西園寺公重

定家を調べていて、ついでに西園寺家についてもずいぶん調べたのだが、そうすると南北朝の頃の西園寺家について、いろいろ疑問がわいてきた。
西園寺家は関東申次であり、公家ではあるが、北条得宗家との関係が深い。
北条氏が滅んでも当時の当主の公宗は北条高時の弟の泰家を擁立し、後醍醐天皇を討って、幕府を復興しようとした。
ところが公宗の弟の公重は公宗を後醍醐天皇に密告し、公宗は処刑される。建武の新政の最中、1335年のことである。
同じ年、高時の息子の時行(当時は元服前で長寿丸)を擁立した中先代の乱が起きるのだが、泰家と時行はおそらく連絡を取り合い同時に蹶起しようとしたはずだ。

公重は後醍醐天皇の信任を得るが、そもそも建武の新政で西園寺が鎌倉時代ほど優遇されるということはあり得ないのである。
足利尊氏は1335年にクーデターを起こす。
1336年に尊氏はいったん九州に落ちるが、湊川の戦いで盛り返し、京都を制圧し、後醍醐天皇は吉野に逃れる。
しかし公重は1353年まで北朝にいたことになっている。

風雅和歌集が1346年になるがこれには公重の歌も入っているので、公重は北朝の公卿であったことになる。
その後、新葉和歌集にも歌が採られるがこのときにはすでに南朝の公卿になっていたことになる。

和歌と詩

詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。

詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。
或いは押韻がある。
そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。
中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。
この四行を核として普通はもっと長く続く。

ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。
最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。
しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。

日本語には基本的には母音の長短は無い。
強弱はあるが、しかし和歌では無視される。
則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。

押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。

つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。
他の詩形と比べてみるとそれが如実である。

和歌は詩というよりはパズルである。
短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。
その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。

和歌は完全な文法をそなえている。
名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。
そして完全な修辞を駆使できる。
暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。
言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。

日本にも歌謡はあったわけである。
和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。
さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。
俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。
少なくとも普遍的概念としての詩ではない。
俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。
俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。
逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。

メディアの業

すでに[靖国神社合祀](/?p=16623)、[産経購読10年](/?p=16491)、[地方紙5紙の社説がソックリ。](/?p=1635)
などに書いたことの蒸し返しになるが、
私は2006年8月時点で日経を見限って、以来ずっと産経を読み続けていることになる。
ということは現時点でもまだ10年経ってないわけだ。

> 2つ目の話題は、元宮内庁長官の日記と手帳に関する報道の件です。昭和天皇が太平洋戦争のA級戦犯の靖国神社合祀について不快感を示していたという報道をしました。これは1面トップで取り上 げ、国際的なスクープになりました。

> 日経がなぜ報道したかというのは、新聞としての原点で考えたということです。いろいろな検証の結果、正しいと判断した事実があります。これを1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ、1年後に公表したとします。これこそまさしく政治的利用と言えるのではないでしょうか。

> 正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える、それが政治的にどういう影響を与えようと、読者にまず知らせるという行動をとる。これは新聞に限らずメディアの非常に重要な基本であり、日経は日経としての編集方針を忠実に守って掲載しました。

日経が富田メモを入手したのは2006年5月。
もちろん誰かが意図的にこの時期を狙って、わざわざ日経というメディアを選んでリークしたのである。
記事にしたのは2006年7月20日。
「1カ月か1カ月半後のなんらかの政治的なイベントに影響を与えかねないから押さえ」というのはつまり、
小泉総理の総裁任期満期総辞職とその前に行った靖国参拝を言っているわけである。
普通に考えれば、富田メモをリークした者は、小泉を靖国に参拝させたくない誰かである。

日経は発表を若干遅らせることはできたがそうしなかったという。
逆に小泉靖国参拝にぶつける形でセンセーショナルに煽ったのだ。
終戦記念日まで一ヶ月きった時期にトップ一面でだ。

いや、一番の問題は、この日経のスクープ以来世論が、
昭和天皇が靖国参拝しないのはA級戦犯が合祀されているからだということに固まってしまったことだ。
詳細に分析すれば、昭和天皇が靖国参拝しない理由は他にある。
きちんと分析したきちんとした論文として発表していれば世論はこれほど騒がなかった。
しかし日経はその真逆のことをしたのだからやはり罪は重い。

報道はつねに脚色される。報道は事実ではない。
報道と事実はむしろ対極にある。
事実を称したければ仮説の一つとして提示すれば良いだけである。

メディアは単に事実を即座に発表しましたではすまされない。

> 正しいと検証された歴史的な事実は読者に早く伝える。

これこそが日本経済新聞社東京本社編集局総務小孫茂の、そしてより一般的にはメディアというものの確信犯的な大嘘だ。
検証したというのは要するに秦郁彦・半藤一利の二人に分析させたというだけだろう。
それは個人の見解以上のものではないし、
事実を確認したものでもない。
歴史というものは、歴史的検証とか事実とかいうものは、そんなやすいものではない。

Johanna Spyri

ハイジは

> 1880年に出版された前半部分 Heidi’s Lehr und Wanderjahre (元祖ハイジ)

> 1881年に出版された後半部分 Heidi kann brauchen,was es gelernt hat (ハイジ続編)

に分かれており、
元祖ハイジの著者は

> Von der Verfasserin von “Ein Blätt auf Vrony’s Grab”

つまり、「フローニの墓に一言」の作者としか記されていないのに、
ハイジ続編は Johanna Spyri という実名で書かれている。
普通は元祖ハイジが非常に売れて人気が出たので匿名をやめてハイジ続編から実名を使ったのだと考えられている。
あるいはこの時点でシュピリは商業主義に転向したのだと。

しかし実はそうではない。
最初に実名で書いたのは 1880年の Im Rhonethal (ローヌの谷で)である。
Im Rhonthal で Johanna Spyri は

> Verfasserin von “Verschollen, nicht vergessen”

つまり、1879年に出版された Verschollen, nicht vergessen(失踪したが忘れられてはいない人)の作者であると紹介されている。

また、1880年に出版された Aus unserem Lande (私たちの土地から。Daheim und wieder draussen と Wie es in Wildhausen zugehtの2編を収録)では、単に Johanna Spyri と著者名が記されているだけである。

Im Rhonethal はチラ見しただけだが、やはり病気の子供が死ぬ話である。
なぜこの作品からシュピリは実名を明かしたのだろうか。

Verschollen, nicht vergessen には、

> Ein Erlebniß, meinen guten Freundinnen, den jungen Mädchen

と副題がある。
「meinen guten Freundinnen」「den jungen Mädchen」いずれも明らかに3格であるから、
「私の良き友に、また若い娘たちに語りたい一つの経験」
というような意味だろう。
おそらくこれも童話ではなさそうだ。
いや小説ですらなく、実話かドキュメンタリーだったはずだ。

1878年に書いた Heimatlos は明らかに童話である。
しかし、1879年に書いた Verschollen, nicht vergessen や、1880年に書いた Im Rhonetal は童話ではなかった。
もし童話であれば誰かが邦訳したにちがいない。

シュピリがほぼ完全な童話作家となったのは1881年からということになり、
それ以前から実名で作品を書いていた、
ということについては少し考察が必要だ。

Erde der Hand

> Wie ein zarter Fremdling stand sie unter den übrigen Bergblumen, als gehöre sie einem andern Lande an und harre still und blaß auf fremder Erde der Hand, die sie versetzen würde nach dem heimatlichen Boden.

auf fremder Erde der Hand とは何かと思うではないか。
手の土地?
そんな言い回しがあるのか?
違うのだ。

> sie harre der Hand, die sie versetzen würde

でひとかたまり、つまり、「それはそれを移し替えてくれるような手を待ち望んでいる」と訳すのだ。
harren は2格支配なので、der Hand は2格ということになる。Hand は女性名詞なのでこれを die で受けているのだ。

> still und blaß auf fremder Erde

でひとかたまり。「見知らぬ土地の上で静かにひっそりと」と訳すべきなのだ。

> gehöre sie einem andern Lande an

これはつまり

> sie angehöre einem andern Lande

という意味だ。

als という接続詞の訳も難しいけど、als ob (as if)のように訳しておけばよかろう。
でまあ全体としては、

> 一人のよそもののように、それは他の山の花たちのなかに立っていた。まるで、それはよその土地に属しており、見知らぬ土地の上で静かにひっそりと、それを移し替えてくれるような手を待ち望んでいるかのように。

とでも訳せば良いのだろうが、これではくどすぎるから、もう少し滑らかに意訳するべきだろう。
ちなみにgoogle翻訳で英訳すると

> Like a delicate stranger she stood among the other mountain flowers, as they belong to another country and wait for still and pale on foreign soil by hand, which would enable them after the native soil.

となるのだが、やはり der Hand 以下がうまく訳せてない。
シュピリがわざとそういうややこしい言い回しをしたからだ。

こうやって一個一個理詰めで訳しているときりがない。
しかもほんとにそれであっているのかどうか、確証も持てない。

Ihrer Keines vergessen

ドイツ語が異様に難しいのだが、例えばヨハンナシュピリの小説のタイトル、

> Ihrer Keines vergessen

高橋健二というドイツ研究者はこれを「彼らの一人をも忘れず」と訳している。

たぶん、Ihrer = Keines vergessen なのだと思う。
あなたたちのこと。すなわち、何も忘れないこと、なのだ。
他に文法的に解釈のしようがあるだろうか。

Ihrer は2格であろう。だから名詞としては「あなたたちのこと」。

Keines も2格であろう。