経国集

[経国集](http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/keikoku/keikoku.htm)
はここで読むことができるが、立派な漢文の序文がついている。
やはり、この流れで行くと、古今集の序も最初は漢文だったのではないかと思われてくる。

どうかんがえても淳和天皇の勅撰じゃないだろ。
嵯峨上皇の命令だと思うよな、普通。

[滋野貞主](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%B8%BB)が選んだと書いてあるのだが、
ウィキペディアには、
良岑安世、菅原清公らが編纂とあるのはどういうわけだ。

> 春宮學士從五位下臣滋野朝臣貞主等奉敕撰

ここで東宮というのは嵯峨天皇の皇子で、
淳和天皇の皇太子に建てられていた、
のちの仁明天皇だわな。

勅撰というものが明らかに意識されたのも、漢詩集のほうだわな。
和歌集の方は、勅撰という意識が確立されるまでにだいぶ時間がかかった。

良岑安世は僧正遍昭の父で素性法師の祖父だから、
もとはこの家系は漢学の家だったのかもしれんね。

当時の平安京というのは、
完全に人工的な未来都市として作られて、
原始神道的匂いのする和歌は嫌われてて、
そもそも新都平安京には和歌を詠むような住人もいなくて、
それで自然に廃れたんだろうな。

奈良の仏教というとなんか密教的な、山岳信仰的な匂いがあるよね。
そういうのも一切捨てられてしまって、
完全に中国式の宗教儀礼に入れ替わったということじゃないかな。

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