敷島の大和心の謎まとめ暫定版

結局、「敷島の大和心」に類する宣長の言い回しは発見できず。
とりあえずのまとめ。

44才の時の自画像には「めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり」
とある。鈴屋集など自選集にもたびたび掲載されている。こちらには山桜も描かれてる。
この年、ものぐるおしいほど異様な桜に対する執着を歌った歌がたくさんある。
この歌と同工異曲だとして補助線としてこの歌を利用することが許されれば、
珍しい外国の花よりも朝日に匂う日本古来の山桜を愛するのが洋才漢才でなく和魂というものだ」と解される。
特に「やまと」を「こまもろこし」に対比させる意味に使っている可能性は宣長自身の用例からかなり高い。
漢意に囚われず大和心をしっかり固めれば外国の花より桜の花の方がずっと良いのだ、ということ。
つまり、自分の桜に対する異常なまでの愛着と国学への心構えを同時に述べたものと考えられなくもない。
たまたま花が例に挙げられているが、さらに広く解釈すれば、
珍しい舶来ものをありがたがらず、日本古来の独自のものを愛するのが大和心だよという、宣長らしい教えにたどり着く。

61才の時の自画像には「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」とある。
還暦を迎えて功成り名を遂げて、弟子も増え、自分の学問も広く世の中に知られるようになり、
ライフワークにも一区切りついて(とは言っても「古事記伝」はまだ脱稿してない)、
後世に残すというつもりで書いたものだろう。
自選集にはない。
ここで、この歌には特に重要な意味があり、またその自画像と切り離せない意味があるために、
自選集に載せなかったという解釈もできるが、
どちらかと言えば、大して重要ではなかった、大してうまいできではなかったので、自選集に入れなかった、と考えた方が良いのではないか。
およそ宣長の歌は読めばすぐに納得の行くわかりやすい歌がほとんどであり、
何かをほのめかしたような、
禅問答のような、
意味不明な歌というものは一生懸命探しても滅多には見つからない。
意味がすっと通らないという意味において、良い歌ではないと判断した可能性が高い。
44才の自画像の歌の補足として考えると極めてわかりやすいのだが。
なので、それ以上の意味はないのかもしれない。

大和心、大和魂などの用例は古くは大鏡、赤染衛門の歌などにある。源氏物語と今昔物語にも一例ずつある。
学問として学んで得た漢籍仏典などの「机上の空論」に対して、日常生活から得られた実体験に基づく「生きた知恵」、
機転や工夫、世の中で生きていく上での才覚、甲斐性みたいな意味に使われている。
具体的には商才、実務を裁く能力、戦争を指導し遂行する能力、災難や危害から逃れる機転や深慮、
家事をやりくりする能力、などのこと。
「やまとうた」は古今集の時代にはすでに表向きの「朝廷における漢学の素養」に対する「日常生活の仲間や親子や男女の間でやりとりされる歌」
という意味に使われていた。
というかそもそも古今仮名序に初めて使われた用語で、漢詩に対してわざわざ断る意味で、「やまと」歌と呼んだわけだ。
ここでもまた外国と日本の対比として使われているが、明らかに宣長の使い方とは違う。
違うけれども、宣長という人は、過去の用例というものに極めて神経質で、最大限に配慮した人だから
(つまり「語釈は緊要にあらず」として、古語を自分の都合の良いように解釈せず、用例を最優先した)、
「外国と日本の対比」という意味合いだけは決して外してないものと考えて間違いないと思う。

近世では滝沢馬琴の椿説弓張月に「事に迫りて死を軽んずるは、大和魂なれど多くは慮の浅きに似て、学ばざるの誤りなり」
とある。発刊は宣長の死後10年くらい。歌舞伎となった。
また桜に対する武士の愛好もまた歌舞伎の忠臣蔵による。
これらのことから「桜のように命を軽んじる」という風潮は遠くは中世の仏教的厭世思想や、葉隠などの武家の思想や、水戸学や国学などが理論的背景にあるが、
主に歌舞伎によって「国民精神」として定着し
宣長の歌もまたそれに飲み込まれていったものと思われる。
宣長の正確で緻密な学術考証はいろんな「思想」に便利に利用されていったが、
彼自身の「思想」はほとんど万人には理解されず受け入れられなかった、と言える。
宣長にとって桜はあくまでも愛でるものであり

> もののふのたけき心も咲く花の色にやはらぐ春の木のもと

というようなものだった。
大和魂を「清く直き心」などと言ったのは賀茂真淵であり、宣長の考え方とは異なる。
宣長は桜に心があるなどとは一度も言ってない。
また、宣長は桜が散るのが嫌いで一年中咲いていれば良いと考えていた。

> 願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

平田篤胤以降の国学は宣長の考えた「大和心」とは根本的に異質なものである。

やまとごころ

検索してみた。

赤染衛門

> さもあらばあれ やまとごころし かしこくは 細乳(ほそち)につけて あらすばかりぞ

(外国渡来の)学がなくとも利口な人ならば、の意味。

> からくにの もののしるしの くさぐさを やまとごころに ともしとやみむ

舶来の種々の物を、日本人の私の心は、うらやましいと思う、という意味。

> はじめから やまとごころに せばくとも をはりまでやは かたくみゆべき

上の歌の次の歌なのだが、難しい。「心狭し」か。
はじめのうちは度量が小さいが終わりまでは続かないの意味か。

建保名所百首(順徳天皇が催した歌会)

> もろひとも けふこそここに たつのいちや とりどりみゆる やまとごころ

たくさんの人が辰の市に立っている。さまざまに(学問ではない日常的な)工夫が凝らされている、の意味か。

赤染衛門の歌が三つ。後一つは誰かわからん。

大鏡

> あさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、このおとどの御末は御座せぬなり。さるは、大和魂などは、いみじく御座しましたる物を。

分別のある人だったのに、のような意味か。

> かの国に御座しまししほど、刀伊国の物にはかにこの国を討ち取らむとや思ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢の本末も知り給はねば、いかがと思しけれど、大和心かしこく御座する人にて、筑後・肥前・肥後、九国の人をおこし給ふをばさることにて、府の内に仕うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座します故に、いみじかりしこと、平げ給へる殿ぞかし。

機転の利く人、のような意味か。

源氏物語

> なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ。

学問を基礎とした方が才能も発揮できる、という意味だろう。

ま、いずれにしても、民族精神というような意味合いはないな。
同様に宣長の用法とも違う気がする。

民族精神

新渡戸稲造は「武士道」の中で「武士」ではなく「平民」の「民族精神(フォルクスガイスト)」として、
本居宣長の歌

> 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

を紹介している。さらに西洋の薔薇と日本の桜を対比させて、
薔薇は「複雑」「甘美の下に刺を隠せる」「生命に執着すること強靱」で、花が枝に残ったまましおれるので
「あたかも死を嫌ひ恐るるが如く」であるのに対して、
「我が桜花」は「その美の下に刃をも毒をも潜めず」「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」
「色は華麗ならず」「その香は淡くして人を飽かしめない」とする。

少なくとも宣長にとって「自然の召しのままにいつなりとも生を棄て」るのが桜の美徳ではなかっただろう。
この日本銀行券に肖像が乗るくらいの人がすでにこのような誤解をしていたということは、
日本人共通の観念があって無意識に宣長の歌を誤読し、一人歩きしていったと解釈することもできよう。
そこには平安歌人(紀友則とか)や西行(もとは中世仏教的な無常観)や歌舞伎の忠臣蔵(花は桜木、人は武士、うんぬん)、
滝沢馬琴(椿説弓張月)、
幕末の平田篤胤、吉田松陰らの複合的な影響があったのだろう。

安永四年

宣長

> もののふのたけき心も咲く花の色にやはらぐ春の木のもと

武士の猛き心と桜の花は違うと言っている。

> 春の日の長きを花の心にて散ること知らぬ桜ともがな

> 待ちえても心にまかす花ならで見る日すくなき山桜かな

花は心のままにならないと言っている。

> 春の日を長きものとは山桜花見ぬ人の言ひやそめけむ

> 我が背子は来ても見てしか花ぐはし庭の桜は今盛りなり

> 桜咲く片山岸のとこ岩のつねにもがもな花の盛りは

> みよし野のこれもうきよの色ながらえもいとはれぬ山桜かな

> 憂しつらし雨よ嵐よいくほどもあらぬさくらの花の盛りに

> 白雪のふりぬる身にも春の来て心は花に若返りつつ

> 日暮らしに折りてかざして遊べども飽かぬは花の色香なりけり

> 世の人はあだなりとこそ思ふらめ花に染めたる我が心をも

> 咲きしより日ごとにかれず見てもなほ花には飽かぬ我が心かな

> さくら花めづる心の色はなほ盛り過ぎてもさかりなりけり

> いかにせむ花にうかるるこの頃の心のはてよ嵐吹きなば

> 山桜花はあだなる色ながらめづる心ぞいつもかはらぬ

> 吹く風もしづかなる世に思ふことなくて花見る春のもろ人

願はくは花のもとにて

西行

> 願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃

宣長

> 願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

特徴出てるなあ。
西行の方がはるかに厭世的で破滅的。
宣長はあくまでも現世肯定的だし、花の盛りが永遠に続けば良いというところなどは相当ファンタジー入ってる。

いまだにうだうだ考えているが「大和心」というものを掘り返したのは宣長で、
「敷島の大和心」などという言い回しを使い始めたのも宣長で、
しかも「敷島の大和心」という言い回しを宣長は他の歌には使ってない。
従ってこのフレーズを宣長がずばりどういう意味で使ったかという確証がなかなか得られない。

外国との対比で使っている可能性は高く、また

> めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり

> さくらなきこまもろこしの国人は春とて何に心やるらむ

これらの歌から推測すれば、

> 敷島のやまとごころを人とはば朝日に匂ふ山桜花

> 桜を好むのが日本人の性格なのだ

などという解釈も成り立つわな。

春の妄念。

外飲みしながら

> のどけくもうつろひやすき春の空明日はふたたび雨とやはならむ

天気予報士でなくてもこのくらいの歌は詠んでもよかろう(笑)

> うすぐもり春のゆふべに道を行く人をながめて酒を飲むかな

> 暮れぬまにはやともしびをともしけり道のむかひにあきなふ飲み屋

> 我は知る我は歌詠みなりはひの歎きと酒を歌ふ歌詠み

> おのづから歌の出で来る時もあり町の飲み屋にひじをつきゐて

> 我が町に酒飲む人は多けれど我と同じき人はあらめや

> 歎かじな飲みたき時に酒を飲み食ひたきときにものを食ふ身は

> 串焼きを日頃は塩で食べぬれど今日はたれにて食べにけるかも

> 春の風いささかながら冷えぬれば明日は冷たき雨とやならむ

なぜか、論語。「学而時習之不亦説乎」ということ

> 思ふどちともに学びてをりをりにつどひ習へば楽しかるらむ

帰農と言うこと

> 山がつが山田たがやす暮らしこそあだし世の中人はうらやめ

ふと

> しづかなる春雨の夜に寝覚めして思ひはてなき武蔵野の原

> ひさかたのあたら月日を敷島のよしなき道に迷ひけるかな

> 我がよはひあといくばくか残るらむ未だ迷へるひむがしの国

> いまさらになどか迷へるにはかにも思ひそめにしことならなくに

永井豪

いまさらながら、ハレンチ学園やあばしり一家やデビルマンを小学生の頃読んだ世代にしてみれば、ああいうものが規制されなかったほうがおかしいと、改めて思う。ただ単に、役人も、世間一般も無知だっただけだろう。規制されるべきかどうかの議論にはあえて言及したくないが。

今の漫画もアニメも私たちが子供の頃の純朴だったときとは明らかに違う。エヴァなど見れば性的にどうこう言う以前に精神的に病んでいる。それで良いのかと思う。

ビデオゲームにしてもやはり昔のものはえげつない。その反省なしに先には進めまい。

こういうことは言えると思う。わずか20年なり、40年なり前は、何を見てはいけないか、何を見てもよいかという基準を国家権力が決めるのは、危険だった。だから、どちらかといえば、何もしない方が安全だった(昔の方が今よりずっと規制は多かったがコンテンツ自体が圧倒的に少なかった。というよりコンテンツが少なかったから選別して規制出来たと言える)。しかし、情報にあふれる今、逆に言えば、年少者がアクセスできる情報は国家がコントロールした方が良いのではないかと。今と20年前とどれほど情報量が増えていようか。

漫画家やゲーム開発会社が自由に創作活動するのは良い。しかし子供はどうか。

敷島

さて、「しきしまの」という言葉の用例を[和歌語句検索](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)
で調べると、
なんと、続後撰集が一番古い。
つまり、このデータベースは古今集から後なので、
万葉時代には枕詞として使われていたが、その後長く忘れられており、
千載集の序で

> 敷島の道も盛りにおこりて、言葉の泉いにしへよりも深く、言葉の林いにしへよりも繁し。

> ただ、仮名の四十あまり七文字のうちをいでずして、心に思ふことを言葉にまかせて言ひつらぬるならひなるがゆゑに、
三十文字あまり一文字をだによみつらねるものは、出雲八雲のそこをしのぎ、敷島山と御言のさかひに入りすぎにたりとのみ思へるなるべし。

という言い方でもって和歌のたとえに使われてから、
さらにちょっと間をおいて、つまり俊成・定家がいなくなったあとの続後撰集から猛烈に使われるようになったということだ。

それで、続後撰集の後の用例でも「敷島のやまとしまね」もときどきあるが、
多くは「敷島の道」「敷島のやまと言の葉」という使われ方であり、ずばり和歌を言うのであり、
高氏なども頻繁にそういう使い方の歌を詠んでおり、
その用例の多さからして以後は単に「敷島」と言っただけで和歌を暗示していると言って良い。
宣長の歌の中からざっと用例をあげると、

> しきしまのやまとにもあらぬここちしていとど浮き寝の韓泊かな

韓泊とは姫路あたりにあって外国船がかつて出入りした港のことのようだ。

> しきしまのやまとにはあらぬ山水にかき流すべき言の葉ぞなき

から国の景色が描かれた屏風絵に書くような和歌は無い、と言っている。
このように、宣長は「やまと」という言葉を外国と区別する意味に使っていることがわかる。

> しきしまのやまと恋しみ白鳥のかけりいまししあと所これ

これは熱田神宮にあるヤマトタケルの白鳥陵を詠んだもの。

> 敷島の 道まもるてふ 神垣に まぢかき里の しるしあらば ・・・ (長歌)

> 敷島の道をしるべに小倉山とめこしあともあらし吹くなり

> 敷島のかけによるへも難波津の道のよしあしましへもとめむ

意味がよくわからんが、詞書き「和歌雑要といへる本をかりてかへすとて」また「難波津」などと言っているので、
和歌の意味に使っているのは間違いない。

> 敷島の道広き世の初春や言葉の花のときは来にけり

> 敷島の道踏みなれて百重山こゆるも何かくるしかるらむ

> 敷島の道にも捨てぬ初わらびこれもおり知る春のものとて

> 敷島の道忘るなよとどめおく心は深しわれ帰るとも

> 四面八面に国はおほけど敷島のやまと島根ぞ八十のおや国

> 大君の敷きます国と敷島のやまとの国を神ぞ定めし