チェーンスモーカー

午後6時から8時くらいまでは、おそらく、仕事と通勤で禁煙を強いられたと思われるサラリーマンが、店に来るなりたばこを吸い始める。いつまでたってもとまらない。四本目まで吸ってまだ勢いが止まりそうもない。私はそこで店を替えたが、こういう人は迷惑だから、どこか喫煙所でニコチンを摂取してから来てくれないかな。

こういう種類の客があまりこない店というのもあって、つまり、勤務中にだらだらたばこの吸える仕事をやってる連中ということなのだろうが、そういう連中の行く店に行ったほうがまだ気は楽だ。

私はもと喫煙者だったが、だいたい自分でたばこを買っても、一箱吸い終わるまえにしけってしまう。ライターもあまり使わないので、たびたび買い足して、使わずに火がつかなくなったライターが山のようにあった。長いこと放置すると中に液が残っていても火はつかないんだよね。で、たまに人が吸っていると吸いたくなってもらいたばこで吸っていたりしたが、それもだんだん面倒になっていつの間にか吸わなくなった。部屋の片付けや匂い、あと火の始末など、たばこがないとずいぶんすっきりする。ポマードなど整髪料と同じで無いのがずっと簡単で楽だ。

宣長の京極派批判

改めて、あしわけをぶねを読む。
長いのではしょると、

> 近代の先達は玉葉・風雅などの風体を嫌って、正風体を学べと教えているが、
その教えは良いとして、その自身が詠んでいる歌をみてみると、実際にはその嫌っているところの、玉葉・風雅に近い風体である。
この教えはもともとは頓阿という人が、玉葉・風雅の悪風を改めて、正風を詠んだことに始まる。
頓阿は名人なのでその歌はみな正風だが、その後の先達たちは、頓阿の説に従いながらも、歌の善悪を知ることが頓阿に及ばない。
その自分の歌も嫌っている悪風に近い。
というのも、正風に詠もうとすると珍しいことは詠みにくい。
珍しい風情や新規なことがらなどを詠もう詠もうとすると自然に異風になる。
昔の正風の人は、どんなに「めづらしく優なる歌」にても正風体を離れなかった。

ここで「玉葉・風雅」と言っているのが、京極派の歌風であり、
京極派というのは、「めづらしく優なる歌」を詠もう詠もうとして、「いにしえの風体」を失ってしまった。

> 近世もてはやす歌はみな、めづらしく一趣向あれば、必ず風体は悪く、それを手本にして詠んでも良い歌は出てこない。

> さて、後拾遺・金葉・詞花などは風体よろしからず、詞の善悪を考えず、ただ心を珍しく詠むことをもっぱらにして、詞をいたわらぬゆえに、
優艶なることなし。いわゆる実のみで花がない。
古今は心も整い詞も美麗である。

宣長によれば詞が美麗であった上に心が整っているのが優れた歌、ということになる。

> 新古今をまねようとすると玉葉・風雅の悪風に陥るので、三代集を手本に詠めばちょうど新古今のように詠める。

> 為兼卿という人は冷泉家より出て、一家をなして歌の道に名高いが、
その歌ははなはだ異風であり、風体が悪い。
玉葉・風雅は為兼の風ではなはだ風体が悪い。
古今を通じてこの二集ほど風体の悪いものはない。

> 頓阿は異風の歌に比べれば正風であるというだけで、新古今の頃に比べれば同日の談ではない。

思うに、宣長は、古今集などの三代集を手本として歌を詠めば自然と新古今のようになる、
と言っているのだが、宣長の歌を見る限りでは、その歌は頓阿の系統そのものであり、
また宣長自身が批判している二条派堂上の、古今伝授の歌風である。
宣長の歌は、決して古今にも新古今にも似ていない。
だいたい、「古今を手本にすれば新古今になる」とか
「新古今をまねると玉葉・風雅になる」などの説に根拠はあるのか。
実に不思議だ。
京極派は、誰の歌もまねない、当時使われていた俗語の言い回しや口語も用いる、
縁語や掛詞や本歌取りはしない、
詞を巧みに飾らない、散文的な表現もあえて使う、
心情をそのまま歌う、などということをやったのだと思う。
ただ現代の我々からみれば古典文法の範疇に完全に収まっており、さほど破綻しているようには見えない。
多少字余りが多いとか、言い回しや韻律が古今時代とかなり違う、というくらいの違いしかわからない。
思うに、古今に比べれば新古今はかなりきわもの、げてものに近い。
古今と新古今の差異が許容されるのであれば、
新古今と玉葉・風雅程度の差がなぜ許されないのか、と思う。

京極為兼

今谷明「京極為兼 忘られぬべき雲の上かは」を読む。
いまいち、ピンとこない本。
この本を読んで、京極派とは何かがわかる人がいるのだろうか。

たぶん、感覚的なものが、人と違っているのだろうが、絵画的、映像的な動きや、音の表現が、
為兼という人にはあるのだよ。

ふと

某所で見かけた指摘だが、

> “跳ね上がらずを得ない”→”跳ね上がらざるを得ない”

古典文法的にはどちらも間違いとは言えないのではなかろうか。
後者の方がふつうだが、前者を間違っていると言う根拠があるか。
まあ、漢文読み下し調なので、和歌には使わないが。