まれた人たちは幸せだと思うわ。
昭和に生まれた私たちは、とかく昭和を美化したがるが、その暗部・恥部を、
平成生まれの人たちは実感としてはわからないのだから、まだ記憶が新たなうちに、
私たちがきちんと総括しておかなくてはならんのではないか。

小林秀雄全集

図書館に、小林秀雄全集という本があったのだが、どうしてこれが「全集」なのかさっぱりわからない。
それはともかくとして「鎌倉」などの小文を読むに、
格別大したわけでもなく、いやいやしかたなく書いたオーラに満ちた普通の文章。
なんかいやいや書いた記事、いやいややった講演などがけっこう多い。
酔うと人に絡んだという、そんな言動がそのまま原稿用紙に残ったような文章も多い。
教科書に載れば本の売り上げにも影響するからと、不本意ながらも、掲載の依頼のはがきに全部「諾」と答えて返信したとか。
文芸だけで食っていくというのは、小林秀雄でもかくあるかと。

東京オリンピックより前の日本には、小林秀雄的な人は、たくさんいたのだろう。
今はかなり減った。
今の60代の人間が、定年でいなくなれば、まったくいなくなるに違いない。
そういう人間になりたいともまるで思わない。
昭和という時代に対するノスタルジーも、今はかなりなくなった。要するに、古き良き時代というには値しない、
でたらめな時代だったということだ。

戦前の日本には小野田少尉みたいな人が普通に、ざらに居たのだろう。
また日本の科学技術力も、国民のモラルも決して低くなかった。
逆にイギリス人やアメリカ人や中国人のていたらくは、目に余るものがあっただろう。
多少、勘違いしても、おかしくない状況だったのだと思う。
あくまで泥水をすする道を選ぶには、当時の日本人は志が高すぎたのではないか。

民主党政権最大の功績

吉田茂以来のアメリカとの腐れ縁を断ち切ったという意味で鳩山は最大の政治的成果を残したな。
やり方は最低だったが、でもこういう形しか、結局はとれなかっただろうよ。
歴代首相は、鈴木善幸も含めて、みんなそれなりにバカではなかったのだから。

いや、ごめん。やっぱり鈴木善幸は・・・(以下略)。あと他の首相も(以下自粛)。

一番うまいところをよけて食えと

読んでいるようで読めてないのが宣長。
何しろ著作が膨大なので、問題意識がないときにさらっと読んでいると読みおとす。
改めて読んでみるとそんなことが書いてあったのかと驚く。

[うひ山ぶみ](http://ijustat.at.infoseek.co.jp/gaikokugo/uiyamahumi.html)を読み返すとやはり玉葉・風雅批判がこれにも書かれていた。
うひ山ぶみは、宣長のライフワークとも言える古事記伝の脱稿・浄書後に、弟子たちに請われて書いた学問心得のようなもので、
一方、あしわけをぶねは、医業のかたわら学者として身を立てて行くことを決意した三十代前半か二十代後半、
自問自答形式あるいは学友との実際の問答から出来たかと思われる、初期の歌論であり、宣長の死後まで秘蔵されていたものである。

こういうものを読めば読むほど、宣長の思想と学問の中核にあるものは、詠歌と歌論であることがわかる。
あしわけをぶねでは、新古今が最高であり、新古今の歌人たちは古今集を学んで自然とあのような歌を詠んだのであるから、
古今集を手本として歌を詠めば新古今風の歌が詠めるようになる、というある種強引な、根拠不明の説を唱えていた。
一方、うひやまぶみでは

> まづ古今集をよく心にしめおきて、さて件の千載集より新続古今集までは、新古今と玉葉、風雅とをのぞきては、いづれをも手本としてよし。

と言って、21代集のうちの、新古今、玉葉、風雅を除いて、千載集から最後の新続古今集までを学べ、と言っている。
21代集でおもしろいのは、宣長の反対の部分であって、
古今・後撰・拾遺・新古今・玉葉・風雅、なのである。
宣長はそれがわかった上でわざとその反対を学べと言っている。
実にいやらしいやつである。
さらに、

> 然れども件の代々の集を見渡すことも、初心のほどのつとめには、たへがたければ、まづ世間にて、頓阿ほうしの草庵集といふ物などを、会席などにもたづさへ持て、題よみのしるべとすることなるが、いかにもこれよき手本也。此人の哥、かの二条家の正風といふを、よく守りて、みだりなることなく、正しき風にして、わろき哥もさのみなければ也。

21代集に直接当たるのはたいへんなので、頓阿の草庵集を手本とするのが便利だと言う。
頓阿というのはつまり、南北朝時代に、定家の本歌取りの作法とか、まねしちゃ行けない言い回しとかを理論化した、二条派を完成させた人だ。さらに、

> 其外も題よみのためには、題林愚抄やうの物を見るも、あしからず。但し哥よむ時にのぞみて、哥集を見ることは、癖になるものなれば、なるべきたけは、書を見ずによみならふやうにすべし。

題林愚抄は後水尾天皇勅撰の類題和歌集のもととなった類題集で、比較的古い歌ばかり集めた類題集だからよい、ということは、あしわけをぶねでも指摘されている。
面白いのは、当時、会席(おそらくは宣長が弟子を集めて主催したようなものだろう)で歌合わせのような競技をやって、
その題詠の参考書として、類題集を持ち込むということが普通に行われていたのだろうということが想像できる。
この、歌合わせ・題詠・類題集というのが、二条派の本質であろう。
堂上であろうが地下であろうが、歌合わせにおける題詠という遊技をたしなむには類題集が必須となる。
そしてある権威ある類題集というものが定まれば、それより外れた歌というものはなかなか出てきにくい。
特に宣長のように、古今・後撰・拾遺・新古今・玉葉・風雅以外の21代集を手本とすればなおさらその範囲は限定される。

私たちは、歌を詠むとは、ときおり思いついたことを歌の形にして書きとどめることだと思っているわけだが、
当時は歌合わせなどのようなサロンで競技をする、あるいはそのときのために日々習練しておく、ということに重要な意味があったに違いない。
それは、茶会のようなセレモニーに近いものであり、
歌の内容も良いにこしたことはないが、その場の雰囲気を楽しむのが主たる目的だったはずだ。
明治天皇の膨大な二条派風の詠歌も、彼が居た宮中という、毎日がセレモニーのような空間を仮定しなくては、
理解できないだろう。
貫之の頃に屏風絵が流行ったように、サロンにおけるセレモニーとしての二条派風詠歌というものが必要とされていたのだと思う。
そうとでも解釈しないと納得がいかない。
新古今・玉葉・風雅などの歌は、確かに、題詠や歌会にむいているとは言い難い。
明らかに、その異様さで場を壊す。

古今・後撰・拾遺の三代集はだいたい全部で一つと見て良い。
ただ後撰・拾遺が勅撰であるかどうかはうたがわしく、まただんだんに選出のクオリティが落ちているというだけだ。

新古今は後鳥羽天皇による和歌史上の壮大な実験が行われた場であって、それなりの活力がある。

玉葉・風雅は、京極為兼によって類題・題詠などの旧風を改め、思ったことをできるだけそのまま歌にしようという実験が行われたのであろう。
これまた古今・新古今に並ぶオリジナリティがある。

そして、それ以外の21代集には、いわゆるオリジナリティとかおもしろみというものに欠けている。
宣長が、意識的に、独創性やおもしろみというものを否定して、風雅とか詞の美麗さというものをその上の価値として認めてようとしているのは、
間違いない。
しかし宣長の言うことは、彼がたびたび批判していた、堂上や伝授などといった連中がやっていたのと本質的に同じことであり、
和歌を窒息させる要因の一つになったのではないか。
和歌の発展にはある程度のゆらぎが必要であり、古今・新古今・玉葉・風雅、そして新葉はそのような役割を果たした。
宣長の意図には、理解に苦しむところが大いにあるといわざるをえない。

思うに、室町時代というのは、朝廷と幕府の協力関係から始まり、
書院造りとか、小笠原流とか、二条派とか、その他もろもろの、現代に続く家元制度のようなものが確立していった時代なのだ。
勅撰集もまた、将軍が天皇に提案し、天皇が公家に撰集を委託するという、三位一体体制ができあがった。
世俗権力と伝統文化とが、あやういバランスの上に成立していた。
そして天皇も公家も武家もみな定家を手本とした雅の世界に陶酔していった。
これが一つの完成形としてできあがったのだが、
応仁の乱による足利幕府の崩壊によって一時頓挫し、
徳川幕府と朝廷の関係は足利幕府の時ほどは良好ではなかったが、
和歌の伝統は二条派とか古今伝授という形である程度復活した、ということか。

思うに、足利義満が天皇の位を簒奪しようとしていた、などという説が、
室町時代の認識を大きくゆがめているように思う。
或いは南朝が正統となれば、足利氏は天皇と対立した逆賊という構図になる。
実際には、たとえば勅撰集の作られ方などを見てみれば、あと両者が京都という一つの場所で共存していたことを思えば、
室町時代ほど朝廷と幕府の関係が良好だった時代はないだろう。
特に権力をほとんど失ってしまった義政などは天皇と同居すらしていた。

古今伝授については、宣長は、仏教徒が自分の宗派の開祖の教えを正しいかどうか判断することなく守るということに、
影響を受けたものだという。
仏教の影響というものは確かに非常に大きい。
しかしまあ室町時代以来の伝統というのはそういう家元制度とか、あるいは江戸時代の堂上家というものなしには、
なかなか残りさえしなかっただろうなとは思う。
京極派が絶えたのもその伝承者がいなかったからでもある。