亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

駿河国

10.07.2017 · Posted in 歴史

駿河国は非常に不自然な形をしている。 北から甲斐国が突き出してきて、富士川でほとんど東と西に分断されている。 歴史に残らない昔に、駿河と甲斐で、何か領土争いでもあったのだろうか。 戦国時代の武田信玄だけではなく、甲斐国は海が欲しい。 海に出ようとしたが、駿河に阻まれた。 そんな抗争が国境として残ったように見える。

甲斐国も西側は富士川流域で東側は相模川流域。 相模川流域はみんな相模国にしておけばよさそうなものだ。

デフレの終焉

10.07.2017 · Posted in

かつて、松屋もすき屋も、吉野家の二番手として現れた。 昔のすき屋は、メニューも迷走していたし、何より牛肉がまずかった。 松屋も味付けが(とくにカレーが)きつすぎて、好きになれなかった。 牛丼の味も吉野家にははるかに及ばなかった。 何より吉野家ではビールや日本酒が飲めた。

ところが今、松屋もすき屋も、かなりうまくなってきた。 メニューも豊富で、どれを食べてもはずれがない。 そのうえ近頃は酒も飲める。 ああ、なか卯を忘れていたが、なか卯は昔から好きだ。

私は吉野家の店員とうまくコミュニケートできないのだ。 「牛皿」を注文しているのに「ご飯が付きませんがよろしいですか」と必ず聞き返されるのがぶち切れそうになる。 ビールと牛皿を頼んでいるんだからご飯を食べない。そういう客は一定数いるだろうに。 「牛皿」と明確に注文しているのに聞き取れないのか? こちらの発音が聞き取りにくいのか? 明確に、はっきりとした言葉で注文している客に失礼だとは思わないのか? 紙に書いて手渡そうかと思ったこともあった。しかし吉野家にそこまでしてやる義理は無い。 不愉快だからもう吉野家にはいかない。そう、吉野家は牛皿をつまみにビールを飲む客を軽く見ている。 「吉呑み」などと言って飲み客を誘っているようで実は酒を飲む客を嫌っている。拒んでいると言ってよい。 だから私はもう行かない。それだけのことだ。

食べ終わっても金を払わないと帰れないので、いらいらする。 だから私は食べ物が届いたらその時点で金を渡すようにしていた。 「鰻皿」を注文したときも「ご飯が付きませんがよろしいですか」と聞き返されて、 「あなたがたは牛皿や鰻皿を注文した客にご飯が付きませんがよろしいですかと確認するように教育されているようだが、その理由は何か」と聞いてみた。そして長々と言い訳めいた説明を聞かされたが頭の中に何も入っていかない文言の羅列に過ぎなかった。 要するに後からご飯も寄越せと言う客がいて、牛皿+ご飯は牛丼より高いから、その差額を払いたくないとごねる客がいるのが真の理由だろう。 そんなことは、牛皿しか食べない客には何の関係もない。迷惑な話だ。 コンビニで「ポイントカードはお持ちですか」と聞かれるのと同じようなものだが、 吉野家の料理の味は嫌いではない。今も食べたいと思っているが、店員とのやりとりに我慢がならないので、もう吉野家には行ってない。 吉野家が食券にしてくれれば行くかもしれないが。 世の中には飯を食ったあとお金を直接手渡してごちそうさまと言い、ありがとうございましたと言われたがる人がいるのだ。 そういう人だけ吉野家に行けばよい。私は行かない。

今は松屋やすき屋で十分だ。 ファミレスも立ち食い蕎麦屋もそうだ。 かつてデニーズやロイヤルホストは超高級レストランだったが、 今はガストやジョイフルなどの一番安いファミレスでさえそれなりに満足な食事ができる。 デニーズやロイホも高級路線を維持できなくなった。 立ち食い蕎麦も昔はまずいところばかりだったが、生麺ではなく冷凍麺が主流になると、 どこもそこそこうまい蕎麦が食えるようになった。

デフレとか規制緩和とか技術革新によって、日本の外食産業はすごく進歩したと思う。 松屋やすき屋のように世の中が順調に進化していくのは見ていて気持ち良い。 デフレによって日本は徹底的に合理化された。 デフレの恩恵である。 デフレは悪いばかりじゃない。

しかし、吉野家は、かたくなに昔ながらのスタイルを変えようとしない。 それだけ体力があり、固定客がいるからだろう。 デフレという淘汰圧を力尽くでしのいだ。

だが私は券売機で注文した段階で注文を確定し金も払いたいのだ。 吉野家のシステムは私には耐えがたい。 ああいうカウンター越しの対面の接客を人間的なふれあいと思う人もいるのだろう。 しかし私には、バイトの店員に決まり文句を喋らせ客には不便さを押しつけるだけの、非人間的な、客と従業員に対する虐待とも言えるものに思えるのだ。

ギリシャ語の長母音

10.07.2017 · Posted in 読書

http://clsoc.jp/QA/2014/20140515.html

ηやωが長母音なのは明らかだとして、α、ι、υ、ε、οの長母音は無いのかということだが、 εとοの長母音はそれぞれη、ωなので無いと。

α、ι、υなどは他方言を調べてηやωがなまったものであるとみなされるときに、長母音であろうと、近世以降のイギリスの学者が判断して辞書にそう書いている、ということらしい。 また、『オデュッセイア』などの韻文の原典などから長母音であることが推測できるのであるという。 或いは Ναυσικάα などと綴られている場合があって、「ナウシカー」と伸ばすのであることが判明する。

いちいち方言研究までしてられないのでオックスフォード様に従うしかないのだが、 つか、長いか短いかはっきりしないときは、短いままにしていてもかまわんのではないかと思う。

ところで、Ἰφιγένεια だが、これは ιφιοσ(強い)と γενοσ (生まれた)の合成であろうことがわかるのである。 つまり「強く生まれた」という意味の、女性の名前だ。 ιφιοσ の頭の ι は曲アクセントで発音されるものらしく、音程が上がって下がるのだが、これも長母音であることを意味しているように思われる。 もとは複合母音であったのかもしれない。

生贄

10.07.2017 · Posted in 歴史

ギリシャ神話というかギリシャ演劇には、親が子を生贄にする話がみられる。 アガメムノーンはイフィゲネイアをアルテミスに献げた。 他にもあるかと思いちょっと調べてみた限りではこの一例しかなかった。

旧約聖書でもアブラハムが息子イサクを神に捧げようとする。

古代、人身御供自体は珍しくもないが、親が子を犠牲にする、という話が、一民族に一話くらいあった、ということは言えるだろう。

動物を生贄にするとき、ほぼまちがいなく、神に捧げたあとは、その肉をみなで食べるのである。ほとんどありとあらゆる種族の犠牲とはそうしたものである。神に捧げるという形で食べ物を無駄にするなんてことはあり得ない。 人間を生贄にした場合にも、実はその肉を食べていたのではないか。 というより食べていたと考える方がずっと自然だ。

実際、中国には史書に、親が子を殺して食う話がいくつもある。

現在でも堕胎はあり、近世まで間引きというものがあった。 古代、避妊などという概念があったはずがない。子供はほっとけばいくらでも生まれてきた。 飢饉や戦争などで子供が親に食べられてしまうということは、 或いは家庭内暴力で殺されてしまうということは、しょっちゅうあったはずなのである。

それがアブラハムやアガメムノーンの神話として残っているのだ。 後世、子殺しや食人いうものはタブー視され、忌避されるようになった。

イサクもイフィゲネイアも実は死ななかったというオチになっているが、 オリジナルの形はただ単に殺されて食われたのではなかったか。 それをそのまま後世に伝えることが憚られて、神話として改変され、悲劇に改作されてしまった。

ディアーキー

09.29.2017 · Posted in 歴史

スパルタは君主制ではあったが、モナーキーではなかった。スパルタには常に王が二人いたのでモナーキーではなくディアーキーと言うべきなのである。このディアーキー状態が500年以上に渡って、ほぼ純粋な形で持続したらしいのだが、私は他に類例を知らない。ローマ帝国など見るとディアーキー状態は不安定で一時的なものに過ぎない。 スパルタはアテナイほど饒舌でなく、自ら何も歴史を書き残さなかった。だから私はエウメネス4で、スパルタの王制をほとんど推測で書くしかなかった。 私はスパルタを原始共産王制と表現してみた。蟻や蜂の群れと同じく、王や女王はいるが、彼らも他の個体と同様に分業しているに過ぎないのだから、一種の共産制であると言える。 スパルタが建国当初から安定してそのような政体を維持し得たのは驚くべきことのようでもあるし、必然でもあったようにも思える。彼らはまさに蟻であり、蜂であったのだ。全体主義。滅私奉公。

特務内親王遼子の蓬莱国もモナーキーのようで実はディアーキーだったというのが落ちで、広げた話になんとか落ちを付けるための苦肉の策だった。スパルタの事例は知らずに書いた。ある意味、事実は小説より奇なりだなあとおもう。

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エウドキア

09.28.2017 · Posted in 雑感

最近『エウドキア』が割と良く読まれているのがうれしい。

『エウメネス』のついでで読んでもらえているのだろうか、第一次十時軍前史というあたりで興味を持ってもらえているのだろうか。 いずれにしてもありがたい。 『エウドキア』はKDPでは「古代ギリシャ史」に分類されているのだが明らかに「中世ギリシャ史」である。 しかし「中世ギリシャ史」というカテゴリーがないから仕方ない。 また『エウメネス』は「古代ギリシャ史」に違いはないのだが、どちらかといえば「ヘレニズム史」「西アジア史」というべきだ。 しかしそんなことを言っても、仕方ない。 ともかく西欧史観というのがじゃまくさい。 最近よく思うのは、たしかに自然科学というものは西欧の発明だが、それゆえにあまりにもキリスト教との親和性が高すぎて、 自然科学とキリスト教の癒着は非常に強くて、しかも無意識的なものなので、 すぐに本卦還りして、疑似科学とか精神世界とかに引きずられちゃうんだよね。 だから before and after science とかポスト自然科学とか言いながら、スピノザの汎神論まで戻っちゃうバカが現代でもどんどん湧いてくるんだよなあ。 儒教なんかだとそんな傾向はもっと薄いんだけどなあ。 でも儒教を下敷きに自然科学が出てくる可能性はないしな。 まともかく自然科学がキリスト教神学から生み出されたのは人類にとって一つの不幸であるには違いない。

話を戻すと、『エウドキア』は、もともとは、One Upon a Time in Eurasia というとてつもなくでかい話を書いてその一部を切り取ったものである。 One Upon a Time in Eurasia ではあまりにわけがわからないのでのちに『セルジューク戦記』という名前にした。 オスマン・トルコは知ってても、セルジューク・トルコを知っている人はあまりいない。 ましてマラズギルトの戦いを知っている日本人は滅多にいない。 アルプ・アルスラーンは少し(名前だけは)知られているようだ。 この話、 主人公はもとはといえばオマル・ハイヤームだった。 私は西行、太田道灌など詩人を主人公にしたがる傾向があり、 エウメネスという書記官を(アレクサンドロス本人ではなく)主人公にしたがるのも同じといえば同じである。 全般的に文人を書きたいので、新井白石や大塩平八郎も同じ理由で主人公になっている。 エウドキアもギリシャ古典文芸が好きな文学少女なので、やはりヒロインにしてみたかったのだが、まあ、歴史的にはほとんど無名なひとだよね。 エウドキアとエウメネスには共通点があるわけで、そのあたりがまあ、私が描きたい歴史上の人物、ということになる。 オマル・ハイヤームは数学者でもあって、私の場合そういう学者を主人公に書きたがる傾向もある。 『安藤レイ』『生命倫理委員会』『司書夢譚』『妻が僕を選んだ理由』『西京極家の秘仏』などがそうだ。 といった傾向をわかって読んでもらえているのだろうか? オマル・ハイヤームはその上酒飲みでもあって、私が主人公で書かないはずがないのだが、書きにくい。それはやはり中央アジアという、面白くもわかりにくい世界を舞台にしなきゃならないためでもある。一度あのへんに住んでみたいなあという気持ちはある。だがもうこの年になっては無理はきかないだろう。 『エウメネス』が最初ゲドロシア編から始まるのは、やはり私に、そういうペルシャとか西アジア、中央アジアなどの世界を書きたいという願望があるからだ。それは、多分に、宮崎市定の影響によるものだろうと思う(東アジアを書いてないわけではない。『特務内親王遼子』とか。これまた全然読まれないのだが)。

ついでだが、「エウメネース」は完全にギリシャ語の名だが、「エウ」「ドキア」はギリシャ語とラテン語のちゃんぽんで、 東ローマまで時代が下るとギリシャ語とラテン語が完全に混淆しているのが当たり前なのだが、ヘレニズム時代はきちんとギリシャ語だけで書かないと恥をかくことになる。 そこがけっこうたいへん。

話は戻るが、一番最初に疑問に思ったのは、オマル・ハイヤームはトルコ人だったのかペルシャ人だったのかということで、 少し調べればわかるがトルコ人であるはずがなく、ペルシャ人であった。 しかも生涯、今のイラン東北部のホラサーンとか、トゥルクメニスタンのメルヴあたりに暮らした人だった。

メルヴはアーリア人共通の故地であり、仏教語では須弥山と言い、西へ行った種族はペルシャ人になり、東のインドに入ってアーリア人になった。

オマル・ハイヤームの父イブラーヒムがアルプ・アルスラーンとともに西征してマラズギルトの戦いに従軍した、というのは創作であって、 そのとき若い頃のゴットフリード(ゴドフロア)、バルドヴィン(ボードワン)兄弟と遭遇したというのも創作だった。

それで余りにも話が大きすぎて、特にオマル・ハイヤーム当たりが書きにくいので、書きやすいところだけを切り取って残したのが『エウドキア』と『ロジェール』なのだが、 イェルサレム王バルドヴィンの後妻のアデライーデの息子がロジェール2世なのである。

『ロジェール』がほとんど読まれないところを見ると、どうも十字軍がらみで『エウドキア』が読まれているらしいってことがわかる。 それでまあ、第一次十字軍そのものについて、当時の東ローマ皇帝アレクシオスを主人公にして書けばそれなりに注目はされるかなと思い、 多少構想はあるのだが、書くからにはきちんとしたものが書きたいなとはおもう。すでにアレクシオスは『エウドキア』にも『ロジェール』にも登場している。 彼はすごくキャラの立ったひとだなあと思う。

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computō

09.23.2017 · Posted in 雑感

compute の語源は computō で、con + putō。 putō は綺麗にする、汚れを落とす、剪定する、などが原義であり、 そこから派生して、見積もる、考慮する、見なす、などの意味が生まれ、 さらには数える、考える、という意味にも使われる。

computō はしかし、総計するという意味にしか使われないように思われる。

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09.22.2017 · Posted in 雑感

「エウメネス4」はまったく売れてない。 しかし1とか2はぼつぼつ売れている(いつも通りともいえる)。 たぶん「エウメネス4」の内容紹介がいきなりエパメイノンダスとかアンティパトロスとかカッサンドロスとかなので、 4を読む前にとりあえず1読むか、みたいな気にさせているのかもしれない。新規の読者の場合・・・。

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大日本帝国の残留思念

09.22.2017 · Posted in 雑感

核開発して原爆をアメリカに投下しようなんてことは戦前の日本でも考えていたことで、 敗戦と、アメリカとの軍事同盟で、日本ではそんなことをいう人はほとんどいなくなったが、 中国、ロシア圏に取り込まれた北朝鮮ではそういう反米思想がそのまま純粋な形で70年間生き残っていて、 金正恩は大日本帝国の残留思念みたいなものだと考えれば、全然納得できる。

中国、ロシア、アメリカとの距離関係で、台湾は比較的親日になり、韓国や北朝鮮は反日、北朝鮮は反米になっているが、 もとをただせばやはりいずれも「日帝残滓」なのだと思う。

それで天皇皇后が埼玉の高麗神社を参拝したというのを、日本のメディアではなくて、韓国のメディアが大きく採り上げているのは非常に興味ぶかい。 鳩山由紀夫がなんかモゴモゴ言っているのも彼が韓国メディアのほうにひっぱられている証拠でもある。

私としては、天皇の戦争やめなさいというメッセージとは思わない。もちろんそういう意味も含まれているだろうが、 本質は、そろそろマジで戦争になりますよという、国民への天皇の警告なのだろうと思う。 そういう報告を安倍首相からも受けているのだろう。 おなじようなことを開戦前夜の明治天皇も昭和天皇もやっている。

北朝鮮の核開発が大日本帝国の残留思念であるとすれば、それを宥めるにはどうしたらよいか、ということは比較的簡単に導き出されるだろう。日本はすでに核開発を断念しているのだから。どのような形をとるかしれないが、北朝鮮もいずれ日本と同じ道をたどる。

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箱根

09.21.2017 · Posted in 雑感

箱根には箱根で、いろんな利権が渦巻いているようで、しかし国際的な観光地であるから、中国人とか中国人とか中国人とかがわらわら押しかけているせいで、観光客慣れしている。

大涌谷が噴火して以来、箱根は荒ぶる山となって秘境感が増大した。 身の危険を感じる硫黄臭も増大した。 登山道が閉鎖されたり時間制限されたりして以前より不便さは増しているのだが、 観光地としての価値もまた比例して増しているように思われる。 やはり安易に登れる山より難易度の高い山のほうがありがたみがある。

箱根湯本までではわからん不便さというものがその先にはあるのだなあ。 強羅まではなんとか。しかしその先は、よくまあこんなところ開発したなというような山岳地帯。

下界に降りてきた安堵いうものがある。

箱根ロープウェイの料金はとても高いので、二人とか三人で、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで移動するときは、タクシーに乗ったほうが割安だ(もちろんロープウェイの眺望にはそれなりの価値があるのだが、単なる移動手段としてみると、高い)。 箱根は実際に道を歩いてみないとわからんことが多い。 しかし歩くとそうとう太股の筋肉を酷使することになる。 また、道が通じているようで通じてない箇所がある。 坂道を引き返したりして体力を予想外に削られることがある。 素直にタクシーに乗ったほうがよい。

思うに、都心ではタクシーに乗る必然性はあまりない。電車に乗ればいいからだ。 山はタクシーに乗った方が便利だが、普通、山にはタクシーはいないし道も舗装されてない。 しかし箱根は違う。道は通っているしタクシーはじゃんじゃんいるのだ。 箱根こそタクシーに乗るべき。

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