漫画について熱く語られているので反応してみる。

[須賀原洋行氏のご批判について](http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-6c8a.html)。

うーんと、つまり、出版社があり編集長が居て編集者が居て作家があるというシステムと、同人誌みたいにそんなものがまったくない形態と、併存しているのだが、同人誌とかブログとかそういうゲリラ戦術的なものが有効な場合もあるし、技術の進歩で急に発展することもある。ていうことではないのか。

発端は佐藤秀峰のサイトだと思うのだが、ここは余りに特殊すぎて、ただ話がややこしくなるだけな気がするなあ。

ブログの世界でかつて起きた変化、つまり、同人レベルの発表の場が、なんか自己組織化していって、いつの間にかオンライン化して収益も上げてきて、既存の出版形態の脅威になるにはまだ時間がかかりそうで、そのプロトタイプとして佐藤秀峰のサイトがあるとはちと思えない。

それはそうと最近金が無いので、通勤時間つぶしに雑誌を買うという、長年続けた習慣もやめようかと思っている。

亦不知其所終

ブログタイトルを変えてみた(笑)。
「不確定申告」ははてなに残しておこう。
ちなみに「亦不知其所終」とは、北条高時の息子、時行が南朝側について高氏と戦い、
「どこで死んだかわからない」と言われている(洞院公賢の日記園太暦、今川了俊の難太平記)ことによる。
ただし、捕らえられて斬首されたという記録(鶴岡社務録)もある。

いずれにせよ、
無名の一兵卒がどこかでのたれ死んでも「不知所終」などという記録が残るはずもなく、
或る程度有名な人でいつ死んだかわからないからそのように歴史に記されるのだろうと思う。

ネットで調べてみると「不知所終」は墓碑銘に使われることも多いようだ。
もちろん、歴史書にもかなり出てくる。

[アンサイクロペディアの北条時行](http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E8%A1%8C)が秀逸すぎる件について。
これもやはり極楽丸氏が主に執筆しているようだ。

範頼@アンサイクロペディア

[アンサイクロペティアの源範頼](http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%BA%90%E7%AF%84%E9%A0%BC)
の記述が異様に詳しくて笑えた。

主な執筆者は[極楽丸](http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E4%B8%B8)という人のようで、
他にも
[源頼家](http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%B6)
などを書いている。

なるほど、義経とか頼朝とか北条政子辺りの有名どころだといろんな人が編集に関わりあってくるのだが、
範頼とか頼家などのどっちかいえばマイナーな人物だと、
一人の編集者の単独執筆のようになるわけだよなあ。

千早城と吉野城

新田次郎の「新田義貞」をさらに読んでいるが、あまり気持ちの良い話ではない。
いちいち作者が解説をしているのもいらいらするし、
太平記が元々小説だから、自分も小説家として同じような解釈はしたくない、
などとどうでも良いことを書いている。

千早城がなぜ落ちなかったという理由の第一に、寄せ手にやる気がなかったから、
というのがあるのだが、これもやはりおかしい。
たとえば同時期の戦闘では、笠置城が落ちて、後醍醐天皇は捕らえられて、大塔宮護良親王は落ち延びて、
吉野山金峰山寺にたてこもるが、やはり激戦の末あえなく落城している。
それからさらに高野山に匿われ潜伏することになる。
またそれより先、北条高時が得宗の時代に蝦夷の反乱が起きていて、やはり鎮圧されている。
従って当時の鎌倉幕府の御家人どもがまるでやる気がなくてそれで小さな山城一つ、一年近くも落とせなかった、
と結論付けるのはやはりおかしいだろ。
護良親王は素人同然だったから負けた、
しかし、楠木正成は、功名第一で利己的で猪突猛進な関東武者を翻弄するような、
ある種の才能があったと考えるのが自然ではないか。

まあしかし、天皇か親王であれば、戦は素人で、
ちょっと攻めればすぐ落ちる、
功績もわかりやすい。
しかし、田舎侍の山城を落としたところで、
ほんとに報償があるかわからんし、
万一負ければ大損だし、
と思えば戦意は衰えるかもしれんわな。
しかしそこが楠木正成のねらい目で、
だんだんに幕府を切り崩し、離反する勢力が出てくれば目的は達したわけだから。

楠木正成があっさり湊川の戦いで戦死するのは不思議で、
南朝挽回の機会はその後何度もあったと思うのだが、
まあよくわからん。
楠木正成の戦術は常に劇場的な効果をねらったものだから、
一番劇的に死ねるタイミングだったから、
つまり生き延びるより死ぬ方が効果が高いと思ったから、死んだのではないかとさえ思えるよな。

営業なのか。

なんか、店長がバイトをどなる声を客に聞かれちゃまずいだろ、さらに言えば、
店長が客を説教しちゃいかんだろ、
みたいな意見を言うひとが多いようなのだが、
どちらかといえば普通のサラリーマンか営業職とかそういうたぐいの人たちが、自分の境遇を居酒屋業界に投影して、
勝手に腹を立てているように思える。

私の知る限り、居酒屋というところでは、店長なり店員なりが、
客をたしなめたり、説教したり、しかりとばしたり、あるいは出入り禁止にしたり、
警察に通報したりするのが日常茶飯事な場所ではあるまいか。
酔っぱらい客というのは、普通の意味での顧客(笑)ではない。
ある種の珍獣である。
しらふならともかく、飲んで酩酊してるわけで、
かつ、気が大きくなっているので、
何かしら不埒なこともやりかねない。
男ならまあともかく女性店員などはいろいろひやかされたり、ちょっかいだされたり、
つけまわされたり、とかまあ、何があってもおかしくない世界なわけでしょ。

たとえば酔いつぶれたり、寝たり、騒いだり、暴れたりすれば、当然怒られるだろう。
いろんなケースがあり得る。
私自身、記憶をなくしていることはしょっちゅうだし、
それでもなんとか他人に迷惑をかけないよう、
あぶなかっしい飲み方をしていると思う。
そういうなんというか、修羅場なケースを想定した上で、
ビジネス論とかマーケティング論みたいなことを語っているのだろうか。

[バイトしている居酒屋の持ち込み対応で板挟みになりました : キャリア・職場 : 発毛小町](http://d.hatena.ne.jp/RPM/20090819/izakaya_banana)

法住寺合戦

[法住寺合戦](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E4%BD%8F%E5%AF%BA%E5%90%88%E6%88%A6)。
これはひどい。
義仲も家人にいさめられ、
後白河法皇も公家らに諫められているが、どちらもひかなきゃこうなる罠。
首都を制圧している者としてはクーデターに出るしかなく、
また義仲に最後通牒を出しておき、
平知康なる宮廷人に比叡山と園城寺の僧兵を率いて義仲を討伐させようとしたとすれば無謀としか言えない。
なんかまあめちゃくちゃな市街戦だったようだな。

平家が都落ちはしたものの、南海道に天皇を擁して勢力を保っている。
源義仲が京都を占拠しているが、乱暴者でかつあまり武力もあまりあてにならない。
鎌倉には頼朝が居て、さらに奥州には藤原氏がいる。
このような状況において、もし自分が後白河法皇の立場だったらどうするか。

うーんと。
たぶんだが、平氏と休戦して安徳天皇に京都に戻ってもらう条件で、平氏全員恩赦。
かつ、義仲と頼朝の仲裁。
院政が平氏と源氏をうまくコントロールできるとわかれば、
自然と院政が強化されて、しばらくは安泰だったのではないか。
義仲と全面戦争に発展し、頼朝の介入を受け、ゆくゆくは平氏も藤原氏も滅亡し、
権力が幕府に集中するというのが最悪の選択肢だったわけだが。
まあ、時代の流れとしてはそうなるしかなかったのかもしれんが。

切腹

腹を切って内臓露出しただけじゃ死ねないんだよ。
一日くらいは絶命しないこともある。
だから、江戸時代に様式化されると、苦しまないよう介錯が始末してくれる。

もともとは苦しんで恨みを残して、周りに迷惑をかけて汚く死ぬための死に方だったわけだし。

だから、今回の切腹は、割と正しいやり方だったと思うよ。
歴史的には自分の死をもって嫌がらせをするために切腹する場合もあり、
きれいに死ぬのが切腹とは限らない。

逆に、ブラックホークダウンみたいに、大動脈が切れれば30秒くらいで出血多量で死んでしまう。
手当が間に合わない。

石橋山と石垣山

石橋山は源頼朝が挙兵後に敗れて真鶴から安房へ海路逃げたという、古戦場。早川漁港から南に少し行った海っぺり。
石垣山は秀吉の小田原攻めで一夜城が建ったところ。生命の星地球博物館の近く。
場所も近く紛らわしいが別の場所。

* [佐奈田霊社](http://www4.tokai.or.jp/sanada-reisha/)

一度まとめて観光しておかねばな。