google日本語入力ふたたび

木曜日にアクセスがいきなりはねあがってビックリした。
たぶん google日本語入力について書いたせいだろう。

悪くはないんだが、まだバクがあるようだ。
銀行サイトにログインしようとしたときパスワード入力がどうしてもうまくいかなかった。
なんなのだろうか。
バグなのかどうかよくわからん。
あと、人名の固有名詞とか。出ないものはまったく出ない。
とりあえず信頼と実績のatokに戻す。
しかし、歴史上の人物の変換には抜群の威力を示す。すばらしいには違いない。

日本外史を読もうと思って平家物語や太平記などをいろいろ寄り道した。
有意義だったが、だいたい雰囲気はつかんだので、そろそろ日本外史に戻ろうかとも思う。

袈裟御前

袈裟御前については、平家物語には出てこず、源平盛衰記が初出と思われる。
第十九 文覚発心附東帰節女事。
おそらくは後世の創作か。
他人の妻を殺害して出家しただけで咎めがないのはちとおかしいだろう。

愚管抄:
コノ頼朝コノ宮(以仁王)ノ宣旨ト云物ヲモテ来リケルヲ見テ。
サレバヨコノ世ノ事ハサ思シモノヲトテ心ヲコリニケリ。
又光能(藤原)卿院(後白河)ノ御氣色ヲミテ。
文覚トテ余リニ高雄ノ事ススメスゴシテ伊豆ニ流サレタル上人アリキ。
ソレシテ云ヤリタル旨モ有ケルトカヤ。
但是ハ僻事也。
文覚、上覚、千覚トテ具シテアルヒジリ流サレタリケル中。
四年同ジ伊豆國ニテ朝夕ニ頼朝ニナレタリケル。
其文覚サカシキ事共ヲ。
仰モナケレドモ。上下ノ御・・・ノ内ヲサグリツツイヒイタリケル也。

まあ、この文章を普通に読めば、以仁王の令旨とは別に、
後白河法皇の「御気色」を読んだ藤原光能が、伊豆へ流される文覚に言付けて、頼朝へなにやら言い遣ることがあったというが、しかしそれはうそだよ、
と読める。
平家物語のように文覚がいきなり福原まで訪ねてきて後白河法皇の宣旨をもらって伊豆に戻ってきたとはならんわな。しかもたったの八日で往復とかありえん。
文覚は弟子の上覚、千覚とともに伊豆に流されたことになっている。
まあそれはあり得るのかもしれん。

義仲ハワヅカニ四五騎ニテカケ出タリケル。
ヤガテ落テ勢多ノ手ニ加ハラント大津ノ方ヘ落ケルニ。
九郎追カケテ大津ノ田中ニ追ハメテ。
伊勢三郎ト云ケル郎等。打テケリト聞ヘキ。
頸モチテ参リタリケレバ。法皇ハ御車ニテ御門ヘイデデ御覧ジケリ。

江ノ島弁財天

吾妻鏡 養和二年(1182)四月小五日乙巳。武衛令出腰越辺江嶋給。・・・是高雄文学上人。為祈武衛御願。奉勧請大弁財天於此嶋。
江ノ島の弁財天は吾妻鏡によれば1182年に文覚が頼朝に勧請したものだという。
へええ。

[文覚が頼朝に与えた影響について](http://cpplover.blogspot.com/2009/09/blog-post_14.html)。
なるほど。ではやはり文覚は頼朝配流時代に伊豆で会っていたわけだ。
頼朝とも親しく、しかも平家の残党とも親しい。
実に不思議な人だな。

玉葉寿永二(1183)年九月二十五日「伝聞、頼朝以文覚上人令勘発義仲等云々」
なるほど、頼朝から義仲への使者として文覚が遣わされているんだ。
そんなこともやってたんだなあ。

平維盛

すげえ面白い人だな。

たぶんこの人は、長男ではあったが嫡嗣ではなかったのだろう。
平氏は清盛の代で初めて摂関家よりも朝廷で権力を握ったが、
長年の姻戚関係で藤原氏と天皇家は親戚同然。
平氏も嫡男は後見役として藤原氏と婚姻関係を持たないと、何かと形見が狭かったろう。
維盛は平氏の中でも都でもかなり浮いた存在だったのではないか。

富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いでは総大将ということになっている。
富士川の戦いほどよくわからん戦いもないだろう。
一応平氏の長男として維盛が総大将だが、目付役として藤原忠清が付いている。
まあ二人とも公家だわな。
物見遊山気分で遊女など連れて繰り出したんだろうな。まあ負けそうだよな。
倶利伽羅峠に至っては野人のごとき木曽源氏の本拠地で公家が戦ってはまあ負けるわな。

平家都落ちの際には妻子を都に残し、一の谷の合戦の頃に敵前逃亡。
自殺したことになっているが果たしてどうか。
ま、ともかく、平氏の一門として闘争心があったかどうかはかなり疑わしい。
運命共同体的なものは、感じてなかったに違いない。

ある意味ダメ平氏の象徴みたいな人ではある。

維盛の子どもが六代で、清盛の血筋では最後まで生き残ったが、結局殺されてしまう。
平家物語では重盛-維盛-六代の血筋がかなりひいきされているようにも見える。

文覚

文覚という僧侶は、平家物語によれば、京都高尾山にある神護寺を復興し、平家の嫡流を保護し、源頼朝に後白河法皇の宣旨をもたらして決起を促したとある。
しかし、令旨を書いたのは以仁王とその謀臣の源頼政、
その令旨を頼朝にもたらしたのは源行家であり、行家は頼朝だけでなく甲斐や木曽の源氏にも令旨をもたらしている。
平氏に反発する親王と源氏という構図であって文覚が入り込む余地はない。
文覚に関する平家物語の記述はあまりにも誇張されているし、捏造にも度が過ぎている。

客観的な史実としては、
頼朝の勝利の後、後白河法皇や頼朝の援助で神護寺を復興したということ。
平氏の嫡流「六代」を神護寺に保護したということ。
鎌倉幕府側の勢力として後鳥羽天皇に疎まれていたということ。
頼朝の死後、政争に巻き込まれ、佐渡、対馬などに流されて死んだということ。
そのくらいではないのか。
頼朝との関係は平氏追討後からと考えた方がずっと自然だ。

平家物語は高尾山にかくまわれていた六代が処刑されたところで終わっている。
ここでもやはり神護寺が関わっている。
思うに平家物語は、もっとシンプルな(長々しい言い回しや余計な漢籍の引用がなく、仏教色が少ない)「治承物語」という原型があって、
それに文覚と六代に関わりのある神護寺の関係者が大幅に加筆したものではなかろうか。
また、平重盛を過度にひいきしていることも何か理由があるかもしれない。
重盛が頼朝、藤原光能とともに神護寺に肖像画が伝えられていることも何か意味深ではある。
藤原光能は文覚を頼朝のために後白河法皇に取り次いで平清盛追討の院宣を出させるように迫ったとされている。
あり得ないことだ。
どうも陰謀めいている。

五位鷺伝説

またしても平家物語をだらだら読んでいたのだが、五位鷺という名前の由来が醍醐天皇の時代の出来事に由来するのだという話がある。これまた平家物語の本筋とはまったく関連がなく、後から追加された逸話だと思う。ゴイサギは頭の後ろに長い毛が生えていて、それが水の中の魚をついばむのはなかなかかわいらしい仕草である。日本中どこにでも水辺に見られる鳥だと思うのだが、それはともかくして。

醍醐天皇の時代は西暦930年までで、平家物語の成立は鎌倉時代中期の1250年から1300年くらいだと思われるのだが、およそ300年前の伝承が途中まったく他の文献にも見えずいきなり現れたというのはもうこれは当時の民間伝承か何かと思わざるを得ない。能の演目にもなっているがそれは後に室町時代になってから平家物語にあるんで能になっただけだろう。

平家物語は今昔物語的なところがあり、当時のいろんな説話が無造作に取り込まれている感じだ。

視覚

幼児はモノが見えていない。
モノが見えてないというよりは見えないはずのモノが見えたり、
見えるはずのものが見えなかったり、
いろんな現象が起きているように思う。

大人になるとだんだんと、「見えるべきものが見える」「見えてはいけないものは見えない」
の二つに収束していく。
その前段階として「見えるはずのないものが見える」とか
「見えるはずのものが見えない」という現象があってもおかしくない。
子供に妖精や幽霊が見えるのも同じことじゃないか。
大人は理性や経験やらで見えるはずのないものをものすごい勢いで排除している。
見ようとする vision と見てはならないという vision が、
お互いに抑制し制御しあっているのでないか。
その協調関係が壊れればたちまち見えてはいけないものがどんどん見えだすだろう。
あるいは何も見えなくなってしまうだろう。
大人でもLSDで幻覚が見えるようなもんだろう。

感情によっても視覚は変化する。
ヘッドフォンステレオかぶって自転車乗っているだけでも、
情景はだいぶ変わって見える。

視覚というのはまだ何もわかってない。
脳科学の成果をもっときちんと追いかけないといけない。
視覚や脳科学は「21世紀の科学」だという人がいるようだがまさにそうだろう。
視覚はあまりにも自明で完璧なのでとっかかりがないが、
錯覚、幻覚、子供の妖精やお化けなど、
「見えるべきものが見える」「見えてはいけないものは見えない」
あたりの異常現象から攻めていくと良いのでないか。

文献メモ

バートン・L・マック著、秦剛平訳「失われた福音書 – Q資料と新しいイエス像」青土社。[加藤隆著「一神教の誕生」講談社現代新書。 これによれば、ダビデ、ソロモンの時代には、ヤーヴェはユダヤ教の主神ではあるが、ユダヤ教は一神教ではなく、イスラエル王国の滅亡やバビロン捕囚などを経て、一神教に収束していった、つまり、徐々に多神教から一神教が生まれたように書かれている。

いや、もちろんそういう要素はあったかもしれんが、私としては、フロイトの説のように、一神教はもともとはエジプトのアトン信仰に由来するものであり、アトン信仰がユダヤ教と融合することによってユダヤ教も最終的に一神教になったのだと思う。で、フロイトも指摘しているように、アトン信仰も古代エジプトで忽然としてアメンホテプ4世の時代に創作されたというよりは、シリアなどでもっと古くから存在していたのではないか。

燃えよ剣下巻

本棚を整理していたら燃えよ剣の下巻が出てきたので読み始めた。
もともと私の本ではなく死んだ祖父の本を拝借したもの。
うーん、なんちゅうか、七里研之助を倒し、伊東甲子太郎を暗殺したところまでは、
面白かったんだが、その後は史実をなぞるだけな感じでどうでしょう、という。

うすうす感づいてはいたがやはり七里研之助は架空の人物だったのだな。
こちらはまあ良く書けてるとして、妻として出てくるお雪とのあれこれというのは、もうはっきり言って邪魔。
下巻読む気を失わせる一番大きい原因かも。

やはり、鳥羽伏見の戦い辺りからもう新撰組がどうこうという話ではなくなってしまうので、
小説としては書きにくかったのではないかなとか。

後書きが陳舜臣で割と面白い。
司馬遼太郎がこれを執筆したのが昭和三十年代後半というのだから、ちょっと驚く。
当時三十才後半くらい。
まだ私は生まれてない。
そのころは調布も府中も八王子もあの辺一帯まだまだ田舎で桑畑だらけだっただろう。
ちょうど、今で言う所沢あたりのように、冬は畑から土埃がもうもうと舞ったのだろう。
初夏には竹のささらで地面を叩きながらマムシを避けないと歩けなかったのだろう。
気性も荒く、殺伐としていて、子供の喧嘩も酷かったのだろう。
という多摩の風土を書いたものとして読めば面白いのだが、
維新後に北海道に渡って独立国家を作ろうなどというのはどうも私にはただの茶番に思えて仕方ない。
結果論というやつかもしれんが。

内村鑑三「代表的日本人」の「上杉鷹山」のところを読む。
山形県的には偉人、というか昔の日本人的には偉人なのか。
江戸中期くらいに藩の財政改革として荒れ地に桑を植え始めたのかな。