図書館に行って新編国歌大観って電話帳みたいな本読みながら、和歌を俺様のレッツノートでメモろうとしたのだが、
持ち込みパソコンは専用のブースに行って使ってくださいみたいなこと言われて、
その専用ブースってのは違う階にあって、しかも席が限られている。
新編国歌大観ってね、でかくて重いんですよ?
禁帯出なんですよ。
もうね、図書館。
時代についていけてねーよ、ていうか、新編国歌大観をどうにかしろっ。
Windows 8 とか最新の OSでも動くようにしろよっ。
早く改訂版だしてくれ。
図書館に行って新編国歌大観って電話帳みたいな本読みながら、和歌を俺様のレッツノートでメモろうとしたのだが、
持ち込みパソコンは専用のブースに行って使ってくださいみたいなこと言われて、
その専用ブースってのは違う階にあって、しかも席が限られている。
新編国歌大観ってね、でかくて重いんですよ?
禁帯出なんですよ。
もうね、図書館。
時代についていけてねーよ、ていうか、新編国歌大観をどうにかしろっ。
Windows 8 とか最新の OSでも動くようにしろよっ。
早く改訂版だしてくれ。
久しぶりに一太郎ではなくWordを使ったんだが、wordはコピペするときリンクとか文字サイズとか色までコピペするじゃん。
そうするとネットからコピペするときうざくて仕方ない。
一応右クリックでメニュー出してテキストだけペーストとかできなくはないが、うざい。
一応Ctrl + Alt + V で選択できるが、うざい。
思えば MacOS 9 使っててぶちきれて二度とマック使わんわーと思ったのもこの件だった。
なんか回避策あるのかな、しかし今更マックなんか使わんが。
でまあ、一太郎だと、Ctrl + V は普通にテキストだけペーストなんですよ。
あとスクロールがね。
縦書きなのに縦スクロールするでしょ、word。うざいよね。
縦書きなら横スクロールして欲しいじゃないですか。
まー一太郎にも不満がないわけじゃないのだが、例えば横スクロールがページ単位で飛ぶとか勘弁して欲しいんだが、
それでもwordよりはまし。
今度から一太郎で書いてwordで提出するときはword出力するわまじで。
不便な方が便利なことってあると思うんだな。
自分がPCで使ってる機能ってそんな多くない。
それこそ1991年当時のワークステーションのGUIで十分とか思う。
ウィンドウシステムはSunViewで十分。
あとはコンテンツだと思うのよ。
あのぬるぬるするトランジションな。マックの。
あれのどこがいいんだよ。
北条泰時はすごく地頭がよかったのは確かだが、
ちゃんと子供の頃から勉強してなくては、和歌が詠めたり、御成敗式目を作れたりするようにはならないと思うんだよね。
そうすると、誰が泰時に学問を教えたのか、ということになるのだが、ざっと調べた限りではよくわからない。
泰時は1183年生まれ、源頼家が1182年生まれなので、泰時は頼家の学友だったのではないか。
頼朝はインテリだから、子供の頃から勉強しなきゃいけないってことはわかっていたはずだ。
だから頼家に京都から呼んできた教師を付けて学ばせたはずである。
その教師とは僧侶であったかもしれないし公家だったかもしれない。
しかし、頼家についてはほとんど何も記録が残ってない。
頼朝は泰時をかわいがっていた。
もともとは頼朝から一字もらって頼時という名前だった。
頼朝が死んだ後、泰時という名に変えた。
なぜ変える必要があったのか。これもさっぱりわからない。
いずれにしても頼朝にかわいがられたということは頼朝からも学問を教わったと思われる。
実朝も聡明だったのだから、頼家もある程度頭は良かったはずだ。
頼家は蹴鞠ばかりして泰時が諫めたという話がある。
事実かどうかはともかく、これなども、泰時が頼家と一緒に学問をしていた証拠になるかもしれん。
頼家が遊んでいる間も(学問好きな)泰時は勉強をしていたのではなかったか。
北条泰時をあらためてちゃんと調べなきゃなという気がしてきた。
明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。
頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、
立派な邸宅に住んでいたとは思えない。
またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。
障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。
障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。
襖が100枚というのはいかにも多すぎる。
襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。
ちと考えにくい。
頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。
そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。
頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。
当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。
1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。
御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。
泰時はときどき六波羅に来ていただろう。
六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。
定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。
ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。
うーむ。これはどうもフィクションに仕立てた方が面白いのではという気がしてきた。
襖の両面に貼ったとすると、98枚ならば半分の48枚。
48を4で割ると割り切れて12。
1辺が12枚の部屋は72畳。
あり得るな。
北条義時と西園寺公経は親しく、
後鳥羽院は公経を殺そうとしたと日本外史にある。
公経は頼朝に近く、おそらくは関東申次的な役職だった。
というより西園寺家が関東申次の家で、公経がその嚆矢であった。
公経は平頼盛の曾孫。
徳大寺公継と葉室光親も後鳥羽院を諫めた。
光親は光俊の父。
光親は後鳥羽院側の中心人物とみなされていた。
伊賀光季と大江親広は鎌倉幕府の京都守護。
藤原秀康・三浦胤義は幕府から朝廷側についた者。
三浦義村は胤義の兄。
胤義は使者押松丸をつかわして、後鳥羽院の院宣を義村にもたらした。
義村は直ちにこれを義時に知らせ、
幕府の御家人は少なからず動揺したが、
義村は幕府の武将として参戦し、胤義は討ち死にした。
西園寺公経と伊賀光季からもたらされる情報で幕府は速やかに動いた。
まあ要するに、幕府の御家人と幕府に味方する公卿は一枚岩だった。
後鳥羽院は切り崩しを図ったがうまく行かなかった。
ということだわな。
後鳥羽院側の公卿「合戦張本公卿」一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂は処刑。
一条信能は能保の子。ただし母は坊門姫ではなく遊女。
源有雅は後鳥羽院の寵臣。
葉室宗行と葉室光親の関係はよくわからんが葉室家は九条家の家宰のようなものだったらしい。
つまり九条家は明らかに後鳥羽院派で、これに対して西園寺家が幕府派であった、ということになる。
高倉範茂も後鳥羽院の寵臣。
坊門忠信は坊門信子(実朝の正室)の兄。
坊門信子も坊門姫と呼ばれていたらしい。それはわかるが、
頼朝の妹まで坊門姫と呼ばれたのはなぜか。
幼少の頃坊門家に匿われたということか。よくわからん。
こうしてみると、後鳥羽院側の九条良経
> きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む
と幕府側の西園寺公経
> 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり
の歌が百人一首に並んで採られており、かつ公経のほうが厭世観に満ちているのは興味深い。
九条家と西園寺家の「手打ち」的なものを感じさせる。
公経が中心的なネゴシエーターになったのだろう。
公経(1171-1244)の歌は新勅撰集(1232)に採られているから、
定家(1241死去)とも親しかったはずで、
かつ、歌の内容からして承久の乱の後に詠まれたものであろう。
新勅撰集成立時にちょうど還暦を迎えている。
「百人秀歌」の最後が公経の歌になっていることからも、
公経が、少なくとも続後撰集より前までは、
百人一首の成立にかなり深く関与していたと言える。
実に興味深い歌だわな。
やはり「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだろうか。
小倉色紙成立は1235年だが、
何しろ関東申次なんで、最初から公経の歌が入っていた可能性は高い。
西園寺というのは今の金閣寺なのだな。
公経は入道前太政大臣と呼ばれているが太政大臣になったのは承久の乱の後。
出家したのはいつだかわからん。
ひとつ考え得るのは、公経と定家が生きているうちに、
小倉百人一首のプロトタイプ的なものはやはり出来ていて、
それが小倉色紙であり、百人秀歌であったかもしれない。
単に宇都宮頼綱が定家に依頼したというよりも、
幕府というか、関東申次の西園寺家からの要望があったのかもしれん。
それについて定家には異議のありようがない。
だが定家が選びそうもない凡歌が多数百人秀歌に含まれているのは確かであって、
最初はもっと少なかったのか、あるいは、
最初から百首あったとすれば、
定家の意見を参考にしつつたとえば公経自身が選んだと考えてもおかしくない。
しかしその後後鳥羽院派の九条家がのしてきていろいろと歌を付け足した。
それが小倉百人一首なのかもしれんね。
まあその後にもいろんな改竄があった可能性はあるわな。
九条良経と田安宗武。
一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、
この二人はある意味でよく似ている。
和歌をダメにした二大元凶といえる。
九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。
田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。
一方は惰弱、他方は空元気。
九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。
田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。
それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。
題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。
これらによって、
和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。
明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。
かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、
今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、
九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。
万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。
それが和歌の本質だ。
九条良経は土御門天皇の摂政太政大臣(実質的には後鳥羽院政のトップ)。1206年死去、38歳というからまだ若い。
新古今の寄人で仮名序(どうという見所もない文章)の著者。歌もたくさん採られている。
天皇や皇族で歌のうまいのは当たり前だが、摂政関白太政大臣で歌がうまいというのはかなり疑ってかからねばならない。
後鳥羽院も一応良経をほめているようだが、かなり割り引いて考えねばなるまい。
全然ダメとは言わないがかなり陳腐。
それは慈円にも言える。
良経の娘立子は順徳院の中宮。
良経の長男道家の三男頼経は鎌倉将軍(実質的には承久の乱より前から)。
その次の将軍が宗尊親王(1252-)。
面白いのは、頼朝の実母妹坊門姫は一条能保の室となって二人の娘を産み、
その一人(名前不詳)は良経の室となって道家と立子を産み、
もう一人(一条全子)は西園寺公経に嫁いで倫子を産み、
道家と倫子の子頼経が実朝の死後鎌倉将軍になっている、ということである。
つまり、道家と倫子はいとこどうしであり、共通の祖母・坊門妹を持つ。
道家と倫子の子・頼経は坊門姫の二重の曾孫であることになる。
従って実朝が死んでいきなり藤原氏が鎌倉将軍というよりは、かなり源氏の血筋というものが意識されていることがわかる。
実朝の妻が坊門信子なのだが、坊門姫という名と何か関係があるのだろうか。
[新三十六歌仙](http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html)
面白い顔ぶれだよなあ。
政治的にかなりきな臭い連中が集まっている。
歌仙といっても良い人もいるがそうでない人もいる。
これらの人々が実質的には百人一首の成立に関与していて、かつ、
宗尊親王の係累であったのだ。
藤原定家、藤原家隆。家隆は定家の友人。
俊成卿女。俊成の実の孫娘。ようするに定家の身内。
藤原為家。為家は定家の息子。
源実朝。飛鳥井雅経。雅経は定家の門弟で実朝の友人。
式子内親王は定家の門弟。というかかなり親しい妹のような存在であった。
鴨長明。新古今編者の一番下っ端。
後鳥羽院、土御門院、順徳院。いわずと知れた承久の乱の三院。
雅成親王、道助親王は後鳥羽院の皇子。雅成は実朝亡き後鎌倉将軍候補となったが、後鳥羽院が拒否。
九条良経、西園寺公経。後鳥羽院時代の権力者。
慈円は良経の叔父。つまりは九条家。
九条道家、九条基家は良経の子。
西園寺実氏は公経の子。
後嵯峨院、宗尊親王。宗尊親王は後嵯峨院の皇子。後嵯峨院は土御門院の皇子。
久我通光。後嵯峨院政の太政大臣。久我家は土御門天皇の外戚。
衣笠家良。後鳥羽院、後嵯峨院の近習か。
行意。誰?
源通具。新古今寄人。
八条院高倉。後鳥羽院歌壇。
後鳥羽院宮内卿。
藻壁門院少将。後堀河女官。
藤原知家
藤原有家。新古今寄人。
葉室光俊。宗尊親王の歌の指南役らしい。
藤原信実
源具親
藤原隆祐。隠岐配流後の後鳥羽院に親近。ふむ。
源家長
藤原秀能。藤原秀郷の子孫で武士らしい。
うーん。
定家、家隆、為家、実朝、宗尊親王あたりまでは歌仙と言ってもよい。
式子内親王を入れるのもよい。
後鳥羽院、順徳院、土御門院を入れるのもよい。
あとはどうなんだろう。
精査してみないとわからん。
ていうか新三十六歌仙とかいうのを作る感覚が、小倉百人一首みたいな切りの良い数合わせをするのに似ているんだよなあ。
両方とも同じようなやつが企んだのではないか。
日本三大なんちゃらとかいうのと同じで、頭数あわせで権威付けしようとする。
そういや宇都宮頼綱も、京都鎌倉宇都宮で日本三大歌壇とかぬかしてたらしいが、
恥ずかしいからやめろよ宇都宮。
ていうか、すべてに宗尊親王が直接絡んでいるような気がしてきたよ。
その取り巻き連中は九条道家、立子、基家の三兄弟。
プラス、西園寺実氏と倫子の兄弟。
すごくやばいにおいがするなあ。
特に基家とか。年齢的にもやばい。1203-1280。
続後撰集が出たときには40代後半。
父に似て(笑)歌は下手の横好きで、なかなか定家や為家には認めてもらえなかった。
後鳥羽院遠流歌合には歌を献じている。
続後撰集にはやっと歌を採ってもらったが為家には反発している。
なんかもうこいつ悪役の要素をすべて兼ね備えてるなあ。
馬鹿がわらわらとわいてきている感じ。
宗尊親王かあ。
けっこう大物がかかってきた感じだわな、小倉百人一首。
あとは為家と九条基家。
定家・為家はともかくとして、後鳥羽院に近すぎる九条家や西園寺家は、北条氏はいやがるわな。
で、土御門院系の後嵯峨院の皇子の宗尊親王というのは比較的ニュートラルで、
北条氏にはよかった。
つまり、やはりというか、後鳥羽院と順徳院の名誉回復は、土御門院系から鎌倉幕府に、
やんわりと要請があったということだろう。
たいへんどろどろとしてまいりました。
ある意味、百人一首成立の真相とかいうよりもこういう政治の話だけでおなかいっぱいになりそうだわー。
和歌の人たちってこういうのあまり掘らないよな。
ていうか、小倉山荘で定家がどの歌を選んだかなんてことはやはり、
わりとどうでも良いことなんだよ。
定家の権威を借りて承久の乱の名誉回復をしようとしたのが百人一首なんじゃないか。
小倉百人一首がほぼ現在の形になったのは、続後撰集が出た後だろう。
1251年続後撰集に、承久の乱の後の後鳥羽院や順徳院の御製が採られたことによって、
おおやけに、院らの名誉回復が行われた。
小倉百人一首が院らの鎮魂という形で完成した。
時の鎌倉幕府執権は北条時頼。
天皇家では後嵯峨院が院政を敷いていた。
為家を選者としたのも後嵯峨院。
後鳥羽院や順徳院の名誉回復を強く願ったのは順徳院の中宮・九条立子だったはずだ。
彼女は1247年に死んでいる。
生きているうちには名誉回復がなされなかったのだから、無念だっただろう。
だれかがその遺志を継いだのだ。
定家が明月記に宇都宮頼綱の依頼で襖絵に歌を書き記した、いわゆる小倉色紙というものが成立したのは、1235年。
承久の乱はそれに先立つ 1221年。
頼綱は鎌倉幕府の御家人だから、後鳥羽・順徳の歌など、たとえ好きだったとしても立場上、
襖絵に飾ることはできなかったし、
定家だってわざわざそんな政治的冒険をするはずもないのである。
では1235年にできたのが「百人秀歌」であったろうか。
「百人秀歌」に名誉回復された後鳥羽院らの歌を載せて「小倉百人一首」ができたのか。
おそらく宇都宮頼綱は小倉山に新築の別荘を建てた。
頼綱の娘が定家の息子為家の室になっている。
これも同じ頃のことだろう。
為家はすでに37歳。
頼綱が定家・為家父子のパトロンになったということだ。
どうだろう、いくらなんでもふすまが100もある部屋など作るだろうか。
可動式の屏風であったかもしれないが、100もいきなり画賛を書くだろうか、定家という人が。
小倉色紙は最初はもっと少ない、たとえば20枚くらいだったのではないか。
「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだとみなすのも危険だ。
後世、後鳥羽院や順徳院の歌が入った「小倉百人一首」を定家が選んだはずがない、
その矛盾を解消するために贋作されたのが「百人秀歌」かもしれない。
それでまあ、私としては、定家が選んだ20枚程度の小倉色紙というものがまずあって、
そこへ九条立子の遺言で定家自身の歌や後鳥羽院、順徳院、
立子の父の九条良経の歌
> きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかもねむ
や、定家の義理の弟・西園寺公経の歌
> 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり
などが付加されて、あといろんな歌を見繕ってちょうど100首にした。
それを見繕ったのは定家の息子で続後撰集の選者である為家その人というよりは、九条家や西園寺家の、
必ずしも歌はよくわからない、有象無象の定家の崇拝者たちだっただろう。
良経の歌が人麻呂の歌の本歌取りになっているのだが、あまりにも陳腐で笑ってしまう。
見た目は立派だが、
古今集の詠み人知らず
> さむしろに衣かたしきこよひもや我をまつらむ宇治の橋姫
とか藤原忠房
> 蟋蟀いたくななきそ秋の夜の長き思ひは我ぞまされる
などを適当にパッチワークにしただけなのだ。
この人はたぶん大してセンスのある人ではなかった。
たくさん歌を詠んだからには歌が大好きだったようだが、どれもきれいなだけで、
真心がない。
公経の歌はあきらかに後鳥羽院や順徳院の歌に唱和している。
良経よりはまだ少しみどころがある。
続後撰集と小倉百人一首がほぼ同時期に成立したとして、この時点で小倉百人一首が定家の撰だと言いたい人は誰もいなかったはずだ。
そんなことはあり得ないのだから。
しかし為家が死んだあとになると、やはり定家が選んだってことにしたい連中がわいてきて、
そのつじつま合わせのために「百人秀歌」がでてきたのではなかろうか。
それで、歌は全部で100だとして、どの歌を採るかなんてことは、
鎌倉末期まではかなり流動的で、いろんな人の「改竄」を経た可能性がある。
いわば小倉百人一首もまた、一種の二次創作なのだ。
自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。
藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。
百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。
読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。
和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。
源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。
いよいよ百人一首を書こうと思って、また調べ始めたのだが、古今集のときと違って気が重い。
古今集の気持ちのよさが百人一首にはない。
どんどん憂鬱になっていく。
百人一首は凡歌を好む。
凡人の好みをかなり忠実に反映していると言っても良い。
プロの歌人がいればそのパトロンがいる。
パトロンとは要するに摂関家である。
百人一首の時代で言えば、九条家と西園寺家。
パトロンは必ずしも歌がわかるわけではない。
というより俗物でなければパトロンなどにならんだろう。
パトロンたちは天智天皇の歌や陽成院の歌が好きなのである。
そして宇多天皇や醍醐天皇の歌のよさがわからない。
持統天皇とか光孝天皇の歌は、プロにもパトロンにも好まれるという意味で幸せな歌である。当然載せるべきである。
私ならば天智天皇と陽成院の歌をよけてでも、宇多天皇と醍醐天皇の歌を入れたい。
しかし、悲しいことに、玄人受けはしても、一般受けはしない。
一般人はリアリティよりはファンタジーを好む。
真実よりは雰囲気を好む。
実景や真情を写生した素朴な歌よりも、虚構で飾った派手な歌を好む。
これは私が小説を書いていても実感することだ。
醍醐天皇の歌をみよ。これぞまさしく古今調の神髄である。
> むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる
> うつつにぞとふべかりける夢とのみ迷ひしほどや遥けかりけむ
> あかでのみふればなりけり逢はぬ夜も逢ふ夜も人をあはれとぞ思ふ
醍醐天皇の歌は優美だが肉声である。
目の前で醍醐天皇自身が語りかけてくるようなそんな迫力がある。
醍醐天皇は歌という形をとって心を訴えている。
しかし、多くの人は、訴えるべき心もないのに歌を詠もうとする。
正岡子規は二十代の頃、その形をまねようとした。
> 物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな
> いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉
> 我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし
非常にまずい歌だ。こんな歌を詠むくらいなら、口語で都々逸でも詠んだほうがましだ。
いかにも、江戸か明治の人が詠みそうな、いくじのない女々しい恋の和歌になってしまっている。
陳腐な歌謡曲に過ぎぬ。
子規は自分の才能に絶望しただろう。だから、
> くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽のはりやはらかに春雨の降る
のような、俳句を伸ばしたような和歌を詠むしかなかったのだ。
まあ子規には珍しい、唯一の秀歌と言ってよいのだが、これなんかも、
> 春雨に二尺のびたる薔薇の枝
でも十分よさそうなもので、やはり子規は俳句の人なのである。
古今集仮名序に、「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
と言うが、醍醐天皇の歌はまさにこの順序でできている。
定家の詠歌大概に「情以新為先詞以旧可用」も同じ意味である。
古い言葉を用いて新しい心を言い表す。
西行も為家もだいたい同じことを言っている。
俳句には実は心は不要だ。
少なくとも和歌で言う心と、俳句で言う心は違う。
俳句は目の前の情景を言葉で写し取る。
あるいは情景から興る感動を言葉で表す。
和歌はそうではない。
心の中にわき起こってきた形のないもやもやとした感情を、
客観的に自己観察して、
それを言葉に表す。
このとき「紫の色」などのような譬えを用いることはあるが、
もともとは何の色も形もないもの。それが和歌で言う心である。
百人一首を調べていると絶望しそうになる。
良い歌も混ざっているが俗な歌も多い。
ただの俗な歌に御製という箔付けをしたりするからよけいたちが悪い。
御製という箔付けがなくとも良い歌はよい。
悪い歌は悪いのだ。
歌とはそういう真剣勝負なのではないのか。
しかし百人一首はあきらかにそうではない。