地方紙5紙の社説がソックリ。

まあ、地方新聞をいじめちゃかわいそうだよね。
毎日毎日何千字何万字も文章書いても報われない仕事だ罠。
まじめに文章書きたいやつは大手ねらうかフリーでがんばるか、どっちにしても地方新聞には居ないでしょう。

というか今回の日経の靖国関連報道には失望した。
この時期に天皇発言メモリークしたり、やり方露骨すぎ。
経済ニュースだけ淡々と書いてくれりゃいいんだが。
もはや読むに値する新聞などないことがわかった。

私からみれば小泉首相はきわめてわかりやすい人なんだが、マスコミから見ると特異で複雑怪奇な人に見えるらしい。
丸山真男とか「幕引きはまことにアイロニカル」とか、文士固有の思想を小泉首相に投影しようとするからますますわからんようになるのでないか。

加藤紘一も、首相になり損ねるは、マスコミには踊らされるは・・・。
立花隆を政治家にするとこんな具合になるね。
中国や韓国につけいる隙を与えているのも結局は国内マスコミとか有識者連中らが大騒ぎするせい。
ほとんどは国内問題、マスコミ問題なんだよね。
鯨問題もまた同じ。
売国発言する連中が後を絶たぬのはなぜか。
悪女の深情けというやつか。
一億二千万人の日本世論が毅然と正論を通せばよいだけのことなのだが。

[日経新聞編集局総務の言い訳](https://web.archive.org/web/20061005060712/http://www.nikkei.co.jp/saiyo/06saiyou/02/kisha_kouen_f.html)。
なるほど、日経としては、誰かがリークしたネタをそのまま即座にスクープにしたのかもしれん。
しかし政治的に利用されたくないのならそもそも記事にしなけりゃいいわけで、結局「政治的利用」はあった、そういう意識がなかったわけじゃないことがこの編集局総務の言い訳からわかる。

> 日経というのは、偏らないで、中立で、妙なメッセージを押し付けないという定評をもっています。

私も、日経だけはそうだと思っていたのだが・・・。
ていうか、よその新聞は「偏っていて、中立でなく、妙なメッセージを押し付ける」と思ってるわけね。
正直な人だな・・・。

プラズマに感心。

アップルシードはマッハバンドが出まくるビデオだと思っていたが、先日プラズマで見るとまったく見えない。
液晶はEIZOだろうがAQUOSだろうが、暗い部分のコントラストが低い。
暗いところは一様に真っ暗になってしまうのだろう。
だからガンマかけて明るくするので暗い部分のマッハが目立つ。
明るい部分はとんでしまう。
なんでこんなまっちろけなんだろうと疑問に思ったシーンがきちんと再現されている。
うーむ、やはり未だに液晶はダメなのかと。
プラズマは暗いところは暗く、明るいところは明るく表現できる。
全体的に暗く見えるが、ほんとうはその方が正しく、隅々明るくくっきり見える液晶の方が嘘なのだろう。
どうにもこうにも、これからテレビを買うなら40型超のプラズマしかないなと思った。
もうしばらく待てば15万円くらいで買えるようにならんか。

他にも被写界深度のエフェクトが頻繁に使われていることに気づいた。
なんで今まで気づかなかったのだろうか。
小さな画面だったりガンマが効き過ぎてたり勝手に鮮鋭化されていると、この手のボケ表現がわかりにくくなるのかもしれん。
いやーしかしプラズマはすごいわ。

フルスクラッチ

千葉銚子沖が千葉桃子沖に見えた。
千葉桃子って誰だよ(笑)

フルスクラッチという言葉はもともとプラモデルorフィギュア用語なのだろうか。

フルスクラッチとはどうやら和製英語のようだ。
from scratchという熟語は確かに存在する。
また Free Software for Microcomputers GNU bulletin vol.1, no. 14 にあるように

> Linux has been written from scratch and does not contain any proprietary code in the kernel

という言い回しがあり、これを誰か「リナックスはフルスクラッチで書かれた」などと訳したために定着したのではないか。

で、フルスクラッチというのは模型を作るとき、既存の模型を流用せずすべて材料から作ることを言うようだ。
やはり模型用語なのだなと。
でもおそらくもとはといえば from scratchから来ているのだろう。
どちらにしろ、あまり頭の良い言葉とは言えないから使わないのが無難だな。

ジミ・ヘンドリクス勉強会。

ツタヤでJimi Hendrix at WoodstockのDVDを借りてくる。
アメリカ国歌の演奏が実に印象的。
Wikipediaによれば

> 1969年8月に6人編成でウッドストック・フェスティバルに出演しトリを務め、音楽史に残る名演「The Star-Spangled Banner」(星条旗、いわゆるアメリカ国歌)を演奏。
フィードバックやアーミングといったエレクトリックギターの特殊奏法の限りを尽くし、爆撃機が空襲を行い民衆が泣き叫び逃げまどう様子を、音で完璧なまでに再現してみせた。
これは泥沼化して先が見えないベトナム戦争と、希望のない戦争にのめり込むアメリカ合衆国への痛烈な批判であった。

だということだが、そんなことはさっぱりわからんのだが、ともかくすごい演奏だと思った。

Purple Haze、 Voodoo Child もかっちょいい。

「紫のもや」試訳:

紫のもやが脳の中に充満している
近頃は何もかも違ってみえる
おかしな具合だがなぜだかわからない
空にキスする間ちょっとまって

紫のもやがあたり一面立ちこめている
どっちに歩いているかもわからない
俺は幸せなのかみじめなのか
ともかくあの子は俺に呪文をかけた

助けて助けて
なにもわからない

紫のもやが目の中にいっぱいだ
昼だか夜なのかもわからない
おまえは俺の心を吹き飛ばした
明日かそれとも時の終わりか

何もわからん
助けて
教えてくれ
さあこい

「ブードゥーの子」試訳:

山のそばに立って
手刀で叩き割り
破片を集めて島を作る
小さな砂を軽々と持ち上げるように

だって俺様はブードゥーの子だから
神様も俺がブードゥーの子だと知っている
最後にもひとつ言いたい
あなたのすてきな時間をとりあげるつもりはなかった
そのうち返してあげる

もしこの世で二度と会わないとしたら
次の世で会うだろう
そのときは遅れるな
遅れるな

俺様はブードゥーの子
問いはいらない
答えもない

こんな感じでしょうか。 wikiでジミヘン和訳集とか作るとおもしろいかな。

普通のハードロックやヘビーメタルなどの曲にはリズムとメロディーがあるのだが (そしてそのテンポがしばしば異様に速い)、それがジミヘンにはない(ことが多い)。
ジャズの即興演奏に近いかも。
あるいは津軽三味線のようなものも連想させる。
ときどきバンジョーのような弾き方もする。
ドラムはジミヘンの演奏に合わせて適当に太鼓をたたいているだけのように見えるし、ときどきドラムを合わせきれずに苦笑しながら眺めていたりする。
私はバンドというのはよくわからんのだが、ドラムとかベースとかボーカルとか役割分担が決まってて、即興のように見えてある程度までは整然と演奏されるのだと思う。
しかしジミヘンの場合は空から霊感がおりてきて、ジミヘンがそれをギター演奏として表現し、周りのスタッフがそれに合わせて適当に太鼓たたいたりマラカスふったりしている。
シャーマニズムにも近いものがあるのかもしれんし、もしかするとネイティブアメリカンの音楽の影響もあるかも。

CoD2クリア。

Call of Duty 2をかなり進めた。
ノルマンディ上陸作戦というのがほんとうにこんなものだったのかどうか、実際にはわかりっこないのだけど、かなりまじめに精密に作ってあるのだけはわかる。

ドイツ人はどういう気持ちであそんでいるのだろうか。
これがもし沖縄上陸作戦だったらどうかと考えると恐ろしい。
杭州湾上陸作戦だったらもっと恐ろしいかもしれない。
考え出すとあれもこれもおそろしい。

Call of Duty 2は北アフリカ戦線のが少しおもしろい。
イギリス人もドイツ人も好き勝手リビアやチュニジアに土足で上がり込んで暴れ回っている。
そこんところアラブ人とかどう感じるのか。
もしこれが日本本土だったら嫌な感じだよな。

全体に、初代のときみたいに、戦艦ビスマルクに乗り込んでドイツ兵を殺しまくったりとか、カーチェイスみたいなのとか、そういうふざけたおもしろおかしいミッションが減って、まじめくさったものが増えている。
史実に近づけようとしているのだろうか。
ベトコンも2になってまじめくさってしまい、おもしろみがなくなったしな。

CoD2クリア。
エンドロールを見ていて陰鬱な気持ちになるのは枢軸国側の人間だからだろうか(笑)。

雨の日は家でじっとしているに限る。

私の人生に5.1chサラウンドは必要ないことがわかった。

脳と視覚

乾敏郎「脳と視覚」という本を読んでいたのだが、眼球運動は固視と視点移動(サッケード)を繰り返していて、固視のうちの0.1秒くらいしかモノを見ていない。
それに続く0.2秒くらいはモノを見てないで、視点移動したりキャリブレーションしたり画像処理したりしている。
つまり人間の脳内実時間画像処理というのはせいぜい3fpsくらいしかない。
もしグラボと脳が完全に同期とれれば60fpsとか120fpsとか必要ない。
3fpsで描画しても認識には問題ないということになる。

盲点は見えない。
網膜上の血管も見えない。
サッケード中の動きボケ画像も見えない。
焦点を合わせている途中のピンボケ画像も見えない。
すべては無意識のうちにキャンセルされている。
最終的にできあがった画像だけを我々の「意識」は見ている。
しかし明らかに「無意識」はそれらの画像を見ているし、認識もしている。
「無意識」がどのくらい「没入感」や「臨場感」に影響を与えているだろうか。
「無意識」が距離や動きなどを認識しているのは明らかだ。

無意識がキャリブレーションできないで意識がソレを見ると3D酔いなどの現象になる。
無意識を欺けば錯視になる。
無意識を欺き続けると意識が混乱し脳は壊れるかもしれない。

このように視覚というものは非常に離散的なものなのだが、聴覚も同じらしい。
音は連続に聞こえているように思えるが、短期記憶に音声が「キャプチャ」されてフーリエ変換されて、重要性の順に並べ替えられてから認識されているらしい。

私らが普段見ている映像や音声というのはなめらかな連続したものに思われるのだが、空間や時間はなめらかで連続であるというのは我々が世界を認識する上での理論に過ぎず、認識プロセスそのものは離散的。
色や陰影なども脳の中で恣意的に着色されたものであり、まさに脳内CGと言った方が良い。
デジタルデバイスがアナログ電子信号を制御してデジタル化しているように、脳も有機物でできているが仕組みは完全にデジタルなものだといえる。
コンピュータビジョンに非常に近い。

脳内CGというのは当たらないかもしれない。
CGと違って我々が見ている映像には最初から色、明るさ、奥行き値や動き量、領域やエッジと言った付加情報がラベル付けされている。
目、鼻、口、知った顔知らない顔という属性が付加されている。
キャプチャに失敗した欠落情報は近傍から充填され補完されてあたかも欠落してないように見える。
いや、そもそも我々は何も見ていないのかもしれない。
それらの属性を認識しているだけなのかもしれない。
そもそも見ている我々とは何かとか。
意識とは何かとか、脳のどこの機能なのかとか。

要するに世の中にアナログ人間など存在しない。
人間であるからにはみんなデジタル。
神経系が分泌物(ホルモン)で制御されているようなそうとう下等な動物や、あるいは植物ならばともかく、たいていの動物はデジタル。
デジタル機械なのです。

音楽や会話もまた同じ。
連続音響も実時間で断片化されシンボルとして再構築される。

たとえば上で書いた3fpsというのが通常のクロック周波数として、緊急時には一時的に10fpsくらいにあがるかもしれない。
とすると時間の流れが遅く感じる現象も無理なく説明できる。
年をとるにしたがってクロックが遅くなれば、時間の過ぎるのが早く感じるかもしれない。

視覚が離散的でデジタルなものであるから錯視などの現象が起きる。
速読理論も人間のクロック周波数に合わせて視線の停留点を制御しようというものだろう。
クロック周波数を意識的に上げることができれば速読は可能だ。
あるいは停留している間に「静止画」としてどれだけ多くの活字を「キャプチャ」して、次の「キャプチャ」までにそれを脳内でどれくらい処理できるかということだろうな。

CGの理論って、10年後20年後には絶対こっちの方へ行くと思うんだが。

久しぶりにエヴァを見る。

さすがTV放映だけあってセルがほとんど動かない。が、静止画を多用しているわりにはきちんと動かしているように見える。これが日本式セルアニメの極意なんだろうな。ハイジなんかも実はあまり動いてない。しかしあまりストレスを感じない。

日本人の動画だけ使って、毎週TV放映して、 3DCGやAfterEffectsなどソフトの力を借りず、極力静止画を使うことで労働力を省く、それでいてきちんと動いているように見える、そんな最後の究極のセルアニメがエヴァだったのかもしれない。そんな気がする。

思うにイノセンスはエヴァに嫉妬したのだろう。エヴァみたいに静止画を多用してパンと口パクだけでごまかして、それでも躍動して見える、エヴァやハイジを超える日本セルアニメの最高傑作を作ろうとしたのかもしれんが、見事に失敗した、という例なのではないか。バトウの口パク論語読みにはぶち切れそうになりました、私は。

ジブリにはそんな気負いはない。ともかく動かすものはなんでも動かす。だからエヴァとは対立しない。ディズニーみたいに何でもかんでもぐにゃぐにゃ誇張して動かすわけでもない。だからディズニーとも対立しない。

最初にエヴァを見たときそんなこと考えもしなかったのになんで今はそう思うか。破裏拳ポリマーを昔見ていた時には動きが悪いなんて思わなかったのに、今見ればストレス感じまくるのはなぜなのだろうか。

ジミヘンDVD

HDRは人間の視覚特性の模倣というのでなく、もともとCGの高精細化の延長線上にあるような気がする。
フォトリアリズム、スーパーリアリズムが好きなんだなあ、みんな。
高精細化と視覚特性の模倣は実は相反する。
視覚特性を追求すると高精細化を犠牲にするときが必ずくる。
そこでCG屋さんは「なんで?どこまでもはっきりくっきり見えてた方がゲームにも有利でしょ?」とか言う言い方をする。
ゲーマーはそういう考え方はしない。
ゲームの世界ではわざと見えにくくしたり、わかりにくくしたりするのは当たり前。
映画のCGとはそこが違うのだよ。

ジミ・ヘンドリクス、マイケル・ジャクソン、ブリトニー・スピアーズのDVDを買う。

JimiのDVDはJimiのミュージックビデオというよりは、ヒッピーかオカルト集団の記録映像のようなもの。
当時の西海岸の文化がわかるのはおもしろいが。
やはり本気で火星人がいると信じてたようだなこいつらは。
あの、口でエレキを弾くというパフォーマンスには意味があるのか。

Michael Jackson History on Film Volume2 を買ったのだが、
Thriller は1982年だった。
Beat ItとかBillie Jeanも同じ頃。
ある意味このころのマイケルが一番かっこいい。
たまたま私が感受性が高い年頃だったせいではあるまい。 Volume1も買いたくなった。

ブリトニーはやはりこの、映像と音の密度が断然違う。
マイケルのミュージックビデオはマイケルが作りたいように作っているのだが、ブリトニーの場合は本人はおそらく何も考えてない。
取り巻きのディレクターやスタッフが作りたいように作っている。
能力ある人にはまたとない「素材」だったろうと思う。
マイケルのPVは1980年代の今から見れば古めかしいアナログ技術で作っているので、また芝居がかったところは陳腐でもあるが、ミュージカル仕立ての部分は今でもここまでのものはなかなか作れないだろうと思う。
やはりアメリカはこの部分の人材が豊富なのか。
ブリトニーは現在望みうる範囲で完璧な作りというしかない。

よそじ

人間って20才くらいまでは養ってもらって、
60才すぎたら使い物にならなくなってやはり養ってもらう。
まともに働いているのは20才から60才まで。
人生80年としてそのうち半分しか働かない。
あるいは人口のうちの半分が働いて半分は養ってもらう。
めちゃくちゃ効率悪くないのか。
20代30代は確かに搾取されているという面もあるが、
責任も大してないしヒマもあると言えばある。
よそじの俺様なんてもうなんかやばいよ。
多少の給料はもらってるかしれんが、
まじめに働いて税金も払って家族も養ってるわけです。
なんか社会支えてるなって感じ。
つまり俺らが言いたいこと言わないと誰が言う権利ありますか。

科学と宗教

科学者に宗教家が多いのは分かる気がする。
科学は虚構を排除しなくてはならない。
そうすると精神的な支えがなくなって不安になる。
20世紀の科学は科学と虚構がうまくバランスを取っていたが、
今の科学は殺伐とした事実だけ。
それに耐えられなければ宗教に頼るかもしれん。
職業上では虚構を排除しつつ私生活では虚構世界に浸る。
それで精神的な安定を得ているのでないか。
ということは、科学は宗教と表裏一体なのかもしれんし、
それを混同すると似非科学やSFになるのかもしれん。
あるいは進んでオタクとなり、精神的に安定するのかも。

「理系」「文系」「男性」「女性」という区別は社会的なものであって、
生物学的には虚構だと久しく言われてきたが、
実は何かの生物学的事実を反映したものだろう。
試しに「理系男大学」というものを作ってみれば、
その大学は自然とオタが集まり、今の工学部のような大学になるに違いない。
ならば最初から「理系男大学」というものを作った方が話がはやいし効率も良いのでないか。
ただしそれではいかにも灰色なのでそこのとこをうまく工夫してやると、
かつての工学部を超える何かが作れるのでないか。

Cosmos by Carl Sagan を見てて思うに、
今の世代が科学離れを起こしたのはまさに科学が若者から夢や希望を奪ったせいだと言う気がする。
1970年代と今の人間は、すでにそうとう精神構造に変化が生まれてきている。
20世紀の人間は今から見れば夢想の世界に生きていた。
今よりもずっとバーチャルな世界に住んでいた。
バーチャルと今言っているのはデジタルな仮想世界と言う意味に限らず、
宗教とかイデオロギーとかファンタジーとかそういう人間の脳の中にしか存在しえない世界を言う。
おそらくは古い世代ほど迷信深く、
人はバーチャルに依存して生きてきた。

1970年代の人たちは火星人がほんとに居ると思っていた。
スターウォーズの世界など、
今の人たちは架空のファンタジーだと割り切って楽しんでいるが、
おそらく当時の人たちは地球の隣の金星や火星にも、
宇宙全体にああいう宇宙人たちがわんさと棲んでいると信じ切っていて、
それでああいうものを作ったのだと思う。

その夢想を破壊したのは科学そのものであるしNASAだと思う。
NASAの観測結果は面白いけれども難しくなりすぎた。
一般の人々には何の関心もない。
アメリカの納税者も、「火星人が居ないならNASAに金をかける必要などない」
と思っているのでないか。

今は科学離れが進んでいるというが、
科学なんてそもそも普通の人間には面白くもなんともないこと。
20世紀の科学が夢を見すぎていただけなんじゃないか。
その名残が今のえせ科学だよな。
20世紀科学の残像なんだよ。

話を戻すと、
昔信心深いおばあちゃんたちが毎日仏壇を拝んでいたのと、
今若者がMMORPGにはまるのはまったく同じ理由だということがわかる。
今も昔も人々は仮想世界のファンタジーを切望しているのだ。
科学がその役目を果たしていた時代もあった。20世紀がそうだった。
人々の関心を集めるには空想や夢想の余地を残してやる必要がある。
ならば「理系男大学」がどんなものになるか。
たぶん秋葉原みたいなもんがそうなんだろうな。