中庸29-1

上焉者雖善無徵。無徵不信。不信民弗従。下焉者雖善不尊。不尊不信。不信民弗從。

上なる者、善けれど徴(あかし)無し。徴なければ信ぜず。信ぜずんば民従はず。 下なる者、善けれど尊からず。尊からずんば信ぜず。信ぜずんば民従はず。

故君子之道、本諸身、徵諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑。百世以俟聖人而不惑。

故に君子の道、諸を身に本づき、諸を庶民に徵し、諸を三王に考へて繆らず、諸を天地に建てて悖らず、諸を鬼神に質して疑ひ無し。百世、以て聖人を俟ち惑はず。

統治天下的君王,要做議禮、制度、考文三事。先要根據本身的德性,然後驗證老百姓是不是信從,再查考夏、商、周三代的王者的法度而沒有錯誤。建立於天地之間而不背逆天道,質問鬼神也沒有疑誤,等到百世以後聖人出來也不會有什麼疑惑了。

天明八年戊申十月御心得之箇条並老中心得之箇条依台命松平越中守定信撰之上ル覚

一 五常五倫の道を体せられ文武兼ね備はらせられ候御事は勿論の御儀、且つ貴賎共各職分御座候ひては職に背き難き候由、恐れ乍ら上には御官位尊くあらせられ候上、征夷大将軍、淳和・奨学両院別当、源氏長者を御兼職遊ばされ候。征夷将軍に於いては一日も武備を御忘れられ難し。両院別当に於いては又、文道を御離れ難く遊ばされ候御事・御職分に成られ御座候へば、弥(いよいよ)御慎み御勤め遊ばさるべく候事

一 何ゆゑに斯くは御尊くあらせられ候と常々思し召されるべく候。斯くの如く御尊くあらせられ候は、東照宮の御神徳にあらせられ候。東照宮にも斯くの如く御尊くあらせられ候様、神慮にもあらせられず、応仁の頃より天下大いに乱れ、生民、塗炭に落ち候をお救ひなされ、大正・至仁の御徳あらせられ候に付き、天下人民、帰服奉り候ひて天下を御平治遊ばされ候。元より御尊くあらせられ候はでは天下永久に御治め難く遊ばさる御事に付き、再応の勅命に任せられ、遂に御位も御尊く成らせられ、万代無疆・御栄耀には成らせられ至り候。古人も天下は天下の、一人の天下にあらずと申し候ひまして六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候御事に御座候へば、かりそめにも御自身の者に思し召すまじき御事に御座候。将軍と成らせられ、天下を御治め遊ばされ候は御職分に御座候。然る所、上に立たせられ候ひては、おのづから御心も弛ませられ、御政事は残らず下へのみ任せられ、万づ天下の為に御心用ゐさせられ候御儀薄く御慰み事にのみ御心を用ゐさせられ、或いは上にあらせられ候ひては下の御威風に靡き奉り候によりて、自然思し召し付かせられ候事いつも宜事とのみ思し召され仰せ出だされ候儀は御筋合如何の事も其の儘御押し付け遊ばされ、御喜怒の御私情にて御賞罰の御大法を曲げられ、御愛憎の変にも御人の御進退遊ばされ候類ひはあらせられまじき御事惣て軽き輩職分におはせられ候へば御咎の所も亦重く天下の患ひにも相ひ及び候事相ひ記し候如くに御座候。

以下略

国体論と『保建大記』

[日本国体の研究](https://dl.ndl.go.jp/pid/969228/1/1) などというものを読んでいたのだが、 国体という言葉はイギリスには無いと英国大使のエリオット氏が言っていた、などと書かれていて、 実際、国体という言葉は江戸時代に入ってから栗山潜鋒が作った言葉なので、中国の古典にも無いし、インドにあるはずもないし、 ヨーロッパにあるはずもないのである。

それでこの著者は、趣意無しで出来た国には国体は無く、 趣意があって出来た国には国体がある、などと言っているのだが、 日本が出来たときに趣意なんかあったはずがない。 日本の建国がどういうものであったかは、神武天皇紀なんかからなんとなくわかるとしか言いようがない。 大陸から稲作文化なんかがわーっと日本に渡ってきて、狩猟採集社会が農耕社会になって、村が出来、国が出来ていった。 そんなふうになんとなく成り行きで出来た国であったはずだ。 世界中の国がそんなふうにしてできたように。 それがなぜかいつの間にか、日本だけが、世界にも稀な、何千年も王朝が途切れなく続く唯一の国になった。 なんでそんなことが日本でだけ起きたのだろう、という疑問から、国体という概念が出来たのだ。 そしてその問題意識を最初に抱いたのが栗山潜鋒だった。

多くの人は、日本は島国だから、たまたまうまいぐあいにそんなふうになったのだ、と思っている。 確かに偶然の要素は大きい。 室町時代なんていつ天皇家が絶えてもおかしくなかったわけだし。 でもその後四百年も天皇家は続いたし、今後もどのくらい続くかわからない。 じゃあなんで続くの?続くべくして続いているの?将来の日本のために私たちはどんなことを考えなきゃいけないの? と現代日本人の私たちにもいろいろな問題ができてくる。

とりあえず栗山潜鋒という人は先駆者だ。 彼は国体という言葉を単に「国内外に対する国の体面、体裁」「独立した一個の国としての尊厳」「主権国家としての独立性」というような意味で国体と言った。 単なる「お国柄」というような意味ではない。 栗山は、山鹿素行のような日本中心主義者ではない。 国と国の関係について言えば相対主義者である。 どの国も自分の国が中国である、というただそれだけの主張だ。

『保建大記』では、 国交のあり方、国としての尊厳、それが国体であり、これをきちんと国内外に示す、そうしないと国体を損ねる、栗山はそういうような言い方をしているに過ぎない。

『保建大記』はしかし、儒教では説明できない「日本独自の政体」がなぜ出来たのか、その独自性について初めて突き詰めて論じた書であったから、 「国体」とは自然と「日本独自の、万世一系の天皇中心の政体」という意味に使われるようになった。 そして『保建大記』そのものはあまりにも深く難しい論文だったので、次第に忘れられて国体という言葉だけが勝手に一人歩きし始めたのだ。

もちろん『神皇正統記』の著者北畠親房も、日本だけ王朝の交替や革命というものがなくて天照大神からずっと皇位継承が連綿と続いているのは不思議だ、ということには気付いていた。 最初にそのことを明確に記したのは親房だ。 だが親房は、摂家に代わって武家が台頭してきたが、再び天皇親政の時代が来るのじゃなかろうか、という楽観的観測を持っていた。

栗山潜鋒の時代には、摂家独裁から武家による幕府ができ、再び幕府ができ、三度幕府が出来た。 こうして完全に武家の世の中になったにも関わらず、なぜか皇統というものは太古から連続している。 つまり、国の政治の実権を握るものは(中国の王朝のように)交替していくが、皇統は連綿と続いている。 どうやら中国と日本では異なる原理に王権は基づいているらしい。 ただの偶然も三回も四回も続けば必然になる。 日本の王権は儒教の論理では説明が付かないのではないか。では日本独自の政体論が必要なのではないか。 こうして生まれたのが国体論なのだから、日本以外に国体という言葉があるはずがないのである。

徳川家康は天皇を大事にしようとか日本の君主は天皇だとか、そんなことは別に考えてもいなかっただろう。 死に物狂いで戦っていてたまたま最後まで勝ち抜いて、頼朝や尊氏にならって幕府を開いたというのにすぎない。 何か趣意があって幕府を開いたはずがない。 家康はいきあたりばったりにそれらしい幕府を作り、天皇にそれらしい待遇を与えたのにすぎない。 家康は足利ご一家の吉良家を高家という旗本の身分で残して珍重した。 家康にとって天皇家も高家も似たようなもんだ。

しかし松平定信くらいまでくると、今更ガチンコ勝負で諸侯を押さえつけて、国を治めようなんて考えているはずがない。 もうあんな実力主義の時代はこりごりだと思ってるはずだ。 天皇の権威を利用したほうが、武力を行使するよりずっと有利だ。 ならば利用しようということになる。 最初に国体という趣旨があったはずがない。 国を治めるのに何か趣旨が必要になったから国体ができた。 だから、松平定信は水戸学や宣長の「みよさし論」などを採り入れ、頼山陽にお墨付きを与えて、大政委任論というものを確立したのだ。 江戸時代の国体論というものはつまり大政委任論のことだ。 天照大神から天皇家に委任された国を治める権限を、天皇からさらに征夷大将軍に委任しているという構図。 大政委任論からは大政奉還論も同時に出てくる。 大政委任・大政奉還論というのはつまり中国の易姓革命理論に相当するのだ。

それでまあ、戦前戦中の国体論は、栗山潜鋒や松平定信や本居宣長や頼山陽の役割というのがよくわかってないので、非常に観念的な国体論になってしまっている。

本居宣長が松平定信に与えた影響は知られている以上に大きいはずだ。 国体論は北畠親房-栗山潜鋒-本居宣長-松平定信-頼山陽-水戸斉昭-吉田松陰というようなラインで出来ている。 その中で一番重要で難解なのが栗山潜鋒なのだが、 驚くべきことに栗山はかの『保建大記』をわずか18才で書いたのだ。 そしてわかったつもりでいた『保建大記』を改めて一字一字読んでいくと、実はまだ何もわかってなかったことに気付く。 それでまあ、『保建大記』をどうにかせんといかんと今は一生懸命読んでいるところだ。

栗山潜鋒という人があまり知られていないのは彼が重要でないからではない。 わかりにくいからだ。ほとんど誰も手を付けられないからだ。 頼山陽ですら普通の人は四苦八苦する。頼山陽は多少漢文に親しんだ人にはなんてことはない。 本居宣長だって別に難しいことは何も言ってない。 山崎闇斎だって荻生徂徠だって一通り読んでみたが別に難しいことは何も言ってない。 だが栗山潜鋒はめちゃくちゃ難しい。 いつまでたっても一般人に知られるはずがない。

キリリと引き締まった短編

私が好きな作家、というか、天才だなと思えると言うか、尊敬する作家は芥川龍之介、志賀直哉、中島敦などなのだが、皆キリリと引き締まった短編を書く人たちだ。夏目漱石や村上春樹にそういう短編があるかと言えば無い。 実際芥川や志賀の長編を読んだことがあるかと言えばまともに読んだことは私はないのであって、短編の印象だけで彼らの才能を判断している。 中島敦は全集をたびたび読んだから、おそらく相当好きなのだろうと思う。だが長いものでもせいぜい李陵とか、スチーブンソンの伝記くらいでそんなに長いものはない。 菊池寛も好き。 長いものでまともに読んだのは日本外史くらいじゃないか。 あとはハイジとか? ヨハンナシュピリは好きな作家と言ってもよい。 嵐が丘は読んだ。エミリーブロンテはたしかに天才だ。スタンダールは挫折したが、嵐が丘はきっちり最後まで読んだのだから。あの気が狂ってる感じがとても良い。

昔良いなと思ったキンドル作家の作品を読み直すとそうでもないことがある。未知の作家には自分の趣味を投影して勝手に想像して読んでしまうからかも知れない。その作家を知り、作品傾向を知るにつれて初期作品のあらがみえてしまうのだろう。

世界から猫が消えたなら

どういう本が人によく読まれるのかということを知るために読んでみたのだけど、まあこのくらいあざとくないといけないんだろうなと思った。

悪魔と契約して「猫を消せなくて自分が消える」という、基本的なコンセプトはこれだけで、コンセプトがシンプルだというのも売れる本にとっては良いことなのだろう。ものごとは単純化したほうがよいこともある。

そして、飼い猫を消せなくて自分が消えることにしたということに、共感できる人には面白い本で、
それ以外の読者は捨ててる潔さもよい。

文体は、よくわからんのだが、これが村上春樹風というのだろうか。「文章が稚拙」というレビューもあったがそれは違うだろうと思う。「稚拙」にみせるテクニックはあるかもしれない。「あれ、これなら自分にも書けるんじゃないかな」と読者に思わせるくらいが親近感があって良いのかもしれない。中島敦とは正反対な戦略と言える。

神や悪魔については、これもこのくらいシンプルなほうが一般受けするのだろうが、私には絶対受け入れられないものだ。完全にステレオタイプ化され、ブラックボックス化されていて、そういうものだというのが前提で話が構築されているが、そうね、私の書くものはまず、そのブラックボックスを壊して開いてみるところから始まる。なので、こういう話の展開には決してならない。

猫がかわいい。家族や恋人は大事。友情は大切で、戦争は悪いこと。ここをまず疑い否定するところから近代文学は始まるのではないか(?)というのはたぶん私の思い込みなのだろう。前提がまず違っている。これを「感動的、人生哲学エンタテインメント」とうたっているところがもう不倶戴天な感じがする。

まともかくこういうのを喜んで読む読者というのがいて、そういう読者に本を買って読ませる業界というものがあるというのはなんとなく理解した。私が抱いていた「売れる本」というものに対する漠然とした疑問と不安を、明確に突きつけてくれた本、と言える。そう。こういう本を、私は書いてはいけない。というより、こういう本を否定するために、私は本を書かなくてはいけない。

さらに余計なことを書くと、この本の著者は、「「文系はこれから何をしたらいいのか?」この本は、理系コンプレックスを抱える文系男が、2年間にわたり理系のトップランナーたちと対話し続け、目から鱗を何枚も落としながら、視界を大きく開かせていった記録だ。」 というコンセプトで 『理系に学ぶ。』という本を書いているのだが、 この人は文系でも理系でもない。学問とは無縁な世界の人だと思う。学問と無縁な人を文系というのならアリかもしれないが。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

特務内親王遼子2

CGをすべて clip studio と blender に移行して、 autodesk sdk 由来のプラグインとかも使わずに、
まあ完全商用利用可能な態勢が整ったんで、 せっせと続編書いてCGも描いて、 kindle で出すことにした。

同人出版のラノベに見た目は非常に近いが、 内容は全然ラノベではない。 「青春ラブコメ・ハーレムもの」に分類することも可能かもしれないが、 たぶん違うと思う。 どちらかと言えば近代アジアの軍事・政治ものというか。 『ジャッカルの日』とかそんな感じ?

遼子のモデルは川島芳子なんですけどね、 バレバレだけど。 安彦良和の『虹色のトロツキー』の影響を受けてないとも言いがたい。 タプイェンなんて麗花の丸ぱくりだと言われればそうかもしれん(麗花は李香蘭こと山口淑子がモデルであるという)。まあそこはオマージュってことで。いずれにせよ『虹色のトロツキー』なんてマイナーな漫画、一般人が読んでおもしろいともおもえんよなあ。

世の中に受け入れてもらえるのかどうかしらん。ていうか、変に狙い過ぎ、はりきり過ぎてて外してなきゃいいなと思う。

まだ続きがあるんで、実はストーリーはもうラストまでだいたい考えてある。勘の良い人(近代中国史に詳しい人)ならもしかすると部分的には予測つくかも。完全なフィクションですがね(一応のお断り)。『虹色のトロツキー』のオチとはだいぶ違うと思う。まあ、これまで書いてきた小説の同工異曲なんで、類推は可能なんだが、そこまで読んでくれている読者がいるとも思えん。

安彦良和はおもしろいよね。『王道の狗』『三河物語』『クルドの星』あたり。『麗島夢譚』は連載中だが、微妙。安彦良和はおもしろいのとおもしろくないのがあるから困る。日本神話ものはたいていおもしろくない。近代史がわりとよく、古代史や神話ほどつまらない傾向がある。『アリオン』も話としてはつまらない。『アレクサンドロス』は読んでみたいがつまらなかったらどうしようって感じ。外れなにおいがする。

新井白石

新井白石は面白い人だとは思うんだけどね。

ヨワン・シローテも面白い人だから、新井白石と一緒に吉原にお忍びで遊びに行った、そこでやはりお忍びで来てた将軍家宣とばったりでくわした、なんて話を書きたいなと思ったんだが、キリスト教徒の世界では彼は殉教者か聖人のように扱われているらしいんだな。だからどうにもいじりにくい。ああいう世界とへんに関わりもって文句言われるのはやだ。

新井白石もいろんな人がもう書いてしまってるから、普通に書いてもうまみはないのよね。

後は、まったく架空の殉教者と架空の為政者とまったく架空の国をでっちあげてそこでファンタジーものにするとか。ファンタジーもそういう目的であれば書いてみたいよね。だが、新井白石とヨワンの話はできれば実名で書きたいよなあ。ファンタジー仕立てにしておもしろみが却って益す場合と、全然そこなわれてしまう場合とあると思うんだ。

近世和歌撰集集成

上野洋三編「近世和歌撰集集成」明治書院全三巻。新明題集、新後明題集、新題林集、部類現葉集などの堂上の類題集など。他には若むらさき、鳥の跡、麓のちりなどの撰集。これらは地下の巻に入っているのだが、通常は、堂上に分類されないだろうか。私家集はない。国歌大観にもれた珍しい近世の撰集というだけあって、かなりマイナー感がある。しかもこれまた電話帳。なぜか貸し出し扱いになっていたが、家に持ち帰ってももてあますだけなので、とりあえずそのまま借りずに返却した。借りたくなったらまた行けば良い。「近世和歌研究」加藤中道館。論文集みたいなもの。それなりに面白い。

霊元天皇

車をも止めて見るべくかげしげる楓の林いろぞ涼しき

契沖

我こそは花にも実にも名をなさでたてる深山木朽ちぬともよし

数ならぬ身に生まれても思ふことなど人なみにある世なるらむ

高畠式部。
江戸後期の人だが、90才以上生きて明治14年に死んでいる。
景樹に学ぶ。少し面白い。

春雨に濡るるもよしや吉野山花のしづくのかかる下道

さよる夜の嵐のすゑにきこゆなり深山にさけぶむささびの声

なかなかに人とあらずは荒熊の手中をなめて冬ごもりせむ

最後のはやや面白いが、

なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり

なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ

などの本歌がある。「桑子(くはこ)」とは蚕のこと。「なかなかに人とあらずは」は「なまじ人間であるよりは」の意味であるから、「なまじ人間であるよりは荒熊になって、てのひらでもなめて冬ごもりしようか」の意味か。

なかなかに人とあらずはこころなき馬か鹿にもならましものを

これは狂歌(笑)。

なかなかに人とあらずは花の咲く里にのみ住む鳥にならまし

子規と景樹

改めて歌よみに与ふる書を読んでみると、子規が景樹を褒めていて驚いた。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。

「古今貫之崇拝にて見識の低き」とはおかしな言い方だ。だいたいだじゃれがすきなのは貫之だけじゃない。古今がすきなのも貫之だけじゃない。当時の歌人はみなだじゃれが好きだったし、人麿だって好きだった。業平だろうが小町だろうが和泉式部だろうが、竹取物語だろうがみんなそうだ。

景樹の歌に俗なものが多いのはそのとおり。

しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。

それはそうだ。時代が下れば必ずしも悪くなるばかりではない。良くなることだってあり得る。そもそも、景樹は「貫之を崇拝」していたのではあるまい。古今を手本にして学べと言っているだけだろう。そうするとだいたい後の世の歌も詠める。宣長が言っていることとほぼ同じ意味だと思う。

あをによしならやましろのいにしへをまなばでなどか歌は詠むべき

これは、今思いついた歌。

景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太(りょうた)に比するが適当と思われ候。
蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣き有之候。ここの処よくよく闊眼を開いて御判別あるべく候。

蓼太とは大島蓼太という人のことらしいが、よくわからない。景樹のどの歌が良くどの歌が悪いということを具体的に例を挙げてもらわないと、子規の真意を掴みかねる。景樹は確かに狂歌まがいの歌や俳諧歌をたくさん詠んでいる。そういうのは駄目だがまじめに詠んだのは良いと言いたいのか。わかるようにきちんと指摘してくれないと卑怯だ。だいたい景樹というのは幕末近くまで生きていたのだから、
江戸の終わりまで歌詠みの名人というのはいたのであり、そのこと自体、和歌が江戸末期まで生きていた証拠であり、その弟子が無様だからといって、和歌全体が駄目な理由にはなるまい。

真淵は雄々しく強き歌を好み候へども、さてその歌を見ると存外に雄々しく強き者は少く、実朝の歌の雄々しく強きが如きは真淵には一首も見あたらず候。

実際、真淵の歌はあまり雄々しいものはなく、どちらかと言えば古今調に見える。良寛の方がはっきりと万葉調がわかる。それはやはり時代が下って万葉調に馴れたからだろう。

もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり

契沖の歌にて俗人の伝称する者に有之候へども、この歌の品下りたる事はやや心ある人は承知致しをる事と存候。

漫吟集にある歌だが、そもそもどうでも良い歌だ。なぜ子規がわざわざこの歌を攻撃しなくてはならないのか。この歌が駄目だとしてなぜ和歌が駄目だということになるのか。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花

この躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。

私もこの歌は駄作だと思う。だからどうだというのか。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる

「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事を三十一文字に引きのばしたる御苦労加減は恐れ入つた者なれど、
これもこの頃には珍しき者として許すべく候はんに、あはれ歌人よ、「闇に梅匂ふ」の趣向は最早打どめになされては如何や。

言いたいことはわかるが、何を批判したいのだろうか。一言で言えることを三十一文字に引き延ばすことがいけないといってしまうと、秀歌の多くがそれにひっかかる。「難波津に咲くやこの花」などからしてそうだ。「春になって花が咲いた」というだけなのだから。やはり、何がいいたいのかわからない。俳句ならば文字数を惜しむということはあるだろうが、いや、俳句だからこそそういう発想が出てくるのであり、和歌の場合、そこに囚われずにもっとさまざまな技巧のこらし方があり得る。たとえばわざと文字数を浪費するとか、わざと無駄な言い回しを使うとか。長ければ長いだけ情報を詰め込むこともできればわざと冗長にすることもできる。子規が実朝の歌と言われる歌

もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原

を、助詞や助動詞が少なく名詞が多く、動詞も現在形で短く、

かくの如く必要なる材料を以て充実したる歌は実に少く候。

などと言ってほめているが、これこそまさに俳句的発想であって、和歌というものは名詞が多ければ良いというものではない。子規はそのへんがまるで理解できてないのではないか。