仕事に飽きた

楽しみは 死にたるのちに わが歌を なほ忘られぬ 人のあること

近頃終活ばかりしていて死ぬことばかり考えているような気がする。死ぬ時できるだけ苦しまずに死ぬにはどうしたら良いか。全身麻酔で意識がないうちに死んでしまうのが一番良い死に方な気がする。希死念慮とか自殺願望というのではないのだが、なんだろうな、もうこの世でやり残したことがないという人はどうやって生きているのだろうか。仕事が生きがいで、死ぬまで仕事を続けたいという人はけっこういるように思う。功成り名を遂げた人でも、やり残したことがある、というより、何かまだやってみたいという気のアル人は死にたいとは思わないのだろう。

とにかく仕事がつまらなくて仕方ない。金が十分あって辞められるなら今すぐでも辞めたい。いろんなことに忖度しながらこつこつ送りバントするみたいな仕事。とてつもなくつまらない仕事。仕事をできるだけしないことが仕事だということを最近ひしひし感じる。結局、私がやりますと言い出したやつが責任を取らされることになるのだから、何もしないのが一番ということになるし、ほんとにやりたければやればいいんだが、それは今の職場には無い。というかいろいろやりつくして飽きた。

定年までは社畜で、定年後に人生を楽しまなくては損だという人もいるかもしれないが、もちろん社畜は辛いのだけど、社畜から解放されたから即楽しいという気持ちにはなれないのだ。

今のところ私には今の職場の肩書しか社会的存在意義がない。私という人間は今働いてる役職でしか評価されていない。それはもちろんある程度満足のできる社会的地位ではあるし、また、これまで自分が努力してきた成果でもあるのだが、しかし、裏を返せば、今私が所属している組織の外では私はほとんど無価値な存在であって、私からその組織の構成員であるという属性を除けば私は単なる一人の一般市民にすぎない。私は自分のことを科学者と称することはできるはずだ。それはよいのだがしかし、一人の作家でもなければ画家でもなければ詩人でもない。このことは私には非常に苦痛だ。一人の独立した意味と価値のある人間として死にたい。

同僚と酒を飲みたいという気持ちはあるがそれは愚痴を言いたいからだ。愚痴を言ってもそのことには何の意味はないし、相手も迷惑だろう。では仕事の愚痴抜きで何か楽しく酒が飲めるかというとそんなことはなくて、たぶん話題もなくて気づまりなだけだろう。となると、仕事と関係ない赤の他人と楽しく飲んだほうがましということになる。

ここに書いていることも愚痴なのだが、ブログに何を書こうが本人の勝手だし、読むか読まないかも勝手だし、つまり、SNSなどで強制的に人に読ませるのではなく、愚痴はこういうブログなどに吐き出すのが一番よろしいということになる。

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