小説の体裁

twitter の自己紹介に「小説のようなもの」をKDPで出版してます、
などと書いてたのだが、
こんど出す「エウメネス2」と「エウメネス3」に関しては、
自分の作品ながら「小説のようなもの」呼ばわりするのは変な気がした。
失礼な気もする。
それで若干自己紹介を書き換えたのだが、
なんでそう思ったかと自己分析してみた。

「エウメネス1」はもともとは私が勝手に書いた「小説のようなもの」なのだが、
これはけっこう売れたので、
お金を払ってくれた人に対して失礼な気がする。
お金を払って買ってくれた人はこれを「小説のようなもの」ではなくて
「小説」という商品として買ってくれたわけである。

つまり、ものを売るということはそういうことなわけで、
自分のものだからといってむやみに卑下してはならない気がする。

「エウメネス2」と「エウメネス3」は初めて予約注文でやったが、
予約者も(そんな多くはないが)いて、
書いている最中から、読者、というより、買ってくれる人、を意識して書いた気がする。
「エウメネス1」を買ってくれた人にまた買って貰いたいという気持ちで書いた。
もっと言えば、夏目書房新社で紙の本を出版してもらい著者紹介にも少し書いてもらった(その紹介文は非常に恥ずかしいものだったが。CiNii にまで載ってしまった。なおさら恥ずかしい)。
ちょこっとだが編集会議のようなこともしたので、私が独断で出版して良いものではない
(だが、続編をちょっと書き足すというつもりで、独断で書かせてもらった。完結させたのではない。
完結させるとしたら全部で1000枚では済まないだろう。
もし今回の続編が売れたらも一度、改めて相談してみるつもりだ)。
いろんな人の意見も聞いた。
だからもうこれは「小説のようなもの」ではあり得ないのである。
「プロ意識」と言えばそうなのだろう。

で、私の場合昔からそうだったのだが、100枚のつもりで書いて、
最初の書き終わりは80枚くらいだが、手直ししていくうちに100枚になる。
しかしその後いろいろ書き足したり肉付けしたりする。
歴史小説の場合特にそうなりやすい。
文章そもそもの磨いていく。
そういう書き方を5年くらい続けてきたので、
私はそういう書き方をする人間なんだなってことがわかってきた。

最初にプロットなりノートなりを書いて書くときは一気に書く人もいるが、
私はそうではなく、ひな形みたいな作品をまず書き上げて、それから肉付けしていく人なんだな、
ってことを書きながら気付いた。

むろん、小説自体のできもこれまでよりは良いつもりだ。
良い、というより「小説」としての体裁を具えている、という感じかな。
良いものを書いた自信、というのとも少し違う。
小説としての体裁を考えずにがーっと書いてたころの作品のほうが良いかもしれない。
でも今はもうそんな純粋な気持ちでは書けない。
長編だと特にそうだ。
どうやって読者に読み続けさせようかみたいなことを考えながら書く。
自分が何を書きたいかということよりもそちらのほうが書いてて気になる。
たとえて言えばピタゴラ装置を作っている気分。
あーここで玉が止まっちゃうとか、ここで読者読むのやめちゃうよなとか、
いつの間にかそんなことばっかり気にしてる。
まあしかし、それが小説の体裁というものなのではないか。
最初は自分しか読者がいなかった。
世の中に自分が読みたい本がなくなったので自分で書くことにした。
自分のために書いたから自分で読めば面白いに決まっているのだが、
他人が読んでも面白いほうがよいに決まっている。
ただ他人が読んで面白いものというのは、私が飽きてしまって読まなくなったようなものなので、
そこの折り合いをどうつけるか。
自分にとっては面白くもなんともないが、
他人には喜んでもらえるピタゴラ装置を延々と作ってもむなしいだけだ。

エウメネス2 ― イッソスの戦い ―

最初は「エウメネス2」か「イッソスの戦い」かどちらにしようか迷ったが、結局間をとって「エウメネス2 ― イッソスの戦い ―」とした。

図版無し90枚くらいのはずが、図版あり225枚くらいになった。かなりの大作だ。最終的には250枚くらいになるだろうと思う。

「イッソスの戦い」がメインなのだが、だんだん書いていて「テュロスの戦い」もけっこういけるんじゃないかなと思えてきた。この「テュロスの戦い」だが、あまり深く掘り下げて書いたものはなさそうだ。むろん、イッソスにしろ、テュロスにしろ、アッリアノスの「アレクサンドロス東征記」を下敷きにしているわけで、こちらのほうが細かいといえば細かい。しかしほかの文献で補完したりしてかつ私なりの脚色と考察を加えているわけだから、私のほうが詳しいといえば詳しい。割と良い出来だと思う。

先に書いた『エウメネス』だがだいぶ整合性がなくなってきたので、少し書き換えた。少しだけだけど。最新版ダウンロードはアマゾンに個別にリクエストしてください。すみませんが、よろしくお願いします。変えたところというのは、まず、カルディアというポリスのことを誤解していた。カルディア == トラキアのケルソネソス半島だと思っていた。実際にはケルソネソス半島のごく一部。また、エウメネスの母をトラキア人としていたのだが、フリュギア人に統一。

しかし、『ヒストリエ』ではなぜエウメネスをスキュタイ人としたのだろうか。たぶんプルタルコスの『対比列伝(英雄伝)』の記述に引っ張られたんだと思うが、『対比列伝』は、ローマ人についてはともかくとして、ギリシャ人の記述は民間伝承レベルで、決してよろしくない。と思う。ヨーロッパからみたスキュティアは今のウクライナ辺りになるのだが、北方のトラキア人を広い意味でスキュタイ人と言ったのだろうか。そうかもしれんね。

もうほとんど完成したと思うんだが、出版予定日は繰り上げずに予定どおりやると思う。
こまごましたところはゆっくり直していけば良いと思うんだけどねえ。KDPなんだし。

ちょっとだけネタばらしすると、テュロスの戦いですごいのは、おそらくアレクサンドロスが世界で初めて「投石器を搭載した軍艦」を建造し、実戦に投入し、これによって勝利した、ということだと思う。誰か前例を知ってたら教えてください。無いと思うけど。
それまでの海戦はだいたい軍船どうしの戦いだったはずだ。一日で決着がついた。しかしテュロスの戦いは軍船による島の上に建てられた城の包囲戦だった。こんな戦いがテュロス以前にあったはずがない。これがゆくゆくは米海軍による黒船襲来、マニラ艦砲射撃へとつながっていくわけですよね。もちろん軍船の上で弩を使って撃ち合った、というようなことはあったかもしれんが。

でまあ、私としては、テュロスの戦いはもっと注目されて良いと思った。と言っても、イッソスの戦いですら、日本ではあまり話題になることがないのだよね。

あと一気に読むのは長さもあって辛いと思います。私も校正してて気絶しました。地名や人名がたくさん出てくるのは勘弁してください。そういうところは流し読みしていただけると助かります。

これを当てて、ゆくゆくは総集編を出したいよねえ(笑)

あ、あと、アマゾンが 50pt 付けてくれてるのはありがたい。

amazon.co.jp ではなく、
amazon.com や
amazon.fr で読んでもらっている人が、
もちろんそんなに多くはないが、
いるらしく、
非常に光栄だ。

特にびっくりしたのは、海外の人で、
内親王遼子をリリースした直後にオーナーズライブラリーで読破した人がいるらしいということ。
と同時に非常に恐縮した。たいへん申し訳ない気持ちだ。
というのは、
6月4日にリリースして20日くらいまではけっこういじってたからだ。
その間に200枚が260枚くらいに増えたんじゃなかったかな。
挿絵も微妙に増やしたはずだ。
まだ誰も読んでないはずだと思って。

amazon.co.jp しか見てなくて気がつかなかった。
私自身あまり KDP 作家どうしつるむことがなく、一人で勝手に書いている。
どちらかと言えば、今の日本人ではなくて、外国人や未来の読者のために書いている気持ちだ。
NHKの大河ドラマみてツイッターでわーっとパズる感じ。馴れ合い。あれが嫌いなのだ。

たとえばだが、読者や、他の作家とキャッチボールをやるような感覚で、
定期的に作品を発表していく。
そういうやり方を私はしていない。
勝手に書き、勝手に書き換え、勝手に延期したりする。
申し訳ない。
でも少しだけ救われた気持ちになったことをここに書いておく。

今回分かったことは、

* 無料キャンペーンはやらなくて良い。
* とりあえず出版して、無料キャンペーンやるまではいじる、というやり方は良くない。
* 最初から完全版を出す気持ちできちんと書く。
* リリースできないなら延期する。
* amazon.co.jp 以外もちゃんと見る。

ということだろうか。

惨敗ですよ、惨敗。

5日間の無料キャンペーンの途中だが、もう打ち切っても良いんじゃないかってくらい、
ダウンロードが少ない。

やはり、当初の予定通り、特務内親王遼子3はマンガで出すべきだった。
マンガで出して多少話題性が出れば、そこで小説で完結編を書けばよかった。
しかしまあ自分の中では「原作」を「完結」させることの方に気持ちが傾いてしまった。

「原作」を書き、そこから「シナリオ」なり「ネーム」を書いて、
さらにマンガにしようとしても、ならんわな。
原作をそのままマンガにしようとすると、膨大な背景や小物や登場人物が発生してきて、
作業量的に絶望してしまう。
だから原作は原作として置いといて、マンガは「スピンオフ」とか「外伝」みたいにして作るしかない。
我々はそういう原作のことを世界観などと言うことがある(笑)。
世界観はしかし普通は作者の頭の中にだけあるものであったり、
現物はせいぜいイラストレーション程度しかなかったりするのよね。
というのはふつうの人は一本の小説という形で完成させることはないから。

ましかしもう五年以上小説書いてあちこちに発表しているのに、
私は読者を、固定客をほとんど獲得できてなかったのだからもうこれは仕方ない。

思うに、誰も鶏を飼ってないところで鶏を飼い始めると儲かるが、
みんなが真似して鶏を飼い始めると赤字になる。
同じことはラーメン店でも小説でも言える。
今は誰でも小説書いて発表できるようになった。
KDPの初めの頃は自分もアマゾンで小説売れるようになったってのは少し珍しかった。
しかしいずれ電子の海に埋もれる日が来るってことはわかってた。
もうすでにそれは来た。

誰も鶏を飼わないうちに鶏を飼い始めた人というのが漱石や鴎外なのだよね。
ただ、文芸の場合、いったん古典となってしまうと、
古典は良い悪いという以上の拘束力と影響力を持つから、
強いのよね。それは学術論文と同じ理屈で説明できると思う。
多くの読者を獲得することは力なのだよね。
それは歴史的な継続性を持つ力。

いまも「エウメネス」だけはときどき売れる。
しかし「エウメネス」を買って読んでくれているのは「私の読者」ではない。
エウメネスが出てくる某マンガを読んでいる人たちというのに過ぎない。
エウメネスは私が書いたものの中では割と初期で、
その後何度も書き換えたから、まあそんなに悪いものではないが、
私が書いたものの中でベストだとは思ってない。
で、エウメネスなりなんなりを読んで私の読者になってくれた人。
ほとんどいない。
それはもう結論が出ている
(同じくシュピリの読者は私の読者ではない)。

売れるか売れないかということで言えば需要と供給の関係でしかない。
チラシの裏か裏でないかということも同じだ。
KDPとかpixivとかが出てくる前は、私たち素人にも、
いや出版業界の玄人でも、本だけは違う、良いものを書けば売れるはずだ、
という幻想があったのかもしれない。
しかし電子出版の現実を直視すれば、本もラーメンも鶏も同じだってことは明らかだ。
都議選ですらそうだ。

例えばスタンダールの長編小説だってああいうのがかつては需要に対して、
供給が追いつかなかったから売れたわけだ。
今も多少は需要があるだろう。しかし供給が多すぎる。
供給が多すぎる状態で有効なのはマーケティングだろう。
KDPもまたすでにマーケティングが成熟してきている。
じゃああなたもちゃんと投資してマーケティングやりますかと言われて、
やるはずがない。それは私の仕事じゃない。

昔ダウンロードしてくれてた人も実際には読んでさえいなかっただろう。
今回ダウンロードした人は一応読む気でダウンロードしたのだと思う。
その実数が見えた気がする。

まあ、この五年間で経験値だけは少しあがった。
今まで書いてきたものは遺言代わりくらいにはなるだろう。

文芸は映像や音楽とは違う。
しかし必ずしも棲み分けているわけではない。
セリフの無い手描きアニメーション作品とかPVみたいな小説を書く人がいる。
例えば村上春樹なんかはそうかもしれない。
それもまた文芸である。
そして音楽やアニメーションが好きな人は、
くどくどした台詞や説明がないそういう「空虚」な小説を好むだろう。

台詞や説明が多いアニメーションを揶揄してセツメーションというらしい。
台詞が無いアニメーションの方が高級だと考えているアニメーターは
(非商業アート系には特に)多い。
私は今までそういうものに鈍感だったかもしれない。
今まで文芸作品は文字や台詞だと思ってた、
映像や音楽とは別のメディアで表現手段だと思ってたが違うかもしれない。
ある程度書いて書き込んでみて読者の反応をみたからわかったことだ。
でまあ、20歳くらいで作家デビューするような人は(もともとそういう環境にいて)、
そんなことは最初からわかっているはずなのだ。

もちろん説明や台詞のないアニメーション作品にはある種の限界がある。
私はそういう限界を好まない。
二人か三人しか登場人物がいなければ台詞は無くとも作品は成立する。
メッセージを伝えることはできる。
私が書きたいものはどちらかといえばそういうものではない。

そういう意味では和歌のほうが、私はもっとずっと前から詠んでいたので、
少し実感しやすい気がする。
もう30年間、途中長いブランクがあるが、和歌は詠んでいた。

特務内親王遼子

特務内親王(完結編)は無事出版されました。
まだ多少手直しするかもしれませんが、読もうと思えばもう読めます。

400字原稿用紙(一太郎計算)で言うと200枚、Kindle換算で118ページなので、
「エウメネス」や「巨鐘を撞く者」「将軍家の仲人」などよりは(少なくとも文章量と挿絵に関していえば)お得感があると思います。
「安藤レイ」より長いので、私にしてみればけっこうな長編ですね。
ただまあ kindle 換算はあまりあてにはならないんだけど。
三章に分かれてて、第三章が半分くらいある。
第二章はかなり加筆した。
第一章はほとんどそのまんまだと思う。

無料キャンペーンをやるのはよりたくさんの人に読んでもらい、新しい読者を獲得し、
できれば良いレビューを書いてもらうためなんだろうけど、
もう4年ほどKDPで出してきて、今更効果もなさそうな気もするんで、
基本放置しとくことにします。
たぶん読む人は読むし、レビューを書きたい人は書くし、あまりキャンペーンは関係ないんじゃないかと思う。
昔はともかく今は。

特務内親王遼子完結編

もう文章はほぼ書き終えた。
あとはどのくらい文章に厚みをつけるか、挿絵を増やすかだが、
結局、どんなに頑張っても、小説なんてものは読んでもらえないんだってふうに近頃は思えてきた。
ヨハンナ・シュピリに関して言えば、彼女のハイジ以外の作品を読んでみたいという人は多く、それに対して翻訳する人が少なかったので多少売れたのに過ぎない。
普通の小説にしても、書く人が少なくて読む人が相対的に多ければ本は売れるはずだが、
書く人が多すぎるから売れない。
小説の需要自体、大して増えも減りもしないが、書きたい人が大勢いるから一人一人の作家のもうけは少なくなる。
アニメ・マンガ業界と同じ。

がんばってCGで挿絵を増やしてできればマンガにして出したかったが、
たぶん無駄な努力だと思うからこのくらいで出そうと思う。
特務内親王遼子1はPDFで無料で公開していたが、これも公開をやめる。
2はKDPで出していたが、これも出版停止する。
1から3まであわせたものを近日中にKDPで出版する。
我ながらうまい具合に完結させた、400字原稿用紙換算で200枚ほどで、良いできだと思うのだが、期待してもしかたない。
まあ、期待しないでしばらくお待ちください。

思えば私はこういう「プリンセス」ものを今までいくつも書いてきた。
「エウメネス」のアマストリナはそうだし、「エウドキア」はそのまんまだし、「将軍家の仲人」の喜世もそうだし、
「西行秘伝」の源懿子もそうだ。
だが根っこにあるのはディズニーのプリンセスものみたいなアメリカナイズされたステレオタイプに対する反発であり
(と同時にNHK大河ドラマ的ステレオタイプに対する反発でもある)、
そこからひねって和風の皇女にしてみたり、
ペルシャ王女にしてみたり、東ローマの女帝にしたりしている。
少しだけ主流から外す。
しかし主流から外れているというのは今のテレビドラマ的ハリウッド的価値観から外れているだけのことで、
いずれもそれぞれ主流たり得る、つまり小説となり得る価値がある、そういうものを「発掘」している気持ちで書いている。
「エウメネス」は外したつもりだったのに同じ主人公のマンガがあって少し売れてしまった。
なんか不本意だ。

竹取物語や源氏物語に限らずお姫様は昔からたくさん話に出てくる。
しかし「内親王」と呼ばれることはない。「内親王」という呼び名は奈良時代にはすでにあったのにも関わらず、だ。
そういうところもこだわりなのだが、一般読者には通じないかもしれない。

あちこちきどって加筆してみた。出だしはこんなふうになるはずだ。

> 何の恨みがあるかはしらないが、こんな風向きの日にはきっと馬賊が出る。
悪天候は彼らの宴の合図だ。
猛禽が山から舞い降りてきて、地上の獲物を掠め取っていくように、山に棲む馬賊どもが、農家の子羊を略奪し、酒盛りの肴にしてしまうのだ。
砂漠に隣り合わせの痩せた土地で、そのうえ匪賊まで出る。誰の記憶にも残ってない遠い昔、ここに住んでいた原始人が、あるいはもっと太古に、この平原を闊歩していた獣たちが犯したとんでもない罪のために、この土地は罰せられているのに違いない。こんな日に哨戒に出る稗島は、そんなふうに思わずにはいられない。
砂埃にまみれた霜が強風で舞い上がり、厚くよろった防寒具の上から肌にたたきつけてくる。

あるいは

> こんなにも王族にふさわしくない私がか。こんなにいいかげんでおっちょこちょいで自分勝手で移り気で。男にだらしなくて、男にすぐ騙される私が、よりによって、民の君にならねばならないのか。

というような台詞もある。

ヨハンナ・シュピリ初期作品集

「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」だが、 相変わらずアマゾンではまったく売れていない。 だんだん中古が値崩れしてきているがそれでも売れない。 ところが紀伊國屋書店やツタヤのオンラインショップではときどき在庫切れしたり入荷したりしているから、 多少は売れているらしいのだ。 アマゾンで中古だけものすごく高値で売られていた時期があって、 その頃、わざわざアマゾンで高い中古を買うくらいなら、 普通の書店で新品を買った方がよい、などとツイートしたことがあって、 それを見た人がアマゾンを避けているのかもしれないと思い、 そのツイートは削除した。

それで、ツタヤに「あわせて買われている商品」というのが15冊あって、 ということは、 少なくとも「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」は現時点でツタヤオンラインで15冊売れた、ということになる(もしかすると書店売りのデータも含まれているかもしれない)。 多いような少ないような。よくわからない。 ともかくツタヤで本を買う人は思ったより多いのかもしれない。 中古は別として新品を買うならアマゾンでもツタヤでも同じはずだが、なぜかツタヤで買われている。 それで合わせて買われた本なのだが、 どちらかと言えば日本文学の本が多く、 洋書の翻訳物は2冊しかない。 いったいどんな人が買っているのだろう。実に不思議だ。 ツタヤで買う人というのはたぶんリピーターだろう。 私の本だけ買った人は考えにくい。

ところでカーリルのほうもときどき調べてるのだが、 すでに250館以上の公共図書館が「ヨハンナ・シュピリ初期作品集」を入れている。 未だに入れてない県が四つある。 どことは敢えて言わないが。
当然東京が一番多いが、愛知、大阪、埼玉、兵庫などが割と多い。 神奈川は少なかったのだが、少し追いついてきた。 京都が意外にも少ないのだが、それでも少しずつ入ってきた。 ある程度県民性が見えてくる。 大学図書館がなかなか入れてくれないのは不満だ。 地方自治体の図書館に比べると圧倒的に少ない。 落ち着いてきたが図書館だけでもまだ伸びしろがある。 近いうちに300館に達するのに違いない。他の人気の本に比べれば、全然大したことはないのだけど、私にしてみれば大成功だ。 ビジネス新書などは図書館はなかなか入れないが、 逆に文芸書などは入れてもらえやすい傾向はあるようだ。 それで結局どのくらい売れているか、確かなことは出版社に聞けばわかるんだが、 怖くてできない。 私が書いたもののなかではダントツに売れていることは間違いない。 しかし増刷、重版がかかるにはまだ全然足りない。

ハイジのこどもたち

シャルル・トリッテン著「ハイジのこどもたち」を読んでいるのだが、

アルムおじさんの名はトビアス・ハイムというらしい。
なるほど、アルムおじさんの息子の名前はトビアスだから、その父の名もトビアスである可能性は高い。

トビアス・ハイムはオーストリアで傭兵をしていた。
そのときにマルタ・クルーゼという女性と知り合い、二人の男子を産んだ。
トビアス・ハイムとマルタ・クルーゼは二人して財産を使い果たして、離婚した。
そのときトビアス・ハイム、つまりアルムおじさんは長男のトビアスを、マルタは次男を引き取った。
このマルタが引き取ったほうの子はオーストリアの陸軍大佐となり、クルーゼ大佐と呼ばれる。
クルーゼ大佐の妻はマリーという名で、クルーゼ大佐はパリ駐在武官となってパリに住んでいる。
もしかするとマリーはフランス人かもしれない。
クルーゼ大佐とマリーの間には、ジャミー(ジャンヌ-マリー)、マルタという二人の娘がいる。
ジャンヌ-マリー(Jeanne-Marie)は明らかにフランス女性の名である。

一方で、ハイジはペーターと結婚して、トビアス、マルタリという男女の双子を産む。
トビアスの洗礼名はトビアス・ペーター・ナエゲリ、マルタリの洗礼名はマルタ・ブリギダ・ナエゲリ。
これによってペーターの名前は、ペーター・ナエゲリというのであろう、ということがわかる。

ちなみに名前に「リ」をつけるのは「ちゃん」づけするみたいなものらしい。
初期作品集にも出て来たが、マイエリ、ヨハネスリ、マルグリトリ、などなど。
男の子にも女の子にも付ける。
ベルリ、スヴェンリなど羊の名にも付ける。

「ハイジのこどもたち」の前編「それからのハイジ」によれば、
ハイジはローザンヌの北にあるロージアヌというところの学校でジャミーと知り合い、
ハイジはデルフリで学校の教師になるが、
ハイジがペーターと結婚するにあたって教師を辞め、
後任にジャミーを呼び寄せる、ということになっている。
その学友にして大親友のハイジとジャミーが、実はいとこどうしだった、
というのがこの物語のオチになっている。

一番気になるのは、アルムおじさんがオーストリアで傭兵になった、としていることである。
スイス傭兵がオーストリアで傭兵になることは皆無ではなかったらしい。

[Schweizer Truppen in fremden Diensten](https://de.wikipedia.org/wiki/Schweizer_Truppen_in_fremden_Diensten)

しかしこの時期、オーストリアで傭兵になった記録はない。
そもそもスイスはオーストリアから独立してできた国なので、オーストリアやハプスブルク家の傭兵になるというのは、あまり考えにくい。
本文中 p.176 に

> 当時、ナポリはフランス領だったでしょう

というのがあるが、これはおそらく誤訳だろう。
ナポリは当時ナポリ王国とシチリア王国の同君王国で両シチリア王国と言い、スペインのブルボン家の分家だった。
ブルボン家だからフランス領だと言うのならば、今のスペインもフランス領ということになってしまう。
シャルル・トリッテンが書いたフランス語の原文を読む気にはまったくなれないが、もしトリッテンがナポリをフランス領だと書いたとしたらとんでもない間違いだ(ただしナポリがフランス革命軍に占領され、ナポレオンの兄や妹婿がナポリ王になったことがあった。しかし当時まだアルムおじさんは幼すぎる。それにフランス人が国王になろうとナポリ王はナポリ王であって、必ずしもフランス領になるわけではない。同じ理屈で言えば、今のウィンザー朝のイギリスはドイツ領になってしまう)。

ともかく、スイス傭兵といえば、普通はフランスのブルボン家、ナポリのブルボン家、ヴァティカン、
この三つがメジャーであり、いずれも衛兵として常時雇われていた。
アルムおじさんの時代だと、衛兵としてのスイス傭兵は(上記の記事が完全ならば)ナポリかヴァティカンしかない。
さもなくば戦時に一時的に動員された。
第二次イタリア統一戦争(1859年)ではフランスとピエモンテの連合軍に雇われた。

マイエンフェルト駅が出来たのは1858年である。
鉄道が通ったことによって、それまでのプフェファース修道院に附属していた原始的な湯治場が開発されて、鉄道の近くの、ライン川の川岸まで源泉を引いてきて、ラガーツ温泉が出来たのはそんなに古いことではない (どうも 1868年以降のこと らしい)。
ヨハンナ・シュピリがラガーツ温泉に静養に来たのは1878年以降のはずだ。
で、仮に、最初にハイディが出版された1880年にハイディが5歳だとするとアルムおじさんは70歳。
アルムおじさんの生まれ年は1810年ということになる。
傭兵に行くとして1826年(16歳)から1845年(35歳)くらいまでだろう。
この時期ヨーロッパはウィーン体制で比較的平和だった。
だからバティカンかナポリで平時の衛兵として雇われた、と考えるのが一番無難だし、原作にも言及されているようにナポリであった可能性が極めて高い。そしてオーストリアであった可能性はほぼゼロだ(私はアルムおじさんが第二次イタリア戦争に参戦したとして「アルプスの少女デーテ」を書いた。当時50歳だったことになる。かなり無理がある。時代設定をあと20年ほど後ろにずらして、ヨハンナ・シュピリが未来小説を書いたことにしないといけない。逆に10年ほど前倒しにすることは、不可能ではないが、ナポレオン戦争当時、アルムおじさんは傭兵になるには若すぎる。ちなみに1848年にはウィーン体制が崩壊する欧州革命が起きている。多少時代設定を未来にずらせば、この戦争に動員されたと考えてみることもできる)。

マリア・テレジアの時代にオーストリアがスイス傭兵をウィーンで衛兵として雇ったことがあり、Schweizerhof(スイス広場)、Sweizertor (スイス門) などという地名が今も残るそうだ。
その後再びスイス傭兵を雇ったということは、絶対無いとは言い切れないが、かなり弱い。
或いは、この地名に引っ張られて、トリッテンはアルムおじさんがウィーンで傭兵になった、と考えたのではなかろうか。

ウィーンで子供が二人できて一人だけ連れてスイスに帰るというのも、ずいぶん無理がある設定ではなかろうか?

どうでも良い話かもしれないが、アルムおじさんをトビアス1世、アルムおじさんの子でハイディの父をトビアス2世、ハイディの子をトビアス3世、などと呼ぶのはおかしい。
というのは、アルムおじさんの家系をさかのぼって一人もトビアスという人がいないってことが明らかでなくてはならないからだ。
王侯貴族ならば一応家系が残っているから可能だろう。
或いは領主や国王となって以降、王朝成立後、1世、2世と数えるというのも良い。
ローマ教皇は世襲ではないが、まあ1世、2世と数えるのは自然だ。
しかし家系が定かでない民間人をそういうふうに呼ぶのはおかしい。

ところが歴史の浅いアメリカでは民間人でも平気で1世、2世などという。
彼らの祖先の誰かが、ヨーロッパかどこかで、同じ名前だったかもしれない、なんてことはどうでも良いのだろう。
たとえばマイクロソフト創業者のビル・ゲイツはビル・ゲイツ3世(William Henry Gates III)というらしい。
祖父の William Henry Gates I は 1891年から 1969年まで生きたらしい。
では彼の祖先はどこから来たのか?
彼のGates 家の祖先に William Henry という人はいないのか。
どうせ誰も知らないのだ。

堅信礼の贈り物

ヨハンナ・シュピリ処女作出版の経緯についてはこちらの記事に詳しく記されている。

> Johanna Spyri und Bremen: ein Beitrag zu den schweizerisch-hansestädtischen
Literaturbeziehungen und zu den schriftstellerischen Anfängen der “Heidi”-
Autorin

後書きに書いた通り。
ほんとはもっとたくさん書きたかったが、あまりに「後書き」が長すぎてもかっこわるいので、
必要最小限しか書かなかった。
中途半端に書いておくとあとで自分も忘れてしまって困るので整理しておく。
> Autor(en): Richter, Dieter

Dieter Richter はドイツ語学者。

> Zeitschrift: Librarium : Zeitschrift der Schweizerischen Bibliophilen-
Gesellschaft = revue de la Société Suisse des Bibliophiles
Band (Jahr): 31 (1988)
Heft 2

「Liberarium」という、スイス愛書学会(?)から出ている論文誌に載っているらしい。

> Die kleine Schrift kostete in Bremen sechs Grote (30 Pfennig) und wurde im Kolportagevertrieb auch von Pastor Vietor selber verkauft.

その小さな著作は、ブレーメンで6グローテ(30ペニヒ)で売られた。
また、フィエトル牧師は自ら販売した。
Kolportage は行商、Vertrieb は販売。

出典は

Titelblatt-Faksimile bei J.Winkler, a.a.O., 123. Ein Exemplar dieser Auflage befindet sich in der ZB Zürich.

Titleblatt は製本された本の中に挟まれる標題紙。
当時販売された書籍から採られたコピーということ。
ZB Zürich == Zentralbibliothek Zürich はチューリヒ市とチューリヒ大学共同の図書館。
おそらく記事に掲載されているこの画像のことだ。

vietor



> Das Büchlein ist für 6 Grote zu haben in Bremen bei C. Hilgerloh, am Brill No. 19, und bei Pastor C. R. Vietor, Domshof 27. Bestellungen von auswärts werden durch C.Hilgerloh ausgeführt.

「この小さな本はブレーメンのAm Brill 19番地の C. Hilgerloh で、また、Domshof 27番地の C. R. Vietor牧師から、6グローテで手に入る。国外販売は C. Hilgerloh が行う」と書かれている。
つまり、フィエトルは自ら売り歩いたわけではなく、セールスして回ったわけでもなく、出版社の C. Hilgerloh から分けてもらった本を、自分の教会に置いて頒布していた、ということであろう。
Domshof(教会広場) 27番地はまさにその教会(Die Kirche Unser Lieben Frauen)やらブレーメン市庁舎が建ち並ぶ、市の中心地である。
Am Brill 19 というのはその北西へ1kmほど行ったところ。
ブレーメン中心部はかつて川を挟んで[星形要塞](https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bremen_Old_Map.jpg)
の中にあったようだ。

1280px-Bremen-1641-Merian



> Das «Bremer Kirchenblatt» empfiehlt das Büchlein als Konfirmationsgeschenk: «Manche Eltern werden gern in dieser Zeit mit ihren Kindern etwas Geeignetes lesen’.»

Konfirmation 堅信礼 Geschenk プレゼント。

Konfirmation はルター派の用語らしく、英語では Confirmation。
英訳すると、affirmation of baptism、すなわち、
生まれたばかりのときに受けた洗礼を、成年に達してから自らの意志で肯定する儀式。
「堅信礼」より「洗礼肯定」のほうがいくらかはわかりやすいのではなかろうか。
この儀式は通常16歳に行われた。
それまでにゲマインデにおける初等教育は終了する。
上流階級の子らはその後で海外に留学したり、さらなる高等教育を受ける。
そうでない普通の子らは社会に出て働き始める。

「ブレーメン教会新聞」は、この小冊子を堅信礼の贈り物として推薦した。この当時の相当の父母たちが、子供たちと読むのに適したこの本を読むのを好んだ。

出典は

Meta Heusser-Schweizer, Hauschronik, hg. von K. Fehr, Kilchberg 1980, 58.

メタ・ホイッサー・シュヴァイツァー(ヨハンナ・シュピリの母で詩人)の家の歴史、という本らしい。

新撰和歌2

「新撰和歌」みてるとけっこうわけのわからない歌とか、あまり面白くない歌も含まれている。
わけのわからない歌を「古今集」などで確かめてみると、
貫之本人のせいか途中で写した人のせいかは知らないが、間違っているものも多い。

「古今集」に比べれば「新撰和歌」のほうが雑な印象だが、
そりゃまあ、「古今集」はいろんな人がきちんと校正した結果が今日に残っているわけだから、
それにくらべて貫之の私撰集のほうにあらがあるのは仕方がないのかもしれない。

で、「本朝文粋」が藤原明衡によって後冷泉天皇の時代に成立していたのは間違いないことだし、
その中に紀淑望による「古今和歌序」が当初から収められていたのもうたがいようがない。
でおそらくこれはもともと「序」として書かれたのではなくて、後で「本朝文粋」の「序」の章にまとめられたのであろうということがうかがえる。
そして「序」は「詩序」と「和歌序」に分かれており、
「詩序」には一から四がある。
和歌序は

* 古今
* 新撰
* 奉賀村上天皇四十御筭
* 中宮御產百日
* 女一宮御著袴翌日宴
* 左丞相花亭遊宴
* 賀玄宗法師八十之齡
* 讚法華經廿八品
* 春日野遊
* 泛大井河各言所懷
* 泛大井河詠紅葉芦花

となっており、みな漢文である。
歌合の序はもともと仮名で書かれたものもあって、仮名序というものがもともとなかったわけではない。

古今仮名序の初出は「元永本古今和歌集」であり、白河院の頃に源俊頼が作ったと考えてよい。
そしてこの仮名序も、おそらくは俊頼が真名序を適当に和訳したものだ。
俊頼は確かに和歌は優れているが「俊頼髄脳」などみると歌論はさんざんであって、「古今仮名序」の支離滅裂な文章と良く似ている。

それにくらべて古今の真名序は内容はともかくとして、簡潔で理路整然としている。
おかしなことをくどくど書いたり、脱線したりしてない。
貫之の新撰和歌序にしても、まあ内容や簡潔さというものはともかくとして、まっとうな文章であって、俊頼髄脳や古今仮名序のような悪文ではない。
そもそも貫之は「土佐日記」のような見事な名文を書けるひとなわけだから、
それほどの人が「古今仮名序」のような頭のおかしい文章を書くはずがない。

それで私としてはますます古今集仮名序は源俊頼がでっちあげたものであろうという確信を深めた。
古今集仮名序を、貫之が書いた、仮名文の歌論の先駆などとして持ち上げるのは大問題だ。

私としてはさらにすすめて、「竹取物語」や「伊勢物語」も貫之が書いたことを立証したいが、こちらはまだ手つかずだ。
だが文体を「土佐日記」と比較すれば良いだけだから、
貫之著かどうかを突き止めること自体は(要する手間ひまはともかくとして)それほど難しくはないだろう。

それでまあ、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、

> 内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた
> 素性
> かすが野に わかなつみつつ よろづ代を いはふ心を 神ぞしるらむ

内侍のかみ、つまり内侍の長官の尚侍は、ここでは藤原満子のこと、その兄の藤原定国が右大将でその四十の賀、という意味。
つまり、新春に若菜を摘んで献上するというのは主君の長寿を祈念する祝賀行事であった。
ここでは素性が藤原定国を祝っている。
単に春の七草を食べれば寿命が延びると信じられていただけではない。
ということは、

> 仁和のみかど、みこにおはしましける時に、人にわかなたまひける御うた
> 君がため 春の野に出でて わかなつむ わが衣手に 雪はふりつつ

これは、光孝天皇が即位する前、時康親王であったときに、父の仁明天皇か兄の文徳天皇に奉った歌ではなかったか。
年下の清和天皇、陽成天皇にささげた歌である可能性は低いだろう。

また、これも新撰和歌を見ていて気付いたのだが、『後撰集』読み人知らず

> ふる雪は 消えてもしばし とまらなむ 花ももみぢも 枝になきころ

定家はこれを本歌取りして

> みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

を詠んだのは間違いなかろう。
もちろん「秋の夕暮れ」は清少納言「枕草子」の影響だし、
『源氏物語』第十三帖「明石」

> いとさしも聞こえぬ物の音だにをりからこそはまさるものなるを、はるばると物のとどこほりなき海づらなるに、なかなか、春秋の花紅葉の盛りなるよりは、ただそこはかとなう茂れる蔭どもなまめかしきに、

の影響も受けているのである。
ただ単に禅的ダダイズムの歌ではなくて、どちらかといえば平安王朝の雰囲気をコラージュした作品であったと言うことができよう。