潜入捜査官マリナ

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最初は「潜入捜査官エリカ」というタイトルで主人公は梅ヶ谷エリカという名だったのだが、
いろいろググってると、2010年に「悪貨」という小説が出てて、
主人公が花園エリカ。
それが2014年には黒木メイサがエリカ役でドラマ化されている。

どうも潜入捜査官でぐぐるとエリカという名前が良く出るなと思ってたら、これが元ネタだったらしい。
そしてたぶん無意識に私もどこかでそれを見てて、
意図的に真似たのではないが、なんとなく雰囲気でエリカにしてしまっていた。

まこれはまずいので他の名前を考えて、「潜入」捜査官だから、海のイメージを重ねて、
三崎マリナという名前にした。

表紙の絵を変えたりしてるので読むのはまだ待ってください。

新人賞に応募しようかどうか迷っていた。
ツイッターでアンケートとった際もKDPですぐ出すよりはまずどこかに応募したほうが良いという意見が多かった。
しかしまあいろいろ考えた結果さっさとKDPで出すことにした。
どちらかといえば Kindle Unlimited 用に書いた。
100枚ほどの長さだが、最後まで飽きずに読ませれば私の勝ちだ(笑)。
ミステリーは食わず嫌いというか、今度書いてみて、案外こういう探偵物、刑事物も面白いなと思ったのだが、私という書き手に広く興味をもってもらい、
少しでも自分の得意フィールドの歴史小説に読者を誘導するために書いた。
それが今回の当初の執筆動機。

昔、現代小説として試しに「墨西綺譚」というのを書いてみた。
一時期KDPでも出版していたが、今は全面的に手直しするため公開してない。
ていうか「墨西綺譚」は登場人物がやたらと出てくる割に展開が早すぎて読者がついてこれない謎の群像劇になっていた。
言われてみればその通りで、ひまを見て直そうとおもってる。
これに工藤襄という探偵みたいな探偵じゃないみたいなキャラが出てくるのだが、
今回「マリナ」に出てくる工藤は「墨西綺譚」とまったく同じである。
読んだことある人にしかわからんのだが、
「墨西綺譚」は平成15年頃が舞台。「マリナ」は今現在。
だから13年後の設定になるわな。
「墨西綺譚」はレバ刺しが禁止されるよりも前の話なのである。
守口というのも同じ登場人物。基本的に舞台も設定も完全に一致させている。
だから自分の中では「マリナ」は「墨西綺譚」のリライト作業の派生物(一部)ってことになる。

「探偵物語」で松田優作が演じるのが私立探偵の工藤俊作。
ここでも名前がかぶってるが、キャラ的には全然かぶってないと思う。

こういう女刑事物は世間では官能小説か大衆小説と相場が決まってて、
だいたいハードボイルドにお色気、つまりエログロなんだが、
「マリナ」は全然そんなんじゃない。
私立探偵も出てくるが推理物かというとそういうわけでもないと思う。ガンマニアテイストは単にフレーバーとして足しただけ。だからキャラもストーリーも退屈に見えなくはない、見えるだろう、まあふつう、見える。私自身刑法とか警察が詳しいわけではない。だからもともとこのジャンルが好きな人には絶対受けない自信がある。
で普通非公式・非合法な部署とか架空の組織とか近未来法改正があったみたいなのを仮定しないとこういう刑事物は面白くならんのだが、それも私は「マリナ」では禁じ手にしている。裏返せばそんなおもしろおかしい刑事とか捕り物なんて現実には存在しなくて、ミステリーがネタに行き詰まっている証拠なの。
名探偵コナンだってドラえもん化、水戸黄門化してる。ところてんにはところてんの需要がある。
相棒は頑張ってるほうかなあ。
でまあ私の場合意地でそういうツボをわざとはずして読者の期待をはぐらかさないと気が済まない。

あとあんまり書くとまずいところもあってそこはぼかしてある。
だから全体的になんかもやっとしているがあとは読者任せというか。

食卓の賢人たち

アマゾンで買った電気時計とかリモコンとかが続けて不良品で、
返品、交換することになった。
誰かが出品してるんじゃなくてアマゾン直営。
なんかもう自分がクレーマーか何かになった気分になるし。
届いた品が動かないと精神的に消耗する。
たぶんこういうのって店頭販売で不良品が多くてそういうの家電量販店とか秋葉のショップなんかからまとめて安値でアマゾンが買い取ってるんじゃないかな。
そういうのを返品・交換込みでネットで裁いている。
割と簡単に返品が効くんで、アマゾンとしてもそういう商売でいいんだって割り切ってやってんじゃないのかな。
まあねえ。
普通に量販店で手に入りにくいものを安値で買ってるわけだしリスクはあるわね。
高額な国産メーカー品だと返品理由も割と細かく書かされるみたいだが、
そうでないのはかなり適当だよね。
どうせパチモン買うなら一番安いやつにしといたほうが精神的ダメージは少ないかもね。
250円の得体の知れないリモコンとか絶対わかっててやってるよね。
まあ秋葉のジャンク屋みたいなもんだよな、この手のは。
そういやこないだタイムセールで買ったボクサータイプのパンツにもひどい目にあった。
遊びと割り切って買えばいいんだけどさ。

「食卓の賢人たち」は良書だ。
古代ギリシャっぽいフレーバーを文章にふりかけるのに重宝する。
こういうなんということのない、日常の食生活の空気感というのがね、
欲しいわけなんですよ。
フィクションにリアリティを持たすためにね。
てわけでいまだにちょこちょこ書き直してる。

kindle unlimited のおかげでときどき読まれているのがわかる。
以前にはなかったことだ。
そうすると自分でも気になって読み直すと書き直したくなる。
「将軍放浪記」は冒頭テンション高いんだが、途中でだれてくる。
そう、南北朝がどうしたこうした西園寺兄弟がどうしたこうしたとかそういうことを説明しているあたりで明らかにだれている。
以前は気付かなかった瑕疵が今は見える。
ていうか昔はこんな話だれが書こうが読もうがだれるに決まってるからって思ってこっちも書いてるんだが、定家の話とか調べてて、だんだん西園寺さんのことにも詳しくなってきて、
あれっ、こんな雑な書き方してたんだなあ、って自分で気付く。そうすると書き直さないわけにはいかない。

今川了俊なんかが北条時行は死んでないとか言ってて、
まあ彼は今川ですし。足利ご一家の一員なのにわざわざ北朝に不利な証言をしているわけだから、
信憑性がありそうじゃないですか。
ということは、北条得宗家は滅亡したんじゃなくて、
歴史の中にフェードアウトしていった、ってことになる。
頼山陽も「亦不知其所終」なんて書いててそれがまあこのブログのタイトルにもなっとるわけですけどね。龍ノ口で斬られたなんてことは書いてない。
そうすると時行を生かしといてやりたいなあなんて著者ごころがわいてくる。
「将軍放浪記」のストーリーもかなり大きく影響受ける。
ましかし旧作なんでもうこれ以上いじらないことにした。

「将軍家の仲人」もかなり書き換えた。
つまり、話の流れがすっと流れてない。澱んでるところがある。
間部詮房の生い立ちを説明しているところなんかが澱んでる。
つまり昔自分で書いててあまり乗り気でなかったところなんだな。
そゆところをちまちま直している。

すみませんがそんなもんだと思ってください。

西田詮房、十八で百五十俵の小姓となり、間鍋と改め、のちにさらに間部と変えている。
百五十俵はそれなりの御家人なのでたぶん親が死んだか隠居して相続したんだと思うが、
親は西田清貞は甲府藩士で小十人組格とあるから、
推測するにやはり百五十俵十人扶持くらいであったろう。
小十人組頭というのはたぶん下っ端が十人いる中間管理職、みたいなもんだ。
間鍋氏と西田氏。
どちらかが甲府藩士の家柄で、もう片方は浪人か何かで猿楽師もやっていたはずだ。
ま、猿楽師はたぶん西田だろう。
それをいやがって詮房は間鍋に変えた。
間鍋を間部にしたのはおそらく鍋松(徳川家継の幼名)と字がかぶっているせいだと思う。
鍋松は実は詮房がお喜代に産ませた子ではないかという話がここから出てくるのだが、
まあ疑えばきりがないが、どうだろうかね。
そういう話にしてしまうこともできなくはない。
調べ出すときりがない。

でまあ思うにね。
この五年間ほど作家のようなことをやってみたわけだ。
昔のコネを使って紙の本も出させてもらった。
ずいぶん出版業界にも詳しくなった。昔は素人同然だったわけだから。
で、読もうと身構えている人、
探している人はもうほとんど読んでくれたんじゃないかと思う。
私の書いたものを読む読者ってのはそんなにたくさんいない。
そっからさきにはなかなか広がらない。
たとえば、NHKの大河ドラマで主人公が新井白石か、間部詮房かとか、
まあ地味だからやる可能性は低いわな、
でもそんなことがあって、KDPで新井白石書いてるやつがいるっていうんで、
読まれる。読んでみたらなんか普通じゃない切り口でいろんなこと書いてあるってんで話題になる、なんてことはおきるかもしれん。
そういういつ当たるかしれない仕掛けをできるだけいっぱいしかけておく。
そういうやり方しかもう残ってない気がする。
様子見ですよ。

ミステリーでも書いてみようかと思った。
警視庁捜査一課の女性刑事なんかを主人公にしようかとか。
でもまあ、調べてて、私は警察組織になんの興味もないし、
私より警察詳しい人とかいくらでもいるし、
殺人とか詐欺とかやくざとか性犯罪とかそんなものを扱う仕事なんて自分から関わろうなんて全然思ってなくて、書いてて気持ち悪いってことがわかって、やっぱ書くのやめた、ってことになる。
同じように、ラノベとか動物ものとか青春ものとか、或いは漫画とか、売れ筋のもの書いて注目集めて、それで自分の好きなジャンルに誘導するって手も考えたが、めんどくさいなやっぱり歴史物だけ買いてようってところに落ち着いてしまう。
まあ、なんか面白いネタを思いついたらともかく今後も書かないだろうなと思う。

「エウメネス1」を読んだ知人から「砂漠のような風景しか思い描けなかったのが残念でした」というようなことを言われたのだが、
サンテグジュペリの「星の王子様」「人間の土地」なんかをオマージュにして、
砂漠を体験したことのないわたしが、必死にリアルな砂漠を表現してみたんですよ!
それがあの「ゲドロシア紀行」なんです。
喜んでよいのか悪いのか悩んだ。
まあ彼はこんなところ読まないだろうとたかをくくってこそっと書いてみる。
「エウメネス1」はギリシャ感が乏しくてインドとか砂漠ばっかりで、
だからこそアレクサンドロス大王のアナバシス(遠征記)なわけだが、
ギリシャの話が読みたかった人には肩すかしだろうと思う。
「エウメネス2」と「エウメネス3」ではギリシャっぽさを大サービスしたつもりだが、
それでもまあ、ほとんどの舞台はギリシャの外なんで、
だからアレクサンドロス大王はギリシャ以外の土地で活躍した人なんだから仕方ないんだけど、
たぶん読んでいる人は釈然としてないんだろうなって思っている。
ていうかアレクサンドロス大王がいまいち人気がないのは、
ギリシャムードに乏しいからなんだよな、ギリシャ世界にどっぷり浸ることができないの。
そりゃそうだよ。アレクサンドロスなんだから!
アレクサンドロスはむしろイスラム世界でイスカンダルとか呼ばれて超人気が高い。
完全にアジアの王なんだよな、アレクサンドロスは。
そこんところが西欧史観に毒された日本人にはわからんのですよ!

「エウメネス4」はたぶんスパルタがメガロポリスで敗北する話をメインに、
オリュンピアスとエウメネスが初めて出会う話をサブに書くことにしたいなとか、
エウメネスとアルトニスが再会してなんか痴話げんかでもやらせるかなとか、
思っている。
しかしそれと同時並行でガウガメラの戦いがあるわけで、
ガウガメラを「エウメネス5」にもっていきたい。
そしてその続きはいよいよソグド。
ラオクスナカ、アマストリー、ヴァクシュヴァダルヴァ、アパマの話にいける。
それが「エウメネス6」になり、やっと「エウメネス1」につながる。
この辺まででたぶん1000枚は超える。超大作。

で、スーサに戻って来たあと、ハルパロスとのすったもんだがある。
アレクサンドロス大王死ぬ。
まあ、私としてはここらへんで終わりにしたい気持ちで一杯です。

ディアドコイ戦争始まってエウメネスやアマストリーが死ぬまで。
ちょっとそこまで書いてたらどんだけ長編になるのか想像もつかない。

イソクラテス弁論集

この解説がいきなり「カイロネイアの敗報」から始まっているのだが、
私は暫くこの文章をイソクラテスが書いたのかと思って読んでしまったのが、
なんだかおかしい。
あきらかにおかしい。
読み返してみたら解説が始まっていたのだけど、
イソクラテスがデモステネスを褒めるはずがない。

> デモステネスの演説がもつ決断の力強い表現は、都市国家が最後に放った閃光であり、ギリシャの弁論術の最高の達成である。

などというはずがない。
イソクラテスはデモステネスに対して真逆の評価をしていたのに違いないのである。

私に言わせればデモステネスはただのバカだ。

カイロネイアの戦いが終わって酒に酔ったフィリッポス2世がデモステネスの決議文を韻文にして吟じたなどというのは、これも誰が言ったかわからない俗説だし(フィリッポスはデモステネスを嫌っていたが、そこまでするとは思えない)、
イソクラテスがカイロネイアの敗報を聞いて断食して死んだというのも後世の俗説である(イソクラテスがそんな馬鹿なことをするはずがない。イソクラテスの死とカイロネイアの戦いがどちらが先かは不明)。
むろんそういう俗説もあると参考までに取り上げるのはかまわないが、
いきなり解説の冒頭にもってくるとはどういうことか。
ミスリーディングだろ?

この、「イソクラテス弁論集」という極めてマイナーな本を読もうという人は、
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、或いはデモステネスと続いた正統派の古典ギリシャ哲学に、多少の疑問をもち、イソクラテスに同情的な人ではなかろうか。
フィリッポスと同時代で、彼の理解者であったイソクラテスの生の声を聞きたくてこの本を読むのではなかろうか。
この本の解説はその期待を完全に裏切る。
この本をさらに読む気が失せるほどに。
この本の著者は、単に学術業績のために、
ペルセウスの英文をたまたま翻訳しただけなのではなかろうか?
イソクラテスに対する「愛」は持ち合わせてないのだろう。

少なくとも、イソクラテスの本なのだからイソクラテスのことを、
客観的に、中立公平に、学術的に論じてほしい。
そして単に今日定説となっていることを羅列して解説とするのではなく、
イソクラテスという人の意義を掘り下げてみせてほしい。
でなければ解説など邪魔だ。

それから、「平和について」と題するイソクラテスの演説も、
これはデモステネスのような主戦論者に反対して言っているのだ、
マケドニアと争うな、テーバイと同盟してマケドニアと戦争するなど大きな間違いだと。
そしてこれは大国ペルシャに対して言っているのでないことも他の演説によってわかる。
ペルシャの脅威に対してはギリシャ人全体の問題として、一致団結して、
適切に対処しろと言っているのだから。
そりゃそうだ。
スパルタ、テーバイ、アテナイ、マケドニア、ギリシャ人が内輪もめしてる場合じゃないよと。
さっさとギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主と認めて外敵ペルシャに対抗しろ。
イソクラテスはそう言っているのだから。

月報の論評は日本の「平和憲法」や「九条」と絡めて話してしまっている。
おかしな左翼思想を持ち込むなよ。
そういうコンテクストで戦争を放棄しろ、平和条約を結べ、などと言っているわけではない。
読めば明らかではないか。

ともかくイソクラテスファン(そんな人がいるかは知らぬが)が読んだら、腹を立てるに違いない。しかしおそらくそんな人は今のギリシャ哲学研究者にはいないのだろう。

それはそうとイソクラテスがスパルタという「王国」を褒めているのは面白い。
結局マケドニアはスパルタと最終的に雌雄を決することになったのだが。
まあ、マケドニアが好きなイソクラテスが同じ王国のスパルタを好きなだけかもしれないが。
そんな彼がアテナイの敗戦を悲しんで断食して死ぬはずない。

アリストテレス

アリストテレスなのだが、
生まれ故郷のスタゲイラはともかくとして、
アタルネウス、ミュティレネ、ペッラ、アテナイなど、
マケドニアにとって重要な拠点にばかり住んでいる。
これは単なる偶然ではない。
アリストテレスはフィリッポス2世とアレクサンドロス大王のエージェントであった可能性が高い。
転居したというよりは、これらの拠点を往還していたのだろうと思う。
王太子時代のアレクサンドロスの家庭教師というのは形式的な肩書きだっただろうと考えられる。

アリストテレスはアタルネウスの僭主エウブロス、ヘルミアスの系統の人で、
ヘルミアスが死んだあとに彼の後継者になったと考えられる。
エウブロスはおそらくアルタバゾスやメントルらと同じ世界の人で、
フリュギア・ヘレスポントス地方の船主で金貸し。
ヘルミアスはエウブロスの奴隷だったが、エウブロスの死後彼のシマを引き継いだと考えられる。
そしてアリストテレスはヘルミアスの婿養子になってアタルネウスに住んだ。

アリストテレス Ἀριστοτέλης は αριστευς (best, noblest) と τέληεις (perfect, complete)
の合成語であり、この当時こんな名前の人はいない。
ソクラテスとかプラトンなどは、まあ当時の普通の人名だが、アリストテレスは後世付けられたあだ名、
というよりは弟子たちが呼んだ美称だろう。
日本語なら「尊師」とでも言うところだ。
アリストテレスが生前この名で呼ばれていた可能性はほとんどないと思う。
後世アリストテレスにあやかって彼の名を名乗った人ならいるようだ。

ウィキペディアなどでは、τέληεις ではなくて τελος (purpose) だとしているのだが、
この二つの単語は明らかに同語源であって、しかも
Oxford Classical Greek Dictionary には purpose などという訳は挙げてない。

アリストテレスの本名だが、
彼の父と息子がニコマコスという名なので、彼自身もニコマコスという名であった可能性が大である。
そうすると『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの息子が編集したものだというのだが、
これこそはまず間違いなくアリストテレス自身の学問を記したものと言えるだろう。

アリストテレスがかくまで崇拝されているのは、
彼がフィリッポス2世やアレクサンドロスのもとで何か顕著な(しかし世には知られていない)功績があったからだろう。
かつ、アリストテレスがアレクサンドロスの教師であったことから、のちに、
ヘレニズム世界の百科事典が編纂されたときに、それを無造作にアリストテレス全集と名付けた。
後世の学者たちはこの全集をアリストテレス自身が全部書いたんだと信じた(というより、
「最高完璧全集」というタイトルが先にあり、最高完璧(アリストテレス)という名前の人が書いたんだと勘違いしたのかも)。

それでまあ、フィリッポス2世とヘルミアスは同盟関係にあって、
ヘルミアスはペルシャのギリシャ人傭兵隊長メントルの謀略によって捕らえられて死んだ。
アリストテレスはメントルとフィリッポスの間のエージェントだったと思われる。
アカデメイアに遊学したのはヘルミアスのおかげだろう。
ヘルミアスの死後、アタルネウスは放棄されて、アリストテレスはミュティレネに移り、
さらにマケドニアの首都ペッラに移り、アレクサンドロスが即位するとアテナイのリュケイオンに移っている。

アリストテレスの学問上の功績はないとは言えないが、
すべてはアレクサンドロスが死んだ後に作られたものだ。
つまり、世に言うように、
アリストテレスの教えによってアレクサンドロスがギリシャを統一しペルシャを征服して大王となったのではなく、
アレクサンドロス大王がヘレニズム世界を統一したことによって、
ギリシャ人によるペルシャ学の編纂事業が成り、
かつ大王の権威を借りてアリストテレスという大哲学者の偶像が作られたのである。

状況証拠的には、どう考えてもそういうふうにしかならない。
なぜこういう学説が主流にならないのか不思議だが、
西洋の学問の源泉が中世のキリスト教神学にあり、
その神学がアリストテレスの名を冠したヘレニズム哲学に呪縛されているからだろう。

ギリシャ語訓み

ギリシャ語の読みなのだが、
ψ(psプシ)やξ(ksクシ)、或いはプトレマイオスのπτ(ptプト)のように、
或いはドイツ語のpfのように、いわゆる二重子音が普通に使われていた形跡がある。
χ(ch)、θ(th)、φ(ph) なども本来は摩擦音ではなくて、吐息の音を伴った、
二重子音とも言うべき、クホ、トホ、プホ、のような音だった可能性が高い。
ρも単にrの音ではなくて、常にhの音を伴い、ロホ、のように発音されていた。
例えばリズムを rhythm と書くのは遠い古代ギリシャ語のなごりなわけである。

Φίλιππος はローマ字綴りでは Philippos となるわけだが、
もともとの原音はプヒリッポスであったろうと思われるし、
これを単にピリッポスと書くのはどうもしっくりこない。
χ、θ、φ を単なる k、t、p の音で書きたがるのは、
たぶんギリシャ語とラテン語を両方やる日本人、
もっと具体的に言えば日本のキリスト教の牧師か神父くらいではないか、と私は疑っている。
ラテン語の文中でギリシャ語綴りを発音するにはそのほうが都合が良いからだ。

φ (ph) は今のヨーロッパの言語ではほとんど f と同じに発音されていて、
フィリップを古代ギリシャ語だからプヒリップとかピリップと書くのは非常に不便ではないか。
またフィリッポスと綴ってくれればフィが φi であるのは一義であるから、
φ に関しては、ファ、フィ、フ、フェ、フォと綴ればよいとおもう。

その他、χとk、θとt、λとρの日本語表記上の差異については、
今のところ私にはなんとも答えようがない。

世界から猫が消えたなら

どういう本が人によく読まれるのかということを知るために読んでみたのだけど、まあこのくらいあざとくないといけないんだろうなと思った。

悪魔と契約して「猫を消せなくて自分が消える」という、基本的なコンセプトはこれだけで、コンセプトがシンプルだというのも売れる本にとっては良いことなのだろう。ものごとは単純化したほうがよいこともある。

そして、飼い猫を消せなくて自分が消えることにしたということに、共感できる人には面白い本で、
それ以外の読者は捨ててる潔さもよい。

文体は、よくわからんのだが、これが村上春樹風というのだろうか。「文章が稚拙」というレビューもあったがそれは違うだろうと思う。「稚拙」にみせるテクニックはあるかもしれない。「あれ、これなら自分にも書けるんじゃないかな」と読者に思わせるくらいが親近感があって良いのかもしれない。中島敦とは正反対な戦略と言える。

神や悪魔については、これもこのくらいシンプルなほうが一般受けするのだろうが、私には絶対受け入れられないものだ。完全にステレオタイプ化され、ブラックボックス化されていて、そういうものだというのが前提で話が構築されているが、そうね、私の書くものはまず、そのブラックボックスを壊して開いてみるところから始まる。なので、こういう話の展開には決してならない。

猫がかわいい。家族や恋人は大事。友情は大切で、戦争は悪いこと。ここをまず疑い否定するところから近代文学は始まるのではないか(?)というのはたぶん私の思い込みなのだろう。前提がまず違っている。これを「感動的、人生哲学エンタテインメント」とうたっているところがもう不倶戴天な感じがする。

まともかくこういうのを喜んで読む読者というのがいて、そういう読者に本を買って読ませる業界というものがあるというのはなんとなく理解した。私が抱いていた「売れる本」というものに対する漠然とした疑問と不安を、明確に突きつけてくれた本、と言える。そう。こういう本を、私は書いてはいけない。というより、こういう本を否定するために、私は本を書かなくてはいけない。

さらに余計なことを書くと、この本の著者は、「「文系はこれから何をしたらいいのか?」この本は、理系コンプレックスを抱える文系男が、2年間にわたり理系のトップランナーたちと対話し続け、目から鱗を何枚も落としながら、視界を大きく開かせていった記録だ。」 というコンセプトで 『理系に学ぶ。』という本を書いているのだが、 この人は文系でも理系でもない。学問とは無縁な世界の人だと思う。学問と無縁な人を文系というのならアリかもしれないが。

機動戦士ガンダム THE Origin

「機動戦士ガンダム THE Origin」なんだが、comic-walker などで無料の試し読みが見れるので、読んでみたのだけど、これはねえ。安彦良和の悪いところが出てしまっているというか。「王道の狗」「虹色のトロツキー」なんかは好きで読んだけど、それとおなじノリをガンダムでやられると、正直つらいところがある。「麗島夢譚」的なノリというか。

フラウボウとアムロ、ミライとブライトの関係なんかも見ててはがゆい。

本人が描きたかったということもあるんだろうけど、描けば必ず売れるという計算もあっただろうと思う。安彦良和のオリジナル漫画なんてマニアック過ぎて誰も読まないからね。

斎藤さん アラカルト

Kindle Unlimited に反応したのは一部のコアな KDP ユーザーだけだったように思う。
多くの人々はまだその存在が意識の片隅をかすめただけなのだろうと思う。
多少売れたり読まれたりしたのは一過性だったのではないか。
一部のユーザーが読みたいものを一通り読み終わってしまうと沈静してしまう。
これが継続して、右肩上がりになる、というのは早計だった。
もちろん長期的にこれからずっと観察してみる必要がある。

「内親王遼子」がまったく売れておらず「エウメネス」はそこそこ売れているのは(といっても何千部も売れたわけではない)、
「内親王遼子」が私の完全オリジナルな架空のキャラクター、架空の世界を描いた作品であるのに対して、
「エウメネス」は世界史を一通り学んだ人には既知の世界だからだと思う。

とすると、今度の「斎藤さん アラカルト」は売り方を工夫しないと、「内親王遼子」状態になりかねない。
「斎藤さん」にはいろんな要素を盛り込んだ。いろんなタイプの読者の琴線に触れるように、
いろんなストーリーをアラカルトにしてみたのだ。
一番売れ筋のミステリーや推理こそないが、ファンタジー系の風味も少し加えてみたし、
藤原頼長、レオニダスなど、歴史物もやり、
剣豪物もやり、
三島由紀夫のオマージュみたいなものを書いた。

一通り私が書くジャンルが一冊に網羅されている。
長編にはレビューがつかない。ついててもろくに読んでないってことはもうわかっている。
短編集なのでさっと読んでさっとレビューを書くこともできるだろう、という計算もある。
「斎藤さん アラカルト」が売れなきゃもうどうしようか。あとは営業くらいしかやることは残ってないんじゃないか。

どれが面白かったか。どれがつまらなかったか。
レビューが集まると今後の参考になるのだが、そうもならないだろうなあ。

最初は「斎藤さん」というタイトルにしようと思ったが調べたら同じタイトルの漫画(「斎藤さん!」)が既にあった。
そんで「アラカルト」を付け足した。

今回三島由紀夫の「春の雪」を下敷きにして「春の雪 外伝」を書いたわけだが、
どうも、おんなじことを何度も繰り返して書いているところがある。
エフェクトとして巧んでそうしているというよりは、ぼけ老人が前書いたことを忘れて、
或いは推敲不足のために消し忘れているようなところがある。
文章もすごく切れるところと、だらだら書いているところがある。
明らかに文章の質にムラがある、と私には思える。
意味はまあわかるがこういうふうに書いた方がわかりやすいんじゃないか、これは一箇所でまとめて短く記述すれば済む話じゃなかろうか、
と思ったところも多々ある。
ほんとのところ、この「豊饒の海」という長編は、三島が死を覚悟して、遺書代わりに、一気呵成にあまり推敲もせずに書いたものであろう。
なので、長文のだらだら書かれたエッセイのような気分で読むには良いのかもしれん。
実は三島由紀夫をきちんと読み始めたのはこれが初めてなのだが。

ハルパロス

「来たか、ちょうど好い口が出来た。実はあれからいろいろ探したがどうも思わしいところがないんでね、――少し困ったんだが。とうとう旨うまい口を見附めっけた。飯場の帳附ちょうつけだがね。こりゃ無ければ、なくっても済む。現に今までは婆さんがやってたくらいだが、せっかくの御頼みだから。どうだねそれならどうか、おれの方で周旋ができようと思うが」
「はあありがたいです。何でもやります。帳附と云うと、どんな事をするんですか」
「なあに訳はない。ただ帳面をつけるだけさ。飯場にああ多勢いる奴が、やや草鞋わらじだ、やや豆だ、ヒジキだって、毎日いろいろなものを買うからね。そいつを一々帳面へ書き込んどいて貰やあ好いんだ。なに品物は婆さんが渡すから、ただ誰が何をいくら取ったと云う事が分るようにして置いてくれればそれで結構だ。そうするとこっちでその帳面を見て勘定日に差し引いて給金を渡すようにする。――なに力業ちからわざじゃないから、誰でもできる仕事だが、知っての通りみんな無筆の寄合よりあいだからね。君がやってくれるとこっちも大変便利だが、どうだい帳附は」
「結構です、やりましょう」
「給金は少くって、まことに御気の毒だ。月に四円だが。――食料を別にして」
「それでたくさんです」
と答えた。しかし別段に嬉しいとも思わなかった。ようやく安心したとまでは固もとより行かなかった。自分の鉱山における地位はこれでやっときまった。
 翌日あくるひから自分は台所の片隅に陣取って、かたのごとく帳附ちょうつけを始めた。すると今まであのくらい人を軽蔑けいべつしていた坑夫の態度ががらりと変って、かえって向うから御世辞を取るようになった。自分もさっそく堕落の稽古けいこを始めた。南京米ナンキンまいも食った。南京虫ナンキンむしにも食われた。町からは毎日毎日ポン引びきが椋鳥むくどりを引張って来る。子供も毎日連れられてくる。自分は四円の月給のうちで、菓子を買っては子供にやった。しかしその後のち東京へ帰ろうと思ってからは断然やめにした。自分はこの帳附を五箇月間無事に勤めた。そうして東京へ帰った。――自分が坑夫についての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分る。

これは夏目漱石『坑夫』の終わりの部分だが、金庫番ハルパロスは実はこの辺がモデルになっている。

うまい食い物が食いたいのではない。

Kindle Unlimited でいろんな雑誌を見ているのだが、
別に私はうまい料理屋を知りたいわけでもないし、うまい酒を飲ましてもらいたいわけでもないのだ。
うまいラーメン屋とかには何の興味もない。
うまい料理を食えばそりゃうまいだろうが、五十過ぎて食べ歩きなんかした日には太りすぎてしまう。
今ではほとんどうまいものを食いたいと思わない。
もちろん食うならまずいよりうまいにこしたことはないが、飲み歩く理由はそんなところにはない。

確かにうまい酒と巡り合わせてくれる店はありがたい。
だが、うまい酒が飲みたくて飲み歩いているのでもない。

近頃はあまりにも地域のコミュニティに深入りするのも疲れてきた。
そういうものが面白いと感じたこともあったが、五十過ぎると煩わしくなってきた。

どうすれば良いのか自分でもよくわからんのが、情報誌やテレビなんかまったく役に立たない。
ま、たぶん、最初から広告媒体として編集しているのだろうけど。